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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第四章 滅びの御子
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Ⅳ-Ⅲ 急変

2017.12/23 更新分 1/1

 学士長フゥライとの再会を果たした日の夜、ダリアスはラナやリッサとともに客間で晩餐を取っていた。

 この一夜だけダーム公爵邸の世話になるというフゥライは、当主トレイアスの部屋に招かれて、そちらで晩餐を取っている。博識豊かな学士長であれば、トレイアスの旺盛な好奇心をぞんぶんに満たすことができただろう。


「リッサは明日、フゥライ様とともに王都へと戻られるのですよね。わたしは、とても名残り惜しく思います」


 食事を進めながら、ラナがそのように呼びかけると、リッサは気のない表情で「そうですか?」と答えていた。この書物の虫である学士の娘は食事中も行儀悪く書物を開いて、それを覗き込みながら海魚の煮汁をすすっている。


「僕とあなたの間に、それほど親密な関係が築かれていましたっけ? 僕はちっとも気づいていませんでしたね」


「ええ。少なくとも、わたしはリッサのことをとても敬愛していました」


「そうですか。それは物好きなお人ですね」


 こんな軽口を叩かれても、ラナは嬉しそうに微笑んでいる。歯にきぬを着せないリッサの態度は、ダリアスもそれなりには気に入っていた。何せこの娘は、相手がダーム公爵その人であっても、この粗雑な態度を崩そうとはしないのだ。


「ま、こんな場所に連れてこられて、すでに十日ぐらいは経っていますからね。僕を連れさった張本人などはとっとと先に戻ってしまったのですから、いいかげんに頃合いですよ」


「はい、道中はお気をつけて。あなたのことは、この先もずっと忘れません」


「何だか今生の別れみたいですね。まあ確かに、あなたがたと今後顔をあわせることは一生ないのでしょうけれども」


 リッサは今でも、ラナとダリアスのことをダームの住人と思っているのだ。また、そうでなくとも、『賢者の塔』に引きこもっている学士と町の人間が顔をあわせる機会は、そうそうないはずだった。


 ラナはいくぶん切なげな面持ちになっていたが、それでもまだ口もとに微笑をたたえている。

 何か気のきいた言葉でラナを慰められないものか――と、ダリアスがそのようなことを考えたとき、客間の扉が外から叩かれた。


「失礼いたします。アッカム様、ご当主様がお呼びになられておいでです」


 礼儀正しい小姓の声が聞こえてくる。

 手にしていた皿を卓に戻しながら、アッカムは軽く眉をひそめた。


「ご当主が、俺を? まだ晩餐の最中ではないのか?」


「はい。取り急ぎ、お伝えしたいことがあるそうです。申し訳ありませんが、ご足労をお願いいたします」


 何か据わりの悪い話であったが、トレイアスの呼びかけを無視することはできない。心配げな面持ちになっているラナに笑いかけてから、ダリアスは「了解した」と立ち上がった。


 部屋を出る前に襟巻きで口もとを隠してから、小姓とともにトレイアスの部屋へと向かう。

 部屋では、トレイアスとフゥライ、そして侍女のレィミアだけが待ち受けていた。


「おお、待っていたぞ、アッカムよ。おぬしに、よき知らせがあるのだ」


「よき知らせ? いったい、何だろうか?」


 三名は、それぞれ笑顔になっていた。トレイアスは愉快そうに、フゥライは穏やかに、レィミアはつつましやかに笑っている。


「実はだな、フゥライ殿がおぬしとおぬしの伴侶を王都まで同行させてやろうと申し出てくれたのだ」


「王都まで同行? いや、俺は王都に向かうつもりは――」


「いや、何も気兼ねする必要はない。おぬしたちの事情はすべてわきまえておるのだ、アッカムよ」


 ダリアスは、たっぷりと猜疑心を込めた眼差しでトレイアスの笑顔を見据えてみせた。

 ダリアスは、トレイアスを味方陣営に引き入れるために、ダーム公爵邸に居座っているのである。トレイアスはそれを面倒だと考えて、ずっとダリアスを追い払おうとしていたのだ。


