Ⅴ-Ⅰ ラムルエルの選択
2017.10/14 更新分 1/1
その日もメナ=ファムは、ひとりで煩悶を抱え込んでいた。
オータム城の、客間である。エルヴィルは席を外しており、シルファはラムルエルと語らっている。格子のはまった窓からは昼下がりの穏やかな陽光が差し込んでいたが、メナ=ファムの気持ちは晴れぬままだった。
「メナ=ファム、まだ怒っているのですか?」
と、ラムルエルとの会話が一区切りついたところで、シルファが小声で呼びかけてきた。
メナ=ファムは、憤懣のこもった目つきでそれを見つめ返す。
「何も怒っちゃいないよ。ただ、ひたすら苛立たしいだけさ。まさか、いまさらその理由を問い質したりはしないだろうねえ?」
他ならぬシルファを相手にしてさえ、とげとげしい口調になってしまう。シルファは悲しげに眉を寄せたが、そんな表情さえもがメナ=ファムをいっそう煩悶させた。
ラギスとの密約を交わしてから、すでに三日の日が過ぎている。
あの忌まわしい夜以来、メナ=ファムはずっと苛立っているのだ。
あの夜に、エルヴィルはとんでもない取り引きをラギスに持ちかけた。こともあろうに、シルファが女人であるということを明かし、彼女と婚儀をあげればセルヴァの王になれるなどという、そんな馬鹿げた取り引きをラギスに持ちかけてしまったのである。
しかも、シルファまでもが、そんな馬鹿げた話を受け入れてしまっていた。
いや、シルファとエルヴィルにとっては、そもそもそれこそが最初からの計略であったのである。
その事実を知らされたことによって、メナ=ファムは苦悩と煩悶のどん底に突き落とされてしまったのだった。
「あたしには、あんたもエルヴィルも正気とは思えないよ。どうしてそんな馬鹿げた話を思いつくことができたのか、聞かせてほしいぐらいだね」
「メナ=ファム、わたしは……」
「しかもあんたたちは、血を分けた兄妹だってんだろ? あたしには、そいつが一番理解できないよ」
伝声管をはばかって、大きな声をあげることはできない。だからメナ=ファムは、懸命に激情を抑え込みながら、そんな風に囁き続けることになった。
「あたしにだって、家族はいる。両親はさっさと魂を返しちまったから、弟だけが唯一の家族さ。あたしは何がどうあったって、弟にそんな馬鹿げた話を持ちかけたりはしないし、弟のほうだって、そう考えるだろうよ。自分の復讐のために、家族の人生を犠牲にするなんて……そんな馬鹿げた話、あるもんかい」
「……わたしにとっても、家族と呼べるのはエルヴィルただひとりです。だからこそ、エルヴィルの力になってあげたかったのです」
血の色の透けた青灰色の瞳に必死な光を浮かべながら、シルファはそのように言いつのった。
しかし、メナ=ファムの激情はおさまらない。
「違うね。大事な家族なんだったら、あんたは何としてでも馬鹿な兄貴を止めるべきだったんだよ。鰐の餌にもなりゃしない復讐心なんて綺麗さっぱり放り捨てて、兄妹で幸福になれる道を探すべきだったのさ」
「それは、そうかもしれませんが……」
「あんたに破滅をもたらしたのはエルヴィルだ。だけど、エルヴィルに破滅をもたらしたのはあんただよ、シルファ。あたしはこれまで弱い人間を蔑んだりはしてこなかったつもりだけど、今回ばかりは事情が違う。馬鹿な兄貴を止められなかったあんたの弱さが、この馬鹿げた状況をつくりあげちまったんだ」
シルファは、泣きそうな顔で唇を噛んだ。
メナ=ファムがここまでシルファを非難したのは初めてのことである。
しかしそれでもシルファは涙を流したりはせず、その代わりに、感情の欠けた声音を絞りだした。
「だから……だからあなたは、わたしたちに近づくべきではなかったのです。あなたのように清廉で汚れのない御方は、わたしたちなどと関わるべきではなかったのです」
「はん! 悪いのはあたしだってのかい? 自分のしでかしたことを棚に上げて、よく言うよ!」
メナ=ファムは、ついつい大きな声をあげてしまった。
