プロローグ 災厄の夜
2018.2/17 更新分 2/2
赤の月の九日――
その夜、ヴァルダヌスはどくどくと心臓を高鳴らせながら、闇の中を歩いていた。
王宮からエイラの神殿へと続く、道の途上である。
手には小さな燭台を掲げて、ひたすら道を急いでいる。ともすれば足がもつれてしまいそうなほどに、ヴァルダヌスは気持ちを昂ぶらせていた。
やがて眼前に、鉄の格子の門が現れる。
普段は夜警の衛兵が立っているその場所に、この夜は誰もいない。そして、門に手をかけると、それは何の抵抗もなく開かれた。
さらにヴァルダヌスは歩を進めて、神殿の扉に手をかける。
そこにも、錠は掛けられていなかった。
ぎいっと軋む扉の音色に首をすくめつつ、ヴァルダヌスは神殿に足を踏み入れる。
そこも外界と変わらない、漆黒の闇の中であった。
真っ直ぐに歩を進めると、やがて白い神像の姿が燭台の火に照らし出された。
愛と純潔を司る月の女神、エイラである。
大きな聖杯を掲げたその姿を一瞥してから、ヴァルダヌスは進路を右に取った。
奥の壁に、木造りの扉が設置されている。そこを開くと、石造りの細い通路がのびていた。
足もとには、木箱や壺が置かれている。それを蹴散らしてしまわないように気をつけながら進むと、やがて現れたのは地下に続く階段だ。
その階段を下りると、突き当たりにまた扉が見えた。
今度は金属で補強された、頑丈そうな扉である。
その扉の前に立ったヴァルダヌスは、ひとつ大きく呼吸をしてから、腰の物入れをまさぐった。
目当ての物を探り出して、つかみ取る。それは古びた、金属の鍵だった。
いよいよ激しく胸を高鳴らせながら、ヴァルダヌスはその鍵を扉の鍵穴に差し込んだ。
がしゃりと、重々しい音色が響く。
ヴァルダヌスは鍵を抜き取って、扉をゆっくりと開け放った。
せまい、石造りの部屋である。
その中心に、カノン王子が立ちつくしていた。
「カノン王子……約束通り、お迎えにあがりました」
「やあ、ヴァルダヌス。夕方に聞かされた話は、どうやら冗談じゃなかったみたいだね」
燭台の火に照らされながら、カノン王子は静かに微笑んでいた。
白銀の長い髪に、ぬけるように白い肌、血涙石のごとき瞳に、精霊のように端麗な容貌――ヴァルダヌスが知っている通りの、美しい王子の姿である。
しかしヴァルダヌスは、このように正面からその姿を目にしたのも初めてのことだった。
小さな窓の格子ごしにしか見たことのなかったその姿が、今、目の前にある。それは何だか、奇跡のような光景であった。
「なんだか、信じられないな。僕は、夢でも見ているんじゃなかろうか?」
「そんなことはありません。……とはいえ、俺も夢を見ているような心地ではありますが」
「うん、やっぱりそうだよね。だけどこれは、まぎれもなく現実であるみたいだ」
王子の身体が、すうっとヴァルダヌスに近づいてきた。
そうしてそのまま、ヴァルダヌスの身体を抱きすくめてくる。
王子の身体は幼い少女のようにほっそりとしており、その頭はヴァルダヌスの肩にまでしか届いていなかった。
「あはは。ヴァルダヌスって、やっぱり大きいんだなあ。これぐらい大きくないと、戦場で刀をふるうことなんてできないんだろうね」
「は、はい……いえ、その……カ、カノン王子、大丈夫でしょうか?」
「いや、あんまり大丈夫ではないみたいだね。幸福なあまり、魂が身体から抜けていってしまいそうだよ」
くすくすと笑いながら、カノン王子はヴァルダヌスの胸もとに頬をこすりつけてきた。
王子は、とても体温が高い。これまでは指先しか触れたことのないその身体が、今は全身でヴァルダヌスに温もりを与えていた。
「ああ、なんて気持ちいいんだろう。人の身体っていうのは、こんなに気持ちのいいものなんだねえ。情欲で身を滅ぼす人間の気持ちが、ようやく僕にも理解できたみたいだ」
「いえ、カノン王子、あの……」