(しかし、そのような話にフゥライ殿を巻き込もうというのか? このご老人は、俺の正体すら知らないのだぞ)


 まさかトレイアスは、それをフゥライに明かしてしまったのだろうか。

 ダリアスがそれを勘ぐっていると、トレイアスはいっそう楽しげに目を細めた。


「アッカムよ、おぬしはアブーフの姫君の代理人として、この屋敷でフゥライ殿を待ちかまえていた。しかしそれ以外にも、ダームの港町に戻れぬわけがあるのであろう?」


「港町に戻れぬわけ? それはいったい、何のことだ?」


「隠さずともよい。俺はダームの領主であるのだぞ? 港町で騒ぎが起きれば、それはいずれ俺の耳にも届いてくる。おぬしたちのことについては、今日の夕刻、知らせを受けたのだ」


 それでもダリアスには、何のことだかわからなかった。

 トレイアスは、笑いを含んだ声で、その真相を語り始める。


「おぬしはエイラの神殿で騒ぎを起こして、出奔した身であったのだな。神殿長のロムスという男に手傷を負わせて、逃げだしたのであろう? 港町では、おぬしと伴侶の手配書がすでに回されているという話だ」


 ダリアスは、愕然と立ちすくむことになった。

 確かにダリアスは、ラナに卑劣な取り引きを持ちかけた神殿長を叩きのめして、エイラの神殿から逃げ出している。しかし、その後にはシーズの死やクリスフィアとの出会いというさまざまな騒乱を迎えていたために、すっかり失念してしまっていたのだった。


(あの卑劣な小男めは、俺を罪人として告発したのか。恥知らずの、腐肉喰らいめ!)


 ダリアスは、襟巻きの下できつく唇を噛みしめた。

 そこに、フゥライが気の毒そうに呼びかけてくる。


「儂は今朝がたまで港町に居座っておったのに、手配書などには見向きもしておらんかった。おぬしたちは、そのような災難を抱え込んでしまっていたのだな」


「いや、待ってくれ。これには、事情があって――」


「わかっておる。おぬしもレミも、決して悪い人間ではない。世話になっていた神殿長に乱暴を働くなど、よほど差し迫った事情があったのだろう。……思い起こせば、あの神殿長は聖職者らしからぬ目でレミを見つめたりもしておったしな」


 そんなことには、ダリアスはまったく気づいていなかった。

 今さらながら、迂闊な自分を呪いたくなってしまう。


「おぬしたちは、フゥライ殿にクリスフィア姫の言葉を届けるという仕事を無事に果たすことができた。しかし、そのような身の上では港町に戻ることもできまい? かといって、現在の王都は戴冠式を前にしており、城下町に足を踏み入れる際にでも厳しい調べを受けるのだと聞いている。それではなかなかクリスフィア姫を頼ることもできなかろうから、俺が一計を案じてやったのだ」


「うむ。儂の連れということにすれば、城下町までは難なく通ることができよう。クリスフィア姫という御方が王宮に滞在されておられるなら、儂が渡りをつけてやるので、それまでは宿屋ででも休んでいるがよいよ」


 フゥライは、罪のない顔でにこにこと微笑んでいる。

 その優しげな笑顔を見返しながら、ダリアスは(してやられた――)と歯噛みすることになった。


(このトレイアスめは、ご老人の親切心を利用して、俺をダームから追い出そうとしているのだ。俺たちが迂闊に王都まで戻れば、どのような危険に見舞われるかもわからないというのに――そこまで俺の存在が目障りであったのか?)


 そしてダリアスは、トレイアスの背後にたたずんでいるレィミアの表情に気づいて、また歯噛みした。

 貞淑な侍女らしい微笑をたたえつつ、その目には勝ち誇ったような輝きがたたえられている。このレィミアこそ、主人以上にダリアスのことを邪魔者扱いしていたのだ。きっとこんな手段でダリアスたちを追い払おうと画策したのは、この侍女のほうであるに違いない。


(くそ、どうする? 俺もラナも、城下町では見知った人間が多いのだ。うかうかと足を踏み入れれば、敵方にもそれが知れてしまうかもしれない。何の策もなしに戻るのは、危険だ)


