令嬢は百合がお好き
皆様、ごきげんよう。
わたくしはティリアシル・メア・ラズフォーン。ラズフォーン公爵家の一人娘です。ごく親しい方からは、愛称としてリアと呼ばれています。
かつては王国一の美貌を誇ったというお母様譲りの、緩く波打った長い銀髪はわたくしの誇りですわ。
お父様はここシルヴェリオ王国の宰相であり、国王様とも昔から懇意にされているようです。その関係で、幼い頃よりわたくしと第一王子であるレオード・ガルシア・ギル・シルヴェリオ殿下との婚約が交わされており、わたくしはその大義に恥じぬよう、一身に努力に励んできたつもりですわ。
殿下――レオード様とも、緩やかにではありますが、互いを思う信頼関係を築いてこられたと自負しています。
ですが、そのレオード様が今、翠玉のような瞳を細めてこちらを見つめているのです。
まるで道端の石ころを眺めるような、無感動な視線で。
「……ティリアシル・メア・ラズフォーン。今日このときをもって、貴女との婚約を解消させていただきたい」
この場はわたくしの生誕から十八年目の記念となるパーティ会場。主賓には国王様や王妃様をはじめとして、この国の主だった方々が揃っています。
そのようななかで、レオード様は傍らに一人の女性を連れて、わたくしを呼び止めたのです。
亜麻色の髪を長く伸ばし、どこか庇護欲を誘うような顔立ちのその女性は、しっかりとレオード様の腕を抱いて不安そうに俯きました。
瞬間、彼女の唇がかすかな弧を描いたことを、わたくしは見ておりました。
何事かと周囲が囁き合うことも気にせず、やがて開かれた口から放たれた、先ほどの発言。
驚愕、疑念、期待――様々な感情が向けられてくるのがわかります。
さざ波のように沈黙が引かれていく中心で、わたくしは一度目を閉じて、それから長く長く息を吐きました。
興奮を、押さえつけるために。
「わかりましたわ!」
ざわざわとしていた喧騒がぴたりと止まりました。
思いのほか声が通ってしまったようで、なんだか恥ずかしいですわね。
「――おい、もうちょっと演技をしろ」
彫像のような無表情が崩れ、レオード様の視線に呆れが乗せられます。
わたくしとしたことが、いけませんわ。淑女たるもの、心はともかく面は常に冷静たれ、ですものね。
「こほん、失礼しました。では、ええと……殿下、理由をお訊きしても?」
「……まったく、誰のせいでこんなことをしていると……まあいい、お前がこちらのミリア・ドーリィ男爵令嬢へ卑劣な嫌がらせを重ねていたということは調べがついている。何か異論はあるか?」
すっかり投げやりな雰囲気になってしまったレオード様の言葉。あらかじめ打ち合わせしておいた流れとはいえ、もう少し緊張感が欲しかったところですわね。
まあ、元はといえばわたくしのせいではあるのですけれど。
周囲の方々――とくにミリアさんの唖然とした空気を感じながら、あぁミリアさん、驚いている顔もなんと可愛らしいのでしょう。
好きです。
ではなく、異論でしたね。
当たり前のことですが、わたくしが愛しのミリアさんに対して嫌がらせなどするわけがありません。
ですが、正直にそれを言ってしまってはいろいろと台無しです。せっかく、レオード様にもご協力いただいているのですから。
そもそも何故わたくしがこの状況――婚約を破棄されようとしているのかというと、そうですわね、一言でいえば愛ゆえに、でしょうか。
愛といっても、レオード様にではなく、その隣に立つミリアさんに向けてのものなのですけれど。
もちろん、レオード様にも好意を抱いてはおりますわ。
けれどそれはどちらかといえば家族や友人に対するようなもので、それ以上ではありません。
わたくしの胸を焦がし、震えるほどの感情を占めているのは誰あろう、ミリアさんなのです。
ですが、わたくしがミリアさんと添い遂げるためには、婚約者であるレオード様の存在が邪魔、いえ……こう、壁となるわけですね。
それをどうにかするためにこの婚約破棄は願ってもないもので。
もっと言ってしまうと、わたくしとレオード様による自作自演なのです。
*
ミリア・ドーリィ。
端的に、かつ客観的に言ってしまえば、彼女はわたくしの恋敵という立場です。
とはいえ、国王様が認める正当な婚約者であるわたくしと、一男爵令嬢にすぎない彼女とでは始まる前から勝敗が決しています。
わたくしも、出会った当初は気にも留めていませんでした。せいぜいが可愛らしい方だな、というくらい。
ところが彼女はあらゆる手練手管を使い、あっという間に自らの立場を作り上げていきました。
あちこちで悩み事を聞いては、まるで答えを知っているかのように的確な助言をしてみせたり。
ときには楚々と微笑み、あるときは悲しげに目を伏せ、ここぞという場面では妖艶に腕を捕まえる。
気付けば彼女の周りにはたくさんの人が集まっていました。
そのほとんどは男性でしたが、なかには少し前から姿が見えないな、と感じていたわたくしの友人だったご令嬢方の姿もあって、驚きと同時に寂しさを覚えたことを思い出します。
この時点ですでに、わたくしは彼女に人並み以上の興味と、そして好意のようなものを抱いておりました。
幼い頃から王妃となることが決まっていて、わたくしの人生とはただ、その終わりに向けて決められた道を歩むだけ。そこにわたくしの意思は関係ありません。
