Ⅲ-Ⅲ 真か虚か
2017.12/16 更新分 1/1
ゼラの準備したトトスの車で、クリスフィアたち一行は『賢者の塔』を訪れた。
以前に、カノン王子の寝所から持ち出された書物を探しにおもむいて、レイフォンたちと遭遇した場所である。出入り口を固める守衛にゼラが声をかけると、その扉はやすやすと開かれることになった。
「ふん。以前にわたしが訪れたときは手続きがどうのと押しとどめられたのに、このたびはずいぶん簡単に通ることができてしまったな」
「わたしもかつては、この塔の住人でありましたため……それなりに融通をきかせることも可能なのです」
「なるほど。このたびの案内人としては最適であったわけだ」
薄暗い石造りの階段をのぼりながら、クリスフィアはそっと声をひそめてみせた。
「ところで、ずっとゼラ殿にうかがいたいことがあったのだが、それを聞いてもかまわぬか?」
「は……何でございましょう……?」
「ゼラ殿は、レイフォン殿やディラーム将軍や、それにレイフォン殿の聡明なる従者とも、あまり気安い関係ではないように見えたのだが、どうなのであろう?」
ひたひたと足音もなく先頭を進みながら、ゼラは低い位置にある頭をいっそう低く下げたようだった。
「それはもちろん、貴き方々がわたしなどに信頼を寄せる道理はありませんでしょう。わたしはこれまで身をひそめてダリアス様をお助けしておりましたし……また、神官長バウファ様の従者でもあるのですから、それも当然の話かと思われます」
「しかし、今のところ神官長殿が敵方の人間であるという確証はないのであろう?」
「そのように語っているのはわたし一人でございますし、また、バウファ様が敵方の人間ではないという確証もありませんので……」
「しかし、ダリアス殿はゼラ殿の真情を疑ったりはしていなかった。味方同士で腹を探り合っていては埓が明かぬのだから、レイフォン殿らにも早々に心を開いていただきたいものだな」
歩きながら、ゼラはちらりとクリスフィアのほうを見やってきた。
「……それではクリスフィア姫には、わたしなどを信用していただけるのでしょうか?」
「うむ、無論だ。ダリアス殿とて、信用の置けぬ相手にギムやデンを託したりはしないだろう。また、ゼラ殿はその信用に応えてあの二人を救ってみせたのだから、もはや疑う理由などあるまい」
そう言って、クリスフィアは頭巾に包まれたゼラの頭に笑いかけてみせた。
「それにゼラ殿は、災厄の日に生命を落としたカノン王子の無念を晴らすために、このたびの陰謀を暴きたてようと決意したのであろう? ならば、ヴァルダヌス将軍の無念を晴らそうと決意したディラーム老と、志は一緒ではないか。しょせんは余所者であるわたしなどよりも、よほど強い気持ちでこのたびの陰謀劇に立ち向かっているのであろうと思うぞ」
「……それは、ダリアス様にお聞きになられたのですね?」
「うむ。しかし、あまり詳しくは教えてくれなんだ。ゼラ殿にとって、それはむやみに触れられたくない話であるようだった、と言われていたしな。だから、カノン王子について聞きほじったりはしないので、安心するといい」
頭巾の下で、ゼラは嘆息したようだった。
「……レイフォン様たちがわたしを信用しきれないのは、その話をお伝えしていないゆえであるのかもしれません」
「む? そうなのか? ならば、伝えればいいではないか」
「……わたしにとって、それはまだ生々しい痛みをともなう話であるのです。ダリアス様には何としてでも信用していただきかったので、やむをえなくお話ししましたが……かなうことなら、口にすることもはばかりたく思っております」
「そうか」と、クリスフィアはうなずいた。
「ならば、わたしからレイフォン殿らにお話しいたそうか。……無論、ゼラ殿がお嫌でなければだが」
「……どうして姫は、わたしなどのことをそのように気にかけられるのでしょうか……?」
「うむ? それはゼラ殿が、かけがえのない同志であるからだ。……それに、わたしだって人を見る目はあるつもりだぞ。いまだ顔をあわせて一刻も経ってはいないかもしれないが、ゼラ殿が悪辣な人間だなどという恐れを抱くことは、一度としてなかったな」
その言葉には、ゼラも言葉を返そうとはしなかった。
