Ⅳ-Ⅱ 雌伏の日々
2016.12/22 更新分 1/1
ギムの家で目覚めてから翌々日、ダリアスはようやく自分の足で不自由なく歩けるぐらいに回復していた。
しかし、家から出ることはかなわない。ギムによると、城下町を巡回する衛兵の数はまったく減じず、宿屋や食堂などを中心に「誰か」を捜索し続けているようである、との話であった。
いまだにダリアスが名指しで追われているわけではないのだ。
しかし、その事実がいっそうダリアスを用心深くさせていた。
ダリアスは十二獅子将としての職務を打ち捨てて、行方をくらました格好なのである。そして、ルアドラ領を離れる際は城下町に向かうと言い置いたのだから、むしろ名指しで捜されるのが当然であろうと思われた。
しかもダリアスは、衛兵を名乗る男たちに謀反人扱いで斬りつけられたのだ。
そうであるにも拘わらず、正式な罪人としては扱われていない。生命を落とした従士についても、まったく触れは回されていない。これで衛兵の手に落ちてしまったら、正しい審議もなく闇から闇へと葬りさられてしまうのではないのか――ダリアスはそういう懸念を打ち捨てることができなかった。
(もう少しだ。せめて刀を取って自分の身を守れるようになるまでは、ここから動くべきではない)
しかし、身体が回復するにつれ、そういう自制が苦痛になってきたこともまた確かであった。
迂闊に外を覗くこともままならないので、ダリアスは薄暗い部屋にじっと引きこもっている。意識のなかった五日間を含めれば、もうこれで七日もまともに日を浴びていないのだ。戦地で刀をふるうことによって十二獅子将の座を得たダリアスとしては、このような薄暗がりでくすぶっていることほど気性に合わないものはなかった。
(くそっ。傷が癒えたら、どうあれこの鬱憤は晴らさせてもらうからな)
そのように思いながら、ダリアスは一階の作業場でひとり悶々としていた。
今日は商会の寄り合いがあるとかで、昼下がりにはギムやその弟子たちも店をしめていなくなってしまったのだ。そうしてラナまでもが買い物に出かけてしまったため、今この家にはダリアしかいない。それならせめて広い場所でくつろがせてもらおうと思い至り、ダリアスは階下まで下りてきたのだった。
広いには広いが、室内は雑然としている。鍛冶屋の工房なのだから、それは当然である。昼過ぎまで火の入れられていた炉はまだ熱を持っており、室内にはむっとした熱気が充満している。
これでは二階の寝所のほうが過ごしやすいぐらいであったが、ダリアスはもう変わり映えのしない木造りの壁を眺めることにも飽いてしまっていた。その点、この工房にはなかなか目を楽しませるものが取りそろえられていた。
壁には鉄槌や鏨が掛けられ、巨大な炉の前には黒くくすんだ金床が置かれている。炉に空気を送るための足踏みのふいごに、長い柄を持つ火かき棒。壺の中に収められているのは黒い砂鉄と、それを熱して造りあげた玉鋼の塊だ。
ギムは鍛冶屋の中でも刀を専門に打つ、刀鍛冶であったのである。
これが鉄鍋などの鍛冶屋であったのなら、ダリアスも興味はもてなかったかもしれない。しかし、自分が生命を預ける刀がこういう場で造られているのだと考えると、それだけで厳粛な気持ちと奇妙な昂ぶりを同時に得られることがかなったのだった。
空気には、鉄や炭の臭いが強く残っている。少しいがらっぽいそんな空気までもが、好ましく思えてしまう。
ダリアスは窓という窓に目隠しの布を掛け、さきほどから半刻ばかりもその工房を徘徊していた。
さきほど下りの五の刻の鐘が鳴ったので、日没もそれほど遠くはないだろう。少なくともラナが買い物から戻るまでは、ダリアスはここで時間を潰させてもらおうと考えていた。
(ラナ……あれも不思議な娘だな)
まだ十六歳なのに、ときたま透徹した眼差しを見せる、ラナはそういう娘であった。
基本的には年齢相応で無邪気なところもたくさんあるのだが、ふとしたときに母親のような温かさや懐の深さが感じられる。また、ダリアスは幼い頃に母親と死別していたので、なおさらそういう気質が得難いものに感じられてしまうのだった。
「ひとつ尋ねたいことがあるのだが――」
と、そんな風に問うたのは昨晩のことであった。