だからといって嫌だったかというとそうではなく、それ以前の問題ですわね。
わたくしは、そのような生き方しか知りませんでしたから。
厳しい教育も薄い壁を隔てたような人間関係も、それが当たり前の世界だと思っていたのです。
だからこそ、わたくしはミリアさんが眩しかった。
進むべき道を自分で選び、切り開いていくその姿を目で追うようになっていたのです。
そんなある日、とある偶然からミリアさんはレオード様と出会い――おそらくは一目惚れだったのでしょうね。それまでに培ったすべてを利用して、レオード様へと接近しはじめたのです。
婚約者であり、接する時間が長いわたくしがそのことに気付かないわけがありません。
それも、狙ったようにわたくしの前に何度も現れるのですから、なおさらです。
ミリアさんはここでもその魅力を充分に発揮し、日に日に縮まっていくような二人のやりとりを見ているうちに、わたくしは胸の中にもやもやとしたものが渦巻いていくのを自覚していました。
さらさらと流れ落ちる髪を揺らして、談笑する姿。
楽しそうに目を輝かせ、控えめに晒される白い肌。
どうしてそんな気持ちになるのかわからないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
このままではいけない。
そう思ったわたくしは一日ほど考えて、さらに考えて考えてようやく結論を出し、考え疲れてぐっすり眠ったのちにすっきりとした頭で目覚めると、その足でレオード様のもとへと向かいました。
そして開口一番に言ったのです。
「どうやらわたくしは、ミリア・ドーリィ男爵令嬢に恋をしているようですわ」
「は?」
「考えてみたのです。例えばの話ですが、レオード様とミリアさんが唇を重ねたとしたら、と」
「待てリア。お前は今とても突拍子のない、かつはしたないことを言っている自覚があるか?」
「わたくしは思いました。嫌だと」
「話を聞け」
「では次に、わたくしとレオード様が唇を重ねたとしたら、と」
「……どう思った?」
「べつに、いまさらですわよね? わたくしたち、幼い頃から何度かそうしていますし。感想としては、まあ普通でしょうか」
「普通……」
「そして最後に、わたくしとミリアさんが唇を重ねたとしたら、と」
「……で?」
「恥ずかしいですけれど、なんだかとても嬉しくて、心がぎゅっと掴まれるように苦しくて、それから甘い気持ちがこう、ふわふわと――」
「(絶句)」
「あら、こほん、わたくしったら舞い上がってしまって、ごめんあそばせ。とにかく、そういうふうに考えてみたらわかりましたの。わたくしは、ミリアさんのことが好きなのだと。そこで、レオード様にご協力をお願いしにきたのです」
「……いや、おかしいだろう。お前は女だし、ミリア嬢もまたそうだ。貴族の役割について、もう少し冷静に考えてみろ。それにそもそも、お前は俺の婚約者で――」
「愛に性別など関係ありませんわ」
「いや、だから」
「わたくしはミリアさんの子供を産みたい」
「(絶句)」
*
それからも説得を重ねること数日、ついにレオード様の協力を得ることができました。
最後のほうではなぜだか泣いておられましたが、それほどまでに真剣な気持ちが伝わったのでしょう。嬉しい限りです。
とまあそんなわけで、現在の状況があるのですわ。
「――どうだ? なにか言い返すことは?」
「異論もなにも……彼女に嫌がらせをすることで、わたくしになにか得がありまして?」
「そんなもの、気に入らなかったの一言で充分だろう」
「いいえ、とんでもない。最上級のお気に入りですわ」
「……っごほん、そもそも、証言も証拠も揃っているんだ。いまさら言い逃れができるだなどと思うなよ」
あら、わたくしとしたことが、ついまた本音が。
レオード様のおかげでなんとか怪しまれずにすんだようです。さすが次期国王の面目躍如ですわね。
ミリアさんはいまだによくわかっていないような表情でしたが、彼女にしてみれば自分に都合のいい展開だと気づいたのでしょう。ここぞとばかりに瞳を潤ませ、ひしとレオード様に抱きつく力を強めました。
そうして、わたくしに見せつけるように、笑うのです。
ああ、なんて羨ましい。レオード様、その場所を代わっていただけないでしょうか。
全体に丸みを帯び、それでいて耀とした印象のミリアさんの身体は、さぞ柔らかいことでしょう。
そう、まるで歯を立てるとすべらかにほどけゆくレーネシアンの細工砂糖のように。甘く、しっとりとした口触りで――、
「――おい、聞いているのか?」
「うふふ……あら、失礼しました。ええと、なんの話でしたか?」
「話が進まない……もういいか」
ぼそぼそと何事かをつぶやくレオード様でしたが、ふといつになく真剣な様子で顔を上げました。
「とにかく、お前との婚約は解消させてもらう。最後になにか言いたいことがあるのなら、聞こう」
「レオード様、それは……」
いくつか予定されていたやりとりを飛ばしての、最終局面の台詞。
どうしたことかと驚くわたくしを見る視線は強く、まるで後押しするかのようで。
なるほど、大丈夫だと、そう判断されたのですね。
であるならば、わたくしも覚悟を決めなければなりませんね。
ティリアシル・メア・ラズフォーン。一世一代の大舞台ですわ!
