新天地…。
メジエール村への入口となる桟橋に、追風の水鳥号が舫い綱をかけた。
船側から桟橋へと舷梯が渡され、しっかりとロープで固定された。
「もう大丈夫だ。がっちり固定したぞ!」
「こっちも問題ない。ハリー、試しに渡ってみろ」
「了解…。真中で…。二、三回、跳ねて来るワ!」
安全確認デアル。
積み荷の上げ下ろしだけでなく、乗客もいるのだから船乗りたちは慎重だった。
ラヴィニア姫は瞳をキラキラさせながら、周囲の様子を眺めていた。
アーロンは口を出さずに、ラヴィニア姫の表情をじっと伺った。
ここで何を訊ねようと、ラヴィニア姫から良い返事はもらえない。
ラヴィニア姫は帝都ウルリッヒを離れるときから、不機嫌に徹しようと決めていた。
物語の不幸なヒロインを演じているのだ。
可愛らしいと言えば、可愛らしいのだけれど、現実が余りにも悲惨なので微笑ましく思えない。
ごっこ遊びと捉えるには、ラヴィニア姫の置かれた状況が生々しく悲しすぎた。
だからアーロンには、ラヴィニア姫を見守ることしか出来なかった。
甲板から見える景色は、他の開拓村で目にした船着き場を軽く凌駕する寂しさだ。
まず、桟橋付近には、全く人影がない。
此処から見える建物と言えば、桟橋の管理人小屋とデュクレール商会の小さな倉庫だけである。
何となればメジエール村は、タルブ川から更に遠い。
他の開拓村と比較したとき、メジエール村の規模は遥かに大きかったが、その姿をタルブ川から視認することは出来ない。
「家なんて、一軒も無いじゃない…。ひどい場所ね…。たしかに…。こんな僻地なら、帝国貴族も訪れないでしょう!」
「姫さま…。それどころか此処は、どこの国にも属さない地域なんです」
ユリアーネ女史はラヴィニア姫のボヤキに、笑顔で応じた。
「アーロンは、わたくしに開拓でもさせるつもりかしら…?信じられないわ!」
ラヴィニア姫の詰るような視線が、アーロンに向けられた。
それでもアーロンは言い訳をせず、沈黙に徹した。
そうするよう、ユリアーネ女史から指示されていたからだ。
本心を明かせば…。
今すぐにでも、ラヴィニア姫に取りすがって弁解をしたい。
(いいえ、ラヴィニア姫…。本当にメジエール村は、素晴らしいところなんですよ。デュクレール商会に住居も用意させましたし、畑など耕さなくても生活には困りません…。ですから…。そんな目つきで、わたしを責めないでください…!)
そう伝えたい。
しかし、ユリアーネ女史のハンドサインが、アーロンに来るなと命じていた。
「村人たちに混ざって、畑を耕しますか…?それとも小川に出かけて、魚でも釣りましょうか…?」
「ユリアーネ…?それって、本気で言ってるのかしら…?」
「勿論です。人が生きる上で、必要なことですから…」
「捨てられた娘には、相応しい境遇と言ったところかしら…。何とも、過酷ね!」
悲劇のヒロインを演じるラヴィニア姫の口角が、微妙に引きつった。
表情の変化は小さく、ユリアーネ女史でなければ気づかなかっただろう。
ラヴィニア姫は、もう隠しきれないほどに興奮していた。
新しい生活への期待で、胸のドキドキが止まらない。
ユリアーネ女史は、アーロンにグーサインを送った。
『ラヴィニア姫は喜んでいます…!』
◇◇◇◇
メジエール村の中央広場には、目を見張るほど大きな樹が聳え立っている。
人とエルフが覇を競った暗黒時代に、この世から姿を消したと言われる精霊樹だった。
メルの樹と呼ばれて村人たちから親しまれる精霊樹の根元に、小さな料理店があった。
その料理店から、可愛らしい歌声が聞こえてくる。
「山もいキャベツは、だえのタメェー♪ザクザクきざむの、キミのタメェー♪」
料理店の小さな主人が、キッチンで即興の歌を口ずさんでいるようだ。
調子っぱずれだけれど、ちみっ子だからやむを得ない。
歌詞を考えながら歌っているので、ときどき声が途切れるのは、ご愛敬だ。
音痴とか、バカにしてはいけない。
極端に音階が狭く、メロディーもヘンテコだけれど、当人は気分よく歌っているのだ。
中央広場を通りがかった村人は、店主の歌声に心惹かれて足を止める。
そして珍妙な歌を心ゆくまで楽しむと、ニヤニヤしながら再び自分の仕事に戻っていく。
「あーたとあたいは、出会ったの…♪あたいはおニクで、あーたはパン粉♪。やさしく、あたいを包んでねぇー♪」
メルが何を作ってるのかと言えば、トンカツである。
この世界にもコートレットのようなモノが存在する。
メルも帝都ウルリッヒの高級料理店で、美味しいコートレットは食べた。
コートレットとは、トンカツの始祖である。
細かく砕いたパン粉を肉にまぶし、多めの油を使って炒め焼きしたフランス料理だ。
肉は牛肉だったり、鶏やブタであったり、色々と使用できる。
塩コショウで下味を付けた肉に、細かなパン粉をまぶして炒め焼きすればコートレットになる。
だけどそれは、メルの知るトンカツではなかった。
似て非なる物だった。
和風洋食のトンカツは、すでに和食である。
だって練りからし(和辛子)が添えてあるじゃないですか。
(とんかつソースも大事だよ!)
