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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第四章 滅びの御子
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Ⅴ-Ⅱ 決意

2017.11/25 更新分 1/1

 黒豹のプルートゥがラムルエルのもとに返されたのは、その日の夕暮れ近くになってからであった。

 もちろん、危険な黒豹がそのまま城内に連れ込まれたわけではない。プルートゥは、巨大な鉄の檻に押し込まれた状態で、偽王子一行にあてがわれた客間に運び込まれてきたのだった。


「檻の鍵は、ラギス様がお預かりするとのことです。……しかし、本当にこのようなものを王子殿下のお部屋に運び入れてしまい、よろしかったのでしょうか?」


 檻を運んできた下男の一人が、おずおずと問うてくる。

 それに向かって、シルファは「かまわん」と王子らしい凛々しさで答えていた。


「この獣は、わたしを守る盾となるのだからな。言ってみれば、わたしにとっての騎士にも等しい存在であるのだ。騎士を忌避する王子などおるまい?」


「は――」と深々と頭を下げてから、下男たちは引き下がっていった。

 それを見届けてから、シルファは血の色の透けた青灰色の瞳でプルートゥを見つめる。


「こんな窮屈なところに閉じ込められて、気の毒なことだな。しかし、粗雑に扱われていた様子はないようで、何よりだ」


「はい。シムの黒豹、珍しいので、どこか、売りに出す、つもりであったのでしょう。無事な再会、嬉しく思います」


 ラムルエルが檻のそばに寄っていき、柵の隙間から手の先を差し入れた。

 その手で咽喉もとを撫でられると、黒豹はぐるぐると甘えた声をあげる。武装した兵士をも撃退できる強靭な獣でありながら、主人に対しては幼子のように従順であるようだった。


「こやつは、とても賢そうな眼差しをしているな。今にも人間の言葉で語りだしそうに見えるほどだ」


「はい。プルートゥ、賢いです。私、兄弟同然、思っています」


 エルヴィルはまたラギスに引っ張っていかれてしまったので、室内にいるのはシルファとラムルエルとメナ=ファムの三名のみであった。

 メナ=ファムは長椅子に座したまま、鉄の檻を囲んだシルファたちの姿を見守っている。ラギスが約束通りにプルートゥを返してきたのは何よりであったが、それぐらいでここ数日の鬱憤が晴れることはなかった。


