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第一幕 岐路2

 どれだけの年月が経っただろうか。この地には暦というものがないらしい。

 少女は見知らぬ地で、これまでなんとか生きてきた。

 始めは言葉も通じず、働くことも無理に近い状態だった。それでもジェスチャーや指差しでなんとかやりとりをして乗り越え、隣の街で働き口を獲得。少ないながらも必死にお金を稼いで、やっとの思いで言語習得のための教本を購入する。周りの人に手伝ってもらい、努力して言葉を覚えた。


「こんにちは、アル」


 少女が歩いていると、水汲みをしている少年に出会った。その少年アルシアは少女がこの街に迷い込んでから、長い間お世話になっている家の一人息子だった。

 アルシアは少女を見ると嬉しそうに笑い、持ち上げようとしていた水入りの桶を放ってこちらへやってくる。


「おはようミノリ。今日はいつ帰ってくるんだ?」

「そうだね……。紅染の刻には帰れると思うよ」


 紅染の刻とはこちらで日没の頃を言う。空が赤く染まる時刻。

 少女がその時間に帰るのは珍しいのか、アルシアはますます喜んだ。

 ミノリとアルシアは随分と長い時間を一緒に過ごしている。二人は常に一緒にいた。困ったときは互いに助け合い、嬉しいときは互いに喜び合い、感情ですらも二人で共有してきた。本物の姉弟のように育ってきたのだ。本当に二人は仲がよい。


「ところで、あれはいいの?」


 なんのことだと振り返ると、先程、アルシアの放り出した桶が川に浮かんでいた。

この川は岸と岸の幅が広い。気付いた頃には川中に流されていて、手を伸ばすだけでは取り戻せないところにあった。


「ああっ、桶が流されてる!」


 急いで着ているものをすべて脱ぎ、水の中に入る。

 今は日中といえども肌寒く、そんな季節に川に入るなんて考えられない。だが、アルシアにとって、寒い思いをするよりも恐れるべきことがあった。

 それは彼の父親である。彼の父、アルフォードは厳格な男で、与えられた仕事をしっかりとこなさなければ怒る。普段は優しい性格でミノリのことも大切にしてくれているが、こういうときの彼は雰囲気がもの凄く怖い。暴力に訴えるのではなく、静かに言葉で責めてくる。それが余計にアルシアを恐怖させている。


「それじゃあ行ってきます。アルもお勤め頑張ってね」


 水の中を慎重かつ速く進む少年の背中にそう伝え、ミノリは隣町へ向かう。


「はいよ。お前も気をつけろよなー」


 このやりとりがかなりの頻度で行われていて、そしていつもはこの後に彼が父に怒られることになるのは言うまでもない。



 それから約二十分近く歩いて、ミノリはお洒落な風貌の建物の前に立っていた。


「ティーファさん、ザックさん、こんにちは!」


 カランカランと可愛らしく鳴る鐘の音。ミノリがここに迷い込んでからずっとお世話になっている店の来客の合図である。

 鐘の音を聞いてカウンターの奥から一人の女性が出てきた。


「おはよう、今日も早いわね」


 エプロン姿の女性は同じ柄のものを両手に持って現れた。少しだけ広げるとそれはミノリの身長に合ったサイズのエプロンで、女性はそれを手渡すと着るように促す。


「今更だけど、あなたの制服よ」


 ミノリがここで働くようになるまで、この店は二人で回していた。そのため、彼女の分の制服を用意しておらず、とりあえず着ていたエプロンが思いの外似合っていて、しばらくそのままでいいじゃないかと作るのを後回しにしていた。

 まとまった布を手に入れることが容易ではないというのもあって、今になってようやく完成した。デザインはティーファが着ているものとまったく同じで、エプロンの間にはバンダナが一緒に挟まれていた。


「ありがとうございます!」


 目を輝かせ、いそいそと身につけていった。紐を結ぶと、そのままクルッと一度回ってみせて、納得がいったのか、ぱあっとより一層嬉しそうな笑顔を浮かべる。


「どうですか、似合いますか!」


 ティーファは目の前の頭に触れたい衝動に駆られ、我慢ができずにクシャクシャと思いっきり撫でまわした。「なんですかーやめてくださいよぉー」と口では言いながらも、満更でもない様子のミノリ。しばらくされるがまま時間が流れた。