ラムルエルが、けげんそうにメナ=ファムたちを見つめてくる。
「どうしましたか? 争い、よくないです」
「うるさいよ! あんたはいいね、いつでも呑気そうでさ!」
「はい、恐縮です」
ラムルエルは、東の民らしく無表情に、ぺこりと頭を下げる。
そのとき、客間の扉が叩かれた。
「何を騒いでいるのだ? 扉の外まで声が響いていたぞ」
それは、ラギスとエルヴィルであった。
メナ=ファムを煩悶させている張本人たちの登場に、ますます心が騒いでしまう。
「……話は、まとまったのか?」
偽王子としての体面を取り戻して、シルファがそのように呼びかけた。
ラギスはふてぶてしい笑みを浮かべつつ、「ええ」とうなずく。
「エルヴィル殿の配下であった傭兵団五十余名は、王子殿下の旗本隊として認められることと相成りました。王都に侵攻する際は、その者たちが王子殿下を守る盾となりましょう」
エルヴィルの素性が確かめられて以来、シルファは正式に「第四王子カノン」として扱われることになった。
これまではぞんざいな口をきいていたラギスも、それで口調を改めることになったわけだが――その目には、これまで以上に野心の炎が燃えさかることになった。
「明日からは、さっそくその者たちも軍事教練に参加することになります。剣やトトスの扱いばかりでなく、軍隊として動くにはさまざまな教練が必要となりますからな。彼らが王子殿下の旗本隊として相応しい力を持っているかどうか、教練の場で示していただきましょう」
エルヴィルも、厳しい面持ちでうなずいている。
ラギスという後ろ盾を得て、エルヴィルの計略も着々と動きつつあるのだ。メナ=ファムは、舌打ちをこらえるので精一杯であった。
「まあ、今日のところは、ごゆるりとおくつろぎください。……ところで、メナ=ファムをしばしお借りしたいのですが、お許しをいただけますか、王子殿下?」
シルファは一瞬だけ不安そうに眉を曇らせてから、「うむ」とうなずいた。
ラギスは「かたじけない」と不敵な笑みを浮かべる。
「ああ、それとそちらのシムの民――ラムルエルといったか? お前にも、今後の扱いについて話しておきたいことがある。メナ=ファムとともに、俺の部屋に来るがよい」
ラムルエルは無言のまま、すうっと立ち上がった。
シルファは、またその面に不安の陰をよぎらせる。
「ようやくラムルエルを解放していただけるのか? 何度も言う通り、その者はたまたま我らと行動をともにすることになっただけであるので、温情ある扱いを求めたい」
「ええ、我々もそのように考えておりますよ、王子殿下」
ラギスは芝居がかった仕草で一礼をして、客間を出ていった。
メナ=ファムも、ラムルエルとともにその後を追う。
護衛役の武官に四方を囲まれつつ、一同はラギスの部屋に向かった。
そうして部屋に到着し、扉に閂を掛けて長椅子に腰を落ち着けると、ラギスは勇猛な顔でメナ=ファムに笑いかけてきた。
「いったい王子と何を騒いでおったのだ? まさか、伝声管の向こうの連中に、王子の正体などを気取られてはおらんだろうな?」
「さて、どうだったかね」
ラムルエルとともに腰を下ろしつつ、メナ=ファムはラギスの笑顔をにらみつけてみせた。
「で、いきなりそんな話をふっかけてくるってことは、ラムルエルのこともエルヴィルから聞くことになったってわけだね」
「ああ。まさかそやつまで王子の正体を知っていたとはな。どおりでシムの商人などにこだわっていたわけだ」
ラギスは果実酒の栓を空けて、その中身をどぼどぼと酒杯に注いだ。
「いちおう確認しておくが、他に王子の正体を知る者はいないだろうな? エルヴィルはいないと答えていたが、お前の口からも聞かせてもらおう」
「いないよ、あたしの知る限りではね。……というか、ラムルエルも三日前のあたしと同じていどの話しか知らないはずだけどさ」
ラギスは、「ほう」と酒杯を傾ける。
「そうか。ではその話を打ち明ける前に、確認しておきたいのだが……ラムルエルよ、お前はこの先も生きながらえたいと願っているか?」
