Ⅴ-Ⅳ 出陣の日
2018.2/3 更新分 1/1
そうしてついに、その日がやってきた。
黄の月の十五日――ゼラド大公国の軍が王都アルグラッドに侵攻を開始する、出陣の日である。
とはいえ、ゼラドから王都までの道のりは長い。物資を積んだ荷車を引かせて、王都にまで到着するには、半月ほどの時間がかかるのだ。
しかし、王都の人間たちがゼラドの進軍に気づけば、すぐにでも迎撃の部隊が派遣されることになる。それらと刃を交えるのは、およそ十日後あたりになるのではないかと予測が立てられていた。
「むろん、ゼラドと王都の間にはいくつもの砦や町があるのだから、そちらの軍とも刃を交えることになろう。ゼラドの領土を出た後は、いつ戦になってもおかしくはないと考えておけ」
出立の前夜、エルヴィルなどはそのように述べていた。
「もっとも、お前の使命はただひとつ、王子殿下の御身を守ることだけだ。よほどの乱戦にならぬ限り、俺たちの部隊が敵兵と対峙することはあるまいが……決して気を抜くのではないぞ」
「言われるまでもないさ。あたしは、そのためにいるんだからね」
メナ=ファムは、すでに覚悟を固めていた。
何があっても、シルファの身を守り抜く。そして、その運命を最後まで見届ける。平和で健やかな未来を引き換えにして、メナ=ファムはただそれだけを果たそうと強く念じているのだった。
「メナ=ファム、いよいよですね」
その日の早朝、オータムの北端にある練兵場という場所に集められて、出陣の時を待っている間に、ラムルエルがそのように呼びかけてきた。
シルファは黒豹のプルートゥとともにトトス車の中にあり、周囲には五十名ばかりの旗本隊が控えている。すでに先発隊は出立していたが、何せ数万から成る大軍であるので、ほとんどしんがりに近い王子の旗本隊はまだしばらく待機の状態であるのだった。
その旗本隊を包み込むようにして、大勢のゼラドの兵士たちが立ち尽くしている。王子の警護と監視の使命を帯びた一団である。いったいどのような策を講じたのか、その指揮官に任命されたのは第一連隊長のラギスであった。
「ゼラドの領土を出るのにも数日がかりだってんだから、まだ気を張るには早いだろうさ。あんたも適当に力を抜いておきなよ、ラムルエル」
「はい。ですが、私、商人ですので……戦場に出る、初めてです。やはり、緊張します」
そのように述べながら、感情はまったく表さないシムの民である。なおかつ、ラムルエルはこの軍の中で唯一甲冑を纏っておらず、普段通りの革の外套姿であった。
いっぽう、メナ=ファムも厳密には武者姿ではない。オータムに到着した日に取り上げられた、大鰐の鱗の装備と半月刀を帯びた姿であった。
しかし、この大鰐の革で作られた外套と装束は、ちょっとした矢ぐらいであれば跳ね返せるだけの強靭さを有している。もともと頑丈な大鰐の鱗を、グレン族に伝わるなめしの秘伝でより頑丈に仕立て上げたものであるのだ。
それとは別に、ゼラド軍の所属であることを示す兜も支給されていたが、それは荷車の中に放り込んでいる。いざ戦端が開かれない限り、そんな邪魔くさいものを頭にかぶる気持ちにはなれなかった。
「お前たち、まだそのようなところでくつろいでいたのか。まもなく出立なのだから、王子殿下の御身を離れるな」
と、自分のトトスの手綱を引いたエルヴィルが、険のある声で呼びかけてきた。
エルヴィルを筆頭とする五十名の傭兵たちも、ゼラド軍とは様式の異なる甲冑を纏っている。白銀の色合いをしたその装備は、かつてシルファたちを襲った王都の軍の姿と似ていなくもなかった。
「これから昼までろくに息をつく時間もないって話だったから、今の内に外の空気を吸っておこうと考えたんだよ。王子殿下もお誘いしたんだけど、そんな気分じゃないって断られちまったのさ」
メナ=ファムがそのように答えると、エルヴィルはますます険悪な感じに眉をひそめた。
「……いいから、車に戻れ。まもなく出立だ」
「はいはい。隊長様の仰せの通りにっと」
メナ=ファムはひとつ肩をすくめてから、トトス車の後部にある扉を叩いた。
