待つモノ
ぽつん、と置かれたシュークリーム。
おやつの時間をだいぶ過ぎているが、夕は食べたいとはどうしても思えなかった。
シンキが出会ってから初めて何も言わず、三日も来なかった。一日、二日来ないことは今までにもあった。三日以上来れないときは、来れないと言って毎回出ていくのだ。しかし、最後に会ったときは次の日には来ると言ってこの場から立ち去った。
(何かあったのかな。また、初めて会ったときみたいに、どこかで大けがしてるのかな)
外に出て、探しに行けばいいのかもしれない。だが、一体どこを?どうやって?
(シンキのこと、私、何にも知らないから)
普段はどこで過ごし、何が好きで、得意で、嫌いで、苦手なのか。歳はいくつで、どこで生まれて、どこで今まで生きてきたのか。友達のこと、亡くなっているという両親のこと。他愛のない話はたくさんしているのにシンキに関することはほとんど知らないのだ。
それに、外に出たとして、地元の土地勘さえ危ういのだから、この歳で迷子になってしまいかねない。なんという体たらくだ。
「無事に帰ってきて・・・・・・」
無力に自分は祈るしか、願うしかないのだ。
もしかしたら、どこかで遊んでいるのかもしれない。寄り道をしているだけかもしれない。こんなに心配することでもないかもしれない。シンキの世界は広い。外の世界に出たければ言え、とシンキは言ってくれる。シンキにとって、外の世界は近いのだ。
夕は立ち上がってベランダへ通じるガラス戸を開けた。
夕方を迎え、また日が沈もうとしている。白いワンピースの裾がひらりとはためいた。
今日もまた、会えないのだろうか。
恋に似た、だが、恋とは全く違う依存的なその意志に夕は気づかない。シンキが意図的であると同時に無意識に編んだ罠であるとは思うまい。
「祝賀祭、でございますか」
夕はぽつりと呟いた。内心は憂鬱で、暗雲としていたが、それは一切出さない。
目の前にいる父は今年で三十九歳と自身の年齢を考えれば若くして父になったのだろう。このご時世、少子高齢化で未婚者も少なくはない。夕には一つ上に長子の姉と二つと四つ下に弟がいる四人姉弟である。家族仲、姉弟仲が良いかと問われれば微妙なところである。親愛はあるが、何日も会わないこともあるし、基本的に放任だ。だが、神崎家の人間として求めるところは求めることはある。今回の父に呼び出しもその一環だ。
「ああ。急な話だが、急ぎ支度をしてくれ」
「いつもならば、お姉さまがしてらっしゃることでしょう。なぜ、私が」
行儀や作法は確かに問題ないだろう。だが、時々奇妙な言動をするために避けていたはずだ。
夕は訝し気にそう言うと、父ははあ、とため息を吐いた。
「南海は熱を出したようだ。今日の事を楽しみにしすぎてここのところ徹夜してしまったらしい」
「・・・・・・二ですか」
恐る恐る夕が数字を出すと、父はどこか遠くを見て「いや」と否定する。
「四、だ」
「よん、ですか」
「そうだ。・・・・・・こんなところ、似なくてもよかったんだがな」
つまり、姉の南海はこの祝賀祭の準備に没頭するあまり、四夜連続で徹夜してしまったのだという。姉のハイテンションによる徹夜はこれまでも何度かある。何度かあるが、四夜連続というのは初めてだ。夕もあまりのことに絶句してしまう。
(お姉さま、そのあたりはどうにか直してください。お父様がかわいそうです)
父も子供のころはなかなか楽しみにしていることがあるとなかなか寝付けなくて有名だったらしいが、それを引き継いでしまった姉は悪化させてしまっている。自分はそんなことはない。日付が変わるころには眠っている。
憂鬱で暗雲としているが、父もかわいそうになってきて、溜飲が下がる。今回の祝賀祭の姉の欠席理由が「あまりに待ち遠しくなってしまい、四夜連続徹夜し、体調を崩した」などとあまり言いふらしたくないことだ。
「それは仕方がないのでしょうか?いえ、仕方がないということにしておきましょう。仕方がありませんね」
「南海の代理ということで出席してくれ。あまり時間はない。今から支度しろ」
どこか疲れた様子の父に少し同情しつつ、「わかりました」と礼をして踵を返す。
「夕、妙な言動は慎みなさい。わかってるな?」
背後から声を掛けられ、一度立ち止まる。目を伏せ、ぐっと唇を噛んだ。
視たくて、やりたくてやってるわけではない。そう言いたいのをぐっと堪える。
今でも足元にちらちらと見えるモノに震えないよう、避けないようにするので精一杯だ。
「重々、承知しております」
夕は振り返ることなく、そう言って部屋を出た。
祝賀祭とはこの国が祀っているありとあらゆる神様や妖、式神に感謝し、奉る行事である。この国は多神教で、他国の宗教も寛容に受け入れる傾向がある。悪く言えば、無頓着ともいえるのだが。島国であるせいか、他国の文化や宗教があまり入りづらいともいわれるが、一度入ってしまえば、浸透は早い。おかげでこの国の文化は色々な文化が入り乱れている。
