表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アムスホルン大陸記  作者: EDA
第四章 滅びの御子
92/244

Ⅱ-Ⅳ 新たな客人

2018.1/13 更新分 1/1

 戴冠式の前祝いは、黒羊宮の舞踏の間で開かれることになった。

 朱の月に開かれた舞踏会と、同じ場所である。その舞踏の間には、舞踏会のときよりもさらに豪華な祝宴の準備が整えられていた。


 あの舞踏会も、戴冠式に向けて集まりつつあった各領地の要人たちを歓迎するための祝宴であった。そして今回は、要人がすべて勢ぞろいしたということで、大々的に祝宴が開かれたのである。よって、前回よりも参席する人数が多く、いっそう盛大に開催されるのが当然の話であったのだった。


「それで戴冠式には、これよりもいっそう盛大な祝宴を開こうという考えであるのであろう? まったくもって、時間と労力と銀貨の無駄づかいとしか思えぬ行いだな」


 レイフォンのかたわらで、クリスフィアは不機嫌そうにぼやいている。本日も見事な宴衣装であるというのに、貴婦人らしく振る舞おうという気はさらさらないらしい。


「この宴衣装も、わたしの知らない間に勝手に仕立てられていたのだ。前回の祝宴から半月も経っていないのに、これで二着目なのだぞ? これでもし戴冠式の本番にも新しい衣装が届けられたら、お笑いだな」


「それはまあ、前祝いと本番で同じ宴衣装を纏う貴婦人など、この王都には一人として存在しないだろうね。きっとこれまで以上に立派な宴衣装が準備されるのだろうと思うよ」


 レイフォンがそのように応じてみせると、クリスフィアは雄弁なる溜息をついた。


「前言は撤回しよう。笑う気も失せてしまった。これほど銀貨が有り余っているならば、もう一大隊分ぐらい傭兵をかき集めることもできるのではないだろうか」


「銀貨があっても、人手が足りないかもしれないね。戦のたびに数百や数千の人命が失われているのだから、それを補充するだけで精一杯のようだよ」


 レイフォンとクリスフィアは、なるべく人目をひかないように、広間の片隅で言葉を交わしている。そして、その輪にはティムトとフラウ、ディラーム老とロア=ファムも加わっていた。


 傍目には、三名の要人がそれぞれの従者を控えさせているように見えることだろう。しかし、実際にその中で従者としての本来の仕事に励んでいるのは、フラウのみである。ティムトはもちろん、ロア=ファムもまたこの秘密の志を抱く一団のひとりとして同席しているのだった。


「しかし、ロア=ファムもなかなか従士のお仕着せが似合っているじゃないか。この姿を見て、まさか自由開拓民だと思う人間はいないだろうと思うよ」


 レイフォンがそのように呼びかけると、ロア=ファムは不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「このような装束は、窮屈なだけだ。それに、頭がぬるぬるしていて気持ちが悪い」


「すまんな。おぬしの髪はどうにも言うことをきかぬので、従士らしく見せるには香油を塗る他なかったようだ」


 ディラーム老は、楽しそうに微笑んでいる。ロア=ファムは赤茶けた蓬髪をしていたが、それを整えるために香油を塗られてしまったのである。貴族の間では当然の身だしなみであるが、狩人の少年にそのような習わしが存在しないことは言わずもがなであった。


 しかし、その甲斐もあって、ロア=ファムはこの会場でも悪目立ちせずに済んでいた。もともと顔立ち自体は整っているほうであるし、狩人としての鋭い目つきや雰囲気も、鍛えぬかれた若武者のように感じられなくもない。ロア=ファムは気づいていないかもしれないが、このそばを通りかかった貴婦人の中には、ロア=ファムに艶っぽい流し目を向ける者も少なくはなかった。


「それに、クリスフィア姫も見違えたな。普段の武人らしい姿が嘘のようではないか」


 ディラーム老の言葉を受けて、クリスフィアは「およしください」と口をとがらせている。前回よりも立派な宴衣装を準備されて、クリスフィアは輝かんばかりの美しさであったのだった。