 ティーファは満足するまで撫でくりまわし、ようやく離されたミノリはバンダナがズレてしまっていたことで視界が遮られていた。


「もう、せっかくつけたのに」


 頬を膨らませながらバンダナを巻き直す。


「さ、早速お仕事始めようか」

「はい!」


 さっきティーファが出てきたカウンターの向こうに行く。

 そこにある扉を開けて中に入ると、部屋の奥で筋骨隆々な男性が負けないくらい大きいオーブンと睨めっこしていた。この男がここの店主、ザック・バッカスである。 


「こんにちはザックさん!」


 ミノリが声をかけるも反応はない。オーブンの中に集中していて声が聞こえていないようだった。しばらくの間、待ってみる。


「よし、今だ!」


 突然、そう叫んでオーブンの扉を開け、自慢の怪力で軽々と中のトレイを出していく。

 一気に香ばしい香りが部屋中に漂い、どこか幸せな気分になる。

 この店は街唯一のベーカリー。毎日パンを買いに来てくれる常連客もいれば、店から匂ってくるパンの香りに釣られてやって来る客もいる。


「おい、早く並べるぞ。すぐに開店だ」


 ミノリの存在に気付いていないはずだったが、ザックはすぐさま指示を出す。

 驚きながらも、すぐに仕事を始めなければまた怒鳴られるので、指示通りにパンを陳列用のトレイに移し替える。そしてそれを順に店頭に並べていく。

 黒板付きの看板を表に出すため、ドアを開けると、そこにはいつものようにたくさんの人が並んでいた。


「いらっしゃいませ! ベーカリーバッカスへようこそ!」


 その言葉を待っていたかのように、店先に並んでいた客がどっと押し寄せる。

 店に入るとトレイを取ってパンを選んでいく。一つのパンを載せてから次のパンを選ぶまでが速すぎて、本当に買うものを選んでいるのか疑ってしまうほどである。もしや、どれでもいいからと適当に選んでいるのでは、とミノリは考えた。


「会計まだですか!?」


 一人の客がカウンターの前で叫ぶ。押されて倒れていたミノリが慌てて体を起こして、会計へ向かう。ティーファが対応してはいるが、一人では回らない。表情は焦っているようにも見受けられる。


「すみません、こちらどうぞ」


 すぐにもう一つのカウンターに列を分裂させ、一生懸命に袋詰めと会計を済ましていく。

 ちらりと横を見る。ティーファの表情には余裕が戻っていた。

 せっせと対応をしてしばらくすると、ようやく客はいなくなった。

 一息ついて陳列棚を見てみれば、そこには今朝並べたばかりのはずのトレイの上にはなにもなかった。どうやら売り物がなくなったから客はいなくなったようだ。いつもならここである程度は残るのだが、今日はなぜか売れ行きがよかった。

 そのあとも何人かやってきたが、なにも売ることができないまま帰らせることになった。この店のパンを美味しく感じてくれているということに嬉しく思いつつも、なぜ今日に限ってこんなにも客が来たのかと疑問に思っていた。

 ティーファに聞いてもそれははっきりせず、とにかく表に置いた看板に売り切れたことを書いておかなければならないと外に出た。


「あのー」


 黒板に書いてある営業中という文字を布で拭き取り、準備中に変えようとしていると背後から声をかけられた。

「わわっ」と驚いて後ろを振り向くと、旅人の格好をした長身の男が屈んでミノリの肩に触れていた。逃れるように少し身を引くと、男は苦笑いした。


「いきなり話しかけてごめんね。ここがこの街一番のパン屋さんでよかったかな?」


 申し訳なさそうに頭を掻いたあと、店の様子を見ながらそう言った。

 ちらりと帽子の中から見えた髪はここら辺ではあまり見ない色だった。ミノリはその言葉と姿から旅人であることを察する。


「そうですよ、旅人さん」


 看板に向かい直す。今度はチョークを持ってだ。


「ところで君はなにしてるのかな」

「この通りです」


 ミノリは立ち上がり、旅人に看板を見せる。

 そこには売り切れたことと次の焼き上がりの時間を書いてあった。


「ああそうか」と旅人はまた頭を掻く。

「旅人さんはどうしてこの店に?」


 旅人は笑いながら話した。いつも目的地に到着すると、その街で一番美味しいものを聞いて食べるそうだ。


「残念でしたね。今日はいつもより売れ行きが好調だったんです」

「やっぱり」


 こうなることがわかっていたようだ。

 聞けば、本当は街に着いたとき、もう一つ店を勧められたという。それは街で有名な弁当屋さんで、鶏の唐揚げ弁当がすごく美味しいと評判のところだった。

 旅人は先にその店に行ったのだが、どうやら今日は店を閉めていたらしい。それで一緒に勧められたこの店にやってきたが、毎朝弁当を買いにいっていた人はこちらのパン屋で朝ご飯を買うのではないかと思っていたとのことだ。


