ツルツル滑る肉料理
メルが作った豚肉の冷製は、食べるときに手間が掛かる料理だった。
肉を取り皿に載せたら野菜とおろしを肉に盛り、少量の七味唐辛子を振ってから醤油を垂らし、上手に巻いて食べなければいけない。
幼児には、難易度の高い料理であった。
(フンッ。わたくしを舐めたらいけません…。箸ですか…?もちろん知っています…。東方の少数民族が使用している、風変わりな食器ですね。以前に行儀作法の勉強で、練習したことだってありますわ。何しろ、三百才ですから…。それはもう、色々と経験していますとも…。わたくし、ちゃんとした淑女なんです…!)
三百年の大半を寝たきりで過ごしたことは棚に上げ、自分を励ますラヴィニア姫だった。
美味しそうな料理をギリッと睨みつけて、豚肉の冷製に手を伸ばす。
箸を持つ手が、プルプルと小刻みに震えていた。
正直に白状すれば、箸は苦手だ。
でも、幼児ーズの面々は戸惑いひとつ見せずに、ワイワイと食事会を楽しんでいた。
ここで自分だけ箸が使えないとは、自尊心が邪魔をして言いだせなかった。
ラヴィニア姫の自己認識では、己が成人した貴族令嬢と言う事になっていた。
礼儀作法だって、完ぺきにこなせるのが当りまえ。
であればこそ…。
食事会の一つや二つで、つまずく訳には行かない。
「くっ…!中々に、難しいですわね…」
たどたどしい手つきで箸を持ったラヴィニア姫は、まず片栗粉で滑りが良くなったブタ肉に苦戦した。
上手く挟めなくて、ちゅるんと箸から肉が逃げていく。
その間にも、幼児ーズは器用に箸を使って豚肉の冷製を頬張っている。
「………そんな?」
ちいさな幼児の癖に、ツルツルと滑る豚肉をものともしない。
非常に指使いが巧みである。
(この子たち、おハシに慣れてるじゃない…!)
ラヴィニア姫の表情が、ピキンと凍りついた。
食事作法で幼児に負けるなんて、淑女としてあってはならないコトだった。
「おハシ、むずかしいんでしょ?」
ラヴィニア姫の右からタリサが声をかけ、取り皿に豚肉と野菜を載せてくれた。
「オロシもね。シチミは辛いから、ちょっとだけの方がいいぞ!」
左からダヴィ坊やがスプーンでおろしをよそい、七味唐辛子の容器を渡した。
「………あっ、ありがとう」
悔しいけれど、ラヴィニア姫は感謝の言葉を口にした。
ここで他人の親切を突っぱねたら、それこそ淑女失格である。
上手くできないことは、練習すればよい。
そう考えなおし、醤油を垂らしてもらったブタ肉を口に運ぶ。
「オイシイ…」
つるりとした舌触りと冷たさに驚きを感じ、さっぱりとした塩味と大根の甘辛さ、新鮮な野菜の香りに、引きつっていた顔を綻ばせた。
噛めば肉のプリッとした感触と、ピーマンやスライスオニオンのしゃっきりとした歯ごたえが楽しい。
片栗粉に閉じ込められた肉の旨みが、ラヴィニア姫の口中に広がった。
(これは、食事にだけ集中しなければダメよ。見栄なんて張っていたら、絶対に後悔するわ…!)
初めて口にした生醤油の香りと奥深い味わいが、貴族令嬢に必須の食事作法などキレイに忘れさせてくれる。
今だけ…。
今だけ淑女は、お休みだ。
「んっ…。からぁーい」
ピリッと舌を刺す辛味が、すこし遅れてやって来る。
暑い日でも、食欲をそそる肉料理だった。
「はぁー。そっかぁー。なんか、忘れとォー思ったわ。ヒメは、ハシ使わんデス…」
今更ながら気がついたメルは、ガタンと椅子から立ち上がった。
「そぉー言うところが、メルだよね。心配しなくても…。ラヴィニアが食べるのは、あたしが巻くよ♪」
タリサは新しいトモダチを手伝うことができて、上機嫌である。
「メル姉、座っとけ…。オレも、食べるの助ける。メル姉が立ち上がっても、ジャマだぞ!」
「そう…?そっかぁー」
「メルちゃんは、自分の面倒を見るのが先です。こんなに、こぼして…」
「ごめんよ、ティナ…」
メルはションボリと椅子に座りなおして、ブタ肉で具材を巻く作業に戻った。
ティナに指摘されるまでもなく、幼児ーズの中では食べるのがトップクラスに下手くそなメルだった。
前世記憶にある成長した自己イメージに即して動こうとするために、本物の幼児たちより格段に学習能力が低いのだ。
箸にスプーン、しまいには左手まで使って肉と格闘するメルを見て、ラヴィニア姫はなけなしの勇気を取り戻した。
(あの子になら、負けないかも…。わたくし、頑張ります!)