そんな祝賀祭になぜ、参加するのかというと神崎家の本家、神白家は神職に通じる人間が多いからだ。なぜか、本家から派生する分家は名字の変えることが昔からの風習らしく、神崎家の当主である父と神白家の当主は兄弟関係だが名字が違う。また、分家であることを公にすることは禁じられており、神崎家は神白家の分家や親族であることを漏らしてしまうと、改名や住居の変更を強制させられていまうのだという。
なぜ、そんなに頑なに隠すのかは不明だ。不明だが、大して聞かれることでも、話すことでもないので不便はない。
ゆったりとした部屋着から鮮やかな赤をベースとした大振りの花が咲き誇る振袖に着替える。今までに何度か振袖は着たことはあるが、これは初めて見る振袖だ。もしかしたら、姉が四夜連続徹夜の末に選ばれた振袖なのかもしれない。
祝賀祭では女性は正装として未婚女性は振袖、既婚女性は着物を着る風習がある。お祝いの場なので、派手な色を選んでも問題ないようだ。昔はこの祝賀祭が出会いの場となったこともあり、様々な物語や逸話が残っている。
神崎家専属の若い女性コーディネーターが夕の服装を整えていき、髪を結い、軽めの化粧を施していく。その間、夕はじっと動かず、コーディネーターの指示に唯々諾々と従う。そうしなければ、長引いてしまうことは間違いない。一度、「まだー?まだー?」と我慢ならず、何度も聞き、コーディネーターの顔を般若にしてしまったことがある。
(か、可愛いんだけど、ほんとに動きにくいんだよ・・・・・・)
準備が終わり、満足げなコーディネーターの顔に夕は微苦笑を浮かべる。
触らぬ神に祟りなし。まさに、彼女はそういう存在である。センスは間違いないのだから、言われた通りにしたほうが、双方平和だ。
袖や裾を踏まないように気を付けながら、庭に向かう。
神崎家は無駄に家が大きい。土地は神白家のほうがずっと広大らしいが、庭をこよなく愛する父のおかげで庭だけは本家よりも広い。その庭を使うために本家の神白家が祝賀祭を行うためだけに借りに来るのだ。
庭はすでに大勢の人で埋め尽くされ、大きな祭壇が中央に鎮座している。
祝賀祭の主催は本家神白家が執り行う。あたりを見渡すと、普段は滅多に会うことはない本家の方々が目に見える。失礼のないように一度、顔を見て名前を思い出せるかどうか確認し、小さく頷いてから前を見た。
(大丈夫、大丈夫・・・・・・)
引きこもりなのは、人が苦手なせいではない。だが、久々にこんなに多くの人を見た。人前に出る緊張はやはりしてしまうが、それ以外は問題ない。それに、あのよくわからないモノはなぜか、今日はあまり視界に入ってこない。ちらちらと入るやつもあるが、それは大抵無害な植物のようなものが多いので、無視できる。
どうやら、夕の入場が最後だったようだ。父の姿を見つけ、そのあとに静かについていく。指定された席に座ると、まもなくして神白家当主の男が祭壇の前に立ち、浪々と祝詞があたりに響き始めた。
祝賀祭の祝詞が終わり、食事会に移行し始める。基本、立食なのでお喋りをしながら回るのが定番だ。
父の後についてまわり、挨拶をして、少しだけ喋る。姉の代理ということで、姉はどうしたのかと問われることがほとんどだ。「体調を崩しまして・・・・・・」と言うと、姉をよく知る人は「ああ」と訳知り顔で同情の視線を向けられるので居たたまれない。
「遅れてすみません」
不意に後ろから声をかけられ、父とともに振り向く。そこには神白家当主の長男がいた。
「ああ、達亜くん!構わないよ。梨絵さんは元気かね」
父はぱっと笑みを浮かべ、ずんずんと達亜のほうへ近づ
いて行った。
神白家の長男は十九歳と若いが既に結婚しており、奥さんの梨絵さんは現在妊娠中とのことだ。
この一族は本当に結婚と出産が早い。しかし、彼はもうしっかりと働き、次期神白家当主も問題ないと期待を背負っている。
パリッとした黒スーツに程よく日に焼けた好青年が微笑むと、既婚者であるにもかかわらず、周りにいた女性が静かに黄色い悲鳴をあげる。姉がいれば、その一人だったに違いない。
「はい。今は安定期ですので。家で大人しくしています」
夕は少し遅れて父の後ろに立ち、会釈した。
「お久しぶりでございます。達亜さん」
「・・・・・・」
会釈したものの、何も返事がなく、沈黙が続く。不思議に思い、顔を上げて見やるとはっと我に返ったかのように目を瞬き、誤魔化すように苦笑した。
「・・・・・・久しぶりだね。身体は変わりないかい?」
「え?あ、はい。変わりなく、元気です」
微妙な雰囲気にどうしたものかと父を見上げる。父もどこか驚き、いぶかし気に達亜を見つめている。