「よければ、王子殿下、プルートゥ、お触れください」


「何? しかし、危険はないのだろうか?」


「はい。今後、王子殿下、守るため、絆、結んでいただきたい、思います」


「うむ……」とうなずきながら、シルファは不安そうにプルートゥを見下ろした。

 その蠟みたいに白い指先を、ラムルエルが「失礼」という言葉とともに、そっとつかみ取る。


「王子殿下、私にとって、大事な存在、理解すれば、プルートゥ、生命を懸けて、王子殿下、守ります」


 そう言って、ラムルエルはシルファの手の甲にくちづけをした。

 そしてその手を、やわらかく檻の内側へと導く。


 プルートゥは一度まばたきしてから、シルファの手の甲をぺろりとなめた。

 そして、何かをねだるように、金色の瞳でシルファを見つめる。


「では、頭か咽喉、お触れください。それで、絆、結ばれます」


「うむ……」


 それでもシルファはまだいくぶん不安そうに、プルートゥの頭へと手をのばした。

 その手が優しく頭を撫でると、プルートゥは心地好さそうに目を閉ざす。


「まるで絹のように美しい毛並みだな。わたしはこのように美しい獣を目にしたのは、初めてのことだ」


「はい。シムの黒豹、世界でもっとも美しい、思います」


 シルファは穏やかに微笑みながら、もう片方の手でプルートゥの咽喉もとも撫でた。

 その姿を見届けてから、ラムルエルがメナ=ファムに向きなおってくる。


「では、メナ=ファムも、お願いいたします」


「あたしが何だって? あたしだったら、自分の身は自分で守れるよ」


「はい。ですが、王子殿下、ともに守る、同胞として、絆、結んでいただきたい、思います」


 メナ=ファムは頭をかきながら、ラムルエルたちのほうに近づいていった。

 ラムルエルは東の民らしい無表情のまま、黒い指先を差しのべてくる。


「……黒豹のほうはともかく、あんたに手の甲をなめられるのは、あんまり気が進まないね」


「なめません。友愛を示す、接吻です」


「はん。なおさら、小っ恥ずかしいや」


 メナ=ファムは無造作に右手を差し出してみせた。

 狩人としての鍛錬を重ねてきた、男のように武骨な手である。

 その手を下からそっとすくいあげて、ラムルエルが唇を近づけてくる。

 ラムルエルの指先も唇も、メナ=ファムが想像していた以上に温かく、それがいっそうメナ=ファムを落ち着かない心地にさせた。


 そうして檻の中に手を差し入れると、プルートゥが手の甲をなめてくる。

 メナ=ファムは最初から両手を使って、その頭と咽喉もとをわしゃわしゃと撫でてやった。


「はん。確かにこいつは、気持ちがいいや」


「メナ=ファム、プルートゥ、よき友、なるでしょう。私、嬉しい、思います」


 一歩下がってこの様子を見守っていたシルファは、あらたまった口調で「ラムルエル」と声をあげた。


「其方までが私に力を貸してくれると願い出てくれて、本当にありがたく思っている。しかし――本当にそれでよかったのだろうか? 東の民にとっては、自由に大陸を駆け巡ることこそが、一番の幸福なのであろう?」


「はい。後悔、ありません」


「しかしそれは、自分の身を守るための決断であったのであろう? 今からでも、わたしが其方を自由の身にするようにと嘆願すれば――」


「いえ。私、進むべき道、自ら、選んだのです」


 感情の読み取れない声で、ラムルエルはそう言った。

 しかしその黒い瞳には、確かに決然とした光が灯っているように感じられた。


「私、王子殿下、力になりたい、願いました。その気持ち、偽り、ありません。……自由に生きる、この使命、終わってからで、十分です」


「この使命が、終わってから?」


「はい。王子殿下、玉座につけば、私の力、不要でしょう。その姿、見届けた後、また旅に出る、許していただきたい、思います」


「……そうか。其方の覚悟、しかと受け取った」


 伝声管の存在を気にして、シルファは王子としての口調を崩すことができなかったが、その瞳にも深い感謝の光が瞬いていた。


「其方たちのことは決して粗略に扱わぬと約束しよう。悲願が達成されるその日まで、どうかわたしに力を貸してほしい」


「はい。喜んで」


 ラムルエルほど素直に割り切れないメナ=ファムは、一人でこっそり溜息を噛み殺すことになった。

 そこに、扉を叩く音色が響く。


「失礼いたします。カノン王子殿下、今宵は祝宴となりますので、その前にお身体を清めていただきたく思います」


「祝宴? そのような話は、聞いていなかったが」


「はい。出陣の日取りが決定いたしましたゆえ、壮行と激励の祝宴が開かれることと相成りました」


 小姓の言葉に、シルファの白い面が厳しく引きしまった。


「出陣の日取りが決まったのか。それは、いつなのだ?」


「はい。十日後の、黄の月の十五日にてございます」


 メナ=ファムは、再び頭をかき回すことになった。


(ついに、出陣かい。こうなっちまったら、もう何をどうしたって止めようはないんだろうね)