 胴体はぎゅうぎゅうに締めあげて、腰から下には何重ものひだ飾りを垂らすのが、王都で主流の宴衣装である。そうして胸もとは限界まであらわにして、むき出しの首や腕にはたくさんの飾り物が下げられている。この姫君も、顔立ちや肢体は実に端麗な造形をしているので、人目を引くという点においてはロア=ファムに負けていなかった。


「このような顔ぶれで何か悪巧みをしているなどとは、周囲の人間たちも思うまい。邪魔が入らぬ内に、話を進めてしまおうではないか」


 と、普段の炯々とした眼光を取り戻しつつ、ディラーム老がそう言った。

 クリスフィアとロア=ファムも、真剣な面持ちでうなずいている。


「何も手を打てぬまま日が過ぎようとしているが、相変わらずジョルアンのほうに動きはないのか?」


「ええ。ゼラ殿が見かけた日以降は、例の千獅子長とも接触していないようで……ただ、新王にはたびたび晩餐に招かれているようですね」


「ふん。新王の従者である薬師めが、ジョルアンの悪さの片棒を担いでいたのだ。それだけでも、新王とジョルアンの繋がりを疑わずにはおれんな」


「はい。ですが、気にかかるのは、クリスフィア姫を襲わせるのに、ロネック将軍を選んだことです。我々の見立てでは、彼もまた敵の一味であったはずなのですが……」


「それは、前王陛下を弑逆するまでの話であろう。首尾よくその陰謀を成し遂げて、今度は新たな権勢争いにうつつを抜かしているのではないか? それはおぬしも、以前から怪しんでいたのであろう?」


 確かにジョルアンとロネックは、新たな十二獅子将を選出するのに、我欲を剥き出しにして争っているように見えた。なおかつ、ベイギルスもまた、それを愉快そうに見物していたのである。


「しかし、元帥という座を手に入れたばかりであるのに、そこまでロネック将軍を敵視する必要はあるのか、という疑問も残ってしまうのですよね。もしもロネック将軍が失脚でもしてしまったら、あとはもうディラーム老の他に元帥を担えるようなお人もいないでしょうし……それではジョルアン将軍にとって、余計に都合が悪いことでしょう」


「ふん。儂のような老人など恐るるに足らんと考えたのではないか? 実際、儂はこうして災厄の日から生きながらえたというのに、暗殺の刃を向けられることもなかったからな」


「ううん、どうなのでしょうね。ともあれ、ジョルアン将軍が敵方の人間であるということは確定したわけですが……」


 と、そこでレイフォンはクリスフィアに目を向けた。

 それに気づいたクリスフィアは、けげんそうに振り返ってくる。


「どうしたのだ? 何やら心配げにわたしを見ているようだが」


「いや、今日はそのジョルアン将軍も来場しているので、クリスフィア姫の義侠心が疼いてしまわないかと思ってね」


 クリスフィアがオロルと対面し、媚薬を準備したのはジョルアンの命令である、という情報をつかんだのは、二日前のことだ。それから何も話が進展しないまま今日という日を迎えてしまったので、レイフォンはまたクリスフィアが短気の虫を起こすのではないかと懸念してしまったのだった。

 しかしクリスフィアは、厳しく眉を寄せながら、首を横に振っている。


「もちろん、ジョルアン将軍に対しては激しい怒りを抱いている。わたしにあのような謀略を仕掛けたのだから、それは当然であろう。……しかしわたしは、何やら気に食わぬのだ」


「気に食わない? それは、何がかな?」


「……シーズ殿はおそらく死の間際に、ジョルアン将軍の名を言い残そうとしていた。また、ダリアス殿を窮地に追い込んだのも、わたしに謀略を仕掛けたのも、すべてはジョルアン将軍であった。ここに来て、急にジョルアン将軍の名ばかりが表に出てくることになったのが……どうにもわたしは、気に食わぬのだ」


