第十七話「またね」
彼女にとっては、いきなりクライマックスから始まったはずだった。
初日の一限が最大の鬼門であるところの、数学Ⅱ。日本史の参考書など買いに行く暇があったら、最後まで数学に備えておくべきじゃないかと思っていた。
だけど結論から言うと、その行動は正しかった。琴葉のことを決して見下していたわけではないけど、過小評価をしていた。
彼女はこちらの認識以上に、俺の説明を理解してくれていたのだ。ありがたいことだった。
その日、俺たちは登校時から誰とも会うことなく、バラバラの教室でテストを受けた。顔を合わせたのは、放課後になってから。といってもまだ、十時過ぎなわけだけど。
一斉に試験を終えた直後の廊下は騒々しく、目当ての人間を見つけるのも一苦労だった。
「清春さん」
例によって、彼女の方から話しかけてくる。振り向くと琴葉が、小さな拳を控えめに、だけどしっかりと握り締めていた。
複雑な表情、と言うとネガティブなニュアンスになるだろうか。彼女の顔からは山場を乗り切った安堵と、確かな手応え、そして言葉にならない感慨が折り重なってうかがえた。決して空元気などではない、本当に精気のこもった感情がそこにあった。
「うまくいったみたいだな」なんて言葉が喉元まで出かかるところを、ぐっとこらえる。
「労いの言葉は、最後までとっておくからな」
「はい」
ほどなくして、芽依と寺田も姿を現す。彼女たちも一目見て、琴葉のまとう負のオーラが抜け落ちたことに気づいたらしい。
「大丈夫だったみたいね」
「ええ、おそらくは。ご心配をおかけしました」
「いいっていいって」
「土日会わなかっただけなのに、なんだか三日前の琴葉とは違って見えるよ。……頑張ったんだね」
「いえ、人並みです」
心の底からにじみ出た自虐ではなくて、初めて本物の自己謙遜のように聞こえたのは、気のせいだろうか。
示し合わせるわけでもなく、俺たちはいつもの部屋に向かう。考えてみればいつもは部屋に直接集まっていたわけで、この四人で廊下をぞろぞろと歩くのは初めてのことだ。いつだったか寺田が話していたことだけど、エリートの芽依が凡庸な俺たちに混じって歩く光景に、視線が集まっているようだった。
進路指導室のドアを開けると、その異変に誰もがすぐ気がついた。
(明るい……)
雑然としていた空間に、妙にすっきりとした空間があった。いつも岩瀬さんが肘をついていた机の上から、何もかもが取っ払われていたのだった。うず高く詰まれていた辞書やファイルは、どこに消えたのだろう。
ずっと椅子にかけられていたはずの白衣さえ、影も形もなくなっていた。
結局この日も、俺たちは琴葉の家に行くことになった。初めのうちは進路指導室で勉強しようとしたけど、どうにも落ち着かなかったからだ。今日は芽依も寺田も予備校で授業がないということで、同行してくれるという。
一人きりのときも、五人でいたときも、あの部屋の居心地に変わりはなかった。そういう意味では、俺たちは全員あの空間に馴染めていたのかもしれない、岩瀬さんの私物が片付けられただけでこうも変わるとは。そのうち姿を現すかもしれない、という可能性がなくなっただけで、ここまで違うとは。
「そういえば土曜に、琴葉が岩瀬さんを見かけたって言うんだ」
バスが交差点で止まった時、俺はそんな話をした。
「えっ……どこで?」
寺田が食いつく。
「駅前で、だよな」
「はい。何だか大荷物でしたし、今にして思うと、学校に寄った帰りだったんでしょうね」
「そっか、土曜でも守衛さんはいるもんね」
「もう、会う機会もねえのかな」
よせばいいのに、思わず口にしてしまった。
「……それは分かりません。『またね』って言ってましたし」
「言葉のアヤだろ。冷静に考えて、もうこの街にいない可能性だってあるし」
「それはどうかな。その辺の言葉づかいは大切にしてる人だと思うけど」
その場にいた全員の視線が、寺田に集まる。寺田はそれに構わず話し続ける。
「だってそうだろ、岩瀬さんの話し方。ある種不器用で、社交辞令で"また会いましょう"なんて言うタイプじゃないだろ?」
俺は思い返す。
"もし私のしたことに清春が感謝してるなら、同じことを別の人にしてあげて欲しい。その方がきっと、回りまわって良いことになるはずだから"
"見返りはないし、そもそも私にはこんなことを頼める資格はないのかもしれない。でも今の君が、きっと能力を発揮することだと考えているの"
確かに、それは独特の言い回しだった。まわりくどくて、一つ一つの単語に意味を持たせるかのような、ぎこちない話し方。言われてみれば確かにそうだけど、そこまで考えたことはなかった。
それからの一日は長かった。俺が琴葉に出来ることはいよいよほとんどなくなって、ただ一緒に出来るだけの時間が増えた。
淡々と過ぎていく時間が、愛おしかった。このつかの間の日々もあと三日で終わりなのかと思うと、これまたどうにも惜しかった。
やらなくてはないことはもうないはずなのに、玄関で後ろ髪を引かれる感覚に陥った。
「お疲れさまでした」
「うん、それじゃ」
「また明日、学校で」
「……」
「清春さん?」
「……ああ、悪い。ボーッとしてたわ。またな」
「はい」
手を振ってドアを閉じて、夜空を仰いだ。
(ああ――)
俺はようやく、自分の中にある感情に気づいた。認めざるを得なかった。琴葉に対する、恋でもなければ友情でも、ましてや庇護欲でもない、この感情の正体に。
それは――
次回更新は8月12日、日曜日の予定です。