 ダリアスが黙り込んでいると、フゥライが「どうしたのだ?」と微笑みかけてきた。


「何も案ずる必要はないぞ。港町に出回っているという手配書にも、おぬしの人相などは記されていないという話であったからな。おぬしは顔に包帯を巻いていたために、人相書きの作りようもなかったのであろう」


「うむ。それに、人を殺めたわけでもないのだから、王都にまで手配書が回ることはあるまい。ダームを出るまでは俺が護衛をつけてやるから、道中でも罪人として捕縛される危険などはあるまいよ」


 フゥライはこんなにも温かい笑顔であるというのに、トレイアスとレィミアの笑顔は憎たらしくてしかたがなかった。

 ダリアスは、怒りの念を抑え込みつつ、必死に考えを巡らせる。


(こうなったら、いっそフゥライ殿にも正体を明かしてしまうか? このご老人であれば、災厄の日の陰謀に関わっていることなどはありえないし――むざむざと王都に連れ戻されるよりは、そのほうがまだしも安全であるかもしれん)


 そうしてダリアスは、ようやく声をあげようとした。

 そのとき、不穏なざわめきが回廊のほうから近づいてくる気配がした。


「おやめください。こちらはご当主様のお部屋です! ああ、そんな無体な――」


 そんな小姓の声が、扉の向こうから響いてくる。

 ダリアスが振り返ると同時に、扉は荒っぽく叩き開けられた。


「失礼する。ダーム公爵トレイアス殿であられますな?」


 そんな居丈高な声音とともに、六名ばかりの兵士たちがどやどやと部屋に踏み込んできた。

 トレイアスはうろんげに眉をひそめて、レィミアはさりげなくそのかたわらに身を寄せる。


「何者だ? 野党や賊の類いではないようだが」


「我々は、王都から派遣された防衛兵団の者だ。ダーム公爵、恐れながら、あなたを拘束させていただく」


「拘束だと? 何故だ?」


「……あなたには、十二獅子将シーズ殿を謀殺した疑いがかけられている」


 六名の兵士たちが、抜刀した。

 なおかつ、扉の外には、さらに大勢の兵士たちの姿が見える。その胸もとには、まぎれもなく王都の兵団の証である銀獅子の紋章が掲げられていた。


(防衛兵団だと? まさか、こいつら――城下町で俺を追っていた連中の仲間か?)


 ダリアスは、腰を落としてその兵士たちと相対した。

 兵士の内、二名がダリアスのほうに刀を向けてくる。


「動くなよ。動けば叛意ありとみなして、斬り捨てる」


 どうやら彼らは、ダリアスの正体には気づいていない様子であった。

 しかしダリアスは、丸腰だ。腰の刀は、部屋の入り口で小姓に預けてしまっていた。


「よくわからんな。シーズ殿は賊に害されたというのに、どうして俺が犯人扱いされなくてはならんのだ? 自慢ではないが、十二獅子将たるシーズ殿を手にかける力など、俺にはどこにも備わっておらんのだぞ」


 トレイアスはまったく動揺した素振りも見せず、下顎を掻いていた。

 小隊長の房飾りをつけた兵士が、「問答は無用」と言い捨てる。


「弁明は、審問の場でお願いする。後ろ暗いところがないならば、王都まで同行を願う」


「ふむ。シーズ殿の死に関しては調査隊を出すという話であったのに、いきなりこの扱いか。おぬしたちは、いったいどこの誰の命令を受けて、このような暴虐に及んでいるのだ?」


