第六話「いつもより早い、朝のバス」
カーテンの隙間から差し込む朝の光で目が覚めた。起きた瞬間から既に顔を洗ったかのような、どこまでもすがすがしい目覚めだった。
俺の学校は隔週で土曜授業がある。したがって本日、金曜はまだ週末ではない。そのことを思い出してもなお、心身ともに充実感が感じられた。
リビングに降り立つと、まだ両親が朝食をとっていた。庭に面した窓の向こうからは柔らかな冬の陽射しが差し込み、薄手のレースのカーテンを通じて足元に模様を描いていた。テレビに映る普段見かけない気象予報士は、冷え込みはいっそう厳しくなるものの、昨日とは打って変わって全国的に晴れ模様であることを伝えていた。
抜けるような青い空の下、家を出る。澄んだ空気の中を突っ切るようにして進む。足取りは軽い。信号に待たされることもなく、更には三十秒と待つことなくバスがやってきて、時間の余裕は更に増えていく。母に年賀状を渡すのを忘れていたことに気づいたけど、別に急がないと言っていたな、と思い直す。時間の余裕は心の余裕にもつながるのだ。
その余裕が、にわかにかき乱される。やや閑散とした車窓に意外な人物の横顔を見かけたからだ。
後方の座席に、岩瀬さんが座っていたのだ。彼女を登校途中に見かけるのは初めてのことだ。いつものように何をするでもなく、窓の外に目を向けたまま何の表情も浮かべていなかった。目を開けたまま寝ているかのようだった。
バスに乗り込んだ俺は、空いている座席的に、自然と彼女の真後ろに座ることになる。真横までやってきてようやく、岩瀬さんはようやくこちらに気づく。
「おはようございます」
ひとまずそう挨拶して、ごく自然体を装って腰を下ろす。
「いつもバス使ってるんですか。初めて見ましたけど」
「普段は車よ。今日は母が病院に行くのに使うから」
振り返ってそう言う彼女の言葉に、かすかに違和感を覚えた。母親の通院にも付き添う必要はない。では、昨日おとといと続けて進路指導室に姿を現さなかった理由は何なのだろう。昨夜コンビニで見かけた彼女は手ぶらで、遠出から帰ってきたような格好でもなかった。
尋ねたい、という気持ちが半日ぶりにこみ上げる。プライパシーの侵害だろうか。いや、答えたくなければはぐらかすだけの話ではないだろうか。とりあえず「昨日コンビニで見かけましたよ」と切り出すのは、事情はどうあれ避けた方が無難なんだろうか……。
「どうしたの」
「……なんでもありません」
うじうじと悩んだ挙句、俺はついぞ何も切り出せなかった。
これが仮に担任だったら、無遠慮に質問できたことだろう。俺と岩瀬さんの関係というのは、結局のところ、赤の他人に毛が生えたようなものなのだ。
良いことがありそうな予感に満ちていたはずの金曜日は、彼女の背中を眺めながら悶々としているだけの不毛な時間によって、一気に巡りあわせが悪くなった。はずだった。
校門の前で止まったバスを降りて数分後。
「清春」
昇降口から階段を登る途中、俺は岩瀬さんと再合流した。いや、彼女の方から寄ってきたのだろう。
「進路指導室の電気が点いてるんだけど」
その表情や口調はいつものように淡々としていて、こちらを責めるものではなかった。
「外から見えたんですか」
「ええ。カーテンも開いてる」
「気がつかなかったな。俺、ちゃんと帰るとき消しましたよ」
進路指導室へ向かう岩瀬さんの後を追う。
勢い良く開けられたドアの向こうに、人の気配はなかった。だけど俺は直感する。パーテーションで死角になっている、その部分に向かって歩み寄る。
思いがけない光景が広がっていた。
(琴葉……)
いや、いつものように彼女が座っていたのは想像通りだったけど、そこで眠りこんでいるところまでは予想できなかった。
ご丁寧にトレードマークの、大きなレンズのメガネを外している。広げたノートの上に乗せた自らの腕を枕にして、顔を横向きにして熟睡していた。かすかに聞こえてくる規則正しいリズムの寝息が、ベージュのカーディガンの袖口の、その先の小さな毛玉を一定の周期で震わせていた。
思わず見とれていた。
朝日に輪郭が浮かび上がるその姿は、まるで後光が差しているかのようで。
華奢な身体を包むカーディガンの、その折られた袖口からのぞくほっそりとした手首は儚げで。
そして年齢不相応にあどけない表情は、いつものうつむき加減なそれが嘘みたいに、ひどく健康的だった。
(こいつもこんな顔するんだ……寝顔だけど)
「昨日からずっとここで寝てる……わけじゃないわよね、流石に」
後ろから覗き込んでいた岩瀬さんは、いつの間にか白衣を着込んでいた。
「一緒に帰りましたって」
小声でそう答えると、岩瀬さんは安心したように自分の椅子に深々と腰掛けた。
「ここの鍵の管理って、どうなってるんですか」
「私がいるときは職員室に行って借りたり返したりするけど、そうでないときは小柳先生が開けてるわね」
「小柳……」
名前に何となく覚えはあったけど、顔が思い浮かばない。
「進路指導の主任だから」
「なるほど、そういうことですか」
