Ⅳ-Ⅱ 禁忌の書
2017.11/11 更新分 1/1
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クリスフィアがダームを離れてから、二日後――黄の月の一日である。
その日にダリアスたちは、ついに学士長のフゥライと再会することがかなった。
「おうおう、リッサ。ひさかたぶりだな。息災なようで何よりだ」
ダーム公爵邸の客間に姿を現すなり、フゥライはそのように述べていた。
長身痩躯で、真っ白な顎髭を胸もとまで垂らした、優しげな老人である。頭には丸い帽子をかぶっており、その脇からも白い髪がもしゃもしゃとこぼれている。十日ほど前にエイラの神殿で出会ったときと、まったく変わらないたたずまいであった。
「おや、それにそちらは、レミではないか。どうしてそなたがこのような場所で、リッサとともに儂を待ち受けておるのかな?」
「お、おひさしぶりです、フゥライ様。実はちょっと、込み入ったわけがありまして……」
ラナが返答に窮している間に、フゥライをここまで案内してきた小姓は「失礼いたします」と部屋を出ていった。
フゥライは「ふむ」と顎髭をしごきながら、ダリアスのほうにも目を向けてくる。
「ひょっとしたら、そちらはレミのご伴侶であられるのかな? 以前は顔に手傷を負われていたようなので、判別はできんのだが」
ダリアスは、今日も襟巻きで口もとだけを隠していた。
髪は黒く染められたままであるし、王都でフゥライと顔をあわせた記憶はない。たとえ遠目で姿を見られたことぐらいはあったとしても、これならば素性を悟られる恐れもないように思われた。
「いかにも、俺はアッカムだ。実はあの後、アブーフの姫君と懇意にさせていただく機会があり……それで、あなたの来訪を待つ仕事を肩代わりすることになったのだ」
「ふむ。確かに込み入った事情であるようだな。……リッサよ、お主は何のために儂を捜し回っておったのだ?」
「僕もそのアブーフの姫君に頼まれて、こんなところにまで引っ張り出されてしまったのですよ。ただダームの生まれであるというだけの理由で、そんな面倒事を引き受ける次第になってしまったのです」
そのように応じてから、リッサはとても不服そうに唇をとがらせた。
「そんなことよりも、どうしてご老体は手ぶらなのですか? 半月以上もダームをさまよっていたのですから、それなりの成果があったはずでしょう?」
「うむ。ダームで買い集めた書物は、別の部屋に保管させてもらったのだ。荷車の中に置き去りにしては無用心だからな」
「ちぇっ。手に持てる分ぐらいは持ってきてくれればいいのに」
ぶつぶつとつぶやくリッサは黙殺して、フゥライはまたダリアスたちに笑いかけてきた。
「ともあれ、座らせてもらってもかまわんかな? この年で荷車に揺られると、腰が痛くてなあ」
「も、もちろんです、どうぞ」
部屋の中央には、立派な長椅子が置かれている。ダリアスとラナも、卓をはさんでその向かい側に腰をおろすことになった。リッサは部屋の隅にある席に陣取り、性懲りもなく読みかけの書物を開き始める。
「今夜一晩はこちらでお世話になって、明日の朝にでも王都に戻ろうかと考えておるのだ。だからまあ、どのように込み入った話でも、時間が足りなくなることはあるまいよ」
現在は、中天と日没のちょうど中間、下りの三の刻の鐘が鳴ったばかりの刻限であった。
きちんと背筋をのばして座した老人に、ダリアスはひとまず頭を下げてみせる。
「話を始める前に、まずは御礼の言葉を言わせてもらいたい。先日にいただいたあの書物は、たいそうレミの心を慰めてくれたようだ」
「ほうほう。それは何よりであった。神殿の誰かに読み聞かせてもらったのだな?」
「は、はい……これまで書物というものに触れる機会がまったくなかったので、とても不思議な喜びを授かることができました。フゥライ様には、本当に感謝しています」
「そのように大仰な言葉を連ねる必要はあるまいよ。お主に喜んでもらえたのなら、何よりだ」
皺深い顔にいっそう深い皺を刻みながら、フゥライは微笑んだ。
このフゥライは貴族の出自ではなく、その才覚だけで学士長にまでのぼりつめた傑物なのである。その態度に驕ったところはまるで感じられず、ちょっとした表情の動きにも人柄の温かさが感じられた。
「それで、アブーフの姫君というのは、いったい何のために儂などを捜しておられたのかな? 儂はアブーフなどとはまったく縁を持たない身であるのだが」