ラムルエルは、わずかに首を傾げたのみであった。
その炭を塗ったように黒い面には、いかなる表情も浮かべられていない。
「それ、どういう意味でしょう?」
「言葉の通りの意味だ。お前の崇めるシムの神に魂を返したいか、それとももう少しは現世に留まっていたいか、お前はどちらの道を望む?」
「何を言ってるんだい。誰が好きこのんで、生命を失いたいなんて考えるもんか」
苛立ちの極みにあったメナ=ファムは、横から口をはさんでみせた。
一息に酒杯の半分ほどを空けたラギスは、にやりと獣のように笑う。
「しかし、東の民というのは、いまひとつ何が楽しくて生きているのかわからないところがあるからな。意にそまぬ生き方をするぐらいであるなら、自ら死を望むことはあるかもしれん。だから、その道を選ばせてやろうと親切心で申し出てやったのだ」
「だからあんたは、いったい何を――!」
メナ=ファムが腰を浮かせかけると、それを押し留めるようにラムルエルが軽く手を上げた。
「私、現世、生きたい、願います。……しかし、意にそまぬ生き方、強いられてしまうのでしょうか?」
「ああ。商人として大陸中を駆け巡るのがお前の楽しみであるというのなら、その生き方はあきらめてもらう他ない。それが嫌なら、せいぜい苦しまないように首を刎ねてやろう」
ラムルエルは黒い瞳でじっとラギスを見つめつつ、言った。
「私、何故、他の生き方、強いられなければならないのでしょう? 理由、お聞かせくださいますか?」
「ああ。簡単に言えば、王子の秘密を知るお前のことを野放しにはできん、ということだ」
そう言って、ラギスは残っていた果実酒を飲み干した。
「ただしそれは、俺の思惑だ。今の内に言っておくと、このゼラドにおいて王子の秘密を知る人間は、俺しかいない。しかし、ゼラドの他の連中も、お前のことは始末するべきだと言いたてているのだ」
「それ、何故でしょう?」
「それは、お前が王子と行動をともにしていたからだな。お前のようにあやしげな人間を解放してしまったら、その足で王都に駆け込み、王子やゼラドの内情について、あることないこと吹き込んでしまうやもしれん。大きな戦を前にした今、少しでも憂慮の種は排除しておきたいと考えるのは当然のことだ」
「大きな戦……」
「ゼラドの軍は、カノン王子を旗頭として、王都に侵攻する。あやつはそのために身分を偽っていたのだから、当然のことであろう? お前だって、うすうす察しはついていたはずだ」
「…………」
「よって、大公閣下を始めとするゼラドの重臣たちは、お前を処分するべきだと言いたてている。しかもゼラドはジャガルと親交の厚い国なのでな、ジャガルの敵対国たるシムの民に温情をかける理由がない。お前がセルヴァかジャガルの民であれば、戦が終わるまでオータムに軟禁せよ、というぐらいの扱いで落ち着いたやもしれんが、このたびはそんな手間をかける気持ちにもなれなかったということだ」
そうしてラギスは、新たな酒を注ぎ始めた。
それから、メナ=ファムのほうをちらりと見やってくる。
「そろそろお前が騒ぎたてる頃合いかと思ったのだが、静かなものだな」
「ふん。あんたのやり口はわかってきたからね。それで、どうやったらラムルエルは処刑されずに済むんだい? その話を持ちかけるために、わざわざラムルエルをこんな場所まで引っ張り出したんだろう?」
「やはりお前は目端がきくな。今からでも俺の女に仕立てあげたいところだ」
「戯れ言はけっこうだよ。とっとと話を続けな」
「それじゃあ、そうさせてもらおう。お前が生きのびる道はひとつだけだ、ラムルエル。まだしばらくは魂を返したくないと願うなら、お前は王子殿下の従者となれ」
「従者?」と、ラムルエルはまた首を傾げた。
「ああ、そうだ。お前を野放しにできないのなら、行動をともにする他あるまい? だからお前は、カノン王子殿下の従者となるのだ」
「ちょっと待ちなよ」と、メナ=ファムは鋭く言いたてた。