 シルファはしばし足もとの敷物に目を落としてから、やがて「了解した」と声をあげる。


「大公閣下への御礼の言葉は、のちほど自分の口から伝えさせていただこうか。……それで、祝宴のために身を清めよという話であるのだな?」


「はい。浴堂の準備はできておりますので、どうぞこちらに」


 シルファは、ちらりとメナ=ファムを見てきた。

 シルファが身を清める際は、すべてメナ=ファムが付き添わなくてはならないのだ。メナ=ファムはひとつ肩をすくめてから、ラムルエルのほうに向きなおった。


「それじゃあ、あたしらはちょいと行ってくるよ。あんたは黒豹と遊んでな」


「はい。お気をつけて、王子殿下、メナ=ファム」


 扉を開けて、小姓とともに次の間を出ると、そこには刀を下げた四名の兵士たちが待ち受けていた。

 その兵士たちに四方を囲まれながら、石造りの回廊を進む。浴堂には毎日通わされているので、すでに道順も覚えてしまっていた。


 火を扱う関係からか、浴堂は一階に存在する。扉を開けると、次の間に二名の侍女が控えていたが、メナ=ファムが目配せをすると、しずしずと部屋を出ていった。


 こればかりは、他の誰にも手伝わせることがかなわないのだ。

 籠の中に二人分の着替えが準備されていることを確認してから、メナ=ファムは浴堂の内部を改めた。


 石造りの浴堂には、白い蒸気がたちこめている。

 城の人間たちは、この中で垢を落とし、髪を洗って、湯や水に浸かるのだ。身を清めるといえば、シャーリの川で水浴びをするぐらいであったメナ=ファムにとって、それはまったく馴染みのない行いであった。


「誰も潜んじゃいないようだね。とっとと済ませちまおう」


「うむ」と、シルファは衣服を纏ったまま浴堂に足を踏み入れていった。

 普通は次の間で衣服を脱ぐものであるようだが、そちらは扉のすぐ外に兵士や侍女たちが控えている。万が一にも秘密が露見してしまわないように、シルファは浴堂の内部で衣服を脱ぐように心がけていた。


 着替えの籠を入り口のすぐそばまで移動してから、メナ=ファムも浴堂に踏み込んで、扉をぴたりと閉めてみせる。

 それを待ってから、シルファは自分の着衣に手をかけた。


 白い指先が紐をほどき、帯を解いて、裸身をあらわにしていく。

 同じように着ているものを脱ぎ捨てながら、メナ=ファムはちょっと息を呑んでいた。


 浴堂を訪れるのは毎日のことであるのに、いつまでたってもこの時間に慣れることはない。シルファの裸身の美しさが、メナ=ファムを落ち着かない心地にさせるのだ。


 シルファはきわめて美しい容貌をしていたが、その肢体もまた引けを取るものではなかった。

 その白い肌には一点の曇りもなく、まるで作り物のようになめらかな質感をしている。重ね着していた装束を脱いでしまうと、あまりに痩せすぎていて心配になるほどであったが、それもまた彼女の妖精じみた美しさを際立たせていた。


 腕も足も肩も腰も、すべての線が優美であり、溜息が出るほどに美しい。これが本当に血肉をそなえた人間なのかと疑わしくなるほどだ。浴堂にたちこめた蒸気の中に浮かびあがるその姿は、おとぎ話に出てくる可憐な妖精さながらであった。


(こんなに若くて美しい娘っ子が、どうして男のふりなんかをして戦場に出ていかなくちゃいけないんだよ)


 そんな風に考えながら、メナ=ファムは脱いだ服を足もとに放り捨てた。

 メナ=ファムは、頭半分以上もシルファより背が高い。横幅や厚みなどは、それこそ一回りも大きいぐらいだろう。腕や肩には筋肉が盛り上がり、腹にもくっきりと線が浮いている。胸や尻が張っていなければ、女とも思えないような逞しさであった。


 また、肌は黄褐色に焼けており、ところどころに古傷が残されている。右の腿に走った四本の傷跡は、大鰐の爪でえぐられたものだ。そうして地面に組み伏せられながら、メナ=ファムは短刀で大鰐の咽喉を引き裂いて返り討ちにしてみせたのだった。


