第五話「バスの彼女、コンビニの彼女」
雨は長続きせず、昼過ぎには止んでいた。それでもなお折り重なった灰色の雲が、意味ありげにその姿を留めている。ことによるともう一雨来るのかもしれない。
この日のバスは、いつもより空いていた。部活動組が少ないのだ。テスト一週間前になると部活動は停止になるけれど、その少し前から、特に文化系の部活は早引けする傾向にある。花の学生生活を謳歌しているかに見える彼らもまた、結局は勉強に縛られているのだ。そんな彼らのことを、俺はずっと冷ややかな目で見ていた。そんな三年間だった。
自分はついぞ、この学校に馴染めなかったのかもしれない。
バスの最後列には、俺、琴葉、寺田が座っていた。いつもは歩く時間も惜しいとばかりに一目散に校舎を飛び出す寺田も、今日は下校時間ギリギリまで進路指導室の片隅で、様々な参考書や過去問をつぶさに読んでいた。一応「予備校に行かなくていいのか」と声をかけたけど、「今日は講義はないからね」とだけ返ってきた。無秩序に並べられた本の山は、彼にとって宝の山だったようだ。ホクホク顔の彼のその手の中には、部屋から頂戴した一冊の本がある。
芽依はあのあと、すぐに下校していた。果たして姉と話をつけてくれるのだろうか。安請け合いをするタイプには見えないけど、何せ姉はもう高校生じゃないので、答案を処分していてもおかしくない。
そして……琴葉は今日も黙り込んでいた。苦手な科目について乗り切る目星がついたにも関わらず、彼女はいつものように沈うつな表情を浮かべていた。
思い返す。明朗快活な芽依の前で、対照的なくらいにおどおどしていた彼女の姿を。
「なあお前、芽依のことが嫌いなのか」
不意に、そんなことをたずねていた。琴葉には、俺の質問は唐突に聞こえたようだった。
「嫌いだなんて、そんな」
「でも、俺たちとあいつとじゃ、態度にえらい違いがあったけど」
「え、そうだったかな」
寺田は首をかしげる。
「ああ。無自覚だったのかもしれないけど、お前、正直引っ込み思案な割に、結構喋れるよな。俺や寺田には、留年しそうとか自分はバカだからとか自分から卑下しまくってたけど、芽依からはいくら話しかけられても口ごもってたじゃないか」
「……」
「それに、フランクに接してくるあいつに対して、ずっと困ってるみたいだった。一年のときからずっとクラスメイトであれって、ネガティブな感情を抱いているからかなって」
「違います。むしろ逆です」
間髪いれず、琴葉は力強く否定した。
「確かに芽依さんのことは、それとなく避けていました。でも嫌いなんかじゃありません」
「それじゃ、どうして」
「芽依さんは誰からも慕われてますし、わけ隔てなく声をかけてくれる……。でも、その優しさが、ときどき怖くなることがあって。そう、怖かったんです」
その口調は、話しながら自分の感情を整理しているかのようだった。
「怖かった?」
「ええ……」
「その気持ちは分からなくもないね」
寺田が口を挟んできた。
「本当ですか?」
「確かに彼女は良い奴だよ。つっけんどんな話し方だけど、誰にだって分け隔てなく接してくれるし。でも琴葉だって同級生なんだから、一方的に助けられるのは抵抗あるよね。呼んどいて何だけど、あいつはちょっと、そこんところが分かってなかった気がする」
いつかのバスで話したことを思い出した。
俺のことを使うくらいの気持ちで良い。
お前が俺を使ってくれたら、それは俺も幸せ。
相手がどう思うかなんて打算から生まれたわけではない、偽らざる本音だったけど、琴葉にはぴったりの言葉だったのかもしれない。
「でも、遠慮なんかしなくて構わないんだよ。僕も自分のことで手一杯な人間だし、芽依に引け目を感じたことなんて一度や二度じゃ済まない。だけど彼女は彼女できっと、頼られることに喜びを見出しているはずだから。お互い遠ざかるのは、お互い損するだけ。僕はそう思うようにしてる」
「……そうでしょうか」
返ってきたのは、それでも気のない反応だった。寺田の言葉も、彼女には響かなかったようだ。
やがて、いつもの場所が近づいてきた。バスが停留所に止まる。
「それじゃ、今日は失礼します」
そう言って、彼女は立ち上がる。
「琴葉」
俺は呼び止める。どうしても、このまま別れてはいけないような気がした。
「お前、飲み込み早いぞ。教えててすごい楽しいからな」
「そんなことないですよ」
「楽しいのは事実だって」
「気のせいじゃないですか」
そう言って、水橋琴葉は目を閉じて、力なく笑った。その言葉と仕草から、俺は彼女との間に、まだ埋めがたい距離があることを悟るのだった。
紅葉のシーズンも終わりを迎え、街灯に照らされた駅前の街路樹は、見るからに寒々しい姿を連ねていた。風も強く、夕方まで残っていた雲はどこかへ流れていた。
