Ⅴ-Ⅲ オータムの祝宴
2017.12/30 更新分 1/1
壮行の祝宴は、オータム城の大広間にて開かれることになった。
全体的に無機的で飾り気のないオータム城であるが、その大広間だけはけばけばしいほどに飾りたてられている。準備された酒や食事も贅を尽くしたものであり、これが貴族どもの祝宴というものか、とメナ=ファムを少なからず呆れさせた。
また、大広間には数えきれないほどの人間が集められている。いずれも豪奢な宴衣装に身を包んだ、ゼラド大公国の有力者たちだ。白と黄色を基調にした礼服姿の軍人たちや、胸もとまでざっくりとあらわにした貴婦人たち、白い長衣にじゃらじゃらと飾り物を下げた老人たちなど、誰もが心からこの祝宴を楽しんでいる様子である。
(ふん。これから王都の連中に大がかりな戦を仕掛けようってのに、よくもまあへらへらと笑っていられるもんだ)
なるべく人気のない壁際を選んで立ち尽くしていたメナ=ファムは、内心でそのようにひとりごちた。
メナ=ファムが纏っているのは、男ものの礼服である。もともとメナ=ファムはこのオータム城でも男ものの装束を纏っていたし、そもそもメナ=ファムの体格に合う貴婦人の宴衣装などは存在しないという話であったので、これ幸いとこの礼服を準備してもらったのだ。
だいたいメナ=ファムは普通の男よりも大柄なぐらいであったので、その礼服さえもがいささか窮屈なぐらいであった。また、隣国であるジャガルの流行を取り入れたその礼服は、咽喉もとに邪魔くさい襟が付けられており、脚衣もずいぶん細身に作られていたので、メナ=ファムにはなおさら窮屈に感じられてしまった。
そんなメナ=ファムの視線の先では、シルファとエルヴィルがゼラドの要人たちに取り囲まれている。
二人もメナ=ファムと似たり寄ったりの礼服姿であるが、さすがにシルファだけは立派な肩掛けや飾り物などで、王子らしい体裁を整えられていた。
しかし、そのような飾り物がなかったとしても、シルファが見窄らしく見えることはなかっただろう。銀灰色をした絹糸のような髪や、血の色を透かした青灰色の瞳、抜けるような白い肌が、その作り物のように端麗な美貌を神秘的に彩っているのだ。ゼラドの支配者層が集結したこの会場でも、シルファより美しい貴婦人を見つけるのは難しかった。
「……何だ、このような場所に引っ込んでいたのか、メナ=ファムよ」
と、聞き覚えのある声が横合いから投げつけられてくる。
メナ=ファムが振り返ると、そこにはやはり礼装姿のラギスが立ちはだかっていた。
「王子殿下の護衛役といっても、エルヴィルが出張っている間は気を張ることもあるまい。今の内に、酒と料理を楽しんだらどうだ?」
「はん。酒はいただいてるけど、ちいとも酔えそうにないねえ。こいつはカロンの小便か何かかい?」
「そいつは、ジャガルで有名な発泡酒というものだな。酒精は、ママリアの果実酒の半分ほどだろう」
「そりゃあ酔えないはずだ。あんたは、何を飲んでるのさ?」
「これは、ニャッタの蒸留酒だな。こいつもジャガルから買いつけた酒で、酒精は果実酒よりも強い」
メナ=ファムは無言でラギスの酒杯をひったくると、半分ほど残されていたその酒を一息で飲み下してみせた。
「こいつはいいね。あんまり馴染みのない風味だけど、ほどよく酔っ払えそうだ」
「まったく、蛮族丸出しだな。さすがは卑しき自由開拓民といったところか」
「ああ。あたしはシャーリの狩人であることに誇りを持っているから、なんとでも言えばいいさ。この酒は、どこに行ったらもらえるんだい?」
空になった酒杯を卓に放り出しながら、メナ=ファムはひとつ肩をすくめてみせた。
ラギスは苦笑めいた表情を浮かべながら、豪奢な壁掛けのかかった壁にもたれかかる。
「おい、酒を楽しめとは言ったが、護衛の仕事を忘れるなよ。こんな場所でも、王子殿下に不埒者が近づかぬとは限らんからな」
「はん。酒の一杯や二杯であたしがどうにかなるもんかい。あたしを酔わせたいんだったら、さっきの酒を壺ごと持ってきな」
「まったく……機嫌がいいのか悪いのかわからんな。この数刻で、何か心を乱すようなことでもあったのか?」
「やかましいよ。あんたがあたしのご機嫌をうかがう必要なんてないだろう? ほっときな」