「ああ、それは……一冊の書物について、ご老体にお聞きしたいことがある、とのことだった」
「一冊の書物?」
「うむ。それは、エイラの神殿から王都の書庫に運び込まれた書物であるそうだ。その中に、一冊だけ行方のわからなくなった書物がある、と俺は聞いているのだが……」
フゥライはけげんそうに小首を傾げてから、リッサのほうを振り返った。
「リッサよ、それは目録にすら載ることのなかった、あの古びた書物のことであるのかな?」
「ええ、まさしくその書物のことですよ。何せ、その話をアブーフの姫君にもたらしたのは、この僕なのですからね」
「ああ、おぬしもあの場に立ちあっていたのだったな。……うむ、確かにそれは真実の話だ。エイラの神殿から持ち込まれた書物の山は、目録を作るために一晩だけ物置に仕舞われていたのだが、翌朝には一冊だけ行方がわからなくなってしまったのだな」
「それは、何者かが盗みだしたということなのだろうか?」
「うむ。書物に羽が生えて逃げていったのでない限りは、そうなのであろうな」
冗談めかして言いながら、老人はにこりと微笑んだ。
「しかし、誰が持ち去っていったのかは、皆目わからんのだ。物置は書庫の奥にあるので、こっそり忍び込んで服の中にでも隠してしまえば、誰にでも持ち去ることができたであろう。日が暮れるまでは、誰でも書庫に足を踏み入れることができたのだからな」
「その犯人が捜されることはなかったのだろうか?」
「うむ。何せあの頃は、宮廷中が大騒ぎであったからな」
確かに、王や王太子が鏖殺されて間もない時期に、一冊の書物の行方などが大きく取り沙汰されることはなさそうであった。
「それは、どういった書物であったのだろうか? 表紙の題名すら読み取ることができないほど古びた書物であったという話だが」
「……もう一度問うが、アブーフの姫君はどうしてそのようなものに執着しておられるのかな? 題名すらもわからぬ書物の行方など、普通は誰も気にかけないように思うのだが」
心苦しいが、その質問に正直に答えることはできなかった。
「俺にもよくわからないが、姫君にとってはたいそう重要な話であるらしい。ご老体は、その書物の内容をご存じであろうか?」
「うむ、多少はな」と、フゥライはあっさり言った。
しかし、その顔からは笑みが消えている。
「しかし、あまり余人が関心を寄せるべき書物ではなかろうな。あれは、世が世ならば所有しているだけで首を刎ねられるような書物であったよ」
「そ、それはどういう――?」
「あれは、いわゆる禁忌の書であったのだ」
ダリアスの背中に、何か冷たいものが走り抜けていった。
フゥライは、細長い指先を腹の上で組みながら、長椅子の背にもたれかかる。
「儂も、冒頭の部分を少しばかり目にしただけであるので、確かなことは言えん。しかし、あれが禁忌の書であることに間違いはなかろう。どうしてあのような書物が、エイラの神殿に隠されていたのか……いささかならず、理解に苦しむところであるな」
「そ、それはどのような内容であったのだろうか?」
ダリアスは思わず身を乗り出してしまったが、フゥライはそれをたしなめるように、ゆるゆると首を振っていた。
「敬虔なる四大神の子であるならば、聞くだけで耳が穢れる内容であるよ。ああいった書物を嫌悪や恐怖の気持ちもなく読み進めることができるのは、儂やリッサのような学究の徒のみであろうな」
「……それをお聞かせ願うことはできないだろうか?」
フゥライは、難しげな顔で口をつぐんでしまった。
すると、いつの間にか席を離れていたリッサが、老人の肩ごしにひょこりと顔を覗かせた。
「あれはそんなにたいそうな書物であったのですか? ご老体はそのようなこと、一言も仰っていなかったじゃないですか! そんなの、ずるいですよ!」
「耳もとでわめくな、粗忽者め。どうせ失われてしまった書物であるのだから、そのようなことを言い広めても詮無きことであろうが?」
「そんなに面白そうな書物だったのなら、僕だってもっと熱心に探していましたよ! いったいどのような内容であったのですか?」
フゥライは、また口を閉ざしてしまった。
ダリアスは思案して、もう一歩だけ踏み込んでみることにする。
「ご老体、アブーフの姫君は、その書物を盗んだ犯人を捜しておられるようなのだ。その内容を知ることが、犯人を突き止める手がかりになるやもしれん。神を穢す言葉など口にしたくないのが当然であるが、何とか力になってもらえないだろうか?」