 そのように述べてから、クリスフィアは淡い色合いをした髪を荒っぽくかきあげた。


「もちろん、わたしがそのように感じているだけで、何も筋道だった話ではない。ただ、こうも目の前に美味そうな餌をぶら下げられると、それが毒入りではないかと疑いたくなってしまう性分でな」


「姫のお得意の直感というやつだね。我々としても、それを軽んじるつもりはないよ」


「ふん……とはいえ、ジョルアン将軍が敵方の人間であると判明したことに間違いはないのだ。このまま手をこまねいているわけにはいかぬのだろうな」


「ああ。今はゼラ殿が防衛兵団の動きを探ってくれているよ。彼らがジョルアン将軍にどのような命令を受けたのか、まずはそれを確かめないことには――」


 と、レイフォンが言いかけたところで、ティムトに袖を引っ張られることになった。レイフォンの死角から、何者かが近づいてきていたのだ。


「このような場所で、何を密談しているのだ? お歴々には、広間の中心こそが似つかわしいと思うのだが」


 それは、ある意味で意外な人物であった。

 ついさきほど話題に出たばかりの、敵方と目している人物――十二獅子将にして新たな元帥の片割れたるロネックだったのである。

 魁偉な風貌を持つ大男である彼は、底光りする目で一同を見回していた。

 そしてその目が、何かまぶしいものでも見るように細められながら、クリスフィアのところで止められる。


「あー……アブーフの姫君よ、少しばかり時間をもらうことはかなわぬだろうか?」


「わたしに? いったい、どのようなご用事であられるのかな?」


 凛々しくも優雅な貴婦人の姿のまま、クリスフィアは武人の目つきになる。

 その姿を見返しながら、ロネックは険しく顔をしかめていた。


「それを話すために、時間をもらいたいと願い出ているのだ。それほどの時間は取らせんと約束しよう」


「余人の耳があっては話せぬような内容であるのか? それならば、わたしも了承しかねるな」


 媚薬に幻惑されていたとはいえ、クリスフィアを手篭めにしようとしていたロネックであるのだ。クリスフィアの灰色の瞳には、激しい怒りと嫌悪の光が渦巻いていた。

 するとロネックは、眉間に刻んでいた皺を消して、小さく息をついた。


「そうか。それならば、率直に語らせてもらおう。俺はもとより、余人の耳などを気にする人間ではない」


「ほう、それはけっこうなことだ。して、どのようなご用事か?」


「……朱の月の舞踏会の夜、俺たちの間にいったい何が起きたのだろうか?」


 クリスフィアは、うろんげに目を細めていた。

 フラウは心配げに両手をもみしぼっており、ティムトはさりげなくロネックの様子を観察している。


「俺は姫からの招きに応じて、夜半に寝所まで出向いたはずだ。そこまでは、確かにはっきりと覚えている。しかし……それから後の記憶が曖昧で、気づけば回廊に寝転がっていた。あれはいったい、どういう事態であったのだろうか?」


「……あなたは、何も覚えておられないのか、ロネック将軍?」


「ああ。しかし、姫はその翌日からダームなどに旅立ってしまったからな。俺はわけもわからぬまま、半月近い日を過ごすことになったのだ。今日こそは、この謎を解き明かしてやろうと考えている」


 そうしてロネックは、十二獅子将の礼服に包まれた分厚い胸を、ぐいっとそらせた。


「そして、もしも俺が責任を取らなければならない立場であるとしたら……どこにも逃げ隠れはしない。アルグラッドの元帥として、また、一人の男としても、自分の責任を果たしてみせよう」