「以前にも話した通り、僕は半陰陽っていう身体に生まれついているんだよね。その気になれば、ヴァルダヌスとまぐわうこともできなくはないと思うんだけど……このまま二人で情欲に身をまかせてしまうというのは、どうだろう?」
ヴァルダヌスの胸もとに顔をうずめながら、カノン王子が上目づかいに視線を差し向けてくる。
その真紅の瞳には、明らかにヴァルダヌスをからかおうという悪戯っぽい光がくるめいていた。
「じょ、冗談はおやめください。王子は、高貴の血筋なのですよ?」
「王位継承権を剥奪されてるのに、高貴もへったくれもないだろう? それともやっぱり、愛しき姫君に操を立てようというのかな?」
「……そのアイリア姫が、カイロス陛下とともにカノン王子をお待ちになっているのです。時が移る前に、銀獅子宮へと急ぎましょう」
カノン王子は「ちぇっ」と可愛らしく舌を鳴らしてから、ヴァルダヌスの身体をいっそう強い力で抱きすくめてきた。
それから、名残惜しそうに身を離していく。
「五年もの歳月を経て、ようやくヴァルダヌスとこうして同じ場所に立つことができたっていうのに、どうしてそんなに話を急ぐのさ。僕にとって大事な人間っていうのは、この世に君しか存在しないんだよ?」
「ですが、カイロス陛下と和解することさえできれば、王子は自由を得ることができるのです。そうしたら、今後いくらでもこうして身を寄せることもできるではないですか」
そのように述べながら、ヴァルダヌスもまた強い喪失感を覚えてしまっていた。
王子の触れていた部分が、またじわじわと夜気に冷やされていく。カノン王子とついに同じ場所に立つことができて、ヴァルダヌス自身もたとえようのない喜びと幸福感にとらわれていたのだった。
「アイリア姫が、ようやく陛下の頑なな心を解いてくださったのです。このような好機は、もう二度と訪れないかもしれません。陛下をお恨みになる気持ちはわかりますが、どうかそこはこらえてください」
「僕は別に父様を恨んだりはしていないよ。僕みたいな忌み子はこうして幽閉しておくのが一番正しいんだろうからさ」
そう言って、王子は皮肉っぽく唇を吊り上げた。
「だけど、どうして父様は今さら僕なんかと言葉を交わそうと考えたんだろうね。ひょっとしたら、血を分けた子を処刑する覚悟が固まったっていうだけのことなんじゃないの?」
「そうだとしたら、わざわざアイリア姫を通して俺に伝える理由がありません。王子を処刑する気でしたら、衛兵を差し向ければいいだけのことでしょう?」
「それはそうかもしれないけどさ……何か、腑に落ちないんだよね」
そう言って、王子は足もとに視線を落とした。
「できることなら、僕はこのままヴァルダヌスとどこかに逃げてしまいたいところだよ。君さえそばにいてくれたら、僕はもうそれだけで満足なんだからさ」
その言葉は、思いも寄らぬ激しさでヴァルダヌスの心をつらぬいた。
もしかしたら、それこそが一番の正しい道なのではないか――という、正体の知れぬ激情が胸を焼いてくる。
ヴァルダヌスが思わず言葉を失ってしまうと、カノン王子は溜息をつきながら、また上目遣いに見つめてきた。
「冗談だよ。ヴァルダヌスが祖国や愛しい姫君を捨てるわけがないもんね。僕なんかの泣き言にいちいち心を揺らさないでいいんだよ、ヴァルダヌス」
「いえ、ですが……」
「いいんだってば。君は僕なんかと違って、とてもたくさんのものを持っているんだからね。それらのすべてを引き換えにさせるほどの価値なんて、僕なんかにあるわけがないんだよ」
カノン王子は長い前髪をかきあげながら、ヴァルダヌスににこりと笑いかけてきた。
「さ、それじゃあ父様のところに向かおうか。十六年間も幽閉していた我が子を前にして、父様はいったいどんな言葉を発するのだろうね」
ヴァルダヌスは胸の奥にうずくような感覚を覚えながら、カノン王子を寝所の外へといざなった。
カノン王子にとっては、生まれて初めての外界である。
