第三話「三人が乗り合わせたバス」
翌木曜日は、朝からぐずついた空模様だった。家を出てすぐ、雨がしとしとと降り始める。いつもはぼんやり歩いているうちにバス停の前に立っているけれど、今日はバス通りを歩けども歩けども、一向に見えてこない。あっという間に憂鬱な気分になっていた。
子どものころ、雨は嫌いじゃなかった。水たまりの上をわざと駆け抜けて泥だらけになって、すごい剣幕で怒る母親にも構わず笑っていたような、うんと幼いころの話だ。今はただ、見えてきたバス停に並ぶビニール傘の列を見て、いつもより混んでいるだろうなとか、他人の傘で自分が濡れないように、自分の傘で他人を濡らさないようにしなくちゃな、とか、そういったことばかり考えてしまい、足取りが重くなるばかりだった。
「なんだい、今日も浮かない顔だね?」
「……ほっとけよ」
混雑したバスの車内で、今日も寺田に声をかけられた。今日も今日とて、やはり手には単語帳。
「俺と話してると、それ使えなくないか」
「いやいや、息抜きの方が大事だよ。持ってるのはもう、クセになっちゃってるからさ」
そう言うと、単語帳は制服のズボンのポケットの中にしまわれた。
「ところで昨日の一件だけど」
寺田はぐいっと顔を乗り出す。
「水橋琴葉のことか?」
「そうそう。あまり本人の前で根掘り葉掘り聞くのもアレかと思って昨日は控えたけど、彼女とはどこで知り合ったんの?」
「そういえば話してなかったな」
俺は事のあらましを簡単に説明する。
「なるほど、二人の間にどんな接点があるのか全然ピンとこなかったけど、そういうことか」
「進路指導室、行ったことないのか?」
「センター試験まであと何日、とか書いてある部屋だろ?ないね、どんなとこだか想像もつかない」
「半分物置みたいなところもあるからな。赤本が充実してるし、大学の願書もいくつか置いてある。あれ、普通に本屋で買うと結構高くつくだろ」
「なるほど、そいつは切実……と言いたいところだけど、あいにく僕の受けるところはネット出願ばかりなんだよな」
バスはなかなか目的地に辿り着かない。いつもなら次第にスピードアップするところを、行けども行けども停留所でいちいち止まるもんだから、一向に進まない。
やがて、いつも琴葉が降りる場所が見えてくる。ビニール傘を差して並ぶ人影に、彼女の姿はなかった。
しかし、寺田が何かに気づいたような表情を浮かべる。
ぞろぞろと客が乗り込んできて、俺たちは車内の奥に押し込まれていく。それでも寺田は何か意を決したような表情で、生徒の一人を呼び止めた。
「芽依!」
一人の少女が振り返る。暗雲垂れ込める空、薄暗い車内の中で、その美しい容貌が際立って見えた。
「……寺田?」
「悪い、あとで時間いいかな?」
良いともダメとも返事が返ってこないまま、俺たちは車内の後ろの方へと押し込まれていった。
「清春、琴葉のことなんだけど。昨日から考えていたことがあるんだ」
まっすぐ立つのも苦労する状況の中、寺田の声がどこからかした。
「……妙案でもあるのか?」
「うん、芽依が……彼女が助けてくれるかもしれない」
雨脚は強くなかったけど冷たく、校門から校舎までの数十メートルで、寒気を覚える程だった。これでもまだ冬としては序の口。そのうち大きな粒の雪がドカドカと積もって、あらゆる意味で始末に負えなくなるのだ。
牛の歩みのように感じられたバスだったけど、学校に着いてみると意外とまだ時間に余裕があった。昇降口にある自販機で、寺田は二本買ったカフェオレのうち一本を彼女に渡す。俺もつられて同じものを買った。
「清春、紹介しよう。三年C組、高岡芽依。琴葉のクラスメイトだよ。一年のときは僕も合わせて、三人で同じクラスだった」
「あんたとは初めまして、かな。顔は覚えてるけど」
それは俺も同様だった。隣のクラスだから当たり前といっちゃあ当たり前だけど、ただそれだけじゃない。くっきりとした顔立ちに、長いまつげ。明るい色の髪に合わせたような暖色のカーディガンが、コートの内側に覗いている。直接会話をしたことはないけど、その目を引く容貌は印象に残っていた。さぞ充実した学生生活を目いっぱい謳歌したタイプなのだろう。
「で、どうしたの、寺田。一年ぶりに声をかけてきたかと思ったら、こんな……」
「相談したいことがあるんだ。お姉さんは元気かな?」
「ちょっと、いきなり何の話?」
彼女は戸惑ったような仕草を見せる。
「緊急事態なんだ。単刀直入に言うけど、今も赤本を持ってるなら分けてもらいたい」
「赤本だって?」
思わず、俺は復唱する。
「ああ。と言っても、この場合は期末テストの過去問のことなんだけど」
「そんなものがあるのか」
「芽依には一個上のお姉さんがいてね。一年のとき、テスト前になるとクラス全員で答案を回覧してたんだ。そんなことは露知らず、教師たちはウチのクラスがとびきり優秀だってウワサしててね。当時はみんなしてほくそ笑んていたんだよ。楽しかったな」
「どうしたの、今更。学校のテストなんて、もうどうだっていいじゃない」
「いや、なりふり構ってられない事情があるんだ。琴葉が留年しそうになってるらしい」
「……留年?琴葉が?」
芽依が困惑の表情を浮かべたところで、予鈴のチャイムが鳴った。
「話すと長くなるな。詳しい話は後でしよう。清春、放課後に彼女を呼んでもいいかな?」
「進路指導室にか?もちろん構わないが」
「よし、それじゃあ職員室のある通りにある……」
「あー、知ってる知ってる。入ったことはないけど」
そう言ってから、芽依は財布を開く。
「今は小銭がないんだけど」
「いいよ、最初っから僕が出すつもりだったし。話を聞いてもらったんだから」
「こんなことでいちいちおごられるほど、私もさもしくないから。恩を着せるつもりがないなら、立て替えってことにしといて」
「そういう義理堅いところ、変わってないな」
そう言って、寺田は笑った。ここ最近では一番楽しそうな表情だった。
「一年のときのクラスメイトと、あんだけ砕けて話せるものなんだな」
彼女の去った昇降口で、俺は率直な感想を述べる。
「芽依は例外だよ。今でこそ貫禄がついたけど、当時はもっと人なつっこい雰囲気だったからね。クラスの愛されキャラだった。二年になってからも当時のクラスで何度か集まったりしたけど、いつも中心に彼女がいた。今にして思うと、やっぱり楽しかったんだろうね」
寺田はスマートフォンをタップし、何回か画像をスライドした末に画面を見せてくる。おそらく一年の学校行事のときのものだろう、教室でお揃いのクラスTシャツを着た少年少女の中央には、やや幼い顔立ちの高岡芽依がVサインを撮っていた。
「にしても、過去問か。それは思いつかなかった」
「正直、僕も見たいからね。昨日は自分のことばっか考えているからしんどい、だなんてもっともらしいこと言ったけど、実際は……」
階段を登る寺田は、何かを言いかけて止めてしまう。その表情はどこか琴葉に似ている気がした。
「……?」
続きが聞きたかったけど、俺はそれ以上に朝の始業時間が気になって、追及することはしなかった。