第八話「土曜日の進路指導室」
今朝もなかなかに良い天気だった。朝の冷え込みも忘れて、窓を開けて朝の澄んだ空気を部屋に取り込みたい、思わずそんな衝動にかられたくらいだ。
土曜日の路線バスは、いつもより空いている。背広姿の人も、学校の先にある病院に行くお年寄りも目に見えて少ない。いつもは暑過ぎるはずの暖房も、今日ばかりはちょうど良く感じられた。
車内の最後列で寺田と合流する。気さくな挨拶を交わして、そろそろ定期券をどうしよう、なんて話をしているうちに、やがて琴葉と芽依が乗り込んできた。四人で朝から顔を揃えるのは初めてのことだった。もっとも普段はあんまり混みあっているもんだから、気がつかなかっただけかもしれないけれど……。
彼女たちが座れるよう、脇に置いていたスクールバッグを膝に抱えて席を詰める。
「今日って開いてるの?」
顔を合わせるなり、芽依が訊ねてきた。
「進路指導室のことか?」
「うん」
「どうだろう、俺も土曜は寄り付かないからな。琴葉は?」
「私もまっすぐ帰ってますね。ちょっと……分からないです」
なんだか眠そうな口調だった。そういや朝は苦手って言ってたっけ。ともかく土曜は四限で終わりだから、昼休みに使う彼女はスルーしているということだろう。
「ちなみに図書室は閉まってるけど、自習室は空いてるよね」
寺田が補足する。
「そうなのか?」
「図書室が閉まってるのは、多分司書さんがいないからだろうし……そう考えると、進路指導室も岩瀬先生がいるのかいないのか、って感じなのかな」
「お前ら、今日も来るつもりなのか」
「お邪魔じゃなければね」
寺田の言葉に、芽依も同調する。
「私はそのつもりだったけど……平気?」
彼女に視線を送られた琴葉は、とんでもないとでも言いたげにコクコクと首を縦に振った。
「どうか、お構いなく……。むしろ、お二人は私たちの話し声が気にならないんですか?」
「ならないのよね、それが。自分で言うのもなんだけど、私、すぐゾーンに入れるタイプだから」
「ゾーン……」
「極度の集中状態のことだよ。はは、芽依らしいや。この時期とはいえ、誰しもが出来ることじゃないよね」
寺田は力なく笑った。こいつはそこまでの集中力は持ち合わせていないらしい。
「僕も多少騒々しい場所であえて意識を集中させてく、ってタイプだから平気だよ。自習室みたいな環境だと逆に注意が散漫になっちゃうから、普段は音楽を流しながら勉強してるくらいだし」
「とりあえず、グループライン作っとこうか」
そう言って芽依はコートからスマホを取り出す。
「状況が分かり次第連絡する、ってことで。いい?」
「おう、承知した」
俺もスマホを取り出して、彼女たちとのグループを作成するべくアプリを起動する。新しいメンバーを招待するのがあまりにも久しぶりすぎたせいで、すっかりまごついてしまう。琴葉も同様のようで、結局芽依に渡して任せていた。
「っていうか琴葉は、僕たちと一年のときに交換しなかったっけ?」
「ケータイを変えたときに、アカウントの引継ぎを忘れてたんです。だいぶ前の話ですけど」
それは言外に、彼女の人間関係がそれでも困らない程度に希薄であることを物語っていたけど、気には留めないことにする。お互いの招待が無事完了したところで、バスは学校に到着した。
改めてスマホを開く。一般入試を控えて頑張っている奴と、留年を回避するためだけに頑張っている奴と、推薦入試を終えて暇を持て余している奴の名前がひとくくりにされている。バラバラの進路の中に、成り行きとはいえ奇妙な連帯感が生まれていた。
スマホに通知があったのは、その日の一限が終わったときだった。二限の体育に備えて更衣室で着替えていると、ジャージの中のスマホが震えた。
芽依『開いてなかった、先生来てないみたい』
琴葉『今週三回目ですよ』
以上のやり取りが交わされていた。実際には、それぞれのコメントの前に前置きのスタンプが貼られていたわけだけど。今の今、芽依が進路指導室に行ってきて確認したということだろう。
寺田に声をかける。こいつはまだ読んでいなかったらしい。
「そのうち来るんじゃない。いつも一限からいるもんなの?」