「責任? とは、何の話であろう?」


「それはもちろん、姫を伴侶として迎える準備がある、ということだ」


 クリスフィアは、ぽかんと口を開けていた。

 それから今度は、さきほどまで以上に激しく双眸を燃やし始める。


「ロネック将軍……あなたはわたしをからかっておられるのか?」


「からかってなどいない。俺はこの王都で浮き名を流す存在であるが、己の責任から逃げる卑怯者ではないつもりだ」


 浮き名を流すといえば聞こえはいいが、要するにロネックは酒癖と女癖が悪いだけのことだった。だから、ああもあっさりとジョルアンの陰謀に落ちる結果となったのだろう。

 クリスフィアは怒りの眼光をまぶたの裏に隠すと、頭痛をこらえるように額へと手を当てた。


「……どうもロネック将軍は、何か誤解をされているようだ」


「誤解? 誤解ではない。俺はただ、酒を召しすぎて前後不覚になってしまっただけだ。しかし、アブーフ侯爵家の嫡子たる姫と深い仲になってしまったのなら、それ相応の責任を――」


「だから、それが誤解だと言っている。我々の間にそのような関係は存在しない」


 まぶたを閉ざしたまま、クリスフィアは断固とした口調でそう言った。

 それと相対するロネックは、「そうなのか……?」と、うめいている。


「では、俺は、姫の寝所に招かれておきながら、何も為さずに酔い潰れてしまったのだろうか? それでは、なおさら姫に恥をかかせたことに――」


「確かにあなたは、わたしの寝所で意識を失うことになった。だからわたしが人を呼んで、回廊に放り出したのだ。……しかし、そもそもわたしはあなたを寝所になど招いてはいない」


「なに? そんなはずはあるまい。俺は姫の使いから手紙を受け取って――」


「その手紙が偽物であったと申している。あれは、わたしとあなたを罠に嵌める陰謀であったのだ」


 レイフォンは、思わずぎょっとすることになった。

 ティムトは軽く眉を寄せながら、クリスフィアのほうに視線を転じている。


「い、陰謀だと? 何者かが、姫の名を騙って、あのような手紙を俺に送りつけたというのか? どこの誰が、何のためにそのような真似を――」


「それは今、わたしも力を尽くして調べている最中だ。これはきっと、アブーフと王都の絆を裂こうとする何者かの陰謀なのではないかと、わたしはそのように考えている」


 そうしてクリスフィアはようやくまぶたを開くと、強い光をたたえた目で真っ直ぐにロネックを見返した。


「ロネック将軍はさきほど責任を取る覚悟があると言われていたが、それが容易い話でないことはおわかりのはずだ。わたしはアブーフ侯爵家の嫡子であり、ロネック将軍は王都の元帥たる身であるのだからな。そんな我々の間におかしな関係が生じてしまったら、それは大変な騒ぎになろう?」


「うむ……しかし俺は、姫を伴侶にしてもやぶさかではないと考えているぞ。その言葉に、嘘はない」


 ロネックの目に、好色そうな光が浮かぶ。それをはね返すように、クリスフィアは強い声音で言った。


「それは光栄な話だが、嫡子であるわたしはアブーフを離れられぬ身だ。ロネック将軍は、元帥の座を捨ててアブーフに婿入りされる覚悟を固めておられたのか?」


「あ、いや、俺が王都を離れるわけにはいかんが、しかし……」


「では、我々が婚儀をあげることなどは不可能だ。わたしは兄弟を持たぬ身であり、いずれは当主の座を継ぐ立場であるのだからな。そんな我々が情を交わしてしまっても、その後には不幸な結末しか待ってはいないということであろう」


 クリスフィアの弁舌は、斬撃のような鋭さでふるわれている。さしものロネックも、いくぶんたじろいでいるような表情を見せた。


「だからこれは、何者かの陰謀であるのだ。何者かが、王都とアブーフの絆を揺るがすために、このような陰謀を画策したのであろう。そのような卑劣漢は、決して許すことはできまい」