「王子殿下、お邪魔するよ。……ああ、ラムルエルは、また後でね」
「はい」とラムルエルは車の前側に立ち去っていく。この車には彼のトトスが繋がれており、御者は彼自身がつとめるのである。シムの民はトトスの扱いに長けているということで、彼にはその役割が与えられたのだった。
「まもなく出立だとさ。少しは気分も落ち着いたかい?」
荷台の中に上がり込みながらメナ=ファムが問うと、「うむ」という低い声が返ってきた。
扉を閉めて、閂まで掛けてから、メナ=ファムはシルファのほうに歩を進めていく。シルファは平服の姿であり、荷台の片隅で膝を抱え込みながら、黒豹プルートゥのしなやかな背中を撫でていた。
「さ、扉は閉めたから、もう偽王子のふりをすることはないよ。あんたも少しは力を抜いておきな」
「ええ、ですが……やっぱり、息が詰まってしまうのです。まだ戦が始まったわけでもないのに、情けないことですね」
視線を伏せたまま、シルファは力なく微笑んだ。
その隣にどかりと腰を下ろしてから、メナ=ファムはシルファの銀灰色の頭に手を置いた。
「修道院の下女だったあんたが王子様として戦争に出向こうってんだから、息が詰まるのも当然だろ。でも、ゼラドを出るまでは危険なこともないって話なんだから、そんなに気張ることはありゃしないよ」
「はい、それはわかっているつもりなのですが……」
「それにさ、そんなに悪いことばっかりじゃないんだろうと思うよ。ここだったら、盗み聞きや覗き見の心配もないからね。今は王子様のふりをする必要もないんだから、せいぜいくつろいでおくこった」
シルファはようやく面を上げて、さきほどよりも朗らかさを増した笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。メナ=ファムがそばにいてくれるだけで、わたしはとても心強いです」
「ふうん? ちょっと前までは、あたしなんてこんな場所にいるべきじゃない、とか言ってたくせにねえ」
「そ、それはだって……メナ=ファムに迷惑をかけたくなかったから……」
シルファは、子供がすねたような声をあげた。
あの浴堂で気持ちを交わし合うまでは、決して見せることのなかった表情である。メナ=ファムは大きく気分をよくしながら、シルファの短い髪を乱暴にかき回してやった。
「冗談だよ。とにかく、休める内に休んでおきな。本当にしんどいのは、これからなんだからさ」
「は、はい。……でも、エルヴィルは大丈夫なのでしょうか……?」
「ん? エルヴィルが何だってんだい?」
「エルヴィルは、これからついに王都の軍と刃を交えることになるのです。わたしなどとは比べ物にならないぐらい、苦しい思いを抱え込むはずでしょう……?」
メナ=ファムは、さきほどのエルヴィルの様子を思い出しながら、「そうだねえ」と答えてみせた。
「でもまあ、あいつはいつも通りの感じだったよ。王国を裏切る覚悟なんて、一番最初から固めてたんだろうから、今さら気に病むこともないのかもしれないね」
「そうですか。それなら、いいのですが……」
シルファは、ふっと息をついた。
もしかしたら、シルファは自分のことよりもエルヴィルのことを思いやって、気持ちを乱していたのかもしれない。シルファは、そういう人間であるのだった。
(まったくね、少しは自分の身を案じろってんだよ)
メナ=ファムはシルファの頭を引き寄せて、その白銀の髪に頬ずりをしてみせた。
「ど、どうしたのですか?」と、シルファは驚きの声をあげる。
「どうもしやしないよ。ただ、あんたの髪はさらさらで気持ちがいいからさ」
「そ、そうですか……わたしはメナ=ファムの赤みがかった髪を、とても綺麗だと思っていましたけれど」
「へえ、そうかい。そいつは珍しい人間もいたもんだ」
そうして二人でじゃれあっていると、「楽しそうですね」という無感情な声が聞こえてきた。
見ると、御者台の側に空いた覗き穴から、ラムルエルが黒い瞳を覗かせている。
「何だい、あんたも混ぜてやろうか?」