確かにメナ=ファムは、少なからず心を乱していた。二人きりの浴堂において、シルファのために魂を返すその瞬間まで尽くしてやろうと誓ってから、まだ一刻ていどしか経ってはいないだ。いかに豪胆なメナ=ファムといえども、それで平静な気持ちを保つことは難しかった。
(今度こそ、あたしの運命は定まっちまった。もうあたしが狩人としてシャーリの川辺に立つことはないだろう。あたしはシルファと一緒に、大嘘つきの大罪人として生きていくんだ)
シャーリの集落に残してきたただひとりの家族とも、もはや再会することはかなわないだろう。そんな風に考えると、メナ=ファムの胸にはひきつれるような痛みが走った。
しかし、その痛みと引き換えに、メナ=ファムはここ数日の重苦しい気持ちからは解放されていた。
今後は、迷うこともない。シルファのために生きて、シルファのために死ぬ。それを決断することで、メナ=ファムはいっそ清々しいぐらいの気持ちになっていたのだった。
「……よくわからんが、肚の据わった目つきをしているな」
と、ラギスはにやりと不敵に笑う。
「それならそれで、俺も祝福してやろう。お前は俺やエルヴィルのやり口に反発していたようだから、いささか心配なところではあったのだ」
「はん。だったら、祝いの酒ぐらい好きに飲ませてほしいもんだね」
ラギスは同じ表情のまま、しずしずと歩いていた小姓に新しい酒を運んでくるように言いつけた。
透明の酒が注がれた金属の酒杯が、二人のもとに届けられる。それを手にしたラギスは、小姓を追い払ってから、メナ=ファムの酒杯に自分の酒杯をかつんと軽く当ててきた。
「王子殿下と、俺たちの勝利のために」
「はん。そんな野心たっぷりの顔で笑ってたら、周りの連中にあんたの悪巧みを見透かされちまうよ」
憎まれ口を叩いてから、メナ=ファムは酒杯の酒を半分ほど口に含んだ。
苦い酒が、熱く咽喉を焼いていく。甘さも酸っぱさもないその味は、メナ=ファムにとってきわめて飲みなれないものであったが、酒精の強さは心地好かった。
「どうもお前は、蛮族のくせに真面目くさった部分があるようだな。王子殿下にお力を貸すことが、そんなに後ろめたく思えてしまうのか?」
低い声で、ラギスがそのように問うてきた。
メナ=ファムは、横目でそちらをにらみつけてみせる。
「こんな場所で、そんな大それた話をするつもりかい? あんたは、この場にいる連中を全員裏切ろうって企んでるんだろう?」
「これだけ騒がしければ、俺たちの声など聞こえまい。祝宴というのは、密談をするのにもうってつけの場であるのだ」
「ふん……王族でも何でもないシルファに王位を継がせようってんだから、それを後ろめたく思わない人間なんているもんかね? いくら自由開拓民だって、セルヴァの子であることに変わりはないんだからさ」
メナ=ファムが小声で応じると、ラギスは「ふん」と鼻を鳴らした。
その黒い瞳に、ちりちりと野心の火が燃えている。
「しかし俺は、ベアルズ大公閣下の落胤だ。ゼラド大公家はまぎれもなく王家の血を引いているのだから、俺が玉座に座っても西方神の怒りを買うことはないだろう。そう考えたからこそ、エルヴィルは俺を王子殿下の伴侶に選んだのではないか?」
「はん。それでも、今の王を弑逆していいって理由にはならないだろうさ。血筋でいえば、あっちのほうがよっぽど確かなんだろうしね」
「それはどうかな。お前はエルヴィルたちがどうしてこのような行いに手を染めたのか、忘れたのか? あいつらは、現在の王ベイギルスこそが、前王カイロスを弑逆したのだと疑っているのだぞ。ならば、そのような大罪人こそ、玉座から引きずりおろすべきであろうが?」
酒杯に口をつけようとしていたメナ=ファムは、その手を止めて、ラギスに向きなおった。
「そういえば、あたしはあんまりそっちの話に頭を向けたことがなかったんだよね。現在の王は、本当にそんな大それた真似をしでかしたのかい?」
「俺がそのようなことを知るわけはない。しかし、赤の月にはベイギルスにとって邪魔な人間たちが先を争うように魂を返していったのだ。これでは、エルヴィルがベイギルスを疑っても無理からぬところだろうな」
