第十八話「寒波到来」
市と市の境、高台に立つその病院はどの駅からも遠く、コミュニティバスが生命線だった。今日も病院を出たのは面会時間ギリギリで、いつも車内を賑わせている老人たちの姿はどこにもなかった。晩御飯、いやひょっとしたらもう眠っている時間帯なのかもしれない。
車窓から一瞬、この街を見下ろせる場所がある。空気が澄んだこの時期この時間帯は、いつもと趣を異にする景色が広がっている。
点在している街の光、その密度がひときわ濃くなっている空間、その中央こそが今の最寄り駅。そこから帯状に延びていく大通りの光、その切れ端に俺の帰る場所があった。
終点の駅前でバスを降りて、スーパーで適当な弁当を調達。駅の反対側に出て歩くこと数分、目指す家が見えてくる。周囲の民家は既にどこも明かりがついていて、鍵を開けながらも、まるで自分が空き家に不法侵入しようとしているかのような錯覚を抱いた。
「お邪魔します」
当然、返事は返ってこない。
弁当を電子レンジに突っ込んでからなんとなしにテレビをつけてみると、明日の天気予報をやっていた。最初に関東地方のあすの天気が表示されて、一瞬素で「まだかな」と思ってから、今自分がどこにいるかを思い出した。
やがて全国の週間天気予報が流れ、気象予報士は渋い表情でこう締めくくった。
「明日からいよいよセンター試験が始まりますが、全国的に大荒れの見込みです。交通の乱れを鑑み、試験の開始時間をずらすなどの措置をとる会場も出てくることになりそうです」
ふと、そう言えばあいつらとはあれきり会えてないなと思い出した。
「叔父が倒れた、意識がないらしい」と連絡が来たのは、期末テスト最終日の朝だった。今まで度々俺の上京を手助けし、そしてこれからもお世話になるはずの叔父が生命の危機に陥ったという事実は、俺にとって全てが覆りかねない事件でもあった。
といっても、連絡に気づいたのは試験が全て終わった直後。慌てて帰宅した俺はつかの間の解放感に浸る間もなく、母と新幹線の切符を調達する。そこから七時間以上に及ぶ移動の間、続報は一度も入らず、俺たちはそのことをポジティブに捉えるべきかネガティブに捉えるしかないのか、いても立ってもいられないという心境で座り続けていた。東京についてからJRと私鉄を乗り換えること2回、叔父の住む街に辿りついたのは十九時を過ぎてからだった。
それからタクシーで丘の上の病院に駆けこみ、面会時間もちょうど終わるころにムリを言って入れてもらった俺たちを待ち受けていたのは、右足にギプスを嵌めている以外は先月会ったときと何も変わらない叔父の姿だった。ただならぬこちらの様子に気がつかなかったのか、単にとぼけていたのか、叔父は連絡もなしにどうしたの、とのんきな挨拶をしてきて、俺たちを脱力させた。
聞くところによると、そもそも自転車にひき逃げされたのは昨晩のことで、大したことはなかったので特に誰にも何も言わなかったのだという。ところが翌朝、タイミング悪く電話をかけてきた親戚に事の顛末を話したところ、伝言ゲームの末に危篤のような扱いになってしまったのではないだろうか、とのことだった。
そもそも本人が電話に出ているのに、どこから意識がないなんて話になったんだろうね、と当人は笑っていたけど、姉である母のみならず、俺もやり場のない憤りと脱力に包まれていた。そこまで来てようやく、俺が誰にも何も言わずに下校したことに気づいたけど、それから結局、誰にも連絡することはなかった。
ゆっくりと、しかしあっという間に時は流れた。
これでは何をしに来たのか分からないと憤慨した母は、警察とのやり取りを代行し、ついでにとっちらかった叔父の家を何日もかけて掃除した。独身貴族の叔父は誰かが泊まりに来るたびに、その都度物置と化した部屋を片付けていたことが期せずして判明した。全てが片付いてから、俺たちは暇を持て余した叔父の話相手をして、東京観光をした後ゆっくりと地元に帰った。ずっと母と行動を共にしていた俺は、知らず知らずのうちに疲れていたのか、帰りつくなり倒れこむようにして眠りについて、目を覚ましたのは翌日の昼過ぎのことだった。
久しぶりに聞いた着信音に起こされて、寝ぼけ眼のまま電話に出る。
「清春さん……」
名前を呼ばれただけで十分だった。その尻切れトンボなトーンには、やっと連絡が取れたという安堵が確かに混じっていた。
「すまなかった」
身体を起こすこともできないまま、やっとの思いで口にした。身体は極端に長く寝たとき特有の鉛のような重さに包まれていて、喉もひどく乾いていたけど、それでもその電話を切ることは決して出来なかった。
「何か事情があったんだとは思うけど、連絡も出来ない状況だったの?」
声の主は芽依だった。聴こえ方からして、スピーカーモードで話しかけているんのだろうか。
「学校には連絡入れてたんだけどな。お前ら、今一緒にいるのか」
「そう、琴葉の家にいる。寺田もいっしょ。彼女、テストが終わってからずっと寝込んでたんだから」
「ずっと?病院には行ったのか」
「ええ。大事をとって今日も休みましたけど、もう大分良くなりましたから……それで」
不自然な間のつなぎ方だったけど、彼女が何を言いたいのかは察しがついた。というか、一つしかなかった。