「問答は無用」と、小隊長は繰り返した。

 面頬に隠されたその目が、ちらりとフゥライのほうを見る。


「ご老人、あなたもダーム公爵家の人間か?」


「いや、儂は学士長のフゥライだ。明日王都に戻る予定であったので、トレイアス殿に一夜の宿をお願いしたのだ」


 フゥライもまた、動揺している気配はなかった。ただ、ひたすらけげんそうに兵士たちの姿を見やっている。


「あなたは、学士長殿であられたか。ならば、こたびの一件と関わりはあるまいが……くれぐれも、手出しや口出しは無用に願いたい」


「ふむ。それはもちろん、儂などに口出しできるような話ではないのだろうがのう」


 そう言って、フゥライは気がかりそうな視線をダリアスのほうに向けてきた。


「そちらの御仁は、儂が道中の警護を頼んだ傭兵であるのだ。身もとは儂が保証するので、どうか粗雑には扱わないでもらいたい」


「そうか。では、その者も学士長殿と一緒に別室に移っていただこう。ダームでいったい何をなされていたのか、そちらで話をうかがわせていただく」


 そうして小隊長は、あらためてトレイアスをにらみすえる。


「さ、お立ちいただこうか、ダーム公爵。失礼ながら、あなたの身は捕縛させていただく」


「……何の罪も犯してはいないご当主様を、罪人のように扱おうというお心づもりなのですか?」


 レィミアが、とても静かな声音でそう問うた。

 小隊長は、うるさそうにそちらを見る。


「罪人であるかどうかは、審問の場にて裁かれる。我々の任務は、ダーム公爵を審問の場までお連れすることだ」


 レィミアは、何かをうながすかのように、トレイアスの肩にそっと手を置いた。

 トレイアスは、「ふうむ」と首をひねっている。


「まったく厄介なことだ。それでは、どうあれ俺を罪人として引っ立てようというのか?」


「くどいですな。十二獅子将を謀殺した疑いが、あなたにはかけられているのです」


「俺は、潔白だ。シーズ殿が魂を返されたときも、この部屋でくつろいでいた。嘘だと思うなら、誰にでも聞いてみるがいい」


 小隊長は首を振り、兵士たちに合図を送った。

 二名の兵士たちが、大きな卓を回り込んで、トレイアスに近づいていく。その姿を眺めながら、トレイアスは深々と嘆息した。


「やむをえまい。レィミア、頼んだぞ」


「了解いたしました、ご当主様」


 レィミアの声に、兵士の悲鳴がかぶさった。

 そのしなやかな指先から投じられた銀色の針が、面頬の隙間から兵士の眼球あたりを貫いたのだ。


 さらにレィミアは、もう一人の兵士の顔面にも、同じものを繰り出した。

 トレイアスに迫っていた二名の兵士たちは、あわれげな絶叫を撒き散らしながら、その場にへたり込んでしまう。


 その姿を横目に、ダリアスは手近なところにいた兵士に体当たりを食らわせていた。

 そのまま部屋を走り抜けて、大きく開いていた扉を力まかせに叩き閉める。さらに、頑丈そうな閂まで掛けてしまうと、回廊のほうに待機していた兵士たちが物凄い勢いで扉を殴りつけてきた。


