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ありがとう、そしてさよなら  作者: ミョー
第二章
18/24

第十七話「またね」

 彼女にとっては、いきなりクライマックスから始まったはずだった。

 初日の一限が最大の鬼門であるところの、数学Ⅱ。日本史の参考書など買いに行く暇があったら、最後まで数学に備えておくべきじゃないかと思っていた。

 だけど結論から言うと、その行動は正しかった。琴葉のことを決して見下していたわけではないけど、過小評価をしていた。

 彼女はこちらの認識以上に、俺の説明を理解してくれていたのだ。ありがたいことだった。


 その日、俺たちは登校時から誰とも会うことなく、バラバラの教室でテストを受けた。顔を合わせたのは、放課後になってから。といってもまだ、十時過ぎなわけだけど。

 一斉に試験を終えた直後の廊下は騒々しく、目当ての人間を見つけるのも一苦労だった。

「清春さん」

 例によって、彼女の方から話しかけてくる。振り向くと琴葉が、小さな拳を控えめに、だけどしっかりと握り締めていた。

 複雑な表情、と言うとネガティブなニュアンスになるだろうか。彼女の顔からは山場を乗り切った安堵と、確かな手応え、そして言葉にならない感慨が折り重なってうかがえた。決して空元気などではない、本当に精気のこもった感情がそこにあった。

「うまくいったみたいだな」なんて言葉が喉元まで出かかるところを、ぐっとこらえる。

「労いの言葉は、最後までとっておくからな」

「はい」

 ほどなくして、芽依と寺田も姿を現す。彼女たちも一目見て、琴葉のまとう負のオーラが抜け落ちたことに気づいたらしい。

「大丈夫だったみたいね」

「ええ、おそらくは。ご心配をおかけしました」

「いいっていいって」

「土日会わなかっただけなのに、なんだか三日前の琴葉とは違って見えるよ。……頑張ったんだね」

「いえ、人並みです」

 心の底からにじみ出た自虐ではなくて、初めて本物の自己謙遜のように聞こえたのは、気のせいだろうか。

 示し合わせるわけでもなく、俺たちはいつもの部屋に向かう。考えてみればいつもは部屋に直接集まっていたわけで、この四人で廊下をぞろぞろと歩くのは初めてのことだ。いつだったか寺田が話していたことだけど、エリートの芽依が凡庸な俺たちに混じって歩く光景に、視線が集まっているようだった。

 進路指導室のドアを開けると、その異変に誰もがすぐ気がついた。

(明るい……)

 雑然としていた空間に、妙にすっきりとした空間があった。いつも岩瀬さんが肘をついていた机の上から、何もかもが取っ払われていたのだった。うず高く詰まれていた辞書やファイルは、どこに消えたのだろう。

 ずっと椅子にかけられていたはずの白衣さえ、影も形もなくなっていた。

 

 結局この日も、俺たちは琴葉の家に行くことになった。初めのうちは進路指導室で勉強しようとしたけど、どうにも落ち着かなかったからだ。今日は芽依も寺田も予備校で授業がないということで、同行してくれるという。

 一人きりのときも、五人でいたときも、あの部屋の居心地に変わりはなかった。そういう意味では、俺たちは全員あの空間に馴染めていたのかもしれない、岩瀬さんの私物が片付けられただけでこうも変わるとは。そのうち姿を現すかもしれない、という可能性がなくなっただけで、ここまで違うとは。

「そういえば土曜に、琴葉が岩瀬さんを見かけたって言うんだ」

 バスが交差点で止まった時、俺はそんな話をした。

「えっ……どこで?」

 寺田が食いつく。

「駅前で、だよな」

「はい。何だか大荷物でしたし、今にして思うと、学校に寄った帰りだったんでしょうね」

「そっか、土曜でも守衛さんはいるもんね」

「もう、会う機会もねえのかな」

 よせばいいのに、思わず口にしてしまった。

「……それは分かりません。『またね』って言ってましたし」

「言葉のアヤだろ。冷静に考えて、もうこの街にいない可能性だってあるし」

「それはどうかな。その辺の言葉づかいは大切にしてる人だと思うけど」

 その場にいた全員の視線が、寺田に集まる。寺田はそれに構わず話し続ける。

「だってそうだろ、岩瀬さんの話し方。ある種不器用で、社交辞令で"また会いましょう"なんて言うタイプじゃないだろ?」

 俺は思い返す。

 "もし私のしたことに清春が感謝してるなら、同じことを別の人にしてあげて欲しい。その方がきっと、回りまわって良いことになるはずだから"

 "見返りはないし、そもそも私にはこんなことを頼める資格はないのかもしれない。でも今の君が、きっと能力を発揮することだと考えているの"

 確かに、それは独特の言い回しだった。まわりくどくて、一つ一つの単語に意味を持たせるかのような、ぎこちない話し方。言われてみれば確かにそうだけど、そこまで考えたことはなかった。


 それからの一日は長かった。俺が琴葉に出来ることはいよいよほとんどなくなって、ただ一緒に出来るだけの時間が増えた。

 淡々と過ぎていく時間が、愛おしかった。このつかの間の日々もあと三日で終わりなのかと思うと、これまたどうにも惜しかった。

 やらなくてはないことはもうないはずなのに、玄関で後ろ髪を引かれる感覚に陥った。

「お疲れさまでした」

「うん、それじゃ」

「また明日、学校で」

「……」

「清春さん?」

「……ああ、悪い。ボーッとしてたわ。またな」

「はい」

手を振ってドアを閉じて、夜空を仰いだ。

(ああ――)

 俺はようやく、自分の中にある感情に気づいた。認めざるを得なかった。琴葉に対する、恋でもなければ友情でも、ましてや庇護欲でもない、この感情の正体に。

 それは――

次回更新は8月12日、日曜日の予定です。

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