幼子のように小さな身体を懸命に動かして、階段をのぼっている。その外套に包まれた背中を見やりながら、クリスフィアは自分の抱いていた感覚を再確認した。
(そういえば、この御仁はわたしの存在をだしにして、レイフォン殿の真情をはかろうとしたのだ。レイフォン殿がその計略に乗らなかったら、わたしもあの忌々しい媚薬のせいで貞操の危機に見舞われていたかもしれん。普通であれば、そんな危うい真似をしたゼラ殿に対しても猛烈な怒りをかきたてられそうなところであるのだが……不思議と、腹が立たなかった)
どうして腹が立たなかったのか。その理由はわからない。あえていうなら、この奇妙な小男は悪人ではない、という直感である。
なんとなく、レイフォンが動かなかった場合は、このゼラが陰ながらクリスフィアを救助する手を講じていたのではないか――と、思えたりもするのだ。
(確かにこの御仁の言動はあやしげだし、つかみきれない部分も多い。だから、理屈が先に立つあの可愛らしい従者などは、なかなかゼラ殿を信用しきれないのやもしれんな)
しかしクリスフィアは、理屈よりも自分の感覚を信ずることを信条としていた。
だからこのゼラも、今のところは心から信用することができる。そうでなければ、案内役を頼んだりもしなかったことだろう。
「……こちらが薬師の住まう階となります」
そうしてゼラがようやく足を止めたのは、石造りの螺旋階段を果てしもなくのぼり続けて、ひとつの回廊に到着したのちのことであった。
「オロル殿という御方はすでに黒烏宮へと居を移しておりますが、こちらの自室も物置きとして使い続けているという話でありました。黒烏宮に足を踏み入れるには相応の手順が必要となりますので、まずはこちらをお訪ねしてみましょう」
「そうなのか。あの薬師について、ずいぶんと詳しいのだな」
「はい……あの御方も王宮内では異彩を放っている人物であるため、わたしも以前から多少は調査を進めていたのです」
人気のない回廊を進みながら、ゼラはそう言った。
片側の壁に明かり取りの窓が切られてはいるものの、やはり薄暗い。そして、そこには人間の気配というものもまったく感じられなかった。
「陰気な建物だな。このような場所で暮らしていたら、三日で頭がどうにかなってしまいそうだ」
ずっと沈黙を保っていたロア=ファムが、不機嫌そうな声でそう言い捨てた。
宮殿を出る際に、ロア=ファムも刀を返されている。大きく刀身の湾曲した、半月刀だ。人間相手にどれだけの腕を持つのかは不明であるが、シャーリの大鰐をも退けることのできる力量であれば、何も心配はいらないはずであった。
「こちらが、オロル殿の部屋となります……」
回廊の突き当たりにまで歩を進めてから、ゼラはそう宣言した。
頑丈そうな、木造りの扉である。取っ手の辺りには金属が使われており、そこには大きな鍵穴も空けられていた。
「オロル殿、いらっしゃいますか? 祓魔官のゼラと申します」
ゼラが、小さな拳で扉を叩いた。
しかし、答える者はいない。
ゼラはかまわず取っ手をつかんだが、どうやら鍵を掛けられているらしく、扉は微動だにしなかった。
「やはり、あやつは黒烏宮か。しかし、まさかこのままおめおめと引き返すわけではあるまいな?」
クリスフィアの質問には答えずに、ゼラは懐から奇妙な物を取り出した。うねうねと奇妙な形にねじくれ曲がった、赤銅色の針金である。
ゼラがその先端を鍵穴に差し込んで、何かを探すようにねじっていると、やがてガチャリと冷たい音色が響きわたった。
「なんと。そんな針金一本で、鍵を開けてしまったのか?」
ゼラはうやうやしく一礼して、針金を懐に隠し入れた。
その姿を見下ろしながら、クリスフィアは思わずにやりと笑ってしまう。
「これはいい。わたしはますますゼラ殿のことを気に入ったぞ」
ゼラは無言で、扉を引き開けた。
室内は、回廊よりも薄暗い。日中でも燭台が必要になる暗さであった。
「オロル殿、おられませんか……?」
用心深く、さらに声をかけてから、ようやくゼラはその暗がりに足を踏み入れた。
そして、入ってすぐの壁に掛けられていた燭台に、ラナの葉で火を灯す。そうすると、雑然とした部屋の様相がぼんやりと薄闇の中に浮かびあがった。
「ロア=ファムは、この扉のところで控えていてもらえるか? 誰か近づいてきたら、教えてほしい」
「わかった。そういう仕事なら、文句はない」