「いや、儂らにとっては、それほど大仰な話ではないのだ。儂ら学士は、神の存在をも机上に並べてしまう不届きものの集まりであるからな。……だから儂は、おぬしやレミの心情を慮っておるのだよ」
「俺は、大丈夫だ。レミは……心配ならば、寝所に下がっていてもらえるか?」
「いえ」とラナは首を横に振った。
「わたしも、アッカムと同じ話を耳にしたいと願います。わたしなどでも、どこで何の役に立てるかもわかりませんので……」
「おぬしたちは、そこまでアブーフの姫君とやらに肩入れしておるのか?」
フゥライに問われたので、ダリアスは「ああ」とうなずいてみせる。
「俺たちは、クリスフィア姫と命運をともにすると決めたのだ。だから、姫がその書物の行方を追っているならば、俺たちも力を貸したいと願っている」
「そうか。あのような書物は、消えたなら消えたままにしておくのが一番であるようにも思うがな」
「何を仰っているのですか!」と、リッサがわめき声をあげる。
「この世に、消えていい書物などありません! いつもそのように述べたてているのは、学士長じゃないですか! 禁忌の書であろうと何であろうと、僕たちはすべてを読み尽くして、すべてを解き明かすべきでしょう?」
「ええい、だから耳もとでわめくなというのに! そんなところにへばりついていないで、おぬしも腰を落ち着ければよかろうが?」
ということで、リッサはフゥライの隣に陣取ることになった。
三対の目に囲まれて、フゥライは深々と嘆息する。
「そこまで言うなら、聞かせてやろう。ただし、西方神の怒りにおののくことになろうとも、儂には責任も取れぬからな?」
ダリアスはひとつうなずいてから、ラナの手を取った。
ラナは、ひかえめな力でそれを握り返してくる。
「あの書物はな、アムスホルンの歴史書であったのだ」
「アムスホルンの、歴史書?」
「うむ。ただし、四大王国が築かれるよりも以前の時代、禁忌の大暗黒時代の歴史書だ」
「ちょっと待ってくださいよ。大暗黒時代の文献など存在しないでしょう? そもそも文字のなかった時代に、歴史書を編むことなどできるはずがないじゃないですか」
すかさずリッサは言いたてると、フゥライは横目でそちらをねめつけた。
「その時代に文字がなかったと言いたてているのは、後世の人間たちだ。もしかしたら、四大王国の時代になってから、すべての書物は焼かれてしまい、すべてが闇に葬りさられてしまったのかもしれん――というのも、通説のひとつであろう?」
「そりゃまあ、確かにその通りですけどね。でも、四大王国が築かれたのはもう六百年以上も昔のことですよ? あの書物は確かに古びていましたが、さすがにそんな時代の書物がまともな形で残っているとは思えません」
「うむ。あれが真なる歴史書であっても、後世になってから写された写本なのであろうな。ともあれ、あの書物の最初の頁にはこのように記されておったのだ。……これは大いなるアムスホルンの創世記である、とな」
フゥライは半分だけまぶたを閉ざして、静かに言葉をつむいでいった。
「あの書物が実際にどういう内容であったのかは、儂にもわからぬ。しかし、そういった一文で始まる書物は、他にもいくつかあり……そして、それらはすべて大陸の大暗黒時代について記された書物であったのだ」
「……それは、神話や伝承でしょう? 魔術の力で支配されていた、大暗黒時代。それぐらいの文献は、僕でも目にしたことがあります」
「うむ。しかし、より詳細の記された文献を目にしたことはあるまい? そういった禁忌の書は、すべて第一書庫の鍵つきの棚に封印されておるからな」
「では、何故その書物は物置などに放り込まれていたのだ?」
ダリアスが問うと、フゥライは薄く笑みをたたえた。
「それらは確かに禁書であるが、儂などにとっては一冊の書物に過ぎないのだ。内容を確認したのちには第一書庫に封印するつもりであったが、まさかそれを盗み出す人間がいようなどとは夢さら思っていなかったのでな」
「そうか。……話の腰を折って悪かった。どうか続けていただきたい」
「耳と魂を穢す覚悟は固まったかな? そういった書物に書かれているのは、いずれも四大神に対する冒涜の言葉であるのだ」
穏やかで優しげに見えていたフゥライの笑顔が、ひどく不吉なものに感じられてしまう。
それともそれは、ダリアスの心が早くもおののいているためであったのだろうか。
気づくと、ダリアスの手を握るラナの指先にも、強い力が込められていた。