「いえ。ようやく、出立するようです。揺れますので、お気をつけください」
「了解したよ。ありがとさん」
「はい」という声とともに、ラムルエルの目が見えなくなる。
メナ=ファムは最後にシルファの髪を撫でてから、身を遠ざけた。
「覗き見の心配はいらないって言葉は取り消さなきゃいけないね。とんだ伏兵もあったもんだ」
「まあ」と、シルファは口もとをほころばせた。
年齢相応の、少女らしい笑顔である。
これがラムルエルと三人の気ままな旅であったら、どれほど心が弾むものか――頭に浮かんだそんな想念を、メナ=ファムは慌てて打ち消すことになった。
(あたしたちはもう、そんな呑気なことを考えていられる立場じゃないんだ)
トトスの車は、ゆっくりと動き始めた。
それからじょじょに速度が上がっていき、揺れも大きくなっていく。この感覚も、実に二十日ぶりのことであった。
(このオータムに連れて来られたのが二十日前で、あたしがシルファたちと出会ったのは……たしか、赤の月の終わり頃だったっけ。それじゃあ、まだふた月も経ってないってことなんだね)
そのふた月足らずで、メナ=ファムの運命は大きく変転してしまった。
故郷であるシャーリの集落を遠く離れて、偽王子の従者として王都を目指している。こんな未来を、いったい誰に予見することができただろうか。
戦に勝てば、シルファは偽りの身分のまま、玉座に座ることになる。
戦に負ければ――どうあがいても、首を刎ねられることになるだろう。たとえ王都の軍の手に落ちなかったとしても、シルファの身が無事で済むとは思えない。あのベアルズという猛々しい気性をした大公が、利用価値のなくなったシルファに情けをかけるなどとはとうてい思えなかった。
(ま、いざとなったらシルファとエルヴィルと、それにラムルエルも連れて逃げるしかない。ある意味、あたしにとってはそれが一番幸福な未来だろうね)
しかし、それを決めるのはメナ=ファムではない。というか、もはや個人の思惑ではどうにもならないぐらい、話は大きくなってしまっているのだ。
ならばすべては、西方神の思し召しだ。メナ=ファムとしては、シルファの運命を見届けるという使命を全うする他に道は残されていなかった。
「……わたしたちは、この戦に勝てるのでしょうか?」
と、ふいにシルファがそんなことをつぶやいた。
内心を見透かされた気がして、メナ=ファムは思わずギクリとしてしまう。
「あたしだって、戦なんかとは縁のなかったシャーリの狩人なんだから、そんなことはわかりゃしないよ。でも、あのふてぶてしい大公様が、勝ち目のない戦を仕掛けることはないんじゃないのかね」
「はい。ですが、この軍を率いているのは大公ではなく、その子供たちでしょう? わたしは、それが不安に感じられてしまって……」
「ははん。そいつを不安に思わないやつなんていやしないだろうね。あんなぼんくらどもは、刀を持ち上げることだってできやしないだろうさ」
この一軍の総大将は、ベアルズ大公の二人の子息たちだった。
あのぶくぶくと肥え太った幼子みたいな公子たちが、数万もの軍勢を率いているのである。今頃は、トトス車の中で果実酒でもあおっているのかもしれない。
「だけどまあ、実際に命令を下すのは、あのタラムスっていう将軍様のほうなんだろうよ。あのお人だったら、ちっとは期待してもいいんじゃないのかね」
「タラムス将軍ですか。確かにあの御方はゼラドで一番の名将と呼ばれているそうですが……でも、わたしを旗頭とすることには、最後まで反対されていたそうですね」
「ああ。ある意味、ゼラドで一番まともな考えをしてる人間なのかもしれないね。ああいうお人はセルヴァじゃなくってジャガルで生きたほうが幸せなんじゃないかって思えちまうよ」
メナ=ファムがそのように述べたてると、シルファが不思議そうに顔を寄せてきた。
「あのタラムス将軍はジャガルとの混血であるというお話ですが……メナ=ファムは、ジャガルにもお詳しいのですか?」
