エピローグ「そしてまた、ありがとう」
「居場所がなかったんです」
肩と声を震わせながら、琴葉はぽつぽつと語り始めた。
「それは」
「分かってます、お前高校でも浮いてたよな、って話ですよね」
「いや……」
「違ったんです、私が避けていただけだったんです」
四月、就職に結びつきそうな資格を選んで専門学校に入ったのはいいけれど、周囲は業界の行く末も案じられる、将来を見据えた生徒ばかりだった。やがて彼女は、自分なりに真剣に考えていたはずの、その覚悟は狭すぎる視野から生まれたことを、遅まきながら悟った。
しかし高校生の時とは打って変わって、琴葉の周りには人が集まった。情熱も何も持ち合わせていなかったけれど、講義には余裕でついていくことが出来たからだ。教えを請われるのはまんざらでもなかったけれど、周囲の熱量に、その温度差に、彼女は否が応でも気が付かされた。
仮にも自分が通っていたのは進学校なのだ。あの時ずっと感じていた劣等感は、相対的なものにすぎなかったのではないか、と。
ゴールデンウィークが明けたころには、学校に行かなくなっていた。
退路は絶ったのに、そこから退学して大学に行きたい、と正直に親に言い出すことがなかなか出来なかった。予備校に通うとして、その学費と既に払った専門学校の入学料と半年分の授業料を合算すると果たしていくらになるのか。何より自分で決めたはずの進路をそんな簡単に撤回することが、道義上許されるのか。
どうしよう、どうしよう。
駅前をぶらぶらするだけの情けなく意味のない日々を二週間以上続けてから、ふと切羽詰まって芽依に電話を掛けた。彼女に背中を押された琴葉はようやくその夜、床に指と膝をつけて、両親の前で本音を語った。謝罪の言葉は出てこなかった。顔を見て話すことさえとても出来なかった。仮に却下されたとして、取り返しがつかない状態になっていることも話せなかった。この期に及んで自分が傷つかないよう、自分を必死に守ろうとする自分の姿に、比喩ではなく反吐が出そうになった。
「琴葉、顔を上げなさい」
穏やかな声で言われてその通りにすると、両親はいつもと変わらない表情だった。
「真剣に悩んで、真剣に考えたんだろう。なら、きっとそれは正しい決断だと思うよ」
それは奇しくも、芽依の話したこととほぼ同じ内容だった。
「それじゃ」
「もちろん、父さんは応援するよ。人生は長いんだ、二か月くらい振り返ってみたらなんてことないさ」
何かが決壊した。傷つくことを恐れるあまり、ずっと、ずっとずっとずっと遠回りをしてきたことが、あまりに情けなくて、彼女は顔をくしゃくしゃにして嗚咽まじりに涙を流した。
長い沈黙の間に、彼女の震えは収まっていた。
「……そして、夏期講習の教壇で岩瀬さんと再会しました。予備校には一浪しているクラスメイトもいたけど、私にも岩瀬さんも気にとめないみたい」
「私、普通に働くのに向いてなかったのよね。人に何かを教えるのが好きだからって、あまりにも安易だった。講師は出勤も遅いしまちまちだし、雑務も公務員だったころに比べて嘘みたいに少ないし……琴葉ちゃんと一緒で、自分のことを見誤っていた」
「最近はこうして、知り合いの目につかない場所で、お喋りすることもあるんですよ」
「進路指導室にいたころからこういうことが出来れば、もう少し寿命が伸びたのかしら」
あまりにも意外な展開に、二人がまとう穏やかな空気に、俺は口を挟むことが出来なかった。
ただ黙って、二人の屈託のない笑顔を観ていることしか出来なかった。
「……情けなくなってきたな」
俺は後頭部で腕を組んで天井を見上げる。
「清春?」
「高校生の時から、ずっと自分なりに頑張っているはずだった。だから一年前、俺はお前にあーだこーだと上から物を言えたんだよな。でも今気づいた。俺は結局状況に流されているだけで、有り余った時間を無為に潰しているだけに過ぎなかった。卒業までのモラトリアムを、感傷に浸ることだけに費やして、上京したらきれいさっぱり忘れて。その間に琴葉も岩瀬さんも成長していて……情けないったらありゃしない」
なにより、卑屈にふるまうことで醜く情けない自分と向き合うことを避けていた琴葉が、殻を破ったということが衝撃だった。果たして自分にそんなこと出来るのだろうか。
「……今の私があるのは、清春さんたちの救済あってのことです」
琴葉は、力強い瞳で俺を見据えていた。
「救済って」
「あのとき、親身になって接してくれる存在がいなければ、私は今も道を間違えたまま、自分のことを過小評価し続けたまま、取り返しがつかないことになっていたと思います」
「琴葉……」
彼女は、こんな風に理路整然と自分の意見を話せる奴だったろうか。
「さっき駅前で話しかけられたとき、思わず逃げ出してしまいましたよね。あのときは進路指導室で周りに頼り切りだった情けない自分の姿が蘇って、本当に直視できなくて、逃げてしまったんです」
「情けなくなんてないだろ、頑張ってただろ」
「でも多分、今の私は清春さんを目標にしているんですよ」
琴葉は足元に置いていたカバンから、あるものを取り出し、俺に差し出した。それは模試の通知表だった。
嘘だろ、と思わず声が出る。かつて留年するとうそぶいていたはずの少女の偏差値は、俺と大差ないほどまでに上昇していた。そして、それ以上に驚かされたのは、志望校を俺と同じ大学に設定していることだった。
「お前、東京来るのか」
「分かりません。二浪は流石に出来ないので、入れたところに通うつもりです。それに、浪人生は最後に伸びないって言いますし」
「芽依にもハッパかけられてるんでしょ。関西方面に来たら同じ寮に来ないかって」
「忙しそうなのにいつも向こうから話しかけてくれて……嬉しいです」
そこには、素直にポジティブな感情をあらわに出来る、一人の少女がいた。あのとき俺がもどかしく感じていたことが解消された、一人の少女がいた。その成長はもちろん彼女自身によるものだけれど、そのきっかけに関わることが出来たことを、喜んでもいいだろうか。
俺たちは改めて連絡先を交換しなおして、店を後にした。きっと彼女たちは成長し続けるだろう。ときには迷い、後ずさりしながらも、やがては前に進み続けることだろう。そのとき、胸を張って会える存在になりたいと、俺は今、痛切に感じていた。きっと数日もしたら大部分は風化することだろう。だけど、きっと全ては失われないと思うのだ。芯の根っこだけは、きっと。
大通りを抜ける冷たい風に、懐かしいという感覚を抱いた。年が明けるまで、あと数日だった。
書き直したら文字数7割は削れると思います。
うまく書けず、本当にすいませんでした。




