Ⅲ-Ⅱ 旅立ちの朝
2016.12/21 更新分 1/1
赤の月の二十二日。
まだ白い靄も晴れぬ早朝から、アブーフ城の城門は開放されることになった。
ぎしぎしと音をたてながら跳ね橋が下ろされて、そこに二つの騎影が現れる。恐鳥トトスにまたがったその両名は、城外に広がる荘園を突っ切ると、そのまま南に進路を定め、しばらくは休むことなく街道を走り続けた。
要所を繋ぐ街道は、すべて石で舗装されている。まずはその主街道を南に下り、アブーフ城の威容が靄の向こうに見えなくなったあたりで、土が剥き出しになった細い道へと乗り換える。そうして小さな村落を踏み越えて、西の方向に転じてから、ようやくトトスの手綱はゆるめられることになった。
「これぐらい離れれば大丈夫かな。まあ、石の街道を外れた時点で、もう追いかけようもないだろう」
革の外套を纏ったクリスフィアがそのように呼びかけると、やはり同じような旅装束のフラウはふうっと大きく息をついた。
「こんなにたくさんの荷物を運ばせているのですから、あまりトトスを走らせるのは気の毒です。これでは王都に辿り着く前にくたびれ果ててしまうのではないですか?」
「ああ、しばらくはゆっくり歩かせよう。何せ、長旅なのだからね」
恐鳥トトスは、大陸中で移動に使われている獣である。淡い褐色の羽毛に包まれた巨大な楕円形の胴体に、長大なる首と二本の逞しい足が生えており、翼はない。空を飛べない代わりにこうして力強く地を駆けることのできる、とても便利な存在であった。
首には手綱、背中には鞍、尻の辺りには荷袋をくくりつけられ、トトスはざくざくと土の地面を進んでいる。その鉤爪の生えた足で蹴られれば、人間など即座に魂を召されてしまうだろう。戦場においてもトトスは騎兵の足であり、トトスなくして平地の戦などありえないほどであった。
よって、騎士たるクリスフィアは誰よりも巧みにトトスを操ることができるが、幼き頃よりお転婆な姫君につきあわされていた侍女のフラウも、それには負けていない。それでもここまで駆け通しであったので少し疲れてしまったのか、フラウは額の汗を手ぬぐいでぬぐっていた。
「だけど、本当によろしかったのでしょうか。城主様は姫様のために騎兵隊や荷車の準備をしていたのでしょう? きっとお目覚めになったら、カンカンにお怒りになられてしまいますよ?」
「わたしを怒らせたのだから、父上にだって怒っていただこう。土台、わたしを貴族の令嬢のように扱おうというのが間違いなのだ」
「だって、姫様はまぎれもなく貴族のご令嬢ではないですか」
そのように言いながら、フラウは楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見て、クリスフィアもいっそう楽しくなってしまう。
王都アルグラッドに向かうべし、との任を受けたクリスフィアは、このような形で父親を出し抜くことに決めたのだ。
主要の街道を外れてしまえば、王都への道は幾通りもある。それにクリスフィアは幼き頃から地図を読むことを好んでいたので、なかなかアブーフの人間には思いつかないような行路を構築することができていた。怒った父親がどれだけの騎兵を繰り出そうとも、その目をくらます自信はあった。
「荷車などを使って悠長に進んでいたら、王都まではひと月ばかりもかかってしまうだろう。だけど、こうして身軽にトトスを使えば、二十日ていどで辿り着けるはずだ。いち早くお役目を果たすことができるのだから、何も文句を言われる筋合いはないさ」
さらに急報を告げる使者であれば、町ごとに人間とトトスを入れ替えて昼夜を走り、十日足らずで辿り着くこともできるのだろう。しかしクリスフィアが乗っているのは自分で育てた大事なトトスであるので、このような雑事で乗り潰す気持ちは微塵もなかった。
「もうしばらくすると石の街道に行き当たるはずだから、中天まではそれを辿って西に進む。それからまた主街道を外れて南に下り――今日の内にマラッタの宿場町まで辿り着ければ上等かな」
「本当に姫様はセルヴァ中の地図が頭に入っているのですね。戦には、そのような知識も必要なのですか?」