「それで今日はあんなに……」

「来てみればこの通り、結局朝ご飯は食べられずだよ」


 ぐうとお腹を鳴らす。旅人は恥ずかしそうに笑った。

 ミノリは「ちょっと待ってて」と店の中に戻っていった。旅人は空を見上げたり、街の様子を見たりと適当に時間をつぶしながら言われたとおり待っていた。

 ミノリが戻ってくると、旅人は壁にもたれて座っていた。


「お詫びにこの街を案内します」

「え、嬉しいけどお仕事はいいの?」

「いつも朝の仕事が終わると一度ご飯休憩を貰うんです。今日は早く終わったのでけっこう時間ありますよ」


 エプロンはもう着ていなかった。その代わりに大きめのバスケットを両手で持っていた。


「朝ご飯です。旅人さんのことを話したら少し多めに作ってくれたんです」


 彼女はもう最初のように旅人を警戒していなかった。最初こそいきなり触れられてびっくりしていたが、その笑顔と力のなさそうな風貌に、たとえ襲われたとしてもなんとかできるという自信を持っていたのだ。


「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうよ」


 旅人は笑って、ミノリの後ろについてきた。

 いくつか観光スポットを案内したあと、最後に丘へ行った。いつもミノリが朝ご飯を食べているところである。


「わぁ、綺麗だね」


 ここからは街の全体を上から見下ろせるのだ。


「ここでご飯食べましょう。ティーファさんの作ってくれたご飯はとっても美味しいのです」

「あ、じゃあ僕の敷物使おうか。せっかく素敵な服を着てるのに汚れちゃうよ」


 大きなバックパックから小さめのシートを出す。いつもは一人で使っているのか、二人で座るとギリギリのサイズだった。


「ありがとうございます。いつも汚れちゃうの気にしてたんです」

「そうかい、お役に立ててなにより」


 バスケットを開くと、ふわっといい香りが二人の鼻を刺激する。

 今日はパン屋らしく、サンドイッチだ。


「へえ、これ売り物じゃないのかい?」

「私の朝ご飯はちょっと鮮度が悪くなっちゃった野菜とか味付け失敗しちゃったものとかを使ってるんだ。それでもすごく美味しいんだよ」


 一つ、かごから出して旅人に渡す。

「いただきます」手を合わせてそう言った旅人にミノリは違和感を感じる。その違和感の正体がなんだかわからず、旅人を見ていた。


「あ、これすごく美味しいね」

 夢中に食べていた旅人は、ミノリの視線に気が付いて思い出したように感想を言う。

「でしょ! 私も食べる」


 いろんな街で美味しいものを食べてきた旅人の言うことである。自分の働いている店を褒められ、嬉しくなった。考えていたことは空腹と嬉しさで掻き消される。

 たまごのサンドイッチに豪快に齧りつくと、口いっぱいにマヨネーズとたまごの風味が広がる。店売りのものとは違った美味しさに幸せを感じる。


「これ、店で売っているのはちょっと違うんです」

「そうなんだ。それは是非食べてみたいなぁ」


 一切れ食べ終わり、風景を見ながら答える。


「旅人さんはどこで寝泊まりするか決めましたか?」


 旅人はまだだと答えた。乗ってきた馬は門番の兵士に預けているらしい。


「それならオススメの宿屋があるんです」


 ミノリは一つの建物を指さす。そこはミノリの働いているパン屋の近くだった。


「あそこにティーファさんのお父さんとお母さんがやってる宿屋があるんです。宿賃が安くてご飯が美味しいってことで旅人さんがよく泊まっていくそうです」

「馬も泊められるかな」


 ミノリは少し考えたあと、元気よく返事をする。


「馬小屋があるはずですよ」

「それじゃあ、そこに泊まろう」


 またにっこりと笑う。よく笑う人だなと思った。

 それから宿屋へ寄って部屋を借りたあと、ミノリは仕事へ戻って旅人は馬を受け取りに行く。

あとでまた来ると、小指をきゅっと絡めて約束をした。

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