第一話「俺の恩返し」
翌日。火曜日の進路指導室には、また岩瀬さんが一人でいるものだと思い込んでいた。
「……またマンガを読みにきたの」
「いやいや、東京土産を持ってきたんですよ。昨日持ってくるの忘れてて」
怪訝な顔をする彼女の前に、お菓子の箱を差し出す。
「私がそういうのを受け取るのって、立場上推奨されないんだけど。何となく分からないかしら」
「いやいや、それじゃ俺の気持ちが済まされません。だったらこの部屋に来た人におすそ分けしてあげてくださいよ」
「そういうことなら」
岩瀬さんはすぐに包装をほどくと、予想外の行動をとった。振り向いた彼女は、進路指導室の奥、パーテーションで仕切られた空間に向かって歩き出す。
「琴葉ちゃん。今の聞こえてたかしら」
「あっ……はい」
「誰かいるんですか?」
思わず駆け寄ってのぞき込むと、そこには一人の女子の姿があった。
華奢な女の子だった。刈り揃えられたショートカットに眼鏡、気弱そうな表情。気配もなく、向かい合わせに二つ並べられた机いっぱいに、問題集とノートを広げていた。
「……こんにちは」
そう言ったきり、彼女は気まずそうに目を伏せる。その姿は、廊下で見覚えがある。確か体育の合同授業のときも。
「隣のクラスだったっけ。C組?」
「はい、C組の水橋です。水橋琴葉」
「どうしてここで勉強してるんだ?」
「……色々あって、ここに流れ着きました」
一瞬間が空いたあと、雲をつかむような言葉が返ってくる。
「それは……自習室とか、図書室でする訳にはいかないのか?」
「ここの方が落ち着くので」
どうやら素でトンチンカンなことを言ったわけではなく、言いたくなくてごまかしたらしい。
琴葉は何か話題を探そうとしたのか、視線を一瞬泳がせたあと、手に握り締めていたお菓子の包装を見返す。
「あの、東京に行ってたんですか?」
「ああ。おとといまでの三連休でな。大学に行ってきた」
「文化祭とかですか?」
「いや、下見」
「下見……」
言葉の意味がいまいちピンとこなかったのか、彼女は首をかすかにかしげる。
「俺、推薦入試でもう決まってるからさ。東京の親戚が普段の大学の様子を見に来るといいんじゃないかって言ってきて、それで金曜行ってきたってわけ。大学って祝日も授業あるんだな」
「はあ」
あれ、まだピンと来てないのか。丁寧に説明できたつもりだったんだけど。
「清春、ちょっといいかしら」
見かねたのか、岩瀬さんが俺たちの間に割って入ってきて、顔だけ俺の方に向ける。
「私も食べるから」
そう言って小袋を一つ、つまみ上げた。肩透かしを喰らった俺は脱力する。猫の額ほどの空間に、三者三様の沈黙が流れる。
「これは私の持論なんだけど、お礼っていうのは、こういうことじゃないと思うの」
「美味しくなかったですか?」
「そういうことでもなくて」
岩瀬さんは一歩下がって、俺と琴葉を交互に見渡す。
「もちろん誰かに何かしてもらったら、見返りに何かしてあげる、っていうのは合ってる。確かに正しい。でも二人の関係が対等じゃない場合は、それがベストじゃないこともある」
滔々と、もってまわった言い回しが続く。
「もし私のしたことに清春が感謝してるなら、同じことを別の人にしてあげて欲しい。その方がきっと、回りまわって良いことになるはずだから」
「と、言いますと」
「しばらく前から考えていたの。琴葉ちゃんの勉強を見てあげてくれないかしら」
「えっ!」
素っ頓狂な声を上げたのは、琴葉だった。言葉が続かないくらい、驚いているようだ。
「唐突ですね」
「そうね。でも琴葉ちゃんは今、誰かに勉強を教えてもらうべき状況なの」
「ちょっと待ってください、確かに時間はありますけど……。俺がもうかれこれ二ヶ月はまともに勉強してないの、知ってますよね?」
「受験勉強じゃなくて、テスト勉強よ。この子は再来週の期末試験で、赤点を回避しなくちゃいけない」
「赤点……」
琴葉は顔を伏せる。恥ずかしいのではなく、ただ申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「と言っても、そんなにのっぴきならない状況じゃないけど。ただ、マンツーマンで誰かが面倒を見る必要があると思うのよね」
俺は顔を伏せたままの少女に目をやる。
「お前、友達いないのか?」
口に出してみると、ぶしつけな言葉だった。顔をあげた琴葉は、申し訳なさそうな顔をしていた。
「多くはないです。全員、一般入試に回っていて……」
「それで一人で勉強していたのか」
自習室や図書室には、トイレに行く暇も惜しんで勉強している奴らがひしめいている。センター試験まで二ヶ月を切ったこの時期など、さぞ殺伐としていることだろう。そこに留年しないために勉強している彼女が入りづらさを覚えるのは、無理からぬことだった。
「もちろん、清春が嫌なら別にいい。見返りはないし、そもそも私にはこんなことを頼める資格はないのかもしれない。でも今の君が、きっと能力を発揮できることだと考えているの」