「そんなことをして、いったい何の得があるっていうんだい? あんたは自分の得になる話じゃなけりゃあ、こんな話を持ちかけたりはしないよね」
「もちろんだ。理由は、主にふたつだな。ひとつは、俺の手駒が少なすぎること――王子の秘密を知る人間がエルヴィルとメナ=ファムのふたりきりというのは、あまりに頼りない。すべてを知った上で、俺と王子に力を貸そうという人間が欲しいのだ」
そう言って、ラギスは果実酒をひと口だけ含んだ。
「ここで話を打ち明けさせてもらうと、俺たちは――俺と王子とエルヴィルは、ゼラドをも欺こうという計略を立てている。ゼラドの言いなりになっては王子もいずれ魂を返すこととなるが、俺たちは王子を生きながらえさせるために手を組むことになったのだ」
そうしてラギスは、エルヴィルとの密約についてを語り始めた。
王都を陥落させたのち、カノン王子は半陰陽であることを明かして、ラギスとの婚儀をあげる。壮大にして馬鹿馬鹿しい、エルヴィルの描いた夢物語である。
「そうして俺と王子は、セルヴァを治める支配者となるのだ。その従者となることを約束すれば、お前にも輝かしい道が開けることだろう。それほど悪い取り引きではないと思うが、どうだ?」
「……もうひとつの理由、お聞かせくださいますか?」
「ああ。それは、俺の王子に対する親愛のあらわれだな。ゼラドの連中はお前を殺すことしか考えていないが、俺は王子のためにもっと別の道を考えてみせた。あちらも俺を信じてたいそうな秘密を打ち明けてくれたのだから、俺もそれに応えたいと願ったまでだ」
「……親愛のあらわれ、ですか」
「正確には、親愛の念を紡ぐための努力だな。いずれは伴侶となる相手であるのだから、おたがいを慈しみ合いたいものではないか」
自分自身の言葉に笑い、ラギスはまた酒杯に口をつけた。
「まあ、冗談めかしてしまったが、それは俺の本心だ。エルヴィルから話を聞いた限り、王子というのは情にもろい人柄であるらしい。それならば、お前を見殺しにするよりも、お前を救ってみせたほうが、まだしも信頼を勝ち取れるのではないかと考えたわけだ」
「……なるほど」
「ただし、それには危険がつきまとう。お前がいつ俺を裏切って、ゼラドの連中に秘密を打ち明けてしまうかもわからんからな」
そのように言い捨てるなり、ラギスはいきなり腰の短剣を引き抜いた。
その切っ先を、ラムルエルの咽喉もとにぴたりとあてがう。
「むろん、お前が何をほざいたところで、俺は言いぬける自信がある。しかし、王子が女人であるという秘密が明かされるのは、はなはだ具合が悪いのだ」
「…………」
「お前が俺などに忠誠を誓う筋合いはない。しかし、お前の行動ひとつで、王子は生きながらえる道を失うことになる。もしも王子が女人であると知れ渡れば、大公閣下はぼんくら息子のどちらかを婿としてあてがい、子を生ませたのちに王子を葬ろうとするだろうからな」
「……あなた、シルファ、害しませんか?」
「俺があいつを害する理由はない。というか、ゼラドの後ろ盾もないままにそのような真似をしてしまったら、俺もまた王都の連中に暗殺されてしまうだろうさ。俺と王子の間に生まれた子供もろとも、な」
にやにやと笑いながら、ラギスは双眸を火のように燃やしていた。
「お前はお前で、王子に情を抱いているのだろう? 王都の軍に襲撃された際も、お前は身体を張って王子を守ったのだと聞いている。あやつが偽物であるという事実を知りながら、お前は王都の軍に刃を向けたのだ。お前がそういう人間でなければ、俺もこんな話を持ちかけはしなかっただろう」
「…………」
「俺はこれで、人を見る目はあるつもりだ。その見込みが外れていないことを願っているのだが……どうだ?」
短剣をぴったりと押しつけられたまま、ラムルエルはなおも無表情であった。
メナ=ファムも、あえて口出しをせずに両者の様子をうかがっている。
しばらくの沈黙の後、ラムルエルは静かな声音で問うた。
「シルファ、何故、あなたがた、従っているのですか?」
「王子の心情か? さてな、俺はまだ王子と腹を割って言葉を交わす機会もなかったので、知らん」