「いや、ジャガルの民なんて口をきいたこともありゃしないよ。でも、あのタラムスってお人は、風聞で聞くジャガルの民そのまんまだろ? 外見も中身も、両方ね」
「ええ。ジャガルの民は、実直で熱情的な人間が多いと聞きますね。……ですが、セルヴァにだってさまざまな気性をした人間がいるのですから、ジャガルにだってさまざまな人間がいるのでしょう」
その言葉は、妙に切々と語られているように感じられた。
メナ=ファムの視線を受けて、シルファははかなげな微笑をこぼす。
「すみません。ちょっと父親のことを思い出してしまって……わたしとエルヴィルの父親も、ジャガルの血筋であったのです」
「へえ、そうなのかい? でも、あんたたちの生まれ育ったバルドって町は、シャーリの集落よりジャガルから遠いはずだよね?」
「はい。父親はジャガルでも悪事を働いて、故郷を出奔した身であったようなので……ジャガルから遠く離れたセルヴァの中央区域に根を下ろすことになったのでしょう」
そのシルファたちの父親は、悪名高い盗賊であったという話であるはずだった。
「わたしは顔さえ知らない相手ですが、非道の限りを尽くして、最後には処刑されたのだと聞いています。タラムス将軍のような実直さは、どこにも持ち合わせていなかったのでしょうね」
「ふうん。ま、自分の欲得に実直だったってことなのかね。見たこともない相手なら、何を想像したって無駄なことさ」
冗談めかした声で言いながら、メナ=ファムは再びシルファの身体を引き寄せた。
シルファは何の抵抗もなく、メナ=ファムに身体を預けてくる。
「だけどまあ、あんたやエルヴィルはちっともジャガルの民っぽくはないようだね。骨が太くて、背が小さくて、顔はひげもじゃってのがジャガルの民の特徴だろう? せいぜいあんたが、ジャガルの民にも負けないぐらい白い肌をしてるってことぐらいか」
「ええ、ですがこれは、白膚症という病のためですから……」
「どんな親から生まれようとも、その人間の価値を決めるのは自分自身さ。あんたは父親よりも立派な人間を目指せばいいんだよ、シルファ」
シルファは、くすんと鼻を鳴らして笑ったようだった。
「メナ=ファム、わたしはセルヴァ王家の血筋を騙っているのですよ? 盗賊として処刑された父親よりも、よほど悪逆な人間です」
「いーや、あんたは悪い王様を成敗するために立ち上がった、とっても立派な人間なんだよ。堂々と胸を張って、悪党から玉座をぶんどっちまえばいいのさ」
それは、ラギスの受け売りの言葉であった。
シルファたちの行動に正義を求めるとしたら、もはやそこにしか光明はないのだ。
「実の兄やその子供たちを皆殺しにしたやつを、セルヴァの王として認めるわけにはいかないだろ? あんたは平民の出だとしても、あんたの伴侶になるラギスは王家の血を引いてるんだから、西方神だって大喜びして力を貸してくれるはずさ」
「ええ……そうですね。泣き言ばかり言ってしまって、ごめんなさい」
「何を言ってんのさ。あんたが泣き言を言えるのは、あたしぐらいなんだろ? だったら、遠慮なんざする必要はないよ」
シルファの肩を引き寄せながら、メナ=ファムは再びその髪に頬を寄せた。
「まあ、ラムルエルだって泣き言ぐらいは聞いてくれるだろうけどさ。あいつはすました顔でうなずくばっかりだろうから、たぶんあたしのほうが聞き役には向いてるよ」
シルファは無言で、メナ=ファムの胸に取りすがってきた。
その重みと温もりを心地好く感じながら、メナ=ファムは言葉を重ねる。
「あたしの前では、何も取りつくろう必要はないからね。あたしが全力で支えてやるから、あんたはあんたの運命に立ち向かいな。そうすれば、きっと道は開けるはずさ」
「はい」と、シルファは震える声で囁いた。
メナ=ファムの位置からその表情をうかがうことはできなかったが、シルファが涙を流していることは明白であった。
その間も、トトスの車は粛々と前進している。
王都では、いったいどのような運命が待ち受けているのか――いや、それ以前に、この一軍は王都の土を踏むことはできるのか。その答えを知るものは、いまだどこにも存在しなかった。