「俺は五日もの間、眠りに落ちていたという話だったな?」
「はい、その通りです」
「しかし昨晩に目を覚ましたとき、俺は――何というか、その……ずいぶん身ぎれいな姿であるように思えたのだ」
ラナは不思議そうに小首を傾げるばかりで、まったくダリアスの質問の意図もわかっていない様子であった。
「だからだな、俺はその間、水も飲めず、ものも食えず、ただうなされているばかりであったのだろうが……そんな目にあう日の昼までは、普通にカロンの肉をかじったり果実酒を飲んだりしていた。しかし、昨晩の俺は腹の中も空っぽで、お前の出してくれた煮汁もたいそうありがたく口にすることができたのだ」
「…………?」
「――人間とは、五日間もはばかりに行かずに過ごすことができるものなのだろうか?」
ついにダリアスがその言葉を口にすると、ようやくラナは「ああ」と微笑んだ。
「汚れた下帯は何度か取り替えさせていただきました。もちろん新しく買ってきたものですので、何も心配はいりません」
「……それは誰が取り替えてくれたのだ?」
「はあ。家の主人であるギムに、そのような仕事を任せるわけにはいきませんでしたが」
ダリアスは深々と息をつき、固い寝台の上で頭を抱え込むことになった。
「どうかなさいましたか? わたしは隣家に幼子が生まれたとき、乳母の真似事のような仕事を任されていたので、何も困ることはありませんでしたが」
「……生まれたての赤子とこのようにむさ苦しい男では勝手も違かろう」
ラナはちょっと考え込むような顔になり、それからはにかむように微笑んだ。
「あのときはダリアス様の身を案じていたので、羞恥の気持ちを抱くゆとりもありませんでした。今でしたら、きっとわたしも平気な顔はしていられないのでしょうね」
思い出すと、ダリアスは今でも首から上が熱くなってしまう。
ダリアスは余計な想念を頭から打ち払い、やけくそのように工房を歩き回った。
それで、卓の下に置かれていた木箱の存在に初めて気づく。
それは細長い、頑丈そうな造りをした木箱であった。
大きさは、ちょうど人間の腕一本を収められるぐらいのものである。
ダリアスは少し迷ってから、その木箱を卓の下から引きずり出した。
幸い、蓋には釘も打たれていなかったので、傷をつけぬよう慎重に取り上げる。
予想にたがわず、そこに収められていたのは、長剣であった。
革の鞘に収められて、藁の中に寝かされている。その鞘も、革紐の刺繍で装飾をされた、なかなか上等な仕上がりであった。
柄は十字の形をしており、握り手には滑り止めの革帯が巻かれている。鞘の大きさからして、片手でも両手でも扱えそうな中型の長剣だ。
ダリアスはいっそう慎重にその刀をすくいあげ、鞘から刀身を引き抜いてみた。
鞘の内側には硬い木の板でも張られているらしく、しゅらっと小気味のいい音色が響き渡る。
実に見事な長剣であった。
鋼の鈍色が美しく、どこにも歪みは見られない。
ダリアスは立ち上がり、軽く剣を振ってみた。
刀身と柄の重さの釣り合いもちょうどいい。ひさびさに味わうずしりとした手応えに、ダリアスは胸の高鳴りを覚えるほどであった。
もっと広い場所に移り、柄に両手を添える。
そうしてダリアスは、六分の力で横なぎに虚空を叩き斬ってみた。
背中に、ずきりと痛みが跳ねあがる。
足もとも少しよろけてしまった。
しかし、刀の重さがダリアスにまたとない安心感を与えてくれる。
ダリアスの刀は先日の戦いで折られてしまい、ギムから返された手荷物にも短剣しか残されていなかったのだ。
(こんな立派な鞘に収められているのだから、これは買い手がついてしまっているのだろう。傷が癒える前に、俺にも新しい刀をこさえてほしいものだ)
そのように考えつつ、ダリアスは足もとの革鞘に手をのばそうとした。
そのとき、ギギィッ――と戸の軋む音がした。
裏口の方向である。
この家の出入口や窓の場所はすべて把握していたので、間違いはなかった。
そして、ギムやラナは薪割りの仕事でもない限り、裏口を使うことはない、とも聞いていた。
(いや、そういえば、昼頃に誰かが裏で薪を割っている気配がした。そのときに、閂を掛け忘れてしまったのか?)