「アムスホルンは原初の神であり、四大神はすべてアムスホルンの子である。大いなる父神アムスホルンが長きの眠りについたため、子たる四大神がこの世を支配することになった……それが大陸に伝わる四大神の神話であるが、禁忌の歴史書にはまったく異なる内容が記されている」
そこでいったん言葉を止めてから、フゥライは言った。
「いわく――四大神はアムスホルンの子ならず、大神に背いた邪神である、という神話だな」
「四大神が、邪神……?」
「うむ。それとは逆に、アムスホルンこそが邪神であり、正義の神たる四大神がそれを封印したのだという神話もある。いずれにせよ、大神アムスホルンと四大神は父と子ではなく、敵対する神々であったというのが、禁忌の歴史書の内容であるのだ」
確かにそれは、冒涜の名に値する内容であった。
ただ、聞くだけで耳が穢れるとは思えない。この世には、四大王国の支配から逃れて邪神を崇拝する一団というものも存在するのだ。そういう連中にとっては、四大神こそが邪神という扱いであるはずだった。
「大神アムスホルンは、復活の時を待ちながら、長い眠りについている。それは四大王国の神話においても同じように記されているが、父神か邪神かでその意味合いは大きく異なろう。禁忌の歴史書において、大神アムスホルンは眠りの中で復讐の牙を研いでいる、とされているのだ」
「復讐の牙? 大神が、誰に復讐しようというのだ?」
「それはもちろん、自分を封印した四大神と、それを崇める愚かな人間たち――つまりは四大王国の民たちにであろう。大神アムスホルンとは、すなわち大陸アムスホルンそのものを指している。封印された自分の身体の上で、許されざる背信者どもがこの世の栄華に酔いしれていれば、大神の怒りもいや増すばかりであろうな」
フゥライのまぶたがどんどん下がっていき、ついには瞳を隠してしまった。
「大暗黒時代、人間は魔術で世界を支配していた。それこそが、父なるアムスホルンの意思だった。しかし、どこからか現れた四大神が、アムスホルンを封印し、人間たちから魔力を奪った。そして、魔術の存在しない石と鉄の文明をもたらした……禁忌の歴史書には、そう記されている」
「うーん、だけど、それはそれで立派な神話ですよね。アムスホルンを邪神ということにしておけば、やはり四大神こそが正義であり絶対の存在となります。ことさら秘密にしたり歪曲したりする必要はないように感じてしまいますけれども」
「四大神が、正義であるならな。しかし、歴史書の多くは、アムスホルンこそが絶対神であり、四大神が邪神であると伝えている。……また、そうでなくとも、人間たちは大陸の上で生きているのだ。この大地こそが邪神そのものであるという考えは、やはり容認し難いものであろうよ」
それは確かに、フゥライの言う通りかもしれなかった。
人間に恵みをもたらすこの大地が邪神そのものであり、いずれは復讐を遂げようと目論んでいる、などと聞かされたら、なかなか心安らかに過ごすことは難しいだろう。
「ひとつの例として、アムスホルンの名を冠された現象には死と破壊がつきまとう、という説がある。《アムスホルンの息吹》は幼子を襲う恐ろしい病魔であるし、《アムスホルンの寝返り》は大地を引き裂く地震いであろう? その他にも、《アムスホルンの涙》や《アムスホルンの叫び》など、すべてはこの世を揺るがす災害を示している」
「そこまでいくと、こじつけの感が否めないですね。《アムスホルンの息吹》なんてのは、ただの伝染病でしょう?」
「それはアムスホルンのもたらした破滅の息吹であり、四大神の加護に見舞われた人間だけが救われている、という説がある。アムスホルンは、四大神の子を滅ぼすために、毒の息を吐いているのだ、とな」
ラナの指先が、わずかに震え始めていた。
それを力づけるように、ダリアスも声をあげてみせる。
「おおよその内容はわかったように思う。確かに敬虔たる四大神の子には冒涜としか思えぬ内容であるようだ。……しかしそれでも、禁書にするほどのものであるのだろうか?」
「儂のような学徒には何も恐ろしい話ではないし、多くの民にとっても、ただ忌まわしいだけの内容に過ぎんかもしれん。ただ問題は……それこそが真実であると信じる人間が存在することなのであろうな」
「それは……大陸のあちこちに潜伏するという、邪神教団のことか?」