そんな訳で、メルはトンカツが食べたかった。
もちろん、トンキーには内緒である。
豚飼いのエミリオから買った豚ロース肉をトンカツ用にスライス。
包丁でスジキリしてから、肉叩きを使ってベシベシと殴る。
さらにフォークで、グサグサと突きまくる。
サッと塩コショウで下味を付けたら、薄力粉をまぶす。
薄力粉は、つけすぎに注意だ。
この肉をざっくりと混ぜた溶き卵にくぐらせて、パン粉を入れたバットに置く。
パン粉はコートレットに使用するモノと違って、ザクザクだ。
(パン屋のマルセルさんから買った古いパンを…。おろし金で削って、自作しました。粗いパン粉でェーす♪)
これを小さな手でこんもりと肉に被せてから、軽くペシペシ叩いて貼り付ける。
濡れた手で叩いてはいけない。
ちゃんと乾いたタオルで手を拭いておこう。
サックリな食感を楽しみたいなら、ここで一苦労。
もう一回、お肉を溶き卵にくぐらせてから、バットにドーン。
そして又もやパン粉をこんもりと肉に被せて、ペシペシと手のひらで叩く。
サックリな衣が密になる。
イメージとして大切なのは、肉に隙間なくパン粉をつけることだ。
ゴテゴテと衣を厚くしてはいけない。
完成した衣付き肉は、しばし寝かせる。
この作業を繰り返して、メルは何枚もの衣付きロース肉を完成させた。
油の温度は中くらい。
パン粉を落としたら、サァーッと泡が立つくらい。
ジュワーッと泡立つのは、熱すぎ。
たくさんの肉をいっぺんに入れると油の温度が下がるので、数枚ずつ揚げる。
メルは手際に自信がないので一枚ずつだ。
油を使うときに慌てると危ない。
調理スキルがMAXでも、小さな幼児なのだ。
菜箸でトンカツを挟む手元は頼りなく、ボチャンと油に落とせば大惨事になる。
だからこそ、フライヤーがありがたい。
それに一枚ずつ揚げるなら、油の中でカツが踊っても衣が剥がれたりはしない。
油の温度が高くなってきたが、狭い厨房内の空気は清浄なままだ。
風の妖精さんたちが、換気ダクトから戸外へ油煙を追い出してくれるからだ。
更に付け加えるなら、魔法のフライヤーは油の劣化もなければ、掃除不要で素晴らしい。
『魔法料理店、バンザイ!』である。
この料理店がタダなのに、異界ゲートは一億ポイント。
価格設定がメルの欲望に沿っていないことは、明らかだった。
よくよく考えてみると、花丸ポイントは贅沢をしても日に五千ポイントほどしか使わない。
平均消費ポイントは千を下回る。
そして内訳の半分は、ミケ王子の高級マグロ赤身だった。
(ミケ王子はカワイイから、仕方がないのです。喜んでるんだもん、マグロくらい安いモノです!)
異界ゲートで帝都ウルリッヒへの移動が簡単になったため、日課の広域浄化で稼ぐ花丸ポイントは一万を超えるようになった。
メルの浄化で地下迷宮に影響がないと分かったので、帝都ウルリッヒも健康促進エリアに加えられたのだ。
それがなくとも、メルは精霊樹の守りを強化する強制イベントをクリアして、成功報酬の六千万ポイントをゲットしていた。
現状の花丸ポイントは、凡そ一億六千万ポイントである。
普通に考えて、使い切れるはずがなかった。
(これは、イベント・クリアに使用するポイントだよ…。帝都に繋がる異界ゲートは、とっとと開くべきだったんだ!)