「……どうかしたのか、メナ=ファムよ」


 と、蒸気の向こうから、シルファが呼びかけてくる。

「別に」とそっけなく応じてから、メナ=ファムはそちらに近づいていった。


 シルファはすでに、手ぬぐいで身体をぬぐい始めている。この蒸気に包まれていると汚れが浮いてくるので、それを手ぬぐいで清めてから、水を浴びるのだ。

 別の手ぬぐいを取ってそれを手伝おうとしたメナ=ファムは、ふとシルファの右腕に目をやった。


 一点の曇りもない白い肌の、そこにだけは古傷が刻まれてしまっている。

 かつて王都の兵士に矢で貫かれた傷痕である。

 二の腕の、骨の外側の位置に、赤黒い傷痕が浮かびあがっている。傷口自体は小さいが、これが綺麗に消え去ることは二度とないだろう。


「……あたしはやっぱり、納得がいかないよ」


 伝声管の存在をはばかって、メナ=ファムはシルファの耳もとにそう囁きかけてみせた。

 血の色を空かせた青灰色の瞳が、びっくりしたようにメナ=ファムを見返してくる。


「どうしてあんたが、こんな馬鹿な運命を受け入れなくっちゃならないのさ。あんたみたいに美しい娘には、もっと幸福に生きる道がいくらでもあったはずだよ」


 シルファは色の淡い唇を、きゅっと噛みしめた。

 そして、メナ=ファムの顔から目をそらす。


「だいたい、エルヴィルもエルヴィルさ。王都の将軍様に恩義を感じてたって話だけど、そいつもくたばっちまった後なんだろう? そんな死人なんかのために、まだ生きている妹を犠牲にするなんて……やっぱりあたしには、これっぽっちも理解できないよ」


「…………」


「そうしてエルヴィルの馬鹿な復讐心のために、これから大きな戦が始まる。大勢の人間が、あんたたちのために魂を返す羽目になっちまうんだ。あんたはそんな運命に耐えられるのかい? 中には、あんたを本物の王子と信じて死んでいく連中も山ほどいるんだよ?」


 シルファは、力なく頭を振った。

 首のところで切りそろえた銀灰色の髪が、蒸気の中できらきらときらめく。


「身体は、もういい。髪を洗ってくれ」


 そう言って、シルファは浴堂の奥に歩を進めていった。

 そこには床に堀のようなものが掘られて、水が貯められている。その縁に腰を下ろして、膝から下を水に沈めたシルファが、思いつめた眼差しでメナ=ファムを見上げてきた。


「……もっと下まで浸からないと、髪を洗えそうにないね」


 言いながら、メナ=ファムはシルファのかたわらに腰を下ろした。

 その耳もとに、シルファが口を寄せてくる。


「メナ=ファム……今からでも遅くはありません。あなただけでも、こんな場所からは立ち去るべきではないでしょうか?」


「今さら、何を言ってるんだい。ラムルエルを仲間に引き入れたばっかりじゃないか」


「ええ、そうです。ラムルエルも一緒に……プルートゥを檻から出してあげることができれば、その力も借りて脱出することがかなうのではないでしょうか?」


 メナ=ファムは、心底から腹が立ってしまった。


「いい加減にしなよ。ぐちぐち文句を言われるのが嫌だから、あたしを追い出そうってのかい? そんな真似をするぐらいなら、文句を言われないように身をつつしむべきじゃないのかねえ?」


「ですが、わたしとエルヴィルは、もうどこにも引き返せないのです。だけど、あなたたちは……あなたたちまで、わたしたちの運命に巻き込まれる必要はありません」


 メナ=ファムは発作的な怒りにとらわれて、シルファの華奢な肩をわしづかみにしてしまった。

 そうしてシルファの身体を自分から引きはがすと――シルファの瞳は、涙に濡れていた。


「わたしとエルヴィルには、おたがいの他に家族はありません。だから、もうどこにも逃げ場はないのです。そして、王家の名を騙ったわたしたちは、西方神の怒りに触れて、死後に魂を砕かれてしまうことでしょう……あなたたちまで、そんな罪を背負う必要はないはずです」


「なんだよ……どうして今さら、そんなことを言うのさ? だったら、あんたたちも馬鹿な考えは捨てて、逃げ出しちまえばいいだろう? そのためにだったら、あたしだってゼラドの兵士どもを思うぞんぶん、ぶちのめしてやるさ」


「いいえ……わたしたちは、もはやこの道を選んでしまいました。この他に、生きる道はないのです。馬鹿な考えとお思いでしょうが、それが真実であるのです」


「どうしてだよ?」と囁きながら、メナ=ファムはシルファの身体を引き寄せた。


「あんたはセッツとかいう土地で、修道女として暮らしていたんだろう? そこで平和にのんびり暮らしていればよかったのに、どうしてあんたは――」


「わたしは、修道女ではありません。修道院の下女として、働かされていたのです。身体が弱くて、何の役にも立たない役立たずでしたが……修道女様のお情けで、生かしてもらっていたに過ぎないのです」