「俺、人に勉強を教えたことなんてないですよ」
「本当に一回もなかった?小学生の頃を思い出してみて。この学校に来てるんだから、きっと当時は勉強が出来る優等生として、周りから一目置かれていたでしょう。自習の時間とか放課後とかに、誰かに分からないことを聞かれたことはなかった?今の私みたいに、先生に促される形でもあったかもしれないんじゃない?」
岩瀬さんのその言葉は、まるで"現場"を見聞きしていたのかと勘ぐってしまうほど、あまりにも正確で具体的だった。
「……中学生のときも、あった気がします」
「そうでしょう」
「でも、昔の話です。中学の授業と高校の授業じゃ次元が違います。今は自信がありません」
「自信なんて、私もなかったわ。でもあなたには伝わった」
いや、あなたは人に説明するのが本職でしょう、多分。
「お願いします」
琴葉がうつむき加減ながら、こちらを見据えていた。その眼は、決然とした覚悟に満ち溢れた眼だった。
「清春さん、推薦で東京の大学行くんですよね。それって頭良いってことですよね」
「いや、そんなことないって。大学なんてピンキリだよ」
今どき、そんなステレオタイプな考え方をする奴がいるとは。
「大丈夫です、大学に行くって地点で、私よりずっと頭が良いってことですから。問題があるとしたら私の方ですから。そこは心配しないでください」
「お、おう……」
早口で持ち上げられて、卑下する言葉をまくしたてられて……俺は思わず、謙遜することも忘れてしまった。
その日は下校時間に余裕を持って校舎を出たので、バスには部活組が多く乗り合わせていた。
「私、留年の危機なんです」
いつもの定位置には琴葉が座っていた。一番後ろの長い座席の隅っこで、とつとつと語る彼女の声は沈んでいて、隣の俺にも聞き取りづらく、燃費の悪そうなディーゼルエンジンの音や、体育会系の奴らが腹から声を出す笑い声に、今にもかき消されそうだった。
「苦手な科目があるとかじゃなくて、全体的に危なくて……どこから手をつければいいのか分からなくなって……気がついたら、取り返しがつかない状況になってました」
「それは……」
今日の彼女は、数学の問題集をひたすら解いていた。ノートに書かれた数式は総じてよれていて、赤ペンで直したものがあまりにも目立っていて……悪戦苦闘の痕跡がありありと伝わってくるものだった。
「理系が苦手なのか」
「文系もちょっと……単語を覚えても、知識が結びつかなくて」
「そうか……」
それで推薦入試とか話したとき、変に薄い反応だったのか。こんな生徒の存在を考えたこともなかった俺は、返す言葉がなかった。
俺の学校は、一応進学校を標榜している。大半の生徒の進路は、四年生大学への進学だ。就職はおろか、短大の奴だってほとんどいない。
でも勉強についていけない人間というのは、どこの学校にも存在する。コースごとにクラス分けをしたり、習熟度別授業を設けている科目もあるけど、もちろん限界がある。同じ入学試験を経て入学したにも関わらず、三年の間に歴然とした差が生まれてしまうのだ。
「私、来年の四月からは、専門学校に行くんです。行くはずなんです。適性試験だけで入れるところでしたから。そこで資格を取って……」
「……」
「もう入学金も払ってしまってるんです。もし卒業できなかったら、親にどんな顔をすればいいのか……」
「……」
「すみません、重いですよね」
「そんなことはない」
俺は真っ向から否定した。思わず黙り込んでしまった自らを責めた。
「お前、遠慮しすぎなんだよ。岩瀬さんが教えてもらえって言ったんだから、もっと俺のことを利用するくらいの気持ちでいいんだよ」
「でも」
「なんで進路が決まっている俺が、進路指導室にいたか分かるか?」
「いえ……」
「お前と同じだよ。教室に居場所が無かったからだよ。周りが入試に向けて、人生かけて魂削って頑張ってんのに、俺は目標も目的も無く、ただ授業を消化して……周りは俺を見て嫌だと思うだろうし、俺もそんな自分自身が嫌だった。だから頑張っていた頃の残り香を求めて、あそこにいた。今度こそ、俺が進路指導室にいていいって、周りも自分も思える理由を作り出さなくちゃならない。だからお前が俺を使ってくれれば、それは俺も幸せなんだよ。幸せにつながるんだよ」
「……」
「悪い、こっちの方がよっぽど重かったな」
「そんなことないです。私バカだからそんな風に考えたことなくて」
「いや、バカじゃないから。遠慮とか出来る人間が、本当のバカな訳ないから。本当に頼むから、そうやって軽々しく自分を卑下しないでくれ」
彼女の口から出てくるそういう言葉が、聞いていて辛かった。
「……私、次で降ります」
琴葉はそういうと降車ボタンを押した。程なく、そっけないブザーが鳴ってから彼女は立ち上がって、こちらを振り返る。申し訳なさそうな顔をしている。
「そういえば、お礼言ってなかったですね……東京土産、ごちそうさまでした」
俺の言葉に対する、彼女の返答はなかった。なかなか根深い問題のようだった。