「いや? マヒュドラを相手取るには、リリア連山に沿った町や集落と、それを繋ぐ街道の有り様を頭に叩き込んでおけば、まずは十分さ。……わたしはただ、地図を眺めるのが好きだっただけだよ」
トトスの背中で揺られながら、クリスフィアは周囲の情景に視線を巡らせる。そこに広がるのは、鬱蒼とした雑木林の様相であった。
「このあたりはまだ、トトスの遠乗りで訪れたことがある。でも中天を過ぎる頃には、まったく足を踏み入れたこともない場所に出るだろう。地図を眺めて、どんな場所なんだろうと想像していた町や川や森などを、実際にこの目で見ることができるんだ。そんな風に考えたら、ちょっとわくわくしてこないか?」
「わたくしは、不安の気持ちのほうがまさってしまいます。姫様とご一緒でなかったら、きっと半日も正気ではいられないでしょうね」
そのように言いながら、フラウはにこにこと笑っている。
クリスフィアも、自分の口もとがほころんでいくのを止めることはできなかった。
「それに、姫様は幼い頃にもひとたびだけ王都に出向かれたことがありましたよね? わたくしは熱を出してしまって、ご一緒することもかないませんでしたが」
「ああ、あれはわたしが騎士として叙任される直前のことだったから、たしか十三歳の頃だったな。だけどあのときはずっとトトスに引かれる車の中に閉じ込められていたから、こうやって風景を楽しむことすらできなかったのだ」
「それでもわたくしは姫様のことが羨ましくてたまりませんでした。王都というのはさぞかし美しいところなのだろうなあと考えながら、ずっと熱に浮かされていたのです」
「美しいには美しいが、男も女も気取っていて、いけ好かない人間が多かった。そんな中でわたしの心を慰めてくれたのは、やっぱりアブーフの騎士にも劣らない精悍な姿をしたアルグラッドの十二獅子将ぐらいのものだったな」
それにやっぱりあのときは、フラウがそばにいなかったのでクリスフィアもずっと気持ちが沈んでいたのだ。
このたびは、ようやくフラウとともに旅を楽しむことができる。それも、誰の邪魔も入らない二人旅だ。それだけでも、城を抜け出した甲斐はあろうというものであった。
「まあ何にせよ、この道中では何も恐れる必要はない。お前のことはこの身に代えてもわたしが守ってみせるよ、フラウ」
「まあ、侍女を生命がけで守る主人などいませんよ、姫様?」
「侍女を守るのではない。誰よりも大切な幼友達を守るのだ」
華奢な指先でトトスの手綱をあやつりつつ、フラウはいっそう朗らかに微笑んだ。
「何だかひさびさに姫様らしいお顔を見ることができたように思います。ここしばらくは、ずいぶん鬱屈とされていましたものね?」
「半年以上も戦場から遠ざけられていたのだから、鬱屈するのが当然だろう。父上はきっと、これ以上の武勲をわたしに立てさせまいとしているのだ」
フラウはクリスフィアをなだめるように、ゆるゆると首を横に振った。
「これで短くとも、ふた月ぐらいは城主様とお顔をあわせることもないのでしょう。おふたりには、こういう時間も必要であったのかもしれませんね。大事な存在というのは、そばから離れれば離れるほど強く実感できるものなのでしょうから」
クリスフィアはあまり共感できなかったが、せっかくの楽しい気分を失いたくはなかったので「そうかもな」と適当に応じておくことにした。
そうして道とも呼べぬような雑木林の隙間を進む内に、だんだんと視界が開けてくる。
クリスフィアの記憶にあった通り、石の街道が見えてきた。
今ではあまり使う者のない、南から北へと至る街道である。その街道を二刻ばかりも南下していくと、さらに寂れた東西の旧街道と交わるので、そこで進路を西に取る。
「あとは中天まで道なりだ。見晴らしがいいので、野盗や獣を心配する必要もなさそうだな」
この頃には朝の靄もすっかり晴れて、大地には暖かい日差しが届けられていた。