 メナ=ファムの耳もとに口を寄せて、シルファは静かに語り続けた。


「わたしは幼い頃に両親を失って、ずっとその場所で生かされていました。他の下女には役立たずと罵られて、薄暗がりの中で怯えながら……まるでギーズの大鼠のように、惨めな存在であったのです」


「いや、だけど……それじゃあ、エルヴィルは? あいつは、あんたの兄貴なんだろ?」


「エルヴィルとは、半分しか血は繋がっておりません。おたがいを兄妹と知ったのは、エルヴィルが十四歳、わたしが十歳の年でした。わたしたちの父親は盗賊で、その男が別々の娼婦に生ませた子供であったのです」


 シルファの肩に手をかけたまま、メナ=ファムは愕然と息を呑むことになった。

 これほど美しいシルファと、かつては王都の千獅子長であったエルヴィルがそのような生まれであったとは、夢にも思っていなかったのである。


「そんな生まれでありましたから、わたしもエルヴィルも泥をすするようにして生きていました。そんなある日、エルヴィルはセッツで人を殺めてしまい……罪人として、追われることになったのです」


「…………」


「セッツを出る前に、エルヴィルはわたしのもとを訪れてくれました。いつか必ず身を立てて、お前をこの場所から救いだしてやる、と言い残して……エルヴィルは、わたしの前からいなくなりました。それがたしか、エルヴィルと出会ってから二年後ぐらいだったと思います」


 その顔を見なくとも、シルファが泣いていることがわかった。

 メナ=ファムは無言のまま、シルファの肩をぐっとつかむ。


「それからの五年間は、いっそう惨めな人生でした。せっかくエルヴィルという兄と出会えたのに、わたしはわずか二年間でそれを失ってしまったのです。どうして自分は生まれてきたのか、何のために生きているのか……毎日そんなことを考えながら、あの薄暗がりの中で生きていました」


「…………」


「その間に、エルヴィルは王都にまでおもむき、傭兵として生きることになりました。そこで、ヴァルダヌスという立派な将軍様と巡りあい……そうしてついに、兵士の長として身を立てることがかなったのです」


「それなのに、貴族ともめて王都を追放されちまったっていうのかい? つくづく血の気が多いんだね、あいつは」


「エルヴィルは、純真に過ぎるのです。だから……ヴァルダヌスという御方が汚名にまみれたままでいることが耐えられなかったのでしょう」


 シルファは、くすんと鼻を鳴らした。

 それは、エルヴィルに対する情愛が嫌というほど感じられる仕草であった。


「そうして数ヵ月前に、エルヴィルが再びわたしのもとにやってきました。お前の人生を、俺に預けてくれ、と言って……将軍と一緒に亡くなられた第四王子がわたしと同じ白膚症であったことが、エルヴィルには天啓であると思えたのでしょう」


「それじゃあ、まさか……あいつは将軍様の仇を取るだけじゃなく、あんたを幸せにしたいがために、こんな馬鹿な真似をしでかしたっていうことなのかい?」


「……エルヴィルは、わたしを王妃にしてやる、と言っていました」


 メナ=ファムは声が大きくなってしまわないように気をつけながら、「馬鹿げてるよ」と言い捨ててみせた。


「妹を幸せにしたいのはわかるけど、どこをどうつついたら王妃に仕立てあげるなんていう考えが出てくるんだよ。あいつ、頭は大丈夫なのかい?」


「……きっとエルヴィルは、王都の立派な騎士として、わたしを迎えに来ることを夢見ていたのでしょう。その願いを絶たれたあげく、敬愛する将軍様まで失ってしまい……心を乱してしまったのだと思います」


「だったら、なおさら、あんたがたしなめるべきだったんじゃないのかい?」


 メナ=ファムの耳もとに顔を寄せたまま、シルファは泣き声とも笑い声ともつかない声をたてた。


「わたしはもう、エルヴィルさえかたわらにいてくれれば、それで十分であったのです。そして、エルヴィルの悲しみはわたしの悲しみであり、エルヴィルの怒りはわたしの怒りです。これでエルヴィルの無念が晴らされるなら、わたしに後悔はありません」