ロア=ファムは、油断のない顔つきで扉に張り付いた。
それを尻目に、クリスフィアとゼラは室内に踏み込んでいく。
正面の壁には巨大な書棚が設置されており、右手の壁際には大きな卓と椅子が置かれている。あとは、左手の壁が二枚の帳に覆われているだけで、それ以外に調度というものは見当たらなかった。
そうであるにも拘わらず、息苦しいぐらい窮屈に感じられるのは、そこら中に木箱が積まれているためであった。
また、書棚からあふれた書物も山のように重ねられており、足の踏み場もないほどだ。確かにこれは、物置きとしか言いようのない様相であった。
「ふむ。ここに何か、罪の証でも隠されていればいいのだがな」
クリスフィアは、手近な木箱の蓋を取り払ってみた。
とたんに、強烈な異臭がたちこめる。そこには正体の知れぬ香草がどっさりと詰め込まれていた。
「これはたまらんな。さすがは薬師だ」
「……この香りは、ロロムの葉ですな。傷の痛みや肉が腐るのを止める、貴重な薬草です」
「ううむ。つい気安く開いてしまったが、木箱の中にあの使い魔とかいう妖魅がひそんでいたら、危うかったな。それよりも、まずは書物の山を調べてみるべきか」
「書物……? もしや、書庫から消えたというエイラの神殿の書物でございますか?」
「うむ。もともとは、その書物の正体や行方を調べるために、わたしはダームまでおもむいたのだ」
そういえば、ダリアスは無事にフゥライと再会できたのであろうか。
クリスフィアがダームを離れてから、いまだ二日しか経ってはいなかったものの、そろそろ姿を現してもおかしくない頃合いであるはずだった。
「わたしは書棚を調べよう。ゼラ殿には、床に積まれているほうをお願いする」
「かしこまりました……しかしその書物は、題名も明らかにされていないという話ではありませんでしたか?」
「だから、題名がすりきれて判別できない書物を探せばよいのだ。それなら、大した手間でもなかろう」
クリスフィアは、何も焦っていなかった。途中でオロルが姿を現せば、その場で締めあげてやればいい、と考えている。もともとは、本人と対面するのが目的であったのだから、そのほうが好都合なぐらいであった。
「しかし、凄まじい量の書物だな。薬師というものには、これほどの書物が必要であるのか?」
「いえ……薬とは関係のない書物も多数、お見受けできるようです。辞典や、歴史書や、地図帳や……こちらなどは、王家の家系図であるようですね……」
「王家の家系図? そのように大層なものが、床に投げ出されているのか?」
「はい、もちろん写しでございましょうが……オロル殿は、さまざまな分野にご興味を持たれているようですな……」
クリスフィアも書棚の書物を片っ端から調べてみたが、そちらはまったくどういう内容であるのかもわからなかった。書物の題名は、すべてシムの文字で記されていたのだ。
その内の一冊を引っ張り出してみると、中身もすべてシムの文字である。が、ときおり図で示されているのは、いずれも草木や獣の解体図などであった。
「ふむ。これらは薬の書物か。なかなかに薄気味悪いものだ」
「薬には、獣の肝や脂、毒虫の黒焼きなども使われるのです……木箱の中には、そういったものも仕舞われているやもしれません……」
「そのときは、貴婦人らしく黄色い悲鳴でもあげてみせるか」
軽口を叩きながら、クリスフィアはずらりと並んだ書物の背表紙をなぞっていった。
ときおり、文字のかすれているものを見つけては引き抜いて、中身を改める。しかし、その内容はやはりシムの文献で、香草や毒草について記されているようだった。
「ううむ……そういえば、カノン王子はシムの言葉を読むこともできたのであろうか?」
一瞬の沈黙の後、「はい……」という言葉が返ってきた。
「エイラの神殿にはシムの書物もいくつか置かれておりましたし……カノン王子は、それらの書物をすべて読み終えたと仰っておりました」
「ふむ。しかし王子は、赤子の頃からあの場所に閉じ込められていたのであろう? 文字の読み書きなどは、誰に習ったのだ?」
「さ……幼い頃は乳母などがついていたはずですので、そちらから習ったのではないでしょうか……」
「ああ、そうか。さすがに乳母でもいなければ、十六の年まで育つこともかなわぬか。……その乳母は、どうなってしまったのであろうな」