ラムルエルに短剣を突きつけたまま、ラギスが横目でメナ=ファムを見てきた。
メナ=ファムは溜息をついてから、それに答えてみせる。
「シルファとエルヴィルは兄妹なんだとさ。だから、エルヴィルの言いつけに無条件で従っちまってるんだよ。まったく、馬鹿げた話さね」
「兄妹……そうでしたか」
ラムルエルは、わずかに目を細めた。
その目に、ラギスが火のような眼光を突きつける。
「さあ、どうする? 俺たちと命運をともにするか、東方神に魂を返すか、道はふたつだ」
「……私、魂を返すつもり、ありません」
ラムルエルは、はっきりとそう言った。
「そして、シルファ、見捨てる、忍びないです。彼女、支えたい、願います」
「……王子殿下の従者として生きる、というのだな?」
「はい。その道、選びます」
ラギスはしばらくラムルエルの瞳を見つめ続けてから、ようやく短剣を引っ込めた。
「やれやれ、シムの民というのは感情が読みにくくてかなわんな。しかしまあ、お前が王子の不利になるような真似はしないだろう。それぐらいのことは、信じることができそうだ」
「はい。私、シルファ、味方です。あなた、シルファ、裏切れば、私、敵となるでしょう」
「王子のほうから俺を裏切らない限り、それはありえんな。セルヴァの玉座をふいにしてまで、俺が王子を裏切る理由はない」
ラギスは長椅子に深くもたれて、短剣の代わりに酒杯を取った。
「では、ゼラドの連中は俺が説き伏せてやろう。お前をオータム城に招いたときの繰り返しだな。そうすることによって王子に恩を売りつけることがかなうと言えば、あいつらも言うことを聞くはずだ」
「本当に大丈夫なんだろうね? ここまでやっておいてラムルエルを死なせることになったら、それこそシルファの信頼は地の底までうずまっちまうよ?」
メナ=ファムが牽制してみせると、ラギスは「案ずるな」と気安い笑みを浮かべた。
「ゼラドの連中は、余計な話を王都に持ち込まれることを嫌がっているだけなのだ。王子もろとも陣の中に置いておけるならば、何の不満もあるまいよ。……ただし、お前に毒の武器を返すことだけは許さんだろうがな」
「毒の武器、不要です。ただし、トトスと黒豹、返していただきたく思います」
「黒豹? ……ああ、あの黒い獣か。なるほどな、確かに王子の護衛役にはもってこいかもしれん。どこかの馬鹿が王子の暗殺を企まないとも限らんし、それも俺が交渉しておいてやろう」
そうしてラギスは、その手の酒杯を高々と掲げた。
「では、一件落着だな。まさかこの俺がシムの民と手を組むことになろうとは、夢にも思っていなかった。なかなか愉快な気分だぞ」
「そうですか」と、あくまでラムルエルは無表情であった。
そして、黒い瞳をメナ=ファムのほうに向けてくる。
「メナ=ファム、あなた、エルヴィルたちの目論見、知らなかったのですか?」
「ああ。ゼラドを頼るって話は聞いてたけど、まさかこんな馬鹿げた計略だったとは思ってもみなかったよ」
メナ=ファムがそのように答えると、ラムルエルはまた「そうですか」とつぶやいた。
「メナ=ファム、不機嫌な理由、ようやくわかりました。……メナ=ファム」
「ああ、何だい?」
「私、メナ=ファム、同じ思いです。たぶん、ただひとり、気持ち、分かち合える、思います。この先、どうぞ、よろしくお願いいたします」
メナ=ファムはがりがりと頭をかいてから、同じ手でラムルエルの肩を小突いてみせた。
「こちらこそ、だね。こんな話は馬鹿げてると思う人間がひとりでもいてくれて、あたしは嬉しいよ」
しかしそれでも、メナ=ファムはシルファのことを見捨てる気持ちにはなれなかったのだった。
エルヴィルの復讐心とラギスの野心に翻弄されて、あの娘はどのような運命を辿ることになるのか。それを見届けぬまま、この場を立ち去る気持ちにはなれない。メナ=ファムは激情に胸をかき乱されながら、シルファが少しでも幸福な生をつかみ取れるように祈ることしかできなかった。