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ありがとう、そしてさよなら  作者: ミョー
第二章
12/24

第十一話「彼女は決してバカではない」

 彼女は決してバカではない、と確信した瞬間だった。

 進路指導室に戻ると、まず目が合った芽依が、意味ありげな視線を送ってきた。察してそっと様子をうかがうと、琴葉は数学Ⅱの問題を解いているところだった。

 カリカリカリ……。

 小気味良い筆記音を立てながら、俺に気がつかないのか、あるいは無視して良いと思ってくれたのか、前傾姿勢でのめりこむようにして証明を書き出している。やや右上がりながら、整然とした行列だった。

 ラストスパートなのだろう、長い長い途中式の先を書き出しながら、時折チラチラと手元のスマートフォンをうかがっている。見守るこちらも手汗がにじむ。やがて制限時間が来たのか、机の上に置かれたそれはブルブルと震えた。

「ふう……」

 少女は長い息を吐いて顔を上げる。

「流石だな」

 率直な本音が漏れた。

「えっ……何がですか?」

「お前の集中力が、だよ」

 今にして思うと、出会った当初の彼女はなかなか厳しいものがあった。指摘することははばかられたけど、ちょっと難しい問題に出くわすと、手や目の動きが完全に静止してしまうことがままあった。そのフリーズしている時間を別の問題に回せれば、それだけで点数はどれほど改善したことだろう。

 集中力も途切がちだったのか、話をしていても不自然に聞き直されることも多かった。最初はこんなものかなと思ったけれど、やがて寺田や芽依が出入りするようになって、間近で見る本物の戦士たちとの歴然とした実力差を、どうしても頭の中で比較してしまい、その都度自己嫌悪に陥っていた。

 だけど、ほんの十日余りで見違えた。

 調子にムラはあったけど、ただ茫然自失している時間は大幅に減った。何より目つきが違う。すぐに挫けてうつむいていたはずの視線は常に答えを探し求め、絶えずあきらめず答案用紙の上を駆けていた。彼女もまた、今では立派に戦う者の一人だった。

 そして、何より。

「ダメですよ、これは最初にやった問題なんですから。そもそも一週間前にやったものをきれいさっぱり忘れてることなんて……情けなくなるばかりです」

「前向きで結構じゃないか」

 俺にとって何より喜ばしく思えたのは、彼女の言葉や表情から次第に卑屈さがなりをひそめ、胸のうちに秘めていた悔しさが少しずつ見え隠れするようになったことだった。


「さあ、休め休め。メリハリメリハリ」

 レジ袋の中から、購買で調達した五百ミリリットルの紙パックを三つ取り出す。琴葉はココアに手を伸ばしかけてから、俺の顔をちらりとうかがって、問題ないことを確認してからストローと一緒につまみあげる。

「ありがとうございます」

「いちいちお礼なんか言わなくって良いのに」

「いえ……」

 続けて俺は、芽依のところへ向かう。赤本と参考書、ノートと辞書を一斉に広げていた。一体どういうスタイルなのだろう。振り向いた彼女もまた、手に取ろうとする仕草を止めてから、じっと俺の顔を覗き込む。

「ありがとね」

「ついでだけどな」

「でも、私に選択権があるんでしょ?」

「ああ、ついでだけどな」

「……そういうこと言わないの」

 冗談めかした口調でそう言って、彼女はコーンスープを手にとった。

 俺は最後に残ったミルクティーをいただく。購買特有の妙に細いストローで、少しずつ吸っていく。甘すぎてミルクの味も紅茶の味も良く分からない代物だった。特に頑張ってない人間が一番糖分のある飲み物を摂取することになったけど、それはこれから頑張れば良いだろう。

「やれやれ、やっと終わったよ」

 と、ここでドアが開く。タイミング悪く寺田がやってきたのだ。終わった、とはまた進路相談のことだろう。その笑顔に反比例するように、更に少し顔色が悪くなった気がするのは錯覚であってほしい。

「あれ、購買ってまだやってたの?」

「ああ。ほとんど品切れだったけど」

「そっかー……」

 自分も買ってこようかな、といううっすらとした感情と、わざわざ行くほどでもないという淡い理性がせめぎあっているようだった。棚に腰掛けていた俺が立ち上がる。

「俺、行って来るよ。最悪自販機でもいいよな」

「ええ?いいよ、それほどのことじゃないし」

「良いって、一分一秒が惜しいお前だろ。……それに」

 俺は再び部屋の奥の死角に目をやる。また、気配が消えていた。

「俺の役割はもう少し後になりそうだからな」

「頑張っているみたいだね、彼女」

 ついたての向こうでは、ココアも飲みかけの琴葉が、広げたノートの上に腕枕をして、また眠りに落ちていた。


「俺たち、本当に私物化しちゃってるよな」

 廊下に出たとき、自然とそんな独り言が出た。

 今日は金曜日。みんなで真っ暗なバス停に並んだ、あの土曜日の夜からほぼ一週間が経過した。

 連休を挟んで月曜からいよいよ期末テストが始まるけど、焦りはあまりなかった。始めのうちは一から十まで全部琴葉の面倒を見ていたけど、いつの間にかお互い向かい合わせの机で勉強しているだけの時間が大分増えていた。当初は彼女から質問されても要領を得ないことが度々あったけど、お互い遠慮がなくなったせいか、意思疎通も大分スムースになっていた。

