第九話「ありがとう」
その日、久しぶりに寺田と昼食を共にした。
男二人、連れ立って購買で調達した菓子パン二つとパックの牛乳を抱えて教室に戻ると、教室は既に無人……いや、練習場所を求めてやってきた吹奏楽部の部員が一人、チューニングをしているだけだった。この時期には良くあることだ。お互い気にしないし目もくれない。
「お前、テスト勉強はどうするつもりなんだ?」
「まだ何も手をつけてないよ。一夜漬けかなあ」
カレーパンをかじりながら、寺田はため息をついた。
「本当はあまりまとまった時間を割きたくないけど、毎日コツコツやるのはなおのこと避けたいし」
「その辺、やっぱり芽依は余裕ありそうだよな」
「風の便りで聞いたけど、関西の国立らしいよ。多分彼女の見ている世界と僕の見ている世界じゃ、全然視野が違うんだろうね」
「つーことは、お前は私立なのか」
寺田はキョトンとする。
「そうか、話したことなかったね。実家は出るかもしれないけど、県内の引っかかったところに行くつもりだよ。琴葉も専門学校に行くことを考えると、環境が変わらないのは僕だけなのかな。もちろん、来年も予備校にいる可能性だってあるけど」
「縁起でもないこと言うなよ……」
「現状をちゃんと認識しておくことも肝心だよ」
吹奏楽部員が練習を始めたところで、食事を終えた俺たちは席を立つ。他の教室にも仲間がいるのだろう、無人の廊下には、様々な楽器が思い思いの音色を奏でる音が立ち込めていた。
進路指導室に入ると、思わず「おや?」と声が出た。二人の姿が見当たらなかったのだ。
おかしいな、暖房はついているのに……そう思ってつい立てを覗き込むと、そこに彼女たちの姿があった。芽依が琴葉に付いて教えていたのだ。
「おいおい、俺の仕事を奪ってくれるなよ」
「そういうつもりじゃないんだけど。あんただって世界史は分からないでしょ」
「世界史なんて、ただの覚えゲーだろ」
「はぁ……これだから世界史Aしかやってない奴は」
芽依はわざとらしいため息をついてから、プリントの一枚を見せてくる。
"問一 以下の資料を参考に、このような運動が起こった要因について、イギリス政府が同時期に施行した政策と結びつけて百文字以内で述べよ"
最初の二行を読んだだけで、めまいがしてきた。こんなの、参考書を見ながらでも到底答えられそうにない。
「お前ら、こんなのやってんのか?」
「あんたたち理系とは頭の構造が違うってこと。良くも悪くもね」
ひとくちに文系理系というけど、国立志望なら理科も数学もやっているはずで、彼女は俺たちの上位互換と言ってもいい存在だ。得意げな表情を浮かべる芽依を見て、才色兼備とはこういう人間のことを言うのだな、とつくづく思うのだった。
……と、俺はある違和感に気づく。琴葉が、芽依の前ですっきりとした表情を浮かべていたのだ。
「琴葉、お前は……」
「大丈夫ですよ」
名前を呼んだだけで、彼女は言葉の続きを察知してくれたようだった。
「もう、大丈夫ですから」
琴葉はふるふるとかぶりを振ってから、念を押すように、重ねてそう言った。
大丈夫という言葉は、得てして「心配しないで」という意味であって、本当はちっとも大丈夫じゃないときにも使われるものだけど……。彼女のくもりなき表情が、このときばかりは額面通りに受け取って良いのだということを物語っていた。
「それじゃあ今日はここまで」
二人の集中特訓が終わったのは、それから約二時間後だった。
「……流石に疲れました」
「キリの良いところで終わりにするつもりだったけど、思いのほか長引いちゃってごめんね。でもこの辺は傾向と対策をきちんと練らないと、やっぱり付け焼刃じゃ厳しいから」
ついたての向こうから、長いため息が聞こえてくる。ほとんど休みなく文章問題を解き続け、あるいは芽依の解説を聞き続けていたのだ。朗々とよどみなく話す彼女の、その情報量は半端ではなかっただろう。見かねた俺は、放心状態の彼女をしばらくそっとしておくことにする。彼女の方から声をかけてきたのは、それから更に三十分近く経ってからだった。