そういえば部屋の入り口に、小さく「教室管理責任者 小柳」などと書いてあったような気がした。ごくまれに年配の教師が入ってきて、岩瀬さんと二言三言話して出て行ったり、あるいは俺に岩瀬さんの所在を訊ねることがあった。それが小柳という人物だったのかもしれない。
不意にチャイムが鳴り響く。何の意味をなしているのか良く分からない、八時ちょうどに流れるチャイム。琴葉がぴくりとまぶたを震わせると、ゆっくりと目を開けながら半身を起こす。
目が合った瞬間、時が止まったような気がした。
「……!」
ほんの一瞬、フリーズ。
そのまた次の瞬間、大きくのけぞった彼女は、そのまま勢い余って立ち上がっていた。
「き、清春さんっ……」
慌ててメガネをかけようとするも、見えてないのか慌てふためいているせいか、なかなか手につかない。口元は心なしかひきつっている。そこにいるのは、いつもの水橋琴葉だった。
彼女が落ち着きを取り戻すまで、たっぷり十秒以上かかったろうか。
「……おはようございます」
それでもまだ、ばつの悪そうな顔をしていた。
「まさかこの時間から出くわすとはな。いつもこんな時間からいるのか?」
そういえば、朝のバスの中で琴葉と一緒になることはなかった。
「いえ、朝はかなり弱くて……。一限はギリギリなんです。いつもこうなら良かったんですけど」
きのう彼女を見つけた芽依は、顔も広そうな高岡芽依が「ここにいたのか」と驚いていた。
昼休みはいつもここにいて、朝も時間があったらここに来る。
人のことは言えないけど、周りとコミュニケーションを取れているのだろうか。
「天気が良いからかな。俺も今日は、やたら早く起きられた。おんなじだな」
「同じだなんて、そんな。結局寝ちゃったんで、意味なかった」
「確かにな。ウトウトって感じじゃなくて、メガネ外して堂々と寝てたもんな」
「私、眠くなると寝ぼけちゃうんです。メガネを外した記憶、全然ないんですけど」
たわいもないやり取りだった。
「琴葉ちゃん、鍵は小柳先生に開けてもらったの?」
「ええ……開いてないかなってドアの前に立ってたところを、偶然通りがかって」
「もっと早く来たほうが良かったのかしら」
「いえ、こんな時間に来ることは本当にないので」
「そう……それじゃ、私は席を外すから」
岩瀬さんはそんなことを言って立ち上がる。薄い革張りの手帳を片手に携え、白衣の袖を揺らしながら出口に向かって歩いていく。
そのままドアを開けると、回れ右をして、視界から消えていった。その先にあるのは職員室だ。
「朝礼か」
意外だった。おそらく授業を受け持っていないであろう彼女も顔を出しているのか。
部屋に残された俺たちは、顔を見合わせる。
「どうする?一限まで二十分ちょっとだけど、なんかやるか?」
「いえ、今は漢字の書き取りをやってたので」
流石に、それは俺が口出しする余地はないだろう。
彼女の正面に座るのもはばかられたので、俺は離れた机に座って単語帳を取り出す。それは寺田のものを参考に、昨日作り始めたものだった。教科書と資料集を開きながら、黙々と新しい問題を産みだしていく。
初めのうちは締め切った窓越しに、外で朝練に励む運動部の声が聞こえていた。やがてそれも止み、お互いのシャーペンの音だけがカリカリだけが響く。
そして再び、チャイムが鳴った。今度はホームルームの五分前を告げるものだ。
「清春さん」
振り向くと、既にスクールバッグを肩に提げた彼女の姿があった。
「そろそろ行くか」
「あの」
重ねて彼女は声をかける。視線と顔の向きが定まらない。唇もかすかに震えているようだった。
「どうした?」
「あの、さっきのことなんですけど」
寝ていたときのことだろうか、それとも目を覚まして取り乱したときのことだろうか。
「今日ここで見たものは、忘れてください」
「え、どうして」
「だから忘れてください」
「……」
分かった、と他人行儀に答えるのは簡単だった。
だけど、俺はつい魔が差してしまった。
頭の中で、先ほどの琴葉の姿を思い起こす。朝日に照らされ髪から指先までつやつやと輝いていた、あの姿を。そして俺たちには見せられなかった、ありのままの表情を。
「なんだ、せっかくお前の意外な一面が見られたと思ったんだがな」
「え?それってどういう……」
即座に切り返されて、我に返る。脳裏にくっきりと浮かんでいた彼女のイメージが、途端にもやがかかったように、曖昧になってしまった。
「……」
「清春さん?」
名前を呼ばれただけで、追及されているかのような心地に陥る。
俺は、眠っていた彼女の姿が、一体何だったと言うのだろう。
「……なんでもない」
やっと出てきた言葉は、単なるごまかしだった。
「はあ」
「なんでもないんだ。聞かなかったことにしてくれ」
「分かりました」
あっさり引き下がってくれる、彼女の淡白さに救われた。
「それじゃ、また昼休みにな」
強引に会話を切り上げる。琴葉が出て行き、やがて足音が聞こえなくなるのを待ってから席を立つ。ドアの向こうの静寂を耳で確かめると、こみ上げていた胸のさざめきは次第におさまっていった。
ほどなく部屋を出る。岩瀬さんはなかなか戻ってこなかった。朝礼が長引いているのか彼女がどこか寄り道しているのか、俺には判断がつかなかった。