「う、うむ。しかし、いったい誰がそのようなことを――」


「それはわからぬが、元帥の座にまでのぼりつめたロネック将軍に、悪意を抱く人間でもいたのではないだろうか? わたしは王都でそのような恨みを買う覚えもないのでな」


 クリスフィアの気勢に圧されていたロネックの目に、今度は異なる光が生じた。

 どろどろと煮えたぎる、憤怒の炎である。しかしそれは、クリスフィアのように激しく清廉な光ではなく、《アルグラッドの毒爪》という異名に相応しい粘質的な激情の渦だった。


「そうか……何者かが、俺を陥れようとしているのだな……?」


「うむ。わたしは手を尽くしてその犯人を探している。それを発見したあかつきには、ロネック将軍に真っ先に教えようと考えていたぞ」


「ああ、それはありがたい。そのようにふざけた真似をする人間は、この手で引き裂いてやらなければ気が済まぬからな」


 そうしてロネックは、その厳つい顔に邪悪な笑みをたたえた。


「姫に心情を打ち明けたのは、やはり正解であったようだ。俺のほうでも、その許されざる卑劣漢を探してくれよう。まあ、心当たりがないわけでもないしな」


「そうか。いったい誰が獅子の尾を踏んでしまったのか、まったく馬鹿げた真似をしたものだ」


「ああ。それを後悔したときには、そやつも魂を返すことになろう」


 ロネックは、同じ形相のまま巨体をひるがえして、祝宴の場に戻っていった。

 その後ろ姿が見えなくなってから、フラウがほうっと吐息をつく。


「もう、姫様……あのように恐ろしげな御方を怒らせてはいけませんわ」


「ふん。敵の内に騒乱の種をまくのも、立派な兵法だ。これで、いざというときにジョルアン将軍の名を明かしてやれば、敵同士で食い合いを始めてくれるやもしれんからな」


 クリスフィアは剥き出しの白い肩をすくめつつ、ティムトのほうに視線を向けた。


「どうであろうかな? 即興で思いついた割には、悪くない策だと思うのだが」


「……ええ。こちらの手は何も明かさぬまま不和の種をまくことができたのですから、立派な兵法だと思いますよ」


「そうか。軍師殿のお眼鏡にかなったのなら、幸いだ」


「軍師?」と目を丸くしたのは、ディラーム老である。ディラーム老は、まだレイフォンの知略がすべてティムトのものであるという事実を知らないのだ。

 ティムトは恨めしげにクリスフィアをにらみつけたが、クリスフィアは子供のように笑いながら舌を出していた。


「まあ確かに、儂も見事な手際だと感心させられたぞ。もしもロネックが激情にとらわれたら、ジョルアンなどひとひねりであろうな」


「ですが、ロネック将軍のほうはまだ敵方の人間であると決まったわけではありませんからね。しばらくは、様子を見るべきでしょう」


 レイフォンとしては、そのように無難な言葉を述べることしかできなかった。

 しかし、クリスフィアが王都に戻ったことによって、さまざまな事態が動き始めたようには感じている。良くも悪くも直情的かつ能動的なクリスフィアの存在は、運命の歯車を回す大きな力になるのだろう。


(なんというか、役者がそろってきた感があるな。これでダリアスも合流できれば、一気に事態が動きそうだが――)


 レイフォンがそのように考えたとき、ディラーム老が「おお」と声をあげた。


「これはひさしいな。おぬしも王都に出向いてきておったのか」


 どうやらまた、別なる相手が近づいてきたらしい。

 振り返ると、そこにはレイフォンにとっても見覚えのある人物がたたずんでいた。


「ああ、メルセウス殿か。これは確かに、おひさしぶりだ」


「ご無沙汰しておりました、ディラーム殿にレイフォン殿。お元気そうで何よりです」


 淡い色合いの髪に、灰色の瞳、そしてやや白みがかった肌という、アブーフ生まれのクリスフィアと似たところの多い風貌である。

 しかし、それ以外の部分はまったく似ていない。背のほうは人並みであるが、ずいぶん華奢な身体つきをした、まだ少年っぽさの残る若者だ。いかにも貴公子らしく面立ちは端整で、長めの髪を首の後ろでゆるく結っている。身につけているのも、王都の祝宴に相応しい礼装であった。


