第十九話「本当の気持ち」
境遇の重なる水橋琴葉を通じて、俺は自分を見ていたのだ。
教室に居場所がなくて、一般入試を控えたクラスメイト達から浮いて、孤立することしか出来なくて。
でも決定的に異なるのは、俺は、俺だけは上京するということだった。
それは確かに自分で考えて、他の誰でもない自分で決めた進路であり、今更どうあがいても覆すことは出来ないことだったけど、それゆえに言いようのない不安が首をもたげてきたのだ。決して見て見ぬフリをしてきたけど、彼女の「卒業」という一言でせきを切ったように、その感情が、ごまかしの効かない感情が、強迫観念のように襲ってきたのだ。
「…………!」
言葉にならない感情に襲われて、スマホを握り締めることしか出来なかった。また、電話越しの状況が全く察知できないほど、鈍感な彼女ではなかった。
「あの……私、変なこと言いましたか?」
「いや、そんなことはない」
「でも……」
「とにかく大丈夫だから。じゃあまた、学校でな」
そう言って強引に電話を切り上げると、やがて長いため息が出た。
大丈夫という言葉が本当に大丈夫なときに使われることなんて、滅多にないのに。
つかの間覚醒していた頭が重くなり、やがて俺はまた泥のように眠った。
それから、誰とも会わない日々が始まった。二学期の終業式には顔を出したけど、琴葉たちの姿はなかった。
受験生たちはともかく、彼女はもう何もすることがないはずなのに……、そう思ってラインに『また風邪でも引いたか?』とコメントすると、その晩になってようやく返信が返ってきた。
『アルバイトを始めたんですけど、クリスマス前で忙しいから出て欲しいって言われて、断りきれなくて』
『ケーキ屋か?』
『いえ、スーパーです。駅前の』
あそこは年中無休の店だ。おまけに深夜の一時までやっている。この時期ならさぞ人手が足りないところだろう。
『学校まで休ませるとか、ブラックバイトだろ、それ』
『いえ、向こうも申し訳なさそうだったので、断りきれなくて、それで……』
今度無茶言われたらもう行かなくて良いんだぞ、と念を押して、その日は床に就いた。そう言えば、ついぞ彼女の家の電飾を見ることは叶わなかった、と頭の片隅で思い出しつつ。
そして、誰とも連絡を取ることすらない日々が始まった。
怠惰の極みのような生活だった。ベッドの上とこたつの中で、毒にもクスリにもならない動画やニュースを見てはへらへら笑うだけの毎日。やがて眠りながら動画を見ているか、動画を見ながら眠っているか、そんな状況が当たり前になった。
昼夜が4回くらい逆転した末に、元日は朝早く初詣に行った。もう家族で一緒に行くような年でもなかったけど、間もなく実家を離れるということもあってか、最後の年中行事くらいまともにこなしておこう、という意識が全員にあったようだ。そんなことを思うとやっぱり心がしくしく痛んだけど、つとめて明るく振る舞った。
帰り際に駅前を通りがかると、二階の予備校から一階のコンビニに降りていく生徒がぞろぞろと現れた。この日もなんらかの授業を受けていたということだろう。彼らに対して感じたのは尊敬と嫉妬の念で、優越感など抱く余地もなかった。
そして、また家に帰り着いては眠りこけた。
ゆっくりと、しかしあっという間に時は流れた。
三学期は始業式を最後に、自由登校の期間に突入した。入院の長引く叔父に代わって、俺は自分で入居先のアパートを探すことになった。叔父の家に間借りする選択肢もないわけではないけれど、家主にその気がないのもさることながら、短い距離ながら鉄道→バス→鉄道と乗り換える必要があるのは致命的だった。やることもないのにたまらなく家探しがひどく億劫に感じられたのは、もちろん自分がやらなくて済んだはずのことをやる羽目になったのもあるけど、相変わらず上京に対する心の整理がついていなかったからだ。しこりのような感覚は時の流れと共に風化することもなく、何週間も東京にいるうちに確かな実感として、日に日にうず高く積もっていくばかりだった。
余りにも退屈なので財布の中身の整理をしようとして、期限の切れた定期券が出てきてまた無為に感傷的になったりするなど、日に日に情緒が不安定になっていく俺の元に、寺田から連絡が来たのはセンター試験が終わった数日後のこと。ラインではなく電話だ。一ヶ月以上顔を合わせていないクラスメイトと何と言葉を交わせば良いのか分からず、寂しかってたまらなかったはずの俺は「どうした?」の一言さえ口に出来ないまま、スマホを耳に押し当てたまま、黙り続けていた。
「いや、最近どうかなと思って」
「どうかなって……ずっと東京で引越し先を探してる」
「ずっと見かけないと思っていたけど、やっぱりそうだったんだ。寮とかないの?」
「案外高くつくんだよ。それに人間関係がこじれたときが最悪って叔父が―今、叔父さんのところに世話になってるわけだけど、何回も力説してた。実体験なんだろうな」
「ハハハ」
「ハハハハハ」
息抜きにかけてきたのかと思ったけど、そうではなかった。