しかし、王子の足取りによどみはなかった。石段をのぼり、神殿を抜けて、ついに屋外にまで至っても、それは同じことであった。
「……履き物を準備するべきでした。足がお痛みにはなりませんか?」
「大丈夫だよ。石畳なんて、石造りの床と同じじゃないか」
ヴァルダヌスに先導されながら、カノン王子はひたひたと歩いている。
燭台に照らされるその横顔は、あまり感情の読めない薄笑いを浮かべていた。
「このあたり一帯は、すべて王宮の敷地なんだよね? 見張りの兵士とかはいないのかな?」
「はい。エイラの神殿から銀獅子宮までの道のりは、兵士もすべて遠ざけられているそうです」
「ふうん。さすがに国王ともなると、自由に兵士を動かせるもんなんだね」
そのように述べながら、王子は灰色の夜着に包まれた肩をすくめている。
「だけど、そうまでして秘密裡に話を進めたかったんだね。ま、これまでのことを考えれば、それも当然なのかもしれないけどさ」
確かに、カイロス国王が今さらカノン王子と言葉を交わそうとしているなどと知れ渡ったら、王宮内にはとんでもない騒ぎが持ち上がってしまうことだろう。カイロス国王はこの十六年間、カノン王子を忌み子として神殿に幽閉し、一度として顔を見ようとすらしなかったのである。
そのカイロス国王の心を解いたのは、ヴァルダヌスの婚約者であるアイリア姫であった。アイリア姫はヴァルダヌスがカノン王子の境遇にひどく胸を痛めていたことを知っていたため、このように取り計らってくれたのだ。
「……ヴァルダヌスの愛しき姫君は、そこまで国王のお気に入りであったのかい?」
「はい。アイリア姫は小さな子爵家のお生まれですが、幼少の頃から陛下とは懇意にされていて……女児に恵まれなかった陛下は、アイリア姫を我が子のように慈しんでおられたようです」
そのように答えてから、ヴァルダヌスは内心で「しまった」と考えた。
案の定、カノン王子は揶揄するように微笑んでいる。
「実の子供は幽閉して、他人の家の子を我が子のように、か。それで、そんな幸福な姫君が僕なんかに情けをかけようっていうんだから、皮肉な話だよね。それとも、これは罪ほろぼしか何かのつもりなのかな」
「申し訳ありません。王子のお気持ちを踏みにじるような言葉を口にしてしまいました」
「いいんだよ。率直なのは、ヴァルダヌスの美点だろう? あれこれ気をつかわれるほうが、僕にはよっぽど不愉快だよ」
つんと顎をそびやかしながら、王子はそう言った。
「そういえば、僕には三人も兄がいるという話だったよね。その兄様がたも、同じ場所で待ち受けているのかな?」
「いえ。今日の密会については、陛下ご自身とアイリア姫と、それに俺にしか知らされていないはずです」
「ふうん。まあ、万が一にも第四王子に王位継承権が戻されたりしたら、他の王子たちにとっては面白くないのかな? 僕にはよくわからないけれど」
それはヴァルダヌスにも、理解の外であった。
しかし、第一王子はすでに立太子の儀を済ませているし、今さらカノン王子に王位継承権が戻されることもないだろう。ただ幽閉の境遇から解放されるだけで、ヴァルダヌスにもカノン王子にも十分であるはずだった。
「……こちらが銀獅子宮です。寝所で眠っておられる方々もおられますので、どうぞお静かに」
ヴァルダヌスは、裏門から銀獅子宮に足を踏み入れた。
そこにも普段は夜警の衛兵が控えているはずであるが、本日は無人だ。
まあ、高い石塀で囲まれた王宮の敷地内に賊が忍び入る恐れはない。それにしても、貴き人々が眠る王宮に見張りの衛兵が立っていないというのは、それだけで非現実感をともなうものであった。
また、宮殿内にも警邏の衛兵の姿はない。
廃屋のように静まりかえった宮殿の暗い回廊を、ヴァルダヌスはカノン王子とともに進んでいった。
「こちらが、陛下のご寝所です」
ついに、その場所に到着した。
ヴァルダヌスが扉を叩いたが、応答はない。
