女王陛下のミケ王子
ラヴィニア姫は新居のバルコニーで長椅子に寝そべり、ボーッとしながら冷やしたお茶を口にした。
視界に入る手はとても小さく、注意深くカップを持たないと落としてしまいそうだ。
(わたくし、赤ちゃんになってしまったみたい…)
そう思いついてクスリと笑う。
イヤな気分ではない。
何ひとつ自由にならず年老いていった日々を顧みるに、幼児からのやり直しはむしろ望むところだった。
(封印の塔に移り住んでからは、部屋を出ることも許されなかったのに…。そのわたくしが、ウスベルク帝国の外にいるなんて…)
それはラヴィニア姫にとって、心を震わせるほどの感動だった。
(メジエール村は、よい場所です。この村には、美しい色彩が溢れています。草木や土の匂いも…。宙を舞う妖精さんたちが、楽しそう…!)
ラヴィニア姫は今すぐ遊びに行きたかったのだけれど、暫くまえから微熱が続いていた。
全身から怠さが抜けずに、駆け回るような気力が湧いてこない。
新しく授かった身体が、不健康な訳ではなかった。
(世界には、驚くことが沢山あって…。わたくし、少しばかり疲れました!)
『船旅は退屈です!』とぼやいて見せたラヴィニア姫だが、実のところ魔物の襲撃など必要ない程に興奮していた。
ラヴィニア姫は旅をしたことが無かったし、船に乗るのでさえ初めてだった。
あれもこれも知らない事ばかりで情報処理が追い付かず、幼女の小さな頭はオーバーヒートを起こしてしまったのだ。
要するに知恵熱デアル。
つらつらと考えてみるに、物心ついてから昏睡状態に至るまで、ラヴィニア姫は普通の日常というものを過ごした覚えがなかった。
ユリアーネ女史に本を読んで貰ったり手芸を習うくらいで、殆どの時間をベッドで過ごした。
霊障による疲弊や苦痛は常に感じていたけれど、足が棒になるほど歩いたコトなどない。
(お腹が減るのも、ゴハンが美味しいのも、初めての経験だったなぁー♪)
途中の寄港地で見学した、貧しい開拓村。
そこで口にした肉が、ビックリするほど美味しかったコト…。
(戸外を歩きながら、串に刺さった焼肉を食べるなんて…。わたくしにとっては、物凄い冒険ですね…!)
ラヴィニア姫は小さな冒険を思いだして、クスクスと笑った。
初めて、お金を払って買い物をしたのだ。
ツケだれの焦げる香ばしい匂いに、お腹がクゥーと鳴った恥ずかしさ。
屋台の小父さんに思い切り笑われて、お金を握ったまま硬直してしまった。
きっと、死ぬまで忘れることができない、良い思い出だ。
(美味しかったなぁー。そうそう…。美味しいと言えば、先日ご馳走になったトンカツテイショク。あれは、ナニ…?)
熱で頭がぼやけていなければ、あれこれと訊ねることも出来ただろうに…。
あのときは、只々おいしくて、夢中になって食べてしまった。
料理のコトを知りたいと思ったときには、すでに翌日となっていた。
残念至極である。
だけどラヴィニア姫の人生は、いま始まったばかりだ。
昨日、今日と、失敗したって、ピカピカの明日がやって来る。
希望に満ち溢れる明日が…。
(そう…。わたくしには、明日があるのです…。ハンテンがくれた、明日が…!)
小さなお姫さまは、慎重にカップを口元へ運ぶと、冷たいお茶をクピクピ飲んだ。
ほろ苦いお茶の味が、ハンテンとの記憶を呼び覚ます。
そのとき、黒い影がラヴィニア姫の足に、身体を擦りつけた。
「ニャァー」
「…………ッ!」
ラヴィニア姫は、そぉーっとカップをテーブルに置き、黒いネコと自分の位置関係を計測した。
次の瞬間、目にも止まらぬ速さでラヴィニア姫の手が、黒いネコを抱き上げた。
「ネコ、獲ったぁー!」
三百年の長きに渡り、ラヴィニア姫の友だちはハンテンだけであった。
それ故にラヴィニア姫は、『友だちとは捕獲するものである!』と、固く信じていた。
黒猫に変装したミケ王子は、こうしてラヴィニア姫の新しい友だちとなった。
名前は、『ネコスケ』に決まった。
ミケ王子は、大いに不満だった。
(真っ黒なんだから、せめてクロにしてよ。ネコ、ネコ呼ばれるのは、すごくイヤなんです。ケット・シーは、猫じゃないんだよぉー!)
ネコの真似をして、一生を過ごすケット・シー。
猫に成り済ますという命題に、生涯をかける妖精猫族たち…。
ネコと呼ばれるなら本望だろうに、ミケ王子の考えは少しばかり違った。
(自分からネコを名乗るのは、自分が猫だと主張していることになるから…。とっても格好悪いでしょ!)