「本当に、その決断は覆らないのですか?」
「当たり前だ。他人を苛めるような人間を、王妃にするわけにはいかないだろう」
「それが、真ではないとしても、ですか?」
「真かどうかを決めるのはお前ではない、ということだ」
酷い話ですが、貴族社会ではよくあることです。
今回はそもそも疑われているわたくしに罪を晴らす気がないので実にあっさりですが、これがもし本気の断罪現場であれば、また違う流れになるでしょうね。
「……婚約を解消するということは、わたくしと殿下、ひいては王家との関わりも断たれるということですか?」
「そうなるな。お前はラズフォーンの名を失い、ただの平民に落とされるだろう」
「そんな……か、家族は、家族はどうなるのですか?」
「本来ならば連責が問われるだろうが、せめてもの情けだ。ラズフォーン公爵家に対する咎はないと誓おう」
「では、わたくしがなにを言おうとも、なにをしようとも、ラズフォーン家には一切関係がない、ということなのですね?」
「しつこいぞ。何度も言わせるな」
「そう、ですか。ありがとうございます」
わたくしとて貴族の女。
涙のひとつやふたつ、流せなければ生きてはいけませんのよ。
なんて、ミリアさんには敵いませんけれどね。
さて、これで地固めは万全ですわ。さすがに家族まで巻き込むわけにはいきませんものね。
そして、ここからが最も大事な部分ですわ。
深呼吸を一度、目を閉じて、開く。
交わった視線で頷き合い、レオード様から、その横へ。
「――ミリア・ドーリィさん」
「……はっ? え、わたし?」
突然の指名に、勝利の笑みを浮かべていたミリアさんが慌てています。まったくもってかわいらしいですわね。
「お聞きの通り、わたくしはこれでただのリア。一切のしがらみもない一人の女でしかありませんわ」
「は、はぁ……それで?」
「わたくしは、あなたのことをお慕いしておりました。このような場で誠に申し訳ありませんが、よろしければ、わたくしと共に歩いてはくださいませんか?」
もちろん、返事などわかっておりますわ。
ただでさえ婚約破棄されたばかりなのに、今までで対立していた相手、さらには同じ性別などと。
否定すべき理由に否定すべき理由を重ねて重ねて、そうして埋め尽くすほどに。
わたくしとミリアさんの間には壁が聳えているのです。
けれど、わたくしはそれでも諦められませんでした。
触れたい。触れられたい。
笑いかけてほしい。笑い合いたい。
一緒に、生きていきたい。
どうしてこんなに惹かれているのか、自分でも本当にわからないのですけれど。
惹かれてしまっている以上、そこにはもはや理由など必要ないのですわ。
そう、ですから、たとえここでどれほどの拒絶や罵倒を受けたとしても、わたくしは決して諦めることは、
「もちろん、よろこんで」
――あれ?
「……なぁんだ、せっかく孤立させてから依存させようと思ってたのに。まさかそっちから飛び込んできてくれるなんて」
どうしてわたくしは、ミリアさんに抱きしめられているのでしょう。
「まあいいわ、結果としてあなたがわたしのものになるのが早まったのだし」
どうしてわたくしは、ミリアさんに顎を持ち上げられているのでしょう。
「好きよ、ティリアシル・メア・ラズフォーン。いえ、今はリアだったかしら」
どうしてわたくしは、ミリアさんに唇を奪われているのでしょう。
「わたしはね、――最初からずぅっと、あなたを狙っていたのよ」
海の底のような、深い蒼。
どうしてわたくしは、ミリアさんの支配するような瞳に――ぞくぞくとした悦びを、感じているのでしょう。
誰か、教えてください。