 そしてそのかたわらには、見覚えのない人物も控えていた。

 きっと、メルセウスの従者なのだろう。どことなくロア=ファムと雰囲気が似通っており、従士の礼装も窮屈そうにしているように感じられる。メルセウスに劣らず細身であるが、それは剣士として鍛えぬかれた結果であるように思えた。


 そして一点、ずいぶん異彩を放っているところがある。

 それは彼が、シムの民のように浅黒い肌をしていることであった。


 炭を塗ったように黒いシムの民と比べれば、まだしも淡い色合いなのかもしれないが、普通の西の民は黄白色か黄褐色の肌をしている。これほどはっきりとした褐色の肌をしているからには、少なからずシムの血を引いているはずだった。


 それでいて、髪は炎のように赤く、瞳は晴天のように青い。黒髪黒瞳の多いシムの民とは、その点が大きく異なっていた。

 その碧眼は鋭く切れあがっており、鼻は高く、唇は薄い。それもまた、シムの民に通ずる特徴だ。が、シムの民のように長身ではなく、上背はメルセウスと変わらないていどであった。


(何だろう。ずいぶん不思議な雰囲気をした若者だな)


 この人物が貴族の血筋でないことは明らかだ。しかし、ロア=ファムほど張り詰めた空気を発しているわけではなく、むしろ静かすぎるぐらい静かにも感じられる。そしてその青い瞳には、すべてを見透かすような不思議な力感と鋭さが感じられるようだった。


「クリスフィア姫は、初めてであったかな? こちらはジェノス侯爵家の嫡子、メルセウス殿だ。メルセウス殿、こちらはアブーフ侯爵家の嫡子たるクリスフィア姫であるぞ」


「ああ、あなたがアブーフの……お噂はかねがね聞き及んでいます」


 そう言って、メルセウスはにこりと屈託のない笑みを浮かべた。


「ご覧の通り、僕もアブーフの血を引いているのです。お祖母様が、アブーフ侯爵家の生まれで……ああ、そのような話は、クリスフィア姫のほうがよくご存じですよね」


「うむ。わたしの大伯母がジェノス侯爵家に嫁いだことは、もちろん聞き及んでいるが……」


「ええ。ですが、お祖母様は若くして魂を返すことになったので、僕は肖像画でしか拝見したことがないのです。クリスフィア姫のように凛然と美しい御方であられたようでした」


 あまりクリスフィアを貴婦人扱いすると余計な怒りを買ってしまうのではないのかな、とレイフォンはこっそり危ぶむことになった。

 が――メルセウスと言葉を交わしつつ、クリスフィアの目はそのかたわらの従者のほうをうかがっているようだった。


「それで、失礼だが……そちらは、メルセウス殿の従者であられるのかな?」


「はい。今日のところは、そういうことになっていますね」


 何だかずいぶん、奇妙な返答である。

 メルセウスは無邪気に微笑んだまま、その従者たる若者のほうに視線を差し向ける。


「もともと彼は、僕の友人なのですよ。ただこのたびは、従者として同行してもらうことになりました。名は、ジェイ=シンといいます」


「ジェイ=シン……氏を持つということは、やはりシムの血筋であるのか?」


「どうでしょう? シムの血を引いているかもしれませんが、あまりはっきりしたことはわからないのですよね。彼は、モルガ区域の民なのです」


「モルガ区域の民……つまりは、森辺の民か」


 クリスフィアの目が、大きく見開かれる。

 レイフォンとしても、それは驚きを禁じ得ないところであった。


「これは驚いた。森辺の民が、どうして侯爵家の嫡子の従者に?」


「森辺の民も、最近ではギバ狩り以外の仕事も受け持つようになっているのですよ。彼らが総出でギバ狩りに励んだら、肉を食べ尽くす前にギバを狩り尽くしてしまうかもしれませんからね」