ダリアスは一気に緊張し、刀を手にしたまま壁に背をつけた。
ぎしぎしと床の軋む音がする。
何者かが屋内に入ってきたのだ。
二階への階段は、この工房と裏口の間の通路にあった。
ギムたちの寝所や物置きなどもその通路上にあり、この工房からは土間をはさんで外にしか行けない。
ダリアスは唇を噛み、大急ぎで考えを巡らせた。
ダリアスのような大男が身を隠す場所は、この工房にはない。表口から逃げるか、侵入者と相対するか、道は二つだ。
(表口はまずい。通りにはまだ大勢の人間がいるだろう。そこから姿を現せば、ギムが俺をかくまっていたことが露見してしまう)
ならば、侵入者と対峙するしかない。
もしもこれが追っ手であったなら、口を封じたのち、裏口から逃げるのだ。死体は家の外に運び出せば、ギムに疑いの目がかけられることもないだろう。
(いや、しかし、この場を突き止めたということは、俺の家とギムの妹の関係が敵方に露見してしまったということか……? くそっ!)
そうだとしたら、ギムやラナも連れて逃げるしかない。
そうして彼らを安全な場所にかくまったのち、身の潔白を明かすのだ。
そのように決断して、ダリアスは裏口への通路に続く扉のほうにじりじりと近づいていった。
侵入者がこの場所まで踏み込んでくるようであれば、先手を取って身柄を拘束する。この身体でも敵が一人や二人であれば相手取ることはできるし、また、相手取ることができなければダリアスの命運もここまでなのだ。
ダリアスは覚悟を固め、扉のすぐ脇に身を潜めた。
足音は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
確かとは言えないが、おそらくは一人だ。少なくとも、三人や四人の足音ではない。
ダリアスは深く息をつき、柄を握る手に力を込めた。
キイッと頼りない音をたてて、扉が開き――
若い男の顔が、にゅうっと室内にのびてきた。
ダリアスは無言で、その男につかみかかる。
男は「うひゃあっ!」とわめき声をあげて、床に転がった。
その細っこい胴体を左腕で押さえつけつつ、ダリアスは長剣を首にあてがった。
「何者だ? 留守を狙ったこそ泥か?」
少なくとも、ギムの弟子にこのような若者はいないはずであった。姿は見ていないが、ギムにはそう聞いている。
若者は、「な、な、何ですか、あなたは!」と悲鳴まじりの声をあげた。
「大きな声を出すな。痛い目にあいたいか?」
「や、や、やめてください! 俺はあやしいものではありません! あなたこそ誰ですか? ギムの新しいお弟子さんですか?」
それは褐色の髪と茶色い瞳を持つ、ごく気弱そうな西の民の若者であった。それほど裕福そうな身なりではないが、少なくとも、ダリアスをつけ狙う追っ手には見えない。
しかしそれでも、ダリアスはまだ用心を捨てなかった。
「俺のことよりお前のことだ。お前は何故、留守の家に断りもなく忍び込んだのだ? 盗賊ならば、衛兵に突き出してやるぞ?」
「ち、違いますってば! 俺はギムと縁ある革細工屋の人間です! ドッズの息子、デンですよぅ。注文の品が仕上がったんで、運んできただけなんです!」
「大きな声を出すなと言っている。……革細工屋だと?」
見ると、二人のかたわらには小さな包みが落ちていた。右手の刀でデンと名乗る若者の動きを封じたまま、包みの口を解いてみると、中には革鞘に収められた何本かの短剣が見えた。