「貴様! 何をするか!」


 兵士の一人が、ダリアスに斬りかかってきた。

 ダリアスは、扉の脇に飾られていた花瓶を取り上げて、それを兵士の顔面に投げつける。花瓶はあっけなく砕け散り、水と花と悲鳴が四散した。


 それでたじろいだ兵士の腹を蹴りつけて、ダリアスは長剣を強奪した。

 武器さえあれば、このていどの人数は敵ではない。ダリアスは躊躇なく、刀を失った兵士の咽喉もとを斬り裂いた。


「おのれ! この叛逆者どもめ!」


 残る兵士は、小隊長を含めて三名である。

 小隊長はレィミアと向かい合っており、残りの二名はダリアスに相対してきた。


「その男を始末しろ! トレイアスは、俺が片付ける!」


「はん! やれるもんなら、やってみな! ご当主様には、傷ひとつつけさせやしないよ!」


 侍女としての顔をかなぐり捨てて、レィミアは高笑いしていた。

 それを聞きながら、ダリアスは兵士の一人に斬りかかる。


 いったん体勢を整えなおした兵士たちは、それなりの腕前であった。

 しかしそれでも、十二獅子将たるダリアスの敵ではない。ダリアスは、右手側の兵士を一刀のもとに斬り捨てると、逆側から振りおろされた斬撃を返す刀で弾いてみせた。


「死ね!」


 裂帛の気合とともに、最後の兵士が斬りかかってくる。

 それを横手に受け流しながら、ダリアスは長剣を振り払った。

 胸甲と腰あての隙間を斬り払われて、兵士は血の海に崩れ落ちる。


 咄嗟にレィミアたちのほうを振り返ると、咽喉もとを引き裂かれた小隊長が血飛沫をあげながら倒れ込むところであった。


「ざまあないね! セルヴァの前で、魂を砕かれな!」


 返り血にまみれながら、レィミアが哄笑した。

 それから、ふっと我に返って、トレイアスのほうに向きなおる。


「あら……お恥ずかしい……ご当主様に、はしたない姿をお見せしてしまいました……」


「何を言っている。俺は楚々としたレィミアも勇ましいレィミアも、同じぐらい愛しく思っているぞ」


 トレイアスは豪快に笑いながら、卓の上の酒杯を取った。

 どうあれ、豪胆であることは間違いない。気の毒なフゥライなどは、何が起きたのかも理解できていない様子で、目をぱちくりとさせていた。


「おい、呑気に語らっている場合ではないぞ。あの扉が破られたら、今度はどれだけの兵士がなだれこんでくるかもわからんからな」


 刀身の血を振り払いながら、ダリアスはトレイアスたちのほうに近づいていった。

 たちまち、レィミアが火のような目を向けてくる。


「近づくんじゃないよ! やっぱりあんたは、災厄の申し子だ! あんたなんか、とっとと追い出しておくべきだったんだ!」


「ご挨拶だな。俺だって、ご当主を守る役には立ったと思うのだが」


「はん! こんな雑魚どもを片付けるのに、あんたなんかの手助けはいらないよ!」


 すると、トレイアスが「まあ待て」と声をあげた。


「こやつらは、俺にシーズ殿を謀殺したなどという疑いをかけてきたのだ。その件に関して、ダリアス殿は関わりもあるまい。シーズ殿は、最初から敵方の人間であったのだからな」