「昨日、職員室の朝礼に参加するのを見たんだよな。基本的にはそのはずなんだよ」
校庭に出ると、琴葉と芽依が話し込んでいた。合同授業とはいえ当然男女は別に行っているわけで、周囲の視線が気になるけど、躊躇なく近づいていく。残りの登校日なんて二十日もないのだ、この程度のことをためらっている場合ではない。
「ライン、見た?」
芽依の言葉にうなずくより先に、彼女は校舎のある一点に向かって指を差す。進路指導室の部屋は、薄手のカーテンが降りたままだった。当然、部屋の照明は明らかについていない。
いや、今日こそ本当に病欠かもしれない。あるいは出張という可能性もあるだろう。大寝坊をしただけでこれから出勤してくるというオチだって、なきにしもあらず……。そんな幻想を抱いたけど、結局体育の授業が終わっても窓の中の様子に変化はなく、誰かが出勤してくる姿もなかった。
授業が終わってから、俺たちは再び進路指導室に寄ってみる。念のためと思ってドアノブを握るとあっさり回り、思わず「あっ」と声が漏れる。
進路指導室にいたのは、岩瀬さんではなかった。頭を丸めた野暮ったい格好の中年教師が、明かりもつけないままパソコンに向かって、何かの書類をプリントアウトしているところだった。
「小柳先生……」
自然と名前で呼んでいた。俺はその名前を知らないはずだった。ただ、岩瀬さんがいない状況下でここに来て、ロックがかかっているはずのパソコンを起動できるのはどういう人物か、ということを考えてみれば、この人物こそ彼女が昨日話していた進路指導主任であるということは想像に難くなかった。
「どうしたんだ、お前ら」
普段から面識があるのであろう琴葉が、物怖じせずに切り出す。
「ちょっと、岩瀬さんに用があったんですけど」
「あいつは休みだよ。俺が代わりに聞こうか?」
「いえ、大したことではないので……。今日はこの部屋、何時まで開いてますか」
「……そうか、お前いつもここで勉強してるもんなあ」
小柳先生は、そう言ってパイプ椅子に座ったままのけぞった。
「分かった、今日は最終下校時刻まで開けておく。俺は部活動にかかりっきりになるから、何も対応は出来ないけど」
「構いません。ご迷惑はおかけしませんので」
「ハハハ、信頼してるぜ」
景気の良い笑い声だった。
「他の奴らは?」
「彼女と一緒ですよ。ここしばらく、一緒に勉強してるんです」
寺田がそう答えると、小柳先生はわずかに驚いた表情を浮かべて目を見開く。
「すみません、本当は自習室でやるべきかと思うんですけど」
「いや、いいんじゃないか。あそこだと声は出せないし。水橋と一緒っていうのに意味があるんだろう?」
「ええ……」
控えめにうなずく琴葉に対して、小柳先生は目を細めた。
「そういうことになっているなら、もっと片付けとくべきだったな。流石に今日明日どうこうするってのは無理なんだが……」
「いえ、いいんです。どうかこのままで……」
「そうか……頑張れよ」
その間の置き方には、確かにいくつもの感情がこもっていた。ちょうど書類の印刷も終わったようで、小柳先生はわら半紙の束を抱えて部屋を出て行った。
残された俺たちは顔を示し合わせる。
「今の、お墨付きってやつだよね」
「そうなんじゃない?」
「…………」
琴葉は黙り込んでいた。ここ数日の自分たちが何をしていたのか、期せずして、自ら選んだはずの一人ぼっちの毎日が変わりつつあることを、再確認しているかのようだった。
「琴葉」
「はい」
「今日は四限までだから、いつもより早く始められるな。もちろん休み休みやっても、早く終わせたっていいけれど……」
「はい」
「それじゃあ放課後な」
「はい……!」
表情はいつもと変わらなかった。だけど語尾はほんの少し強く、両手に力がこもっていたのを、俺は見逃さなかった。
むかし母の誕生日に花屋で買った花束を渡したら、「仏花を入れるなんて死ねというのか」と泣かれてから、ボクは母の日とかこの手の記念日は全部スルーすることにしてるんだ……。
(花屋にはちゃんと「今日は母の誕生日なんです」と言ったんですが)
次回は5月20日日曜に更新予定です。