「ほ、本当はもっと早い時間に届けるよう親父に言われてたんですけど、他の用事で遅れちまって……で、今日は商会の寄り合いだって聞いてたし、この時間はラナも買い出しに出かけているはずだから、裏口の戸でも開いてないかと来てみたんです」
「それなら、荷物を置いてとっとと出ていくべきだろう。どういう了見でこんな場所にまで踏み込んできたんだ?」
「そ、それはだって、こんな大事な荷物を適当なところに置いて盗まれちまったら大ごとだし……ラナが戻るまで、工房で待たせてもらおうと思っていたんです」
若者は真っ青な顔をして、おまけに涙ぐんでしまっていた。
「ど、どうかお生命だけはお助けください! セルヴァに誓って、やましいことはありません! 何なら、衛兵を呼んでください! ギムやラナが帰ってくれば、俺の言葉が嘘ではないと証言してくれるでしょうから!」
「……そうか」とダリアスは刀を引いた。
話にまったくあやしいところはないし、こんな不抜けた若者に自分をどうこうできるとも思えない。着衣の上からでも、この若者が実に貧相な身体つきをしていることが伝わってきていた。これならば、手負いのダリアスでも片手で叩きのめすことができるだろう。
(しかしそうなると、別の意味で厄介だな。ラナたちが戻るまでこの場に留めて、そちらから口止めをしてもらうべきか)
ギムの家にこのような風体の人間が潜んでいた、と吹聴されるだけで、ダリアスの命運は尽きてしまうかもしれないのだ。ダリアスとしては、慎重に慎重を重ねて行動する他ないだろう。
が――ようやく身を起こすことのかなった若者は、そんなダリアスの思惑をたった一言で粉砕してしまった。
「……あれぇ? あなたはひょっとして、十二獅子将のダリアス様ではないですか!?」
言葉を失うダリアスの眼前で、若者は瞳を輝かせる。
「やっぱりそうだ! 去年の王太子様のお祝いで、ダリアス様も城下町を行進されていたでしょう? うわあ、どうしてダリアス様がこのような場にいらっしゃるのですか?」
「いや、俺は――」
「あ、そうか! ギムはうちの親父にやたらとルアドラの様子を聞いていたんですよね! うちの親父はあちらの商人につてがあって、十日と空けずに通っているんです。そういえば、騎士団の顔ぶれが変わっただとか何だとか言ってたっけ……ダリアス様は任期を終えて、王都に戻ってきたということですか?」
さしものダリアスも、この状況でとっさに上手い言い訳を思いつくことなどできはしなかった。
そうしてダリアスが自失している内に、今度は背後から「何をなさっているのですか!?」という若い娘の声が響く。
振り返ると、食材の包みを手にしたラナがびっくりまなこで立ちつくしていた。
「ああ、ラナ、お帰り! 何をしているはこっちの台詞だよ! どうしてこんなとんでもないお客を招いてるってことを教えてくれなかったのさ? 十二獅子将のダリアス様だぞ? 俺はびっくりして魂が飛んでいってしまうかと思ったよ!」
ラナはきゅっと唇を噛み、とても切なげな目つきでダリアスを見つめてきた。
ダリアスが部屋を出なければ、このような騒ぎにはならなかったのだ。ダリアスは母親に無作法を見つけられた幼子のような心境で、悄然とするばかりであった。