これから年が明ければ、日中ようやく氷点下を超えるような、比較にならないほど厳しい冬がやってくる。でもその頃というのは身体が慣れているから案外平気なもので、一番辛く感じるのは季節の変わり目なのだ。幼い当時を思い返せば、教室に風邪が流行るのは、決まってこの頃だった。たまに思い出したように、暖かい日が来るのが伏線なのだ。
コンビニの外に出ているのぼりや広告は、クリスマスケーキにおせち、どこかのミュージシャンのカウントダウンライブなど、すっかり歳末仕様に姿を変えていた。レジの後ろには、タバコの隣に見慣れぬお歳暮のギフトセットが並んでいて、出荷されるそのときをじっと待っていた。
さっさと用事を済ませれば良いものの、いつもの癖で無意識のうちに雑誌のコーナーに向かう。すると、隣のイートインが目に入った。
思わず「げっ」と声が出る。クラスメイトが肉まんを手に、知らない人間と談笑していたのだ。
この段に至って、ここが予備校終わりの学生たちの、憩いの場になっていることに遅まきながら気づく。時計の針はちょうど午後十時を回ったところで、制服姿の同世代がぞろぞろと入店しては、やがてレジに並んでいった。飲み物やお菓子を手に持つ奴ばかりでなく、手ぶらの奴も目立つ。レジの横にある暖かいスナック菓子やおでんが見る見るうちに売れていくのを、しばし呆然と眺めていた。
気がつけばいたたまれず、店内を飛び出していた。
振り返る。このコンビニの二階が、予備校だった。
誰にも声をかけられなかったのが幸いだった。寺田や芽依なんかと鉢合わせた日には、さぞ決まりが悪いことだろう。
店内に溢れていた、ほころんだ笑顔を思い返す。センター試験まで残り一ヶ月あまり。これまで以上にメリハリが大事になる時期だ。集中して頑張って、そうでないときは目いっぱい効率よく休む。意識的か無意識かはともかく、スイッチの切り替えを行っているのだろう。彼らの緩んだ表情こそが、今まさに戦っていることの証明だった。そんな場所に、ただ年賀状を求めてふらふら歩いてきた自分がいることが、ただひたすらに恥ずかしかった。
そう、俺はこんな時間ながら、年賀状を買いに来たのだ。先ほど夜遅く仕事を終えて帰宅した母が、急がないので買ってきてくれ、と頼んできたのだ。
母としては暇を持て余しているであろう息子に、家のごく近くにある郵便局で買ってきてもらう、そんなつもりだったんだろうけど、郵便局が開いている時間帯、俺は当面進路指導室に詰めているであろうことが予想される。
そこで思い立ったが吉日、コンビニで用を済ませることにした。もちろんコンビニは家の近所にもいくつかあったけど、意外と扱っていなかったり売り切れたりしていて、気がつけば引っ込みがつかなくなり駅前までやってきてしまった、という次第だ。
慌ててスマホでコンビニを探し、駅の反対側へ向かう。再開発というのは不便な一面もあるもので、立派なビジネスホテルや百貨店が建つ一方、普段使いのチェーン店はわざわざ探さないといけなかったりするものだ。昔は良かった、なんて言うつもりはないけれど、あの雑然としていた街並みも今では懐かしい。
エスカレーターを登って、改札の前を横切る。流石に電車はまだ動いているものの、売店や観光案内所、それに直上のデパートは既に閉まっていて、すっかり閑散としていた。煌々と輝く暖色を帯びた照明が、道路の中央に並ぶ無人のベンチを照らしていた。
駅の反対側に周り、エスカレーターを降りる。スマホの地図によると、駅ビルの一階にコンビニが入っているはずだった。
そこで俺は再び「げっ」と言いそうになって、今度は何とか飲み込む。見慣れた、意外な人物の姿があった。そこのコンビニにもイートインがあって、そこに岩瀬さんが外に向かって座っていたのだ。もちろん白衣は着てないけれど、普段進路指導室で見るのと同じような格好だ。コーヒーか何かを飲んでいるのだろうか、紙コップを握ったままぼんやりとしているその姿は、いつもより幼く見えた。
こっそり入店してから彼女の方をそっとうかがうと、その手前に「この時間帯のご利用はご遠慮させていただいております」と立て看板が置かれている。看板が置かれる前からずっといるのか、それとも気がつかずに座ってしまったのか。いずれにせよ異様な光景だった。
話しかけるべきか、惣菜パンのコーナーを眺めながら逡巡する。何せ、二日連続で学校に来てないのだ。ままあることではあったけど、それを詮索するのは別におかしなことではないだろう。
だけど考えているうちに、次第に何かやんごとなき事情があったのではないかという気もしてきたし、単なる有給休暇的なものだったのではないかという気もしてきた。どちらにせよあまり踏み込むのは良くないのではないか、そんな風に考えていると、やがて岩瀬さんが立ち上がってそのまま席を立つ。やがてドアが開いたときのメロディが流れ、彼女は背中を見せたまま、夜の駅ビルへと姿を消えていった。我に返った俺は年賀状をすぐに買い、そそくさとその場を後にした。それとなく辺りを見渡したけど、彼女の姿はなかった。