 芽依と寺田の存在も大きかっただろう。あれから俺たち四人は、毎日のように最終下校時刻ギリギリまで一緒にいるようになった。それが当たり前になった。同じ部屋にいるだけと言われればそれだけなんだけど、仮に琴葉と二人きりだったとしたら、きっとあの空間はもっとぎこちないままだったはずだったろう、感謝しなくては――。そんなことをつれづれなるままに考えていた俺は、寺田から飲み物のリクエストを聞くのを忘れたことに、購買部の前に辿り着いてから気づくのだった。

 

 進路指導室にゴミ箱はないので、帰り際、自分の教室に寄って飲み食いしたものを捨てた。琴葉と初めて会った日に持ち込んだ、土産物の焼き菓子もようやく空になった。青い業務用のポリバケツの中に、ちり紙やプリント、購買で売られている紙パックに混じって、東京土産と大書された空き箱が混じっているのがシュールだった。

 この日は新月だったようで、バス通りはわずかに星明かりが浮かぶばかりで今まで以上に暗かった。遠くの信号機が、何もないところに浮かび上がっているようにさえ見える。

 部活動休止期間ということで、当然ながら最後まで校内に残っている生徒はごくわずかだった。俺たちはバスの最後列に向かうと、最初に降りる女子二人が真ん中に、そして残る男子二人が端に座る。示し合わせたわけでもなく、自然とそんな位置取りをするようになっていた。

 座るなり、琴葉はまたしても眠そうにしている。こっくり、こっくりと、前のめりの首が緩やかなリズムで前後に揺れていた。眼鏡もずり落ちないか心配になるレベルだ。

「はりきり過ぎだよな」

不意にこぼれたつぶやきに、芽依と寺田がうなずいていた。みんなここ数日、ずっと思っていたことのようだ。バスの車内で着席すると、彼女はすぐに眠ってしまう。あの部屋での勉強が一区切りつくと目を離したうちに寝落ちしてしまうのも、割と頻繁だった。ものの数十分で自然に起きてはくれるけれど、知らず知らずのうちに無理をしているようにも見えて、そのことが少し怖かった。疲れ果てるまで勉強したことなんて、俺は生まれてこの方一度もなかったように思う。

「琴葉、明日は大丈夫なの?無理してすることじゃないと思うんだけど……」

「……もうちょっと、頑張らせてください」

 芽依は首の動きを止めて、はっきりとした口調でそう言った。

「友達を家に上げたことなんて、高校に入ってからは一度もなくて……憧れだったんです」

 昨日だったかおとといだったか、週末の計画について話したとき、琴葉はおずおずと「私の家に集まりませんか」と切り出した。テストの前に友達の家で勉強するなんて、いかにもマンガだと良く見るシーンだけど、意外と縁のないイベントだった。よもやこの高校生活の土壇場で発生するとは……。「構わないけど」と了承すると、琴葉はペコペコと頭を下げたものだった。

「でも休日だろ、ご家族の邪魔にならないのか」

「私、一人っ子ですから。父と母も、いつも家を空けているので」

「そうか……明日はよろしくな」

 返事はなかった。気づけば彼女は、ほんの数秒前まで開けていたまぶたを閉じていて、うつらうつらと首を揺らしていた。

「僕たち、友達だったんだね」

 寺田がそう言って混ぜっ返した。

「最初で最後のチャンスだからな。こいつは勇気を振り絞って言ったんだ。応えてあげるしかないよな」

 琴葉の横顔を見ながらそんな話をしているうちに、不意に頭にもたげてきたことがあった。

「……なあ。寺田、芽依」

「なに?」

「どうしたの」

「なんでお前たちは、進路指導室にいてくれるんだ?」

キャラクターの名前は「赤ちゃんの名前ランキング」を見て目についたものを適当に割り振ったのですが、その結果書いてて誰が誰だか良く分からなくなる現象が未だに続いています。あと「琴葉」という名前のキャラがいるせいで「○○ということは」という文章が、全部「○○という琴葉」に誤変換されるので困っています。

ちゃんとキャラクターに相応しい名前を自分で考えてつけてあげるべきだな、と遅まきながら思いました。


更新が遅くなり申し訳ありませんでした。

次回更新は6月10日、日曜の予定です。

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