 ギバというのは、モルガの森に生息する獣のことである。それは恐ろしい凶暴な獣であるという評判であるが、その肉は美味であり、毛皮もたいそう丈夫であるとされている。

 しかしそれ以上に有名であるのが、モルガの森辺の民であった。凶暴なギバを狩る彼らは尋常ならざる膂力を有しており、その力は一人で兵士十名分にも匹敵するという評判であるのだった。


「僕と彼は、父の代からの友であるのです。だから今回は、わがままを言ってこのような遠方にまで同行してもらいました」


「ふん。このように窮屈な格好をさせられるなら、断っておくべきだった」


 森辺の民たるジェイ=シンは、横目でメルセウスをねめつけている。

 メルセウスはまた微笑んで、「こら」とおどけた声をあげた。


「貴き方々の前で失礼だろう、ジェイ=シン? こちらのレイフォン殿などは、ヴェヘイム公爵家の嫡子であられるのだよ?」


「だったら、俺のように礼儀を知らない人間を連れてくるべきではなかったな。だいたい、森辺の民を貴族の祝宴などに連れ出すのが間違っているのだ」


「おやおや。それでも君の同行を許したのは、君の父上だよ? 君はシン家の名を汚すつもりなのかい?」


 ジェイ=シンは、口をへの字にして黙り込んでしまった。

 メルセウスは愉快そうに笑ってから、レイフォンたちのほうに向きなおってくる。


「失礼いたしました。どうか彼の不調法をお許しください」


「かまわんよ。儂らは堅苦しい作法を重んじる人間ではないのでな」


「ありがとうございます。それでは、またのちほどご挨拶をさせてください」


 そうしてメルセウスは奇妙な従者とともに立ち去っていった。

 クリスフィアは「うーむ」と難しい顔で腕を組み、ロア=ファムは獲物を狙う狩人の目つきで両者の後ろ姿を見送っている。それに気づいたフラウが、「どうなされたのですか?」と小首を傾げた。


「姫様もロア=ファムも、ずいぶんあちらの従者の御方を気にかけているようですが……」


「それは、気にかけるなというほうが無理な相談だ。あのようなものを見せつけられてしまってはな」


「あのようなもの……? 申し訳ありません。わたくしには、さっぱりわけがわかりませんわ」


 その答えを探すように、フラウが視線をさまよわせた。

 しかし、さっぱりわからないのはレイフォンも同様であるし、ティムトもけげんそうに眉を寄せている。ただ、ディラーム老だけは物思わしげに顎をさすっていた。


「確かにあれは、ひとかたならぬ傑物であるようだな。いや、傑物であるというよりは……」


「ええ。控えめに言っても、あれは化け物ですね。この世にあのようなものが存在するとは、わたしも夢さら思っていませんでした」


 クリスフィアは、仏頂面でそう言い捨てた。


「まるで、野の獣が人の形を取ったかのようです。あの森辺の狩人を仕留めようと思ったら、兵士十人でも足りないことでしょう」


「まあ。でも、あの御方たちと争う理由などないでしょう?」


「それはそうだが、あのような存在を目前に迎えたら、とうてい平静ではいられないのだ。わたしとて、誉れあるアブーフの剣士なのだからな」


 つまり、腕に覚えのある三名は、森辺の狩人たるジェイ=シンから並々ならぬ力量を感じ取って心を乱している、ということであるようだった。そう考えると、ロア=ファムなどは悔しくてたまらないように目を光らせているようにも思えてしまう。