「……おそらく、神殿の人間たちとともに、流行り病で身罷られたのではないかと思いますが……わたしも、確かな話は聞いておりません」
やはりカノン王子の話題になると、ゼラは口が重たくなるようだった。
どのような経緯で王子と縁を結ぶことになったのかはわからないが、ゼラにとってはかけがえのない存在であったのだろう。王子の話を聞くには絶好の機会であったが、クリスフィアはあまりぶしつけに言葉を重ねる気持ちにはなれなかった。
(ディラーム老も、ヴァルダヌス将軍については我が子を失ったかのような痛みを抱えておられる様子だしな。カノン王子もヴァルダヌス将軍も、きっと魅力的な人柄であったのだろう)
ならばなおさら、その死の真相を突き止めなければならない。前王を弑逆した犯人が他にいるならば、それを暴きたてて両名の魂を救わなければならないのだ。
そのように考えながら、書物の背表紙をなぞっていたクリスフィアは、また題名のすりきれた一冊を発見した。
「ふむ。これはずいぶんと古そうな書物だ」
その書物を引っ張り出してみると、表紙の文字も完全に金箔が剥げており、何一つ判別することができなかった。
表紙は、おそらく革でできているのだろう。血で煮しめたかのように赤黒い色合いをしており、死者の肌のように不吉な手触りである。
何とはなしに背筋に冷たいものを感じながら、クリスフィアは最初の頁を開いてみた。
ごわごわとした黄ばんだ紙に、これまた血のように赤い染料でセルヴァの文字が記されている。
その一文に目を通してから、クリスフィアは「おい」とゼラを振り返った。
「ちょっとこれを見てほしい。この書物は、いったいどういう内容であるのだろうか?」
ゼラはうろんげに身を起こして、クリスフィアの差し出した書物を覗き込んできた。
「これは大いなるアムスホルンの創世記である……と、記されておりますな……」
「ふむ。つまりは、歴史書か?」
「ええ、確かに歴史書でございましょう……しかしこれは……おそらく、禁忌の書であると思われます……」
「禁忌の書」と復唱しながら、クリスフィアはいっそうの悪寒を禁じ得なかった。
「何だそれは。魔道書の類いであるのか?」
「いえ……あくまで、歴史書です。ただし、四大王国が建立される以前の歴史を綴った、大暗黒時代の歴史書であるようですね……」
「四大王国が建立される以前? それはつまり……人間ならぬ神々や魔物が大陸を支配していた時代、という意味か? まさか、そのようなものが存在するわけが――」
クリスフィアがそのように言いかけたとき、ロア=ファムが「おい」と鋭い声をあげた。
「そちらに、人間の気配がする。用心しろよ、クリスフィア」
クリスフィアは愕然と、ロア=ファムの指し示すほうを振り返った。
ロア=ファムが指しているのは、左の壁だ。二重に張られた帳が今、真ん中からかき分けられようとしていた。
「あなたがたは、どちら様でございましょう……? わたくしに、何かご用事でございましょうか……?」
金属をこすりあわせるような声音が、陰々と響きわたる。
燭台の火に照らされるその姿は、漆黒の頭巾と外套を纏いつけた、東の民のごとき長身痩躯――口もとには織物を巻き、その隙間からわずかに青黒い皮膚を覗かせた、薬師オロルその人であった。
「お、お前はいったいどこから――ああ、その帳の向こうにも部屋が隠されていたのか……」
「はい……体調がすぐれぬため、寝台で休んでおりました……」
薬師オロルは、虚ろな眼差しでクリスフィアたちを見回してきた。
燭台の光をも拒絶するかのような、深淵のごとき黒い瞳である。クリスフィアはその手の禁忌の書を胸もとに抱え込みつつ、その不気味な姿をにらみ返してみせた。
「わたしはアブーフ侯爵家のクリスフィアだ。お前とはかつてエイラの神殿でも顔をあわせていたはずだな、薬師よ」
「アブーフ侯爵家……? これは失礼いたしました……わたくしのごとき下賤のものの姿を見覚えていただき、恐悦の至りでございます……」
オロルは、ぎくしゃくとした素振りで頭を下げた。
枯れ枝のように痩せ細っているのに、背丈だけはクリスフィアよりも高い。人並み外れて小柄なゼラは、下からすくいあげるようにその長身を見上げていた。