花丸ショップで色々な品が買えるから勘違いしがちだけれど、花丸ポイントはリアルマネーじゃない。
お金としての単位が世間に認知されていないし、流通もしていない。
貨幣としての実態もない。
意味合いとしては、ゲーム内通貨に近かった。
逆に幾ら帝国金貨を積み上げようと、異界ゲートは調達できない。
だったら花丸ポイントは、イベント・クリアに役立てるのが正解なのだろう。
(悩んだり、悲しんだりして、バカみたいだよ。それもこれも、僕がケチだからいけないんだ…)
『もうすぐ三億ポイントになる…♪』と、子供みたいに浮かれていた自分が呪わしい。
必要な場面で使わなければ、花丸ポイントに意味がない。
「ケチは、あかんヨ…」
メルは完成させた衣付き肉のうち五枚を残して、魔法の冷蔵保存庫にしまった。
バットに残しておいた五枚は、幼児ーズとアビーのお昼だ。
幼児ーズは、ただいま『酔いどれ亭』の裏庭で行水中である。
油の温度が適温になったところで、衣付き肉を入れる。
一度目は肉の中まで火を通すために、低温で時間をかけて揚げる。
この時、油の温度が高すぎると、肉の内部まで火が通るまえに衣が焦げてしまう。
だから低温でじっくりと揚げたら、中まで火が通った頃合いでトンカツをフライヤーから取りだす。
ところで低温の油は粘度が高い。
この状態のトンカツは、衣が油を吸ってギトギトだ。
だからバットに縦置きして、余分な油を切る。
それでも衣に滲みた油は落ちないので、最後に高温で揚げる。
高温の油に通すコトで余分な油が抜けて、サクッとさっぱりな衣になるのだ。
「よいキツネ色…。できましたぁー♪」
フライヤーから取りだしたトンカツは、再びバットで油を落とす。
先程までとは違って油温が高いので、さらっとして油切れはよい。
五枚目まで揚げ終えたら包丁でひと口大に切り分けて、キャベツを盛りつけた皿に載せる。
「うほぉー。と・ん・か・つ…♪これは、トンカツ♪これこそ、トンカツ♪」
レモンのくし切りと練りからし、キャベツの彩にプチトマトとパセリを添えてトンカツが完成!
「黄金の衣まとう、イトシイあなたぁー♪あたいを誘惑しないでぇー♪よだえが垂れちゃうのヨォ~♪」
夏の日差しは強い。
真夏の昼下がりにオープンテラスで、味噌汁付きのトンカツ定食はどうかと思う。
日除けのパラソルがあっても、戸外で食べるのは嬉しくない。
だからメルは、トンカツ定食を幼児ーズと一緒に、『酔いどれ亭』で食べることにした。
アビーの手助けを得て、せっせと定食のトレーを店内に運んだ。
冷やした麦茶も、忘れずに持っていく。
クルト少年が操る馬車でメジエール村の中央広場に到着したアーロンは、巨大に成長したメルの樹を目にして驚いた。
しかも精霊樹の幹には、可愛らしい料理店の看板まで掲げられていた。
「メルの魔法料理店って…。いつの間に、メルさんは店を開いたの…?」
それはアーロンにとって、衝撃の事実だった。
「うわぁー!ものすごく立派な樹ね。なんだか、とっても神妙な心地になるわ…。あらっ…。太い幹が、お店になっているのね。あんなの、初めて見たわ。可愛らしくて、素敵な料理屋さんね…。ねぇ…。アーロンも、そう思わない?」
ラヴィニア姫は、メルの樹を眺めて感動の言葉を漏らした。
「あーっ、そうですね。あれは、精霊樹なので…」
せっかくラヴィニア姫から話しかけられたのに、アーロンは上の空だった。
心ここにあらずだ。
何となれば…。
アーロンの全神経は、メルが手にしたトンカツ定食に注がれていたからだ。
(あーっ、メルさんが…。料理を運んでいる…。あれは…。わたしが食べたことのない、料理じゃないですか…!)
アーロンの懐には、フレッドから預かった手紙があった。
これを口実にすれば、『酔いどれ亭』での昼食会に飛び入り参加を許されるのではないか…?
アーロンの口もとが、だらしなく歪んだ。
アーロンとラヴィニア姫のやり取りを見ていたユリアーネ女史は、呆れ顔で溜息を吐いた。
ラヴィニア姫はアーロンの素っ気ない対応に、すっかり機嫌を損ねてしまった。
おそらく…。
アーロンがラヴィニア姫の信用を得る日は、やって来ないだろう。