その黒い瞳をいっそう激しく燃やしながら、ラギスはふてぶてしく笑った。
「俺たちは誰かを暗殺しようとしているわけではないし、誰かに自分の罪をなすりつけようとしているわけでもない。ただ、己の力で玉座を勝ち取ろうとしているだけなのだ。誰に何を恥じる理由もなかろうよ」
「はん。これだけ大勢の人間をだまくらかそうとしているくせに、その言い草かい。まったく、大した心臓だよ」
「俺は俺に相応しい立場を手に入れようとしているだけだ。魂を返した後も、西方神の前でそう宣告するつもりだぞ」
確かにラギスは王家の血を引いているのだから、それでもいいのだろう。しかしシルファは、嘘を嘘で塗り固めている。何よりも尊ぶべき王家の血筋を騙ることなど、西方神に許されるとはとうてい思えなかった。
(ま、二人で一緒に魂を砕かれれば、さびしい思いをすることもないだろうさ)
メナ=ファムは、放埒な気分で酒杯の酒を飲み干した。
そのとき、大小の人影が人混みをかきわけてこちらに近づいてきた。
「ラギス殿、こちらにおられたか。王子殿下の侍女も一緒であったのなら、都合がいい」
その片方は、見覚えのある人物であった。南の民のようにずんぐりとした初老の男性、将軍タラムスである。
もう片方は、タラムスよりも頭一つ分も大きい、壮年の男であった。ただ長身なばかりでなく、きわめて図太い体格をした、いかにも歴戦の勇士といった風貌である。小柄な人間の多いゼラドで、メナ=ファムが自分よりも上背のある人間を見たのは、これが初めてかもしれなかった。
「タラムス将軍に、デイムか。俺に何かご用事かな?」
ラギスは何事もなかったかのように、そちらを振り返った。その面にはふてぶてしい笑みがたたえられたままであるが、眼光の激しさはいくぶん抑えられている。
「タラムス将軍とはすでに顔をあわせているはずだな。こちらは第三連隊の大隊長デイムだ。……お前も少しは礼儀というものを覚えろよ、メナ=ファム」
メナ=ファムは、せいぜいお行儀よく一礼してみせた。貴族やそれに連なる人間に対する礼儀など、シャーリの狩人たるメナ=ファムがわきまえているはずもなかった。
「それで、どういったご用事かな? 王子殿下にご用事であれば、俺が取り次ごう」
「かの御仁に用事はない。今のところはな」
タラムスは、とても苦々しげな顔つきをしていた。
この頑固そうな将軍は、エルヴィルらを味方陣営に引き込むことに、最初から難色を示していたのである。エルヴィルは、かつてゼラドの軍と何度なく刃を交えたアルグラッド軍の千獅子長であったのだから、それも当然の話と思えた。
「黄の月の十五日には、いよいよ進軍を始めることになった。それに先立って、ラギス殿にうかがいたいことがある」
「ああ。昼間の軍議で、何か伝え忘れたことでも?」
「軍議で取り沙汰するような話ではないと思い、この祝宴を待っていた。カノン王子は、本当にそこな侍女めを従軍させる心づもりであるのか?」
タラムスの言葉に、ラギスは「ふむ?」と首を傾げる。
「いかにもその通りだが、将軍には何か異議でもあられるのかな?」
「大いにある。戦場に女人を連れ歩くなど、かつて例のないことだ。身の回りの世話をさせるには、従士を準備すれば十分であろう?」
ラギスは目を細めて笑いながら、「なるほど」とうなずいた。
「将軍には、シムの民よりもこのメナ=ファムを同行させることのほうが、気に障ってしまったのか。それは、いささか意外だったな」
「……シム人の従者というのも例のない話だが、あちらはまだしも男であるからな。大公閣下がそのように決断されたのなら、儂が口をはさむような話でもない」
それでもタラムスは、不本意そうに眉をひそめていた。この人物はおそらくジャガルとの混血であり、ジャガルとシムは数百年来の敵対国であるのだ。
「しかしメナ=ファムは、侍女として同行するわけではない。護衛の兵士として、王子殿下のおそばにあるのだ。もちろん身の回りの世話もしてもらうことになろうが、それこそ従士と思ってもらえば差し支えもなかろう」
「差し支えがないと? 陣中に女人があるだけで、大いに差し支えはあろう」
「ふむ。兵士たちが、メナ=ファムの色香に惑わされてしまうことを危惧しておられるのかな。それは確かに、由々しき事態だ」