そんなことを思うラヴィニア姫もまた、大人の身体感覚で手足を操ろうとするドン臭い幼児だった。
こうしてメルとラヴィニア姫の二人は、不器用な手つきで食べづらい料理との格闘を続けた。
口の周りや指をベトベトにして、卓子を食べこぼしで散らかし、それでも豚肉の冷製をモギュモギュと頬張る。
美味しいから…。
体裁など、どうでも良かった。
「ライスも、うまぁー」
「ウンウン…。暑い日のゴハンに、ピタリのおかずだよね…♪」
「コレハ、この地方の料理なのでしょうか?」
「ちがうよ、ユリアーネさん。これは、メルちゃんが作ったんだよ」
「えっ?メルさんが、お料理を…」
ユリアーネ女史が、演技ではなく驚きの表情を浮かべた。
「精霊樹に、『メルの魔法料理店』って看板があったでしょう。この子が、お料理をしてるんだよ」
「えーっ。メルさんの、お店なんですかぁー。名義だけではなくて、メルさんが料理をしていらっしゃる?」
「ウヘヘー。わらし、リョウリテンのアルジ。コックさん、アルよ♪」
ユリアーネ女史は不器用な手つきで食事をするメルに、疑いの眼差しを向けた。
どこからどう見ても、料理長とは思えない。
卓子に饗された繊細な味付けの料理と、ブタ肉を手づかみにしている幼児の姿が結びつかない。
「天才児…?」
「んーっ。便利な道具とか思いついたりするから、頭も良いのかな?でもねェー。言葉がダメだから、知能はビミョォーです。お料理と魔法に関しては、明らかに優秀だよ。その魔法も…。なんか普通じゃなくて、怪しげなんだけどね…」
「怪しげな魔法…?」
「この子さぁー。言葉が、アレでしょ…。だから、正しい呪文を覚えようとしないのね。それなのに、すっごく難しい魔法を使うの…。術式プレートも無しで…!」
「それは…。話題にしても、良いのでしょうか?」
ユリアーネ女史は、メルが精霊を召喚した現場に立ち会っていた。
精霊の子であることも、アーロンから聞かされて知っている。
けれど、それらの事実は口外しないように、『調停者』やアーロンから釘を刺されていた。
メルの能力については、ラヴィニア姫にも伝えてはならないと…。
それなのに『酔いどれ亭』の女主人は、平気でメルの魔法について語る。
「あーっ。たぶんメジエール村は、特別なんだと思う…。だって、メルってばさぁー。ウチの亭主が見つけたとき、精霊樹に下がってたんだよ。もう村中が大騒ぎになって、それなのに隠すコトなんてできないでしょ?」
「精霊樹に、さがっていたんですか?」
「うん。木の実が生るみたいにね。そんで、ウチに拾われたの…!」
そう言ってアビーが、ケラケラと笑った。
ラヴィニア姫と幼児ーズは、お腹いっぱい豚肉の冷製を食べてから、精霊樹の果実を使ったムースに舌つづみを打った。
「うめぇー!」
「オイシイねェー」
「メルちゃん、お土産はないのでしょうか…?」
「おーっ、ムース?ティナは、ムース欲しいデスネ…」
「そそっ…」
「みんなの分、あゆ。帰ゆとき、持ってェーけ…!」
メルは太ましくなった下腹を撫でながら、鷹揚に請け負った。
食事会が終われば、幼児ーズはお昼寝タイムに突入する。
手と顔を洗い、歯を磨いたら精霊樹へと向かう。
「何処へ行くのかしら…?」
「ベッドです」
「メルの樹だよ。メッチャ涼しいんだから!」
「二階が、お部屋になってるの…」
「ネコとブタおるどぉー」
精霊樹の扉を開けて、階段を登って揚戸を押し開けると、そこはメルの休憩室だった。
「ミケとトンキーは、ここにいたの…?」
「道理で、静かだと思った…」
「リョウリの、ザイリョー。トンキーに、ナイショよ。わらし、ヤバイです。モウシワケねっす」
「なるほどォー。あんた、まだトンキーにエンリョしちゃってる訳ね…。ナンジャク!」
タリサが、メルの頭をパシッと叩いた。
「うわぁー、カワイイ。メルちゃんは、ネコとブタを飼っているの…?わたくしの家にも、黒いネコが遊びに来るんです。ネコスケって言うのよ」
「おっ、おぅ…。黒いの?」
「そうよ。とってもヨイ子なの…♪」
知っていた。
ネコスケは三毛ネコになって、二階の床で寝ていた。
メルの休憩室は、幼児ーズが出入りするようになってから少しばかり広がった。
ちいさかったベッドも、全員で寝転がれるほど大きなモノに変わった。
不思議だけれど、魔法なので仕方がなかった。
何より便利で助かるのだから、文句などない。
五人でベッドに上がっても、窮屈な状態にはならなかった。
「ところで…。みなさんが使っていた棒は、何ですか…?」
ベッドに寝転がったラヴィニア姫が、おずおずと訊ねた。
「あーっ。タケウマ…。だよね、メル?」
「うむっ。タケウマれす。マホータケウマ…?」
「どこがマホーなんだよ?」
「おまぁー。転んでも、ケガせんでしょ…?フワッとタオれるデショ…。気づけや、デブ!」
幼児ーズの面々が、納得の顏で頷いた。
ダヴィ坊やだけはデブと呼ばれて、不服そうだった。
「あのぉー。わたくしも、タケウマに乗りたいです。どなたか、貸しては頂けませんでしょうか…?」
ラヴィニア姫は勇気を振り絞って、お願いをしてみた。
「おうよ…。ヒメのタケウマ、ヨォーイしてあう。帰ゆとき、上げうネ」
「あんなの…。持って帰っても、困るだけだろ!」
「ここに預けとくと良いよ。みんな、そうしてるし…」
「デスネ…。とくに最初は、広場で練習しないと乗れませんから」
ティナは自分の経験を思い出すようにして、ラヴィニア姫に説明した。
「分かりました。あとで、乗り方を教えてくださいね」
「まかせろ。オレが教えてやる」
ダヴィ坊やが張り切っていた。
幼児ーズはラヴィニア姫をお姫さま扱いしないけれど、その方が友だちっぽく思えた。
メルもラヴィニア姫をヒメと呼ぶのは、止めにしようと決心した。
ただし…。
そうなると問題があった。
メルはラヴィニアと、正しく発音することができなかったのだ。