「ダリアス……? 今、ダリアスと仰ったか?」


 フゥライの声に、トレイアスは苦笑した。


「いかん。思わず口がすべってしまったな。しかしまあ、フゥライ殿がおぬしの敵に回ることはあるまいよ」


 ダリアスは溜息を噛み殺しつつ、口もとの襟巻きを引き下げてみせた。


「ああ、俺は十二獅子将のダリアスだ。学士長フゥライ殿、これまで身分を偽っていて申し訳なかった。どうかご容赦を願いたい」


「では、本当にダリアス殿であられるのか。なんともはや、次から次へと驚かされるものだ」


 そう言って、フゥライは痛ましげな眼差しを死者たちに差し向けた。

 最初にレィミアに退けられた二名の兵士たちも、血の泡をふいて絶命している。きっと、顔を貫かれた針に毒が塗られていたのだろう。


 その間にも、部屋の扉は回廊の兵士たちによって殴打されている。その向こう側には、十名以上の兵士たちが控えているはずであった。


「この調子では、いずれ扉も破られよう。そうしたら、さきほどのように簡単にはいかぬはずだぞ、トレイアス殿」


「そうだな。ひとまずはこの場を離れるか。それで、ムンドル殿にでも助力を願うことにしよう」


 ムンドルというのは、シーズの副官であった人物である。謹厳にして実直なる老兵であり、現在はその人物がダーム騎士団を取りまとめているはずであった。


「まったく、つまらない騒ぎになったものだ。俺は死ぬまで平和に暮らしていたかったのだがな」


 そのようにつぶやきながら、トレイアスは壁際に置かれていた酒棚のほうに近づいていった。

 その内の一本、黒い硝子の酒瓶に手を置いて、ひねるように動かすと、巨大な酒棚が音もなく真横に滑っていく。その下には、ぽっかりと黒い穴が口を開けていた。


「これは、屋敷の外にまで続いている抜け道だ。ここから脱出して、ムンドル殿のもとにまで参じる他あるまい」


「待ってくれ。ラナとリッサを客間に残してきているのだ。あの娘たちを助けるまで、この屋敷を出るわけには――」


「そんな悠長なことは言っておられんだろう。おぬしの正体はまだ露見しておらぬようだから、あの娘たちに危険が及ぶことはあるまいよ」


 そうは言われても、ダリアスはやすやすとラナを置き去りにすることはできなかった。

 そんなダリアスの表情を読み取って、レィミアは「はん」と鼻を鳴らす。


「それなら、あんたはここに居残っていればいい。こっちは何にも困りゃしないよ」


「いや、この部屋でダリアス殿が討ち取られてしまったら、俺にはまたあらぬ嫌疑がかけられてしまいそうだ。……それに俺は、ムンドル殿ともそれほど折り合いがいいわけではないのでな。あの頑迷なるご老人を説き伏せるのに、ダリアス殿は必要だ」


 そう言って、トレイアスは肉厚の肩をひとつすくめた。


「そして王都に潜む何者かは、どうあっても俺のことが邪魔であるようだからな。こうなっては、刀を取ってでも自身の潔白を晴らす他あるまい。……となれば、十二獅子将たるダリアス殿ほど心強い刀は、他になかろう」


「ご当主様、まさかこの厄介者めを味方に引き入れるおつもりなのですか?」


 レィミアは唇をとがらせながら、主人の横顔を恨みがましくねめつけた。

 トレイアスはにやりと笑いつつ、侍女の豊満なる尻をひと撫でする。


「王都の不埒者どもめを成敗するには、ダリアス殿やムンドル殿の力が必要であるのだ。お前はこれまで通り、俺の生命の安全だけを考えてくれればいい。それこそが、お前にとっての唯一の仕事であろう?」


「……ええ、それはそうなのですけれど……」


 レィミアはその肢体をくねらせながら、トレイアスにしなだれかかった。

 その顔や胸もとは兵士たちの返り血に染まっているのに、トレイアスは気にする様子もなく笑っている。


「そういうわけだ。おぬしの望み通りに手を組んでやろうと言っているのだから、大人しくついてくるがいいぞ、ダリアス殿」


「いや、しかし――」


 それでもダリアスが決断しかねていると、兵士たちの亡骸を見つめていたフゥライが視線を向けてきた。


「あの娘は、レミではなくラナと申すのだな。ならば、ラナの身は儂がお引き受けしよう」


 ダリアスが振り返ると、フゥライは透徹した面持ちで微笑んでいた。


「いったい何が起きているのか、儂のような老いぼれには理解できぬし、また、ことさら理解したいとも思わぬが……あのラナというのは、心正しき善良な娘であるように思える。あのような娘が貴き人々の織り成す陰謀の中で傷つくなど、決してあってはならんことだ。だから、おぬしが戻るまでは、儂があの娘を守ってみせよう」


「しかし、フゥライ殿――」


「ちょうど都合よく、あの娘はリッサとともにいるのであろう? ならば、儂の縁故の者であると申し述べれば、すぐさま危害が及ぶこともあるまい。儂らはべつだん、トレイアス殿に深い縁を持つ身でもないしな」


 そう言って、フゥライは絨毯の敷かれた床の上に身を倒した。


「儂はこうして、気を失ったふりでもしておこう。その間にトレイアス殿は消え失せてしまったのだと言いたてれば、あやしまれることもあるまい」


「うむ。あやつらがこの抜け道に気づく前に外界へと出てしまえれば、それで十分だ。フゥライ殿は、話が早くて助かるな」


 トレイアスは豪放に笑いつつ、ぽっかりと空いた暗がりの中に片足を踏み入れた。


「さあ、いよいよ扉が壊されてしまいそうだ。参るぞ、ダリアス殿よ」


 おそらく暗がりの中には階段が隠されているのだろう。レィミアにぴったりと寄り添われながら、トレイアスの姿はすぐに見えなくなってしまった。

 ダリアスは、覚悟を決めて、フゥライを振り返る。


「フゥライ殿、俺にもラナにも、誓ってやましいところはない。事情はのちほど弁明させていただくので……どうか、ラナをお願いする」


「心得た。おぬしの帰りをラナとともに待っておるよ、ダリアス殿」


 ダリアスはひとつうなずき、西方神にラナの無事を祈ってから、暗がりの中へと身を投じた。

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