「今日が答案返却の日だったわけですけど」
「……………………」
「……………………」
長い沈黙だった。何かを言いかけて、それが嗚咽交じりになるのを止めようとして、どうにもならなくて、また黙って。やがてはっきりと、スピーカー越しのすすり泣きが重なってきた。耐え難い感情がこちらにもこみ上げてきた、その瞬間だった。
「赤点はゼロよ。卒業確定ね」
そのそっけない女言葉に、聞き覚えがあった。
考えてみれば、琴葉は今日も休んだと言っていた。テストの答案を、芽依や寺田が代理で受け取ることは出来ないだろう。ただ、彼女なら話は別だ。
「私、一応今でも籍はあるから。進路指導室の顧問として、琴葉ちゃんの担任にも許可を取って、今日こうして届けたってわけ。もちろん電話で結果だけ伝える、という手段もあったけど」
「岩瀬さん」
「なに?」
「もう来ないのかなと思ってましたよ」
「ま、今日学校に来たのは、退職の手続きだったんだけど」
いかにも何でもないという口調で放たれたのは、あまりにも重い宣言だった。
「安心して。二学期いっぱいで辞めるつもりだったけど慰留されて、それに甘えることにしたわ。退職は来年の三月末日、みんなと一緒よ。もっとも、もうあの部屋にいることはないけれど」
「それは……」
「適応障害って分かる?」
再び、一番重い話題が出てきた。
「何となくは」
「そう。嫌なことがあったわけじゃないし、教師の仕事はやりがいもあったはずなんだけど……気がついたら、消耗している自分を直視できないレベルで、追い詰められていたのよね」
「でも適応障害なんて、今日び珍しい話じゃないですよね」
割り込んできてそう言ったのは寺田だった。
「そうね、まさか自分がなるとは思わなかったけど。自分のことを過大評価していたみたい」
「そんな……」
「普段はなんてことないんだけど、」
「ええ。私が新米教師としてここに赴任したのは、みんなの入学と同じ、おととしのことだった。でもすぐに自分が何を喋ってるのか分からないような状態になってしまって、一年もしないうちに学校に来れなくなってしまった。職員室にいるとき、部活動の顧問をしているときはなんともなくて、気のせいかなと思えるくらいだったんだけど、教壇に立つことだけはどうしても出来なくて」
そう言えば、彼女が良く来ていた白衣は、妙に真新しかった。洗濯をしたものとは異なる、初めから何もこぼしたりしてなさそうなもの。でもそういうことなら、俺が教師としての彼女を知らなかったのも、やむを得ないだろう。
「それで一年以上休み続けて、今年は進路指導室顧問という閑職に配置されることになった。清春と琴葉が勉強してるのを眺めているだけの、はっきり言って仕事とは呼べない、何もストレスのない日々。それでも何も良くならなかった。もう根本的な原因から離れるしかないって悟ったのが、数週間前のこと」
「それじゃ、以前からちょくちょく休んでたのは」
「完全に気持ちが切れて、学校に来ることも出来なくなっていたのよね。少し前、夜のコンビニでぼんやりしている私を見かけたことがあったでしょ」
「気がついてたんですか」
「私、あのすぐ近くに住んでるんだけど、明日行けそうにないな、どうしよう、ってなったとき、いつもあそこで気を紛らわせてたのよね。あそこにいるときはすごい注意力が散漫になってるから、当然清春の視線にも気づいていた」
そう言えば彼女を夜のコンビニで見かけた翌朝、岩瀬さんは決まって学校には来なかった。
「それは……」
なんという言葉をかけるべきなのか分からなかった。彼女に見えている世界は明らかに俺とは違う世界で、どのような励ましもなぐさめも意味を成さない気がした。
「清春、ごめんなさい」
「え?」
「結局、私があなたに琴葉ちゃんと一緒に勉強して、だなんて言ったのは、自分がその役割を全うできないと悟っていたからなのよ」
「それは……岩瀬さんなりの責任のとり方じゃないですか」
「頑張ったのはこの子よ。留年を回避したことを、頑張った彼女を褒めてあげて」
やがて、わか雨が再び降るかのごとく、少女の涙ぐんだ声が再び聞こえてきた。
「琴葉……おめでとう。本当に良く頑張った」
「はい……」
ぐすっ、ぐすっ、というすすり声。
電話越しで良かったのかも知れない。
「俺も嬉しいよ。だから泣くな」
「でも……今、すごく心が軽いんです。自分が同級生の中で一番劣っているのではないのかという、呪いのような感情から解放されて。ずっと自分を縛っていた重たい鎖を外したみたいで。ああ、少なくとも周回遅れじゃなかったんだなって」
「お前だって立派なもんだよ。何も恥じることはない」
力強い口調でそう言い切った俺に、琴葉はこう返した。
「でも、これで皆さんと一緒に、胸を張って卒業できます」
電話越しの彼女の笑顔が見えるような、そんな明るい言葉だった。
「そう……だな」
フタをしていたはずの感情があふれ出したのは、その瞬間だった。
締め切りを二日過ぎてしまいました。申し訳ありません。
次回更新は8月26日、日曜日の予定です。
すいません、先月の引越しの片づけが全然終わってないんです。許してください。




