第四話「四人のいる部屋」
その日の三限は、必修の現代文だった。と言っても最初に漢字の小テストをやって、後はどこかからコピーした問題集を解かせるだけの、おそろしく形骸化した授業だ。最後に教科書を開いたのはいつだろう。今年は一体、教科書の何パーセントを読めたのだろう。
最後列からそれとなく、教室を見回す。教師が配ったプリントに目をくれず、全く関係ない問題集を開いている奴が何人かいる。堂々としたもので、彼らからは総じて全く隠そうという素振りが見受けられなかった。
廊下にほど近い席に座る寺田もその一人で、やはり何か問題集を時折めくりながら、一心不乱に何かをノートに書き込んでいる。遠目にもプリントに手をつけていないことが丸分かりだったけど、教師は素知らぬふりで、教卓にかがみこんで何かの採点をしながら、時折黒板にくっつけたキッチンタイマーを確認するばかりだった。
年が明けると、三年生は自由登校になる。その時期が間近に迫りつつある。生徒の三分の一がいなくなるというのは大変なことで、奇妙な静けさがそこかしこに感じられるようになるものだ。去年の三学期もおととしの三学期も、朝の昇降口や昼休みの廊下からは、まるで接点のない人間がいなくなっただけにしては、どこか寂しい空気が漂っていた。
そのいなくなった三年生の大半は、家や予備校で、もう人生で二度とないんじゃないかってくらい、しゃかりきになって勉強する日々に突入するわけだけど、今日の寺田のように、それを待てない奴もいる。なにせ、彼らはもうクラスに対する帰属意識を失ってしまっているのだ。忘れてしまったわけではないけれど、すっかりどうでも良くなっている。学校なんてもう息抜きの場所でしかないわけで、息抜きをする必要もないラストスパートの段階に至れば、こんな真似だって躊躇なく出来るのだ。教師だってそれを黙認している。
まだこんなに近くにいるのに、俺たちの気持ちはもう重なることはない。
そんな場所に、どうして居場所を見出せようか――俺は改めてそんなことを考えては、鬱屈とした気分に陥っていた。
放課後、進路指導室のドアの前で、芽依と鉢合わせした。
「あんたも寺田に呼ばれたわけ?」
「そういう訳じゃないんだけど」
ドアを開けると、取り出した赤本を積み上げている寺田と目が合った。
「すごいね、ここ。有名どころは大体網羅してる。これってOBの寄贈なのかな?」
「今年の奴もあるだろ。毎年予算で買ってるらしいぞ」
「誰が言ってたの?」
「いつもはここに岩瀬さんって人が常駐してるんだよ。いや、いない日の方が多いけど」
昨日同様、白衣は椅子にひっかけられたままだった。
「岩瀬さん……?」
寺田と芽依が意味ありげに顔を見合わせたけど、このときの俺は気にも留めなかった。
「その辺に台帳があるだろ。借りるときはそこに名前を書いとけば、勝手に持ってって良いからな」
「詳しいんだね」
「伊達に入り浸っているわけじゃないからな」
「ちょっと、寺田」
後ろから回り込んできた芽依が、口を尖らせて言った。
「そういうのは後にしてよ。何のために私をここに呼んだの?」
「そうだった」
寺田は苦笑いをすると、部屋の奥の隅、パーテーションの向こうに歩み寄る。相変わらず息を殺しているのかというほど気配が希薄だったけど、今日も彼女はここにいた。
「琴葉、芽依が来たよ。僕が呼んだ」
「えっ、ここにいるの?」
芽依と俺も、彼女のところへ歩み寄る。机に座るメガネの少女は、思いがけないクラスメイトの登場に、明らかに同様していた。それは人見知りの動揺というよりは、まるでイタズラが親にバレた子どものような、焦りを多分に含んだ表情だった。
「芽依さん……」
「最近全然顔見ないと思ったけど。ずっとこんなところにいたの?」
「ええ、まあ……」
首をすくめて語るその口調は、俺に対してより遠慮がちだった。
寺田は一年のとき、芽依とも琴葉ともクラスメイトだったと言っていた。ということは琴葉も当然、かつて過去問のお世話になっていたことになる。おそらく寺田が彼女を呼んだという地点で、その意図は察したことだろう。
「そりゃ下手に広い空間より、せせこましいところの方がはかどるって言うのも分からなくもないけど。そんなに居心地が良いの?ここ」
彼女はうつむいたきり、返事はなかった。
「なるほどね。今朝は唐突な話だと思ったけど、そういうことだったの」
寺田から事情を説明された芽依は、合点が行った、という表情を浮かべていた。
「そういう事情なら、お姉ちゃんも納得してくれるはず」
黙り込む寺田を尻目に、芽依は琴葉の座る机に手をつき、真っ正面から身を乗り出した。
「琴葉、最初から私に相談できなかった?私、正直みんなに頼られる存在のつもりだったんだけど」
「いえ……忙しそうでしたし……」
彼女のその言葉は、かなり語尾が濁っていた。
「そりゃまあ入試が近いから、気を遣ってくれるのは分かるけど」
芽依の泳いだ視線が俺を向く。芽依もジト目でこちらをじっと見つめてきた。
「で、あんたは……」
「清春だよ。森本清春」
「そう、清春。どうしてクラスも違うあんたが琴葉に頼られてるわけ?」
「話聞いてたか?だから、岩瀬さんって人に持ちかけられたの」
「それは分かるけど、じゃあ私が引き継いだほうが都合が良いのかしら」
「いやいやいや!」
琴葉が不安そうな表情を浮かべている。それをかき消そうとするかのように、俺は声が大きくなる。
「お前の姉と琴葉が、全部科目が被ってるわけでもないだろ。お姉さんは文系か?」
「文学部だから、普通に文系じゃない。机に世界史の教科書とかあったし」
文系。世界史。
その言葉を聞いて、琴葉はかすかに身体をこわばらせ、机の上に小さな握りこぶしを作っていた。
「ってことは多分数Ⅱはないよな。そもそも毎年問題を作り直す律儀な奴だっているだろうし、教師が変わっているケースだってあるんじゃないか。そう考えると、入試の片手間にやることじゃないだろ?」
「すみません……」
「だから琴葉は謝らなくて良いって。俺は暇人なんだ。乗りかかった船を途中で降りるような真似はしたくない。それだけだよ」
「ふーん……」
芽依は変わらず怪訝な表情を浮かべていた。
「琴葉は良いの?こいつはなんかノリノリだけど、会って三日なんでしょ」
事実だけど、よりよそよそしくされている彼女に言われると、いまいち腑に落ちなかった。
「確かに私は受験もあるけど、正直そこまで切羽詰ってないし。クラスメイトとして、やれるだけのことはしたいなって思うんだけど、どう?」
変わらず前のめりな芽依の問いかけに、琴葉はまたしてもうつむく。後になって気がついたけど、立ったままの俺たちに囲まれて、背の低い彼女は一層圧迫感を感じていたことだろう。
やがて、彼女は蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「芽依さん、ありがとうございます。お姉さんの答案を見せていただけるなら、それはありがたくいただきたいと思います。でも……清春さんにも引き続き、お願いしたいなって」
「本当に大丈夫?こいつ、信頼できるの?」
「……」
少しの沈黙の末、今度は俺のことをじっと見てから、芽依を見据える。
「大丈夫ですよ。清春さんは……岩瀬さんのお墨付きですから」
その言葉は、少し語尾が震えていたけど、さっきより少し力強い口調だった。