「オロル殿、おひさしぶりでございます。わたしは、祓魔官のゼラと申します。部屋の主人たるオロル殿の断りもなく足を踏み入れてしまい、いったい何と言ってお詫びを申し上げたらよろしいものか……」
「ゼラ殿……おお、バウファ神官長殿の従者であられるゼラ殿でありましたか……いったい本日は、どのようなご用向きで……?」
「は……わたしはこちらのクリスフィア姫に部屋までの案内をおおせつかりました。お声をかけたのですが、お返事がなかったもので、つい無作法に足を踏み入れてしまい……心より申し訳なく思っております……」
そこでゼラが、ちらりとクリスフィアのほうに目を向けた気がした。
それでクリスフィアは、咄嗟に考えを巡らせる。
「ゼラ殿が詫びる必要はない。ゼラ殿が止めるのを振り切って、勝手に足を踏み入れたのは、このわたしであるのだからな。扉には鍵も掛けられていなかったので、こちらの用事を果たさせていただこうと考えたのだ」
ゼラとクリスフィアが結託しているという事実は、秘匿しておくに越したことはない。このていどの弁明でごまかせるかどうかは心もとなかったが、言わないよりはマシであると思えた。
「お前と顔をあわせることができたのも、僥倖だ。まずはこの書物について、聞かせていただこうか」
「……その書物は……?」
「これは、赤の月に書庫から持ち去られた、エイラの神殿の書物なのではないのか?」
これもまた、クリスフィアの直感に従った上での行動であった。
まだこの書物がどのような内容であるのかも、はっきりとはわからない。しかし、これが書庫から持ち去られた書物であるということを、クリスフィアは理屈でなく直感で確信していた。
「そういえば、お前と最初に顔をあわせたのもエイラの神殿だった。きっとそれも、偶然ではなかったのだろう。薬師よ、お前はどうしてこの書物を書庫から持ち去ったのだ?」
「…………」
「なおかつわたしは、朱の月の舞踏会の夜、シムの媚薬というものに苦しめられることになった。お前はシムの秘術に詳しいという話であったので、その件についても何か話が聞けるのではないかと思い、この場を訪れたのだ」
さらにもう一点、十二獅子将シーズの生命を奪った使い魔の件もある。
そこまで追及するべきかどうか、クリスフィアがしばし考えにふけったとき、思いも寄らぬことが起きた。
オロルが、その場に力なくくずおれたのだ。
「どうかお許しください……わたしはただ、貴き御方のご命令に従って、シムの媚薬を準備したばかりなのでございます……それがどのような形で使用されるか、そこまではうかがっておりませんでした……」
「……それでは、お前があの媚薬を準備したということは認めるのだな?」
あまりにもあっけないオロルの告白にいくぶん毒気を抜かれつつ、クリスフィアはそう言いたててみせた。
オロルはうつむいたまま、「はい……」と金属的な声音で応じる。
「では、この書物に関しては、どうなのだ? これも何者かの命令によって盗み出したのか?」
「いえ、それは……カノン王子を思うせめてものよすがと思い……ついつい持ち去ってしまったのです……わたくしは、浅ましき人間でございます……」
「カノン王子を思うよすがだと? お前とカノン王子の間に、いったいどのような縁があったというのだ?」
「わたくしは……カノン王子が病魔を患った際、それをお助けする役割を与えられておりました……かつてのエイラの神殿長とはご縁がありましたので、わたくしのような下賤の人間が、王子に拝謁する栄誉を授かったのでございます……」
なんだか、おかしな話になってきた。
大急ぎで頭の中を整理しながら、クリスフィアは「そうか」と応じてみせる。
「しかし、それだけでこの書物を盗む理由にはなるまい。王子の病気を癒すために顔をあわせたからといって、それが何なのだ?」
「はい……わたくしがエイラの神殿に呼ばれたのは、ほんの数回のことでございますが……それだけで、わたくしは王子の美しさに魂をつかまれてしまったのでございます……そんな浅ましき思いから、王子がもっとも愛されていたその書物を、我が物にしたいという欲求にとらわれてしまいました……」
クリスフィアは、思わずゼラのほうを振り返ってしまった。
このゼラも、カノン王子に魅了された人間の一人であるのだ。
どちらも頭巾と外套で人相を隠した、あやしげな人間である。カノン王子には、こういった者たちを魅了する奇妙な吸引力でも備わっていたのだろうか。