「おやおや、約束を忘れて眠ってしまったのかな?」
「いえ、この向こうは次の間になっているのですが、きっと小姓なども遠ざけているのでしょう」
だからそこにはアイリア姫が控えているのではと考えていたのだが、ヴァルダヌスの目論見は外れていたようだった。
しかたなく、手ずから扉を引き開ける。これもまた、普段ではありえない話であった。
次の間は、やはり無人だ。
本来であれば小姓が座しているべき長椅子が、部屋の端に置かれているばかりである。
ヴァルダヌスは歩を進めて、奥の壁にある扉をも叩くことになった。
「カイロス陛下、ヴァルダヌスです。お言葉の通り、カノン王子をお連れしました」
しかし、返事はない。
ここに至って、ヴァルダヌスはようやく変事の予感にとらわれた。
「カイロス陛下……お休みになられているのですか? カノン王子をお連れしました」
「ふん。やっぱり気が変わったんじゃないのかな? それとも、最初から僕をからかっていたのかもね」
「いえ、そんなはずは……カイロス陛下、失礼いたします」
ヴァルダヌスはすべての儀礼をとっぱらい、扉に手をかけた。
その瞬間――ありうべからざる香りが、鼻をついてきた。
生臭さと鉄臭さをあわせもつ、異臭――血の香りである。
「……カイロス陛下!」
ヴァルダヌスは、一息に扉を開ききった。
そこにはたくさんの燭台が灯されていたために、すべてを一望することができた。
豪奢な造りをした、王の寝所である。
足もとには毛足の長い絨毯が敷かれて、石造りの壁もすべて洒脱な帳で覆われている。一個小隊でも整列できそうな、広々とした空間だ。
その広々とした空間に、五人の人間が倒れていた。
セルヴァの国王カイロスと、その三人の子供たち――そして、アイリア姫である。
ヴァルダヌスは、半ば無意識に歩を進めていた。
アイリア姫は、扉から一番近い場所に倒れている。そのアイリア姫のもとで膝をつき、ヴァルダヌスはがっくりとうなだれた。
「アイリア……どうして、こんな……」
アイリア姫は、静かにまぶたを閉ざしていた。
そのほっそりとした身体が、朱に染まっている。
アイリア姫は――いや、その場に横たえられている五名は、全員が胸もとを無残に断ち割られていたのだった。
「……その女性が、ヴァルダヌスの大事な姫君なの?」
カノン王子の声が、低く響きわたった。
しかしヴァルダヌスは、アイリア姫の静かな死に顔に目を奪われたまま、そちらを振り返ることができなかった。
「そして、あれが僕の父様であり、その他の人たちは……もしかしたら、僕の兄様たちなのかな……?」
カノン王子の声からは、感情というものが欠落してしまっていた。
やがて、ヴァルダヌスの視界の端を、灰色の影がよぎっていく。
カノン王子が、寝所の真ん中にまで歩を進めたのだ。
そのとき――部屋の奥から、くぐもったうめき声が響きわたった。
「カノン……まさかお前は、カノンなのか……?」
それは、国王カイロスの声だった。
ヴァルダヌスが愕然と顔をあげると、カイロスは敷物の上に倒れ伏したまま、目だけで我が子を見上げていた。
カノン王子はぴくりと肩を震わせてから、そちらに足を向けようとする。
しかしその動きは、再びあげられたカイロスのうめき声によって止められることになった。
「やはりお前が…………お前さえいなければ、こんなことには……」
「陛下! ご無事であられたのですか!」
ヴァルダヌスは、半身をもがれるような心地で、アイリア姫の亡骸から身を離した。
その瞬間、カイロスは憎悪に満ちみちた咆哮を爆発させた。
「ヴァルダヌスよ、そやつを斬れ! そやつは……王国を滅ぼす、許されざる忌み子だ!」
ヴァルダヌスは、わけもわからぬまま、立ちすくんだ。
カノン王子もまた、無言で立ち尽くしている。
そうして誰もが動けぬ間に、やがて回廊のほうから大勢の衛兵たちが押し寄せてきて――そうして銀獅子宮は、滅びの炎に包まれたのだった。