ラギスは口の端をあげて、人の悪い笑みを作った。
タラムスは気分を害した様子で、いっそう眉間に深いしわを寄せる。
「冗談事ではないぞ、ラギス殿。いかにセルヴァの正当な世継ぎとしても、そのような奔放を許しては軍規にもとる。公子たちがそれを真似て、侍女の同行を認めよなどと申し出てきたら、何とするつもりだ?」
「ははあ。あの公子たちでは、ない話ではないかもしれんな」
メナ=ファムは「ちょいと」とラギスの耳もとに口を寄せることになった。
「公子ってのは、あのふとっちょどものことだよね? まさか、あいつらも戦に加わるのかい?」
「大公や公子なくして、どのように戦をするつもりだ? まあ大公閣下は迂闊にオータムを離れるわけにもいかんので、このたびの戦も公子のどちらかが軍を率いることになるのだろうな」
メナ=ファムは、心から呆れかえることになった。
ちなみにその公子たちは、さきほどから貴婦人を侍らせて意地汚く料理を食い散らかしている。しつけのなっていないカロンでも、もう少しは行儀がいいように感じられる有り様であった。
(なるほどねえ。あんなぼんくらどもが、ただ世継ぎの血筋であるというだけで、総大将をまかされるわけか。そりゃあラギスがやきもきするわけだ)
メナ=ファムがこっそり溜息をついている間に、タラムスはなおも言葉を重ねていた。
「だいたい、カノン王子には五十名の旗本隊が与えられることになったのであろうが? ならば、護衛役など必要もなかろう。ことさら女人を同行させる甲斐もない」
「しかし、このメナ=ファムめは王子殿下のお気に入りなのでな。かつては王都の軍から王子殿下の御身を守った功績もあるし、側仕えの人間としてはうってつけであるのだ」
「そのようなものは、あのシム人と黒豹のみで十分であろう」
「ラムルエルは、自身が刀を扱えるわけではないので、心もとないのだ。……タラムス将軍、そろそろ本題に入られてはいかがかな? そちらのデイムは、小姓代わりに引き連れているわけではないのだろう?」
ラギスは腕を組み、ずっと無言である大男の顔を見上げやった。
「デイムほどの勇士であれば、王子殿下の護衛役に任じられてもおかしくはない。タラムス将軍は、そのようにお考えになられたのではないのか?」
「……大隊長たるデイムに、そのような仕事を任せるわけにはいかんがな」
「しかし、このメナ=ファムがデイムに劣らぬ力量を備えていれば、公子たちを黙らせることもできる、というわけか。それならば、メナ=ファムは侍女ではなく一人の兵士として同行するのだと言い張ることもできるからな」
なんだか、おかしな方向に話が進んでいるようだった。
それにしても、王国の人間というのはどうしてこのように回りくどく言葉を重ねるのか。内心で舌を出しながら、メナ=ファムラギスのほうに向きなおった。
「で? 要するに、あたしとこのデイムってお人が力比べでもすりゃあいいのかい?」
「ああ。それでお前があまりぶざまな姿をさらさなければ、王子殿下の護衛役として同行することも許されるだろう。……ただし、このデイムはオータムの闘技会で第五位の勲を賜るほどの力量であるがな」
メナ=ファムは「ふうん」とだけ応じておいた。
その態度に腹を立てたのか、大男のデイムは無言のまま、やや顔を赤くしている。
「では、この腕試しに応じようというのだな? もちろん腕試しには木剣を使ってもらうが、打ちどころが悪ければ生命を落とすことにもなるのだぞ」
「あたしは、何でもかまわないよ。王子殿下のお側にいられないなら、こんな場所までひっついてきた意味もなくなっちまうからね」
タラムスは仏頂面でうなずくと、小姓を大公のもとまで走らせた。
知らせを聞いた大公ベアルズは、酒杯を手に大きな笑い声を響かせている。
「それは愉快な余興だな! タラムスもなかなか気がきいているではないか!」
今度は大公が小姓を走らせて、壁の一面に掛けられていた帳を開かせた。
帳の向こうには巨大な鉄格子の扉があり、それも大きく開け放たれると、夜の闇があらわにされる。帳と扉の向こう側は、中庭であったのだ。
さらに複数の小姓たちが、中庭に設置された燭台に火を灯していく。すると、その場には円形に石畳が敷かれていることが見て取れた。