「夕、何か飲み物を持ってきてくれ。急いで来て、達亜くんも疲れているだろう。アルコールは、そうか、まだ未成年だったな」
「ええ、ありがとうございます」
微妙な空気が少し和んだところで、夕は父の言いつけ通り、家の中に入ってノンアルコールを取りに向かった。
「ユジェ、いるか」
達亜は叔父の視線が逸れたところで、小さな声でつぶやく。その眼差しは厳しい。達亜の視線の先は先程離れていった夕に向けられていた。
「見張れ。近くに霊がいる」
料理人の沖さんはどこかな、と夕は久し振りに家の中を歩く。引きこもると家の中を歩き回るのも久し振りになってしまうのだから恐ろしい。
キッチンの近くまでやってくると、夕はひょいと顔を出し、中を見た。
「沖さん。ノンアルコールをおひとつお願いできませんか」
沖さんはちょうど手が空いていたらしく、「わかりました」と少し微笑んで言った。
「他のものも今から運びますから、ついでに持っていきましょう」
「そうですか。では、よろしくお願いします」
お手洗いに行っていますね、と一言残し、キッチンを去る。
一番近くにあるお手洗いを目指し、ゆっくりと歩いていく。お手洗いに行くというのは方便だ。人混みに疲れたために少しだけ静かな場所で休憩したかっただけ。沖さんはそのことをよく知っている。
(シンキ、来たかな?)
一番近いお手洗いと自室は然程距離は離れていない。少し部屋を覗いて行こう、と思い立って方向転換する。
自室のドアを開け、部屋を覗き込む。
防犯上よろしくないのは重々承知しているが、いつシンキが来ても入れるようにとガラス戸の鍵は空いている。
「シンキ・・・・・・!!」
ぽつん、と部屋の真ん中に立つシンキの後ろ姿があった。
ぴくり、とシンキの身体が動き、そっとこちらに視線を向けられる。夕は嬉しさのあまり、動きづらい振袖であるにもかかわらず、後ろからとびついた。
「良かった、無事で!良かった・・・・・・!」
シンキの存在を確かめるようにぎゅっと抱き着くと、しばらくしてシンキがこちらを向き、腕が背に回ったのを感じた。
(シンキ、震えてる・・・・・・?)
しばらくしてシンキが震えていることに気づく。心なしか、息遣いも荒い。なんだか暑いな、と認識した途端、はっと我に返ってシンキの顔に手を伸ばして触れた。
「シンキ!熱い!熱が出てるよ、ねえ、聞いて、る?」
初めて目が合って、その目がおかしいことに気が付いた。
眼が赤いのだ。暗い部屋でその眼はらんらんと光っていて、初めて会ったときよりもどう猛さが滲みでいた。
「その眼、どうしたの?赤いよ。病気になっちゃったの?」
触れていた手の平をそっと伸ばし、親指でシンキの左目の下を撫でる。ずっと黙っていたシンキもそこで息をのんで伺うように口を開いた。
「怖くないの?」
何を言っているのだろう、と夕は思った。シンキの眼が赤いか赤くないかなど、些細なことでしかない。
しかし、きっとシンキ本人は真剣なのだとそれは言わなかった。
「怖くないよ」
シンキの目を見て、しっかりと告げるとシンキはその切れ目をゆるゆると緩めてふっと笑みを浮かべた。
夕はそっとシンキから抱擁を解くと、距離を取った。眼
が赤く、熱があること以外に異常は・・・・・・。
「血が!どうしたの、シンキ!なんで、またケガしてるの!?なんで、」
いつもの白いシャツは真っ赤な血で染まっていた。暗くてよくわからないが、きっと黒のパンツにもこびりついているのだろう。
思わず声を上げてしまい、シンキはすっと夕の口を手でふさいだ。始め、夕は抵抗していたが、やがて、自力ではシンキの手を外せないことを悟るとしぶしぶ大人しくなる。
「大丈夫。血は止まってるし、大体はおれのじゃない」
「・・・・・・とりあえず、命は大丈夫なのね」
血は止まってるだとか、自分じゃない血がなんでついているのだとか、聞きたいことはたくさんあったが、夕はついていけなかった。
夕はとりあえず、落ち着こうと深呼吸し、シンキを見上げる。
いつも、からかってくるシンキは先ほどから物静かだ。赤い眼は確かにどう猛だが、光がない。どこか、疲れ切った様子で口数が少ない。じっとこちらを見降ろして、どこか不安定な感じがする。
「でも、熱があるから、私のベッドでいいから寝てて。常備薬もあるからそれを飲んで。今日は祝賀会で外にいないといけないから、少し遅くまで帰れないの。その間は遠慮しないで、寝ててね。それから、」
「ごめん、欲しい」
夕の言葉を遮るようにシンキが何か呟いたあと、ぐっと顔が近づいたかと思うと視界いっぱいにシンキの赤が広がった。
「・・・・・・!!」
ぐいっと乱暴の顎を掴まれて、半ば反射のように口を開いた途端、シンキの舌が差し込まれる。突然と暴挙に抵抗しようとすると、頭の後ろと胴体にシンキの腕が回り、逃げ場をなくした。
(なんで、なんで?)