「それで、あんたの一生が滅茶苦茶になってもかまわないっていうのかい?」


「わたしの生は、すでに暗黒のさなかにありました。エルヴィルと離れていた時間こそが、わたしにとっては耐え難い痛苦そのものであったのです」


 古傷の残ったメナ=ファムの右腿に、ぽたぽたと熱いしずくが滴ってきた。

 それは、シルファの頬から落ちた涙であった。


「なるほどね。あんたはエルヴィルのそばにいられれば、破滅したってかまわないってのかい。だから、あたしやラムルエルなんて、いようがいまいがどうでもかまわないってことだね」


「違います」と、シルファが囁いた。

 そのしなやかな指先が、メナ=ファムの肩に取りすがってくる。


「わたしにとって、メナ=ファムはかけがえのない存在です。わたしはエルヴィルの他に、初めて他者を愛するという感情を抱くことができました。わたしは、自分にこんな人間らしい心が残されているということを、あなたに出会うことで初めて知ることになったのです」


「だったら、どうして――」


「そんなあなたをわたしたちの運命に巻き込んで破滅させてしまうことが、恐ろしいのです。そして……あなたに憎まれたり恨まれたりすることに、もう耐えきれそうにないのです」


 メナ=ファムは、再びシルファの身体を引きはがした。

 シルファはその陶磁器のようになめらかな頬に、ぽろぽろと涙をこぼしている。

 それはまるで、幼子のような泣き顔であった。


「わたしはこれまで、さんざん蔑まれて生きてきました。どれほど憎まれようとも、どれほど恨まれようとも、わたしの心はもはや痛みも感じません……ただ、あなたとエルヴィルを除いては」


「……あたしがいつ、あんたを憎んだり恨んだりしたっていうんだよ」


「だって……わたしたちの企みを知って以来、メナ=ファムはずっと怒っているではないですか……」


 それもまた、まるで幼子のような言い分であった。

 メナ=ファムは大きく息をついてから、シルファの小さな頭を抱え込む。

 さらに、そのほっそりとした背中にも腕を回して、嫌というほど抱きすくめてみせた。


「あたしがちょいとふてくされたぐらいで、嫌気がさしちまったっていうのかい? 確かにあんたは、人の気持ちがわからない大馬鹿だ」


「はい。わたしは、生まれ損ないなのです」


 シルファが、おずおずとメナ=ファムの背に手を回してくる。

 宝石のようにきらめくシルファの髪に顔をうずめながら、メナ=ファムは荒っぽく言い捨てた。


「あたしの運命は、あたしが決める。シャーリの狩人をなめるんじゃないよ。誰が、あんたたちみたいな大馬鹿どもの運命なんざに潰されるもんか。それに、あんたみたいな我が儘王子のご機嫌をうかがったりもしやしないからね」


「わ、わたしは我が儘王子ですか?」


「ああ。あんたみたいに自分勝手な人間は、初めて見たよ」


 そんな風に言いながら、メナ=ファムはシルファの身体をいっそうきつく抱きすくめた。

 その気になれば、このままシルファの背骨をへし折ることだってできただろう。それぐらい、シルファの身体はもろくて危うげであった。


(あたしは、なんにもわかってなかった。こいつはこんなに大馬鹿で、自分勝手で……それで、可哀想なやつだったんだ)


 メナ=ファムはようやく、シルファという人間の本質に触れられたような気がしていた。

 シルファはとっくにこの世界に絶望していて、それゆえに、自分を守ろうという意識が持てない存在であったのだ。だからきっと、王家の名を騙るという大罪を犯すことにも躊躇がなかったのだろう。


(わかったよ。こうなったら、最後の最後までつきあってやる。この行いに咎あれば、怒りの炎で我が身を焼きつくせ、だよ、こん畜生め)


 裸身のシルファを抱きすくめながら、メナ=ファムは天井のほうに目をやった。

 現在の王、ベイギルス二世に叛旗をひるがえすことは、西方神の怒りに触れるのかどうか――今のところ、怒りの炎が天から降ってくる気配はなかった。

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