「ふうん。あそこはもともと、力比べをする場だったのかい?」
「ああ。祝宴のさなかに剣士の闘いが余興として開かれることは少なくないからな」
ラギスとそのような言葉を交わしていると、シルファとエルヴィルが息せき切って駆けつけてきた。
「メナ=ファムよ、これはいったい何の騒ぎなのだ?」
「ああ。あたしに王子殿下の護衛役がつとまるほどの腕があるかどうか、確かめたいって話らしいよ。まったく、面倒な話さね」
とたんにシルファが心配げな眼差しになったので、メナ=ファムはそちらに笑いかけてみせた。
「心配しなさんな。あたしはこんなところで、ほっぽり出されたりはしないよ。お相手の騎士さんが怪我をしないように、せいぜい祈っておいておくれ」
そのように言い捨てて、メナ=ファムはずかずかと歩を進めていった。
すでにデイムは舞台の真ん中に陣取っており、タラムスもそのかたわらにたたずんでいる。そして、二人の小姓たちがどこかから運んできた木造りの剣をうやうやしく掲げていた。
「相手の剣を手から落とすか、相手に参ったと言わせるかで勝敗を決する。木剣ゆえに甲冑は纏わぬことにするが、それでかまわぬだろうな?」
「ああ。何でもかまわないよ」
メナ=ファムは小姓から木剣を受け取って、それをぶんぶんと振り回してみた。
重さはほどほどで、柄には滑り止めの革帯が巻かれている。これならば、メナ=ファムとしても申し分はなかった。
「西方神に恥じることのない闘いを見せよ。……それでは、始め!」
デイムは両手で木剣を握りしめ、火のような目つきでメナ=ファムをにらみつけてきた。
油断のない、見事なかまえである。ラギスやエルヴィルよりは一段落ちるのであろうが、この男も歴戦の勇士であるのだ。
(鉄の刀の斬り合いだったら、けっこう手こずっていたかもね)
そんな風に考えながら、メナ=ファムは一息で相手の懐に飛び込んだ。
両手で握られた木剣を、渾身の力で、横合いから撃つ。
鈍く、硬質な音色が響きわたり――デイムの木剣が、頭上に飛来した。
が、デイムの手にはまだ木剣の柄が残されている。
デイムの木剣は、真ん中から二つにへし折れてしまったのだった。
すかさず身を引いたメナ=ファムは、思わず「ありゃ」と言葉をこぼしてしまう。
「今の一撃で手を離さないなんて、あんた、ものすごい腕力だね」
デイムは、呆然と立ち尽くしていた。
しかし、次の瞬間には、半分の長さになった木剣で、メナ=ファムに殴りかかってきた。
(まいったな。酔いが回らない内に、片付けるか)
メナ=ファムは意識を研ぎ澄まして、デイムの一撃を待ち受けた。
刀身は半分の長さでも、それが当たれば、骨も粉々に砕けてしまうだろう。力の乗った、素晴らしい斬撃だ。
その一撃を鼻先まで引きつけてから、メナ=ファムは身をよじり、相手の足先に剣先を繰り出した。
それと同時に、デイムの右腕を横からひっつかみ、力を受け流す。
木剣に足をからめられたデイムは、前側につんのめった。
そうして右腕をつかんだメナ=ファムが腰を落とすと、デイムの両足がふわりと石畳から浮き上がる。
デイムは空中で一回転をして、背中から石畳に叩きつけられることになった。
「ぐはあ」と息の塊を吐き出したのちに、デイムはがくりと昏倒する。
が、その手には折れた木剣が握られたままであった。
「うーん、参ったって言う前に眠っちまったんだけど、この場合はどうしたらいいのかねえ?」
メナ=ファムは頭をかきながら、タラムスを振り返った。
タラムスは、唖然とした面持ちで地面のデイムを見下ろしている。
そこに背後から、見物人たちの歓声が爆発した。
「見事な手並みだ! シャーリの狩人の力量をぞんぶんに楽しませてもらったぞ!」
大公ベアルズは、呵呵大笑している。
そのかたわらで、シルファはほっと息をついているようだった。
(ふん。魂を懸けると誓った直後に道を閉ざされちまったら、お笑い種だからね。こんなことで、あたしの覚悟を台無しにされてたまるもんかい)
木剣を携えたまま、メナ=ファムは頭上を仰ぎ見る。
満天に無数の星がきらめいていたが、メナ=ファムがそこから自分の運命を読み取ることはできなかった。