第一幕 泡沫の夢1
小鳥のさえずりと虫のざわめきが、深い碧の木立の中を涼やかな風に運ばれて、森中の人々の耳に届く。
自分の存在を誇示するため、一層大きく鳴いた蝉の声に反応するように、木陰に隠れていた双翼が跳ねた。ちらりと見えた白雪のような毛皮が、暖かな木漏れ日に照らされて輝く。
「今日はウサギ」
どこからかその声が聞こえ、ウサギは周囲を警戒しだす。真っ白な長い耳をぴんと立てて、辺りを見渡す。
その声は柔らかくまだ幼さを感じるが、言葉の雰囲気からは男らしさも感じられる。少女らしくもあり、少年らしくもある。
キョロキョロと声の主を探していたウサギだったが、なにも見当たらなかったのか、首をかしげてどこかへ走り去ろうとした。
パスッ。ウサギが反対の方向を向いた瞬間、そのような乾いた音が鳴る。
倒れたウサギの眉間からは赤色の液体が流れていた。
「やった!」
少し離れたところにある木の陰からするりと身を露わにしたのは若い人間。髪が長い、少女のようだ。右手に持っている銃を太もものホルスターに入れ、側にいた犬に獲物を持ってくるよう指示を出す。
犬が咥えて持ってきたウサギの足を手で掴み、元来た道を戻っていく。
「ナガト、ウサギ捕れたよ」
しばらく歩くと、黒髪で細身の男の姿が見えてきた。
今時、獲物を捕らえて食料を確保するものなどいない。それだけでもよくわかることだが、その貧弱そうな体つきとお粗末な服装とが相俟って、そこまでよい生活ではないことを物語っている。
少女の持っているウサギの死骸を見たナガトは、胸の前で両手を合わせてぶつぶつとなにかをつぶやいた。
「ありがとうスイ。いつも任せてごめんね」
申し訳なさそうにウサギを受け取り、皮を剥いでいく。
「血抜きはできてるはずだよ」
「うん、上手だね」
少女は褒められて満更でもないようで、頬を緩める。
手元に意識を集中させ、丁寧に肉を切り分けていく。幾つかの肉の塊にし、最後に胡椒をサッと振りかけ火でじっくりと焼いていく。
ウサギの肉は焼きすぎると臭みがでる。しっかりと火を通らせないといけないが、強火で一気に焼くのもよくない。扱いにくい難しい食材なのだ。
「今日は久しぶりのご馳走だね」
「前に寄った街はご飯ひどかったからね」
「芋虫をバリバリ食べるんだもの。オエッってしちゃったよ」
彼らはここに来る前、ここより南の国境付近にある少数民族が暮らす街を通ってきた。その街では貨幣は使われていなく、基本的に食料は自給自足、足りないものは物々交換の世界だった。
しかし、その街は森の中にあるものの、近くに他の動物は生息しておらず、他の街との交流もない。そのため、自分たちで作った野菜や唯一その近隣に生息している虫を主食として暮らしている。
その文化に馴染めなかった彼らは自分たちの少ない携帯食で凌いでいた。この森に辿り着くまでまともな料理を口にできていないのだ。
「まあ、欲を言えばなにかもう一つほしいところだけどね」
確かにウサギの肉だけではいまいち物足りない。
少女はそうだけど、と言って黙る。褒められていい気分になっていたので、その分、落ち込みが激しかった。
「いや、別に文句があるわけじゃない。さ、肉もそろそろ焼けただろうし、食べようか」
気まずい雰囲気に耐えかねて、こんがり焼けていい色をした肉を手に取る。
「うぅ……焦げ目」
話すことに集中して肉の具合を見るのを忘れていて、頃合いを過ぎてしまっていた。
微妙な顔をしながら、一斉に齧りついた。
「うへぇ、固いし臭いし美味しくないや」
「ごめんよ、せっかく狩ってくれたのに。今度の街では美味しいものあるといいね」
「普通でいいからまともなもの食べたいよ」
そろそろ限界だと訴える。
「ならさ、スイ。起きたらすぐに向かおうよ。それなら朝食の時間には着くと思う」
「そうだね。でも私の名前はスイじゃない」
そう言うとナガトはまた手を合わせ、今度は頭の上に持ってくる。
「また言ってたのか。ごめんミノリ」
なぜかナガトは無意識でミノリの名前を間違える。その度に彼女は指摘しているのだが、どうしてもその癖は直らない。
「気をつけてよね。お父さんとの唯一のつながりなんだから」
失踪した父が名付けてくれた名前。いつかもう一度会ったときに気づいてもらえるようにと、ずっと大事にしている。
――いつか、また会えるよね。
ミノリは木の葉の小さな隙間から薄暗い空を仰いだ。