(いや、そういえば、ヴァルダヌス将軍もカノン王子には魅了されていたのだったな。エイラの神殿に幽閉されていた身で、そんな風に次から次へと人を魅了できるものなのだろうか)
しかし、幽閉されていても病魔を患うことはあろう。幼き時代には、《アムスホルンの息吹》だって発症していたはずだ。その際には、薬師なり医術師なりの力が必要になるはずであった。
(しかし、どうだろう。その言葉をたやすく信じていいものかどうか……わたしには、今ひとつ判別がつけられんな)
ならば、さらに重要なもう一件のほうを追及する他なかった。
「では、お前にシムの媚薬を準備させたのは、誰なのだ? さきほどは、貴き御方などと言っていたな」
「それは……それを明かせば、わたくしは首を刎ねられてしまいましょう……」
「では、王国の法に従って、審問の場へとおもむくか? 一冊の書物を持ち去ることがどれほどの罪となるかは知らぬが、わたしはこれでもアブーフ侯爵家の嫡子だ。そのわたしにあのようにおぞましい謀略を仕掛けた罪は、決して軽くあるまい。王都の方々は、アブーフとの縁を重んじているはずであるしな」
「……それは……何卒、ご容赦を……」
「容赦を乞うならば、その卑劣漢の名前を告げよ。そうすれば、審問の際にはお前に恩赦を与えるように、このわたしが掛け合ってもよい」
オロルは冷たい石造りの床にうずくまったまま、動かなくなった。
やがてその口から、「ジョ……」という、かすれた声音が絞り出される。
「ジョルアン元帥が……わたくしに、媚薬を準備するべしと申しつけられました……」
「……そうか。西方神に誓って、それは真実だな?」
「はい……朱の月の舞踏会までに、それを準備せよ、と……誓って申し上げますが、わたくしはこの場で調合した薬をお渡ししただけで、何に使用するかもおうかがいはしておりませんでした……」
「わかった。ひとまずは、その言葉を信じておこう」
オロルのあわれげな姿を見下ろしながら、クリスフィアはさらに言葉を重ねた。
「それでは、この書物はいったんわたしが預からせてもらう。内容を確認した後は、然るべき場所に戻そうと考えているが、何か文句はあるか?」
「いえ……どうぞ姫君の召されるままに……」
「ジョルアン将軍の罪に関しても、まずはわたしが真偽を確かめさせてもらう。万が一、審問の前にまた何か悪辣な頼みをされたときは、わたしに申し出るがいい。お前が心正しき人間であるならば、わたしが力を添えてやろう」
オロルは無言のまま、床に額をこすりつけた。
それを見届けてから、クリスフィアはきびすを返す。
「行くぞ、もうこの場に用事はない」
クリスフィアは、ゼラとロア=ファムをともなって、オロルの部屋を出た。
そうして周囲を用心しながら、速足で螺旋階段へと向かう。
「おい、あのあやしげな男の言葉を、すべて信じたわけではあるまいな?」
やがて、階段を下り始めてから、ロア=ファムが不機嫌そうな声でそう呼びかけてきた。
「うむ。どうもあの老人は、内心が読みにくい。すべてが虚言であったとしても、わたしは驚かんな」
「それなら、幸いだ。少なくとも、あいつはひとつ大きな虚言を口にしていたからな」
「大きな虚言? それは、どの言葉のことであるのだ?」
「あいつは隣室で休んでいたなどとほざいていたが、それは虚言だ。あの場所に、人間の気配は感じられなかった。それなのに、あいつは突如としてあの場所に現れたのだ」
石の階段を下りながら、クリスフィアは思わずロア=ファムを振り返ってしまった。
薄暗がりの中で、少年の黄色みがかった瞳は、爛々と燃えている。
「俺は、グレン族の狩人だぞ。あのようにせまい場所で人間が潜んでいたら、それを感じぬわけがない。あいつは、死人のように気配が消せるか、隠し扉か何かで別の部屋からやってきたか――さもなければ、魔法でも使ってあの場に現れたとしか考えられん」
「それだったら、隠し扉というのが一番ありえそうな話だが……さて、いったいどうなのであろうな」
クリスフィアにも、その真実を知ることはできなかった。
そして、オロルの言葉が真実であったかどうかも知るすべはない。
ただひとつ確かなのは、あの場にあれ以上留まっているのは危険である、という理屈のない直感のみであった。