そしていつもより三時間近く長いはずの放課後は、あっという間に終わった。気がつけば外の太陽は完全に没していて、不意に校内スピーカーから流れてきた儚げなメロディーが、間近に迫った最終下校時刻を伝えてくるのだった。
「「うーん……はあ」」
俺と寺田の、伸びをする声が重なった。充足感のあるため息までそっくりだった。お互い言葉も交わさず机の上を片付けていく。
部屋を出て階段を降りかけてから、琴葉が立ち止まった。
「小柳先生に声をかけておいた方がいいんじゃないでしょうか」
「あの人、何部だっけ」
「さあ……」
ひとまず職員室に向かってみると、まばらな人影の中に目当ての人物の姿があった。
「おう、お前らまだ残ってたんだな。別に黙って帰っても良かったんだが」
「部活はもう終わったんですか?」
「ああ、早めに切り上げた。今は二学年しかいない分、濃い練習が出来てるしな。バスの本数の問題もあるし」
「えっ……?」
「この辺の路線なんて学生のためにあるようなもんなんだからな。一時間に二本くらいしかないんじゃないか」
心地よい疲労感に包まれていたはずの身体が、嫌なタイプの疲労感の中に沈んでいくのが分かった。
挨拶もそこそこに、俺たちは足早に昇降口へ向かう。校舎の外に出ると、辺りは正しく闇。数十メートル先の校門さえ異様に遠く感じられる。いつも以上に強く吹き付ける風がもたらすのは、うっそうと茂った木々や植え込みからのざわめき。そこかしこに人ならざるものが潜んでいそうな気配が漂っていた。
バス停も気配を殺しているかのように、人知れず暗がりの中に紛れていた。普段は交通量の多い通りだから、ヘッドライトや反射板がまぶしいくらいだけど、土曜というのもあってか行き交う車の姿もまばら。ベンチも無人な辺り、どうやら本当に自分達が最後らしい。帰り際のチャイムを流している放送委員くらいは現れるかと思ったけど、やがてそのようなこともないことに気がついた。あれは自動で流しているだけなのだろうか。
スマートフォンを懐中電灯代わりにかざし、時刻表を確認する。小柳先生の言葉通り、この時間帯は三十分おきの運行らしい。とはいえ先の便が出発してから相当経っているようで、どうやら十分待ちで済むようだった。
少し気持ちが楽になったところで、俺たちはベンチに腰掛け空を仰ぐ。四人の口から吐くものが白く、ぞれぞれの形で昇っていく。
「琴葉」
その名を呼んで、俺は彼女の顔を見据えた。
「……なんでしょうか」
「ありがとうな」
不意に、そんな言葉が出てきた。
「お前はどう思ったか知らないけど、この数日は本当に楽しかった。生まれて初めて、明日が、休日が惜しいと思ったよ」
「えっ……え?」
「おかしいか?」
「だって私、やっぱり……結局お世話になってばかりじゃないですか」
「違うんだって」
「……」
「言ったじゃないか。俺は居場所が欲しかった。学校の中に居場所が欲しかった。それは推薦入試が終わってからじゃなくて、もっと前、きっとこの高校に入ったときからずっと心の奥底で思っていたことだったんだ。気がついたんだ。だから進路指導室に来るべき理由が生まれたということが、何よりも救いなんだ」
「そういう話なら私も一緒です」
珍しく、琴葉が強い語気で切り返す。本当に珍しいことだった。
「教室がどんどん……正直、居心地が悪い空間になっていって、あの部屋に逃げ出して……自分でもこれじゃいけないと思っていたけれど、壊れそうになる自分を保つためには、ダメな方向に流れていかざるを得ませんでした。そこで清春さんに救われた。そう、私も救われたんです。これを感謝せずにいられるほど、私も恥知らずじゃありません」
彼女はそこまで一気に語って、胸元に手を置いてから、くしゃっと握り締めた。
「ありがとうと言わなきゃいけないのは、私。間違いなく私です」
本当は一から書き直したいのですが、致命的に矛盾するところを除いて敢えてそのままにしているので暖かい目で見守っていただけると幸いです。
次回は5月27日日曜更新予定です。