「清春、ちょっと一つ聞いてくれないか」
「何だよ、改まった口調で」
「愚痴を話したいんだ。自分の胸にしまっておけない、話さずにはいられない愚痴をだよ」
「何だよ、そんなのいつだって前置きなしで聞いてやる」
「ありがとう……」
その余りにも感情のこもったつぶやきに、俺は一瞬身構えた。
しかし続いて彼が放った言葉は、こちらのガードを余裕で貫通するものだった。
「岩瀬さんと連絡が取れなくなった」
彼女の発した言葉の意味が良く分からなかった。
「それはあれか、今まではずっと連絡が取れたってことか?」
そう口にする自分の理解が、間違っている気がしてならなかった。
「うん……ラインの既読がつかないんだ。既読無視はわりかしあったけど」
「………………」
いつだったか、帰りのバスの車中で、寺田が唐突にこう言っていたのを思い出した。
『岩瀬さん、もう来ないのかな』
あれは前後脈絡がなく、不自然というほどでもないけれど、彼がどうしてそんなことを言ったのか、考える余地のあることだった。
あの答案返却の日、寺田が不自然に黙り込んだ末に、一言だけこう言った。
『でも適応障害なんて、今日び珍しい話じゃないですよね』
そのあとの琴葉の言動にとらわれてそれどころではなかったけど、唯一発したのが、岩瀬さんの言葉に即座に同調するだけのセリフというのも、おかしな話だった。
「……お前…………」
容易ではなかったが、察しがついた。こちらが察しがついたことも、向こうは分かってくれたようだ。
「寺田、お前……岩瀬さんとどういう仲だったんだ」
「付き合っていたんだよ。入学当初から、ね」
「……」
「正確には、入学前から顔見知りだったんだよね。近所に住んでて、でもお互いの名前と学校を知ってて、たまに世間話をする程度だった。そしたら高校で奇跡的に同じクラスの生徒と副担任になって、意識するようになったらあっという間だった。学校ではお互い話しかけないことにしてるし、彼女も学校での自分については聞かれたくないみたいだったから、たまに廊下ですれ違っても何をしてるんですか、とは聞かなかった。まさか進路指導室に常駐しているとは思わなかったな。ましてや流れで自分があの部屋にずっといることになるなんて」
「それじゃ、俺たちがずっと岩瀬さんが来ない来ないつってる間、ずっとあの人と連絡を取っていたのか」
「途切れがちだったけどね。ふさぎこみがちだったから、下手に励ましたりすることも出来なかったけど。先月さ、岩瀬さんが病み上がりの琴葉に答案を持っていってあげたでしょ。みんなで清春に電話かけたときにさ」
「ああ」
「あれは半分、ボクが提案したことだったんだよ。せめて琴葉や芽依とは最後に会っておくべきだって。答案を持っていくっていうのは、その場の思いつきだったけどね。清春もその場にいて欲しかったな」
「それでその後、彼女がいなくなった、と」
「彼女がいたアパートは、あのあとすぐに引き払われていた。何週間も会えてなかったけど、彼女の方から電話やラインがかかってきて、世間話とかはたまにしていた。でも三日前、彼女からメッセージが届いたんだ。『優しくされればされるほど、私は傷ついていく ごめんなさい』って」
「優しいんだな、お前も、岩瀬さんも。そして不器用だ」
「そう言ってもらえると救われるよ」
「俺、お前は普通の人間だと思っていたよ。岩瀬さんも病んでるかもしれないけれど、それは単に生真面目さの裏返しなんだろうって思い込んでいたよ」
「普通の人間なんていないさ。岩瀬さんだって……交際を持ちかけたのは自分の方だけど、彼女がああ言う状態になったとき、別れたほうが良いですよねって話したら、断固として拒ばれたんだもの。はっきり言って脆い人だよ、あの人は。六つも年下のボクなんかにすがっていたんだもの……」
「良いのか、こっちは聞いているだけだったけど」
「良いんだよ、最初に愚痴を聞いてくれって言っただろ?」
「一般入試、大丈夫か?」
「ああ、大丈夫にしてみせる」
「……」
「今電話をかける前までは、百パーセント大丈夫じゃなかった。でも今は五十パーセントくらいは大丈夫」
「それ、大丈夫って言えんのか?」
「本番までにはきっと、百パーセントまで上げてみせるよ。……それじゃ、最後の追い込みがあるから」
胸のつかえが取れたのだろう、寺田は一方的に電話を切った。おそらく、こんなことを話せるのは俺しかいなかったのだろう。そう思うと嬉しい反面、どこか苦しくなる自分がいた。
彼の余りにも重過ぎる告白のことを考えると、反抗期の子どものような無意味な駄々をこねている自分がいかに幼く恥ずかしい存在のか思い知らされたけど、それはそれとして、吐露する相手もない漠然とした不安は、俺にしがみついて決して離れることはなかった。
次回の更新は9月2日、日曜日の予定です。
もし間に合わなかったら都合につき9月16日、日曜日になります。
3週間開けるのは自分も避けたいので頑張ります。
多分あと4話くらいで終わると思います。