「何だかよくわからないけれど、ジェノスが今回の騒ぎに関わる恐れなどはないはずだよね?」


 レイフォンがこっそり耳打ちすると、ティムトは「ええ」とうなずいた。


「ですが、彼らも戴冠式が終わるまでは王都に留まります。おかしな形で敵方に取りこまれてしまわないように、目を光らせておくべきなのかもしれませんね」


「そうか。だったら、私とディラーム老はメルセウス殿とも旧知の仲だ。今宵の内に、いっそうの親睦を深めておこうかね」


 ティムトは、とても冷ややかにレイフォンを見上げてきた。


「つまりレイフォン様は、このような密談にも飽きてきたので、そろそろ祝宴を満喫されたいということでしょうか?」


「うん、まあ、昨日から特に進展はないんだし、これ以上は議題も残されていないのかな、と思ってね」


 レイフォンがそのように応じたとき、また新たな人影が近づいてきた。

 そちらを振り返ったレイフォンは、思わず「おや」と言葉をもらしてしまう。


「これはこれは。祝宴の場にゼラ殿が姿を現すとは珍しいね」


「はい……至急お伝えしたいことがありましたので、やむをえなく参上いたしました……」


 クリスフィアとディラーム老も、緊迫した面持ちでこちらを振り返っていた。


「どうしたのだ、ゼラ殿? ジョルアン将軍の手下どもが、動いたのか?」


「はい……しかし、わたしはまた後手を踏んでしまったようです……」


 ゼラの声には、わずかに無念の響きが混じっているように感じられた。


「先日、王都からはシーズ将軍の死の真相を確かめるために、調査隊が派遣されたという話であったのですが……どうやらその顔ぶれが、いつの間にか例の中隊の者たちと入れ替えられていたようなのです……」


「なに? 例の中隊というのは、ダリアス殿を襲ったジョルアン将軍の手の者という意味だな? そんな連中が、ダリアス殿の滞在しているダーム公爵の屋敷に向かったということか?」


「どうぞお静かに……どこで誰が耳をそばだてているとも限りませんので……」


「しかしそれなら、このような場所でのんびりしてはいられまい。すぐにこちらも手を打たなければ――」


「いえ……」と、ゼラは首を横に振った。


「調査隊が派遣されたのは、朱の月の三十日でありますので……黄の月の一日には、もうダームに到着していることになるのです……」


 黄の月の一日といえば、二日前――クリスフィアが王都に戻ってきた日であった。

「なんということだ」と、クリスフィアは歯噛みする。


「では、ダリアス殿はどうなったのだ? 二日もあれば、そやつらも王都に戻ってこられるはずであろう?」


「名目上はシーズ殿の死の調査であるのですから、しばらくはダームに留まるのでしょう……ダリアス様が上手く身を隠されていると願う他ありません……」


「くそっ! ジョルアン将軍が下していた命令というのは、それであったのだな。なんと悪辣な男なのだ」


「しかし」と声をあげたのは、ティムトであった。


「ダリアス様がダームに潜伏しておられるという話は、まだ敵方にも漏れてはいないはずです。ですから、むしろ危険であるのは、ダーム公爵家の当主トライアス様なのではないでしょうか?」


「トライアス殿が? ……ああ、そうか。もともとシーズ殿は、トレイアス殿の動向を探っていたのだったな」


「はい。その間諜役たるシーズ様が害されたことによって、ジョルアン将軍は自らの悪事がトレイアス様に露見したと考えたのではないでしょうか?」


 クリスフィアは、がりがりと頭をかきむしった。


「こうして話していても、埒が明かんな。わたしは、ジョルアン将軍を探そうと思う」


「それで、どうなさるおつもりなのですか?」


「わからんが、探りの入れようはあるだろう。わたしもつい先日まではダーム公爵邸の客人であったのだから、シーズ殿の話などを出せば、相手の動揺を誘えるかもしれん」


 ティムトは、深々と溜息をついた。


「わかりました。それでは、レイフォン様と僕も同行させてください」


「儂は、遠慮しておこう。おぬしたちのように、腹芸のできる性分ではないのでな。その間に、他の公爵家の者たちの様子をうかがっておくことにするか」


 ディラーム老もクリスフィアも、武人の顔で目を光らせている。

 どうやら本日は、レイフォンに祝宴を楽しむ機会は与えられそうにないようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