もちろん北方にリリア連山の影を臨む北の地であるのだから、吹き抜けていく風は冷たく鋭い。しかし、毛皮の胴着に革の外套を纏っていれば何ほどのものではないし、クリスフィアもフラウもアブーフの生まれである。むしろ、毛皮の装束など必要とされていない王都やその周辺の気候のほうが、クリスフィアたちにとっては馴染みのないものであったのだった。
「そういえば、姫様は戴冠の祝宴に列席されるのですよね? 宴衣装は準備されているのですか?」
「もちろんだとも。旅装束で宴に参列するわけにもいかないだろうからな」
「そうですか。……その割には、荷物が少ないように思えるのですが。宴衣装というのは、たいそうかさばるものでしょう?」
「そうでもないさ。折りたたんでしまえば、この通りだ」
クリスフィアはにやにやと笑いながら、左の側に垂れている荷袋を軽く叩いてみせた。
フラウは「まあ」と目を丸くする。
「わたくしの記憶に間違いがなければ、そちらは騎士の装束であったはずですね? まさか姫様は、貴婦人ではなく騎士として宴に参列するおつもりなのですか?」
「わたしは武人なのだから、何もおかしいことはないだろう? アブーフの騎士としての、これが礼装だ」
「このセルヴァにおいて、姫様の他に女性の騎士というものは存在するのでしょうか? わたくしはまったく噂でも聞いたことがないぐらいなのですが……」
「そんなことはないだろう。救国の女騎士メイラスだとか、七つの首を持つ邪竜を滅ぼした姫騎士ゼリアだとか、そういう例はいくらでもある」
「それらは全部、神話や伝説の類いではないですか」
フラウが切なげに眉を下げてしまったので、クリスフィアは少し心配になってしまった。
「どうしてフラウがそのような顔をするのだ? お前は父上と違って、わたしが騎士としてふるまうことにも賛成してくれていたはずだろう?」
「わたくしは姫様が望む通りに生きてほしいと願っています。……でも、ひさびさに姫様の美しい貴婦人としての姿を見られることを楽しみにもしていたのです」
「わたしに貴婦人の宴衣装など似合わないよ。柔弱者のキャメルスなどよりもよほど逞しい身体つきになってしまったのだから」
「そんなことはありません。むしろ、厳しい訓練が姫様にまたとない輝きをもたらしたのでしょう。わたくしは姫様よりも凛然としたお姿の貴婦人を他に見たことがありません」
フラウが強情に言い張るので、クリスフィアは思わず笑ってしまった。
「わたしには、フラウほど見事に宴衣装を着こなすことなどできはしないよ。ほら、覚えているだろう? 叔母上の、第一息女の婚礼の宴をさ」
フラウはもう一度「まあ」と言った。
その声には、明らかに怒った響きが含まれていた。
「姫様の悪戯につきあわされて、わたくしは城主様からこっぴどく叱られることになってしまったのですよ? もしも今回もあのような悪ふざけを企んでいるおつもりなのでしたら――」
「そんなつもりはなかったよ。フラウが王都の貴族たちに求婚などされてしまったら、わたしも困ってしまうしね」
去年の婚礼の宴の際、クリスフィアは父親から届けられた宴衣装を仕立て直して、それをフラウに着用させたのである。そうして自分は騎士としての礼装に身を包み、フラウを貴婦人に見立てて宴に参席したのだった。
もちろん父のデリオンなどは言葉も出ないほど怒っていたが、他の人々はまるで本物の貴婦人とそれに仕える騎士のようだと、たいそう面白がってくれたものなのだ。
「まあ、王都でそのような色ぼけの輩が現れたら、わたしは忠実なる騎士として姫を守りぬく所存であるけれどね」
「もう、知りません!」
フラウは頬をふくらませて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
が、すぐに「あら」と言ってクリスフィアに向き直ってくる。
「姫様、ずいぶん大きな荷車が前を進んでいるようですが」
「ああ、本当だ。このように寂れた旧街道には不似合いなぐらいの大きさだな」
そのように述べてから、クリスフィアは太陽の位置を確かめた。
夜明けとともにアブーフを出立して、まだ三刻ていどしか経ってはいない。そのクリスフィアの感覚の正しさを示すかのように、太陽は大地と中天のちょうど真ん中あたりに白く輝いていた。