余人には、理解しがたい矜持であった。
◇◇◇◇
恵みの森から帰宅したアーロンは、ユリアーネ女史から分厚い封筒を手渡された。
「何ですか、これは…?」
「先ほど、村の人が届けてくださったのです。何かと申せば、見た通りの手紙だと思うのですが…?」
「そうですね…。『だれから、何の用事があっての手紙か…?』と、少し疑問に思いまして…。何しろ。この村には、知り合いもおりませんから…」
「それを知るには、開けてみるのが早いのでは…?届けてくださった少年は、メジエール村の郵便屋さんだそうです」
「なるほど…。送り主の名前は…?なんか、汚すぎて読めませんね。まるで、子どもが書いたような文字です」
アーロンは居間のテーブルに着くと、封筒をペーパーナイフで開けようとした。
「おや…?封蝋では、ありませんね。封筒の紙も、見たことのない材質です…」
「めずらしい紙ですよね。私も初めて見ました」
それはメルが花丸ショップで購入した、クラフト封筒だった。
所謂、一般的な茶封筒なのだが、此方の世界には存在しなかった。
「フムッ。首を傾げていても、仕方ありませんね。とにかく開けてみましょう!」
アーロンはペーパーナイフの使用をあきらめて、封筒の口をビリビリと破いた。
中から出てきたのは、幾重にも折りたたまれた紙だった。
開いて、開いて、開いても、まだ折られていた。
「なんだこれは…。こんな大きな紙に書く必要はないでしょ!内容が多いなら、何枚かに分ければ良いのに…」
「随分と、大きな紙ですね…」
とうとうアーロンが紙を開き切ると、思いきり両手を広げたほどの大きさになった。
その大きな紙には個性豊かな文字が書き記され、下の方に朱色の小さな手形が四つ並んでいた。
明らかに、幼児ーズからの手紙だった。
しかも脅迫めいた内容である。
『幼児、舐めるなよ!』
アーロンは汚い文字を何とか判読すると、慌てふためいて紙を折りたたんだ。
「何が書いてありました…?」
「いや…。そのぉー。『ナニか?』と訊かれましても、文字が汚すぎて上手く読めません。ちょっと自分の部屋で、調べてきます」
「どなたからの手紙ですか…?」
「あーっ。たぶん…。知り合いの子どもさんだと、思うんですよ。文字を覚えたてで、練習がてらに手紙をくれたんじゃないでしょうか?」
顔を引きつらせ、しどろもどろになりながら誤魔化したアーロンは、逃げるようにして自室へと駆け込んだ。
だがアーロンのピンチは、終わっていなかった。
部屋の扉を閉めて、ゆっくりと視線を向けた先には…。
「ぐはぁーっ!」
信じられないほど大きなかぼちゃパンツが、壁に打ち付けられていた。
「だっ、だれがこんな事を…?」
犯人は分かっていた。
アーロンの手には、犯行声明文が握られているのだ。
『特権者気取りか、糞エルフ!』
『順番も守れない大人は、己を恥じるべきです!』
そのふたつのメッセージは、キレイな文字で書かれていたから直ぐに読めた。
更に少し下にさがって、『泣かすぞ、ゴラァ!』と汚い文字が続く。
そしてアーロンには読めない『怨!』と言うマークが、かぼちゃパンツの絵に刻印されていた。
『怨!』の一文字は、メルが漢字で書いたので、誰にも読めるはずがなかった。
「こ、これは、呪いの魔紋でしょうか…。わたし、精霊の子に呪われてしまった…?」
真っ青になった。
こんな恐ろしい話はない。
「しかし…?」
アーロンは壁に張りつけられたかぼちゃパンツを睨んで、首を傾げた。
(呪いと言うモノは、もっとこう悲惨なイメージがあったんですけど…。歯が全て抜け落ちたり、皮膚が焼け爛れて苦痛にのたうったり…。そう言うモノでは、ないのでしょうか…?何故に、女性の下着なのか…?)
実に残念である。
アーロンはメルが期待していたほどに、女性心理を把握していなかった。
自分が女性用の下着を所持していると知られたら、どのような仕打ちに合うか全く分かっていなかった。
だから…。
『早く、謝りましょう…。さもなければ、絶対に後悔します!』と、メルが善意から書き添えたメッセージは無駄になった。
「とにかく、この手紙を残しておくわけには参りません…」
アーロンは丸めた紙を暖炉に放り込むと、手にした術式プレートから着火の魔法を選んだ。
そして真夏の汗がにじむような部屋で、暖炉の薪に火を放った。
メジエール村では、一年を通して暖炉が使用される。
天候によって、夏でも冷え込む日があるからだ。
「くっ…。どう言うコトだ…。なぜ燃えない?」
アーロンの口から驚きの声が漏れた。
メルが用意した強い紙は、破れない燃えない頑固さを発揮した。
薪が焔を上げても、丸めた紙に変化は起きない。
「くっそぉー。わたしを馬鹿にするなよ!」
アーロンは燃えない紙を罵ったけれど、そこにメルの本気を感じとって涙目になった。
アーロンの悲劇は、その日の晩餐の席で起こった。
新居の食卓に並んだのは、とろみがあるソースをタップリとかけた羊肉だった。
肉が硬くて、少しばかり噛み切るのが難しかった。
赤味のあるソースで、口の周りが汚れる。
洒落モノであるアーロンは、部屋着のポケットに常備しているハンカチを取りだそうとした。
果実酒を飲むまえに、それで口に着いたソースを拭こうと思ったからだ。
だが…。
そのとき、ラヴィニア姫とユリアーネ女史の視線が、アーロンの手もとに注がれた。
目を丸くして、ガン見である。
やがて二人の顏は、ガジガジ虫を見つけた時のように険しく歪んだ。
何事かと、口に当てた布を見たアーロンは、ようやく己が置かれた状況に気づいた。
「うっひゃぁぁぁぁぁぁーっ!ちがっ…。これは、違うんです…」
アーロンが手にしていたのは…。
小さな子どもが穿く、かぼちゃパンツだった。
ちょうどラヴィニア姫くらいの女児に、ピッタリサイズの…。
ミケ王子は晩餐の席で生じた混乱に乗じ、余裕綽々で屋敷から撤退した。
(うん…。やっぱり、ボクはイタズラ・キングだよ。なんて見事な仕込みだろう…。メルにも、見せて上げたかったなぁー♪)
激しい叱責の声と、『ガシャン!』という破壊音を背に、不吉な黒猫は二本足で軽快なステップを踏んだ。
今宵は、良い月夜デアル…。