思い描いていたキスとは全く違う。乱暴で、自分本位で、苦しくて、痛い。シンキの拘束は思っていた以上に強く、まったく身動きが取れない。
夕は目を見開いたまま、シンキを見つめる。シンキの目がとろりと酔ったように丸くなり、どきりと胸が高鳴った。
どちらのものかわからない唾液が口から溢れそうになり、こくん、と飲み込む。シンキって甘いんだな、とどこか検討違いなことを思った。
どれくらい経っただろうかわからない。途中で記憶が曖昧になって、気がつけばシンキは普段の眼の色でこちらを見下ろしていた。
「こういう時って、ただいまって言うんだっけ?」
何を言うのだろうと、夕はどこか身構えていただけにシンキの言葉には拍子抜けしてしまった。
「そう、かな?うん、そうかも?・・・・・・おかえり」
「混乱してるねえ」
いつも通りの雰囲気に戻ったシンキを見て、安心する。先ほどまでのことがなかったかのようにされるのは気にかかったが、不調だった体調が良くなったようでほっと安堵の息をついた。
「そりゃあ、だって」
「ちょっと待って。夕、今、誰と会ってきた?」
不意に厳しい声音が降ってきて、夕は戸惑った。
「誰って、お父様と従兄の達亜さん、沖さんと・・・・・・ってついさっきはこれぐらいだけど、今日はたくさんの人に会ってるよ」
「その中にかじろ、とばね、ふじ、しいろの名字を持つ人間はいる?」
どこか必死な様子に答えることを躊躇していると、目を吊り上げたシンキがぐっと夕の肩を掴んだ。
「神白はいるよ。今日の祝賀祭の主催者だから・・・・・・。さっきご挨拶してきたよ。その人の飲み物を取りに来たの。そうだ、もうそろそろ戻らないと」
だから離して、と訴えるがシンキには伝わっていないらしい。それどころか、肩を掴む力が増した。
「戻るな」
「え?でも・・・・・・」
「でもじゃない。戻るな。神白の人間はダメだ」
頑なな様子に夕は気圧される。
しかし、シンキがいくらダメだ、無理だと言っても、夕は戻らなければならない。口裏を合わせてくれている沖さんのこともあるし、そろそろ戻らなければ怪しまれる。もう、遅いかもしれないが。
「どうして?理由を教えて」
「・・・・・・言えない。でも、行ってほしくない」
「それじゃあ、無理だよ。ごめんなさい、行くわ」
理由もなしにそんなことは受け入れることはできない。
夕はシンキの手を離そうと手をかけるが、力はさらに増したようで、一向に離れる様子をを見せない。
「シンキ、離して!達亜さんは危ない人じゃないよ。ねえってば!」
「夕はその、かじろの名字を持つ達亜っていう人間の従兄なの?」
シンキのその言葉にはっとして口を噤む。肯定することができず、じっとシンキを睨んでいると、ふとシンキが夕から視線を外した。
「シンキ?」
「黙って」
シンキはすっと辺りを静かに見渡している。だが、ここではないところを見ているようで視線に違和感がある。
「そこにいるだろ、<贄> が」
シンキは部屋の入口に視線を向けるとそういった。
誰かいるのかと夕もそちらを見ると、庭にいるはずの従兄の達亜が入ってきた。
先ほどまで着ていた黒のスーツはなく、ネクタイも外されている。眼がさっきまでのシンキのように赤く染まっており、雰囲気も好青年のそれではなく、どこか獰猛としていた。
「三日ぶりかな。会えて嬉しいよ。あのときは油断しちゃってたからね。今度は容赦しないよ」