「否、それらの多くはアムスホルンの子――四大神ではなく、禁忌の歴史書が伝えるアムスホルンの子らを崇める一団であろう。蛙神グーズゥ、蛇神ケットゥア、猫神アメルィアなど、そういった邪神たちはすべてアムスホルンの肉体から分かれた小神であるとされている。しかし、それらを崇める邪教徒たちも、アムスホルンがその父神とは考えておらぬはずだ。だから、そうではなく、大神アムスホルンを崇めて、その復活を願う者たち――四大王国においてはその名を語られることもない、まつろわぬ民の末裔たちだ」
フゥライが、ゆっくりとまぶたを開いた。
「そやつらは、陰からひそかに四大王国を滅ぼそうと暗躍している。四大神の名を冠した四大王国、セルヴァ、シム、ジャガル、マヒュドラのすべてを滅ぼしたとき、大神アムスホルンは復活する……あやつらは、固くそのように信じておるのだ」
「だったら僕たちは、王国同士で戦争をしている場合ではありませんね」
リッサが肩をすくめながら言うと、フゥライは「その通りだ」とうなずいた。
「しかしそれもまた、アムスホルンの呪いなのかもしれん。王国の建立当時から、セルヴァとマヒュドラは憎み合い、シムとジャガルは憎み合っている。どうしてこれほど長きに渡って、王国同士がおたがいを憎んでいるのか、それを正しく解き明かすことのできた人間は存在しない」
「そんなのは、ただの領土争いだと思いますけどね。この大陸がどれほど広くとも、人間が健やかに暮らせる土地は限られているのですから」
「うむ。それもまた、人間が魔術を失ったゆえである、と禁忌の魔術書には記されておるな」
「それでは――」と、ダリアスは口をはさんだ。
クリスフィアの示唆していたひとつの可能性を、この見識ゆたかな学士長の老人に確認しておくべきだと考えたのだ。
「それはあくまで歴史書であり、魔道書の類いではなかったのだろうか?」
「魔道書? どこからそのような話が持ち上がったのであろうかな?」
「いや、クリスフィア姫がそのような言葉を口にしていたのだ。失われた書物というのは魔道書であり、災厄の日に魂を返した第四王子は、その魔道書から太古の魔術を学んだのではないか、と――」
「ははは」と、フゥライは穏やかな笑い声をあげた。
「アブーフの姫君というのは、ずいぶん想像力のゆたかな御方であられるのだな。魔道書を目にしたぐらいで太古の魔術を学べるようであれば、この世はとっくに四大王国を滅ぼさんとする邪教徒たちに席巻されておるだろうよ」
「ああ、まあ……それはそうなのだろうな」
「確かに、第四王子がどのような手管で銀獅子宮を焼きつくしたのかは、謎とされている。王子が太古の魔術を駆使したとすれば、その謎も謎でなくなるわけだが、それにしたって――」
と、フゥライはふいに口をつぐんだ。
微笑んでいたその顔から、すべての表情が消え去っている。
「……どうなさったのだ、ご老人?」
「いや……もしも第四王子が古代の魔術を体得していたら、か……そのような話は、これまで考えたこともなかったが……しかし、そうすると……」
「……ご老人?」
「いや、なんでもない」と、フゥライは再び微笑んだ。
しかしその瞳には、この温和にして聡明なる老人に似つかわしくない光が浮かべられているように感じられた。
「いくら何でも、それは妄想が過ぎるというものだ。さきほども述べた通り、魔道書を読んだぐらいで魔術を学べるはずはないし、そもそもあれは魔道書ならぬ歴史書であったと、儂は確信しておるよ」
「そうか。あなたがそのように述べるのならば、俺はその言葉を信じよう」
「うむ。この世の人間が古代の魔術を学ぶには、その魂を供物として捧げる必要がある、とされている。まがりなりにもセルヴァ王家の血筋であった第四王子カノンがそのような真似に及ぶはずもないし……そのような真似は、決して許されないはずだ」
そう言って、フゥライは重々しく息をついた。
「何にせよ、第四王子はすでに魂を返しておる。どこやらにカノン王子の名を騙る人間が現れたという話であったが、それも紛い物であろう。仮に第四王子が、大神アムスホルンに魂を捧げて、古代の魔術などを習得しておったら――」
「……習得していたら、何だ?」
「……あの災厄の日に魂を返していたのが、幸いであったということだ。われわれ王国の民ばかりでなく、王子自身のためにもな。アムスホルンに魂を捧げるということは、人間であることを捨て去るという意味をもはらんでおるのだよ」
そのように語るフゥライの瞳には、深い憐憫の光が瞬いているように感じられた。