「フラウ、いつでもトトスを走らせられるように準備をしておけ。あと、頭巾で顔を隠しておくのだ」
「え? いったいどうされたのですか、姫様?」
「この辺りに、三刻ていどで辿り着ける宿場町は存在しないのだ。トトスを早駆けさせればその限りではないが、あんな大きな荷車を引いていては、それも不可能だろう。……ひょっとしたら、野に伏せていた野盗の類いなのかもしれない」
「それでは、このままやりすごしたほうがいいのではないですか?」
「あんなのろのろとした荷車の後をのんびり歩いてはいられないよ。こちらのほうが身軽なのだから、さっさと追い抜いてしまおう」
言うなり、クリスフィアは外套の頭巾を引き下ろして、トトスの脇腹を蹴った。
常歩で進んでいたトトスが、速歩になる。これで荷車を追い抜いて、さらに駈歩にすれば、もう追いつかれる恐れはないはずであった。
フラウがきちんとついてきていることを確認しつつ、クリスフィアは荷車に追いすがる。
荷車は箱型の大きな造りで、しかも二台が連結されていた。トトスの二頭引きの荷車としても、一番大きな造りであろう。何が積まれているのか外側から推し量ることはできないし、人間であれば十名以上が乗れるはずであった。
(まあ、仮に野盗だとしても、こんな明るい内から矢を射かけたりはしてこないだろう。というか、野盗がこのような早朝からうろつくものなのかな)
いぶかしみつつ、クリスフィアは慎重にトトスを進めていった。
旧街道は細いので、ほとんど前方の荷車が道をふさぐ格好になってしまっている。左右は丈の低い草むらであったので、クリスフィアはそちらにはみだしつつ、荷車の横に並んだ。
荷車の窓には布が掛けられており、やはり内側を覗き見ることはかなわない。ガラゴロと音をたてる車輪に荷袋をひっかけてしまわないように気をつけつつ、クリスフィアはさらに進んだ。
ついに、御者台が見えてくる。
二頭のトトスを操る御者も、クリスフィアたちと同じように革の外套の頭巾を深々とかぶっていた。
人相は、まったくわからない。
しかし、手綱を握る手の先を見ることはできた。
銀色の指輪や腕飾りで彩られた、それは黒色の肌を持つ男の指先であった。
「何だ、シムの商人か」
クリスフィアは息をつき、後方のフラウに歩調をゆるめる合図を送った。
そうして自分もトトスを常歩に戻し、御者台の人物へと声をかける。
「おい、このような朝方から熱心なことだな。この辺りに宿場町はないはずだが、昨日はどこで夜を明かしたのだ?」
「……昨夜、南の集落、場所、借りました」
若い男の声が、切れぎれに返ってくる。東の王国シムの民は独自の言語を持っているので、西の言葉があまり流暢ではないのだ。
「南の集落というと、どこかの農村かな? シムの商人がそのような場所で軒先を借りるなど、珍しいことだ」
「宿場町、荷車を預ける、危険なことあります。私、自分の荷車で眠る、一番安心です」
「なるほど、ものは考えようか。シムの商人が訪れれば、農村の民などはたいそう珍しがってくれるだろうからな」
そのように言葉を交わしていると、フラウが「姫様……?」と心配そうに呼びかけてきた。
「ああ、大丈夫だよ。これはシムの商人だ。どんな野盗でも、東の民に化けることなどはできないだろうからな」
東の民は、争いを好まない。少なくとも、わざわざ西の王国で行商しようなどと考える酔狂者のシム人は、等しく無害であった。それでいて、外敵を迎えればそれを撃退する力も有しているので、東の民はこうして護衛の人間を雇う必要もなく、西の版図を自由に動き回ることが可能なのである。
「お前はずいぶん若いシム人であるのだな。名前は何というのだ?」
「私、ラムルエル=ギ=アドゥムフタンです」
東の民の若い商人は、感情の欠落した声音でそのように応じた。
これもシム人としては珍しい話ではない。シム人は、人前で感情を表すことを恥と考えているのである。
頭巾の下のその顔も、実に東の民らしい特徴を備えている。髪も瞳も肌も真っ黒で、目は切れ長で吊り上がっており、鼻は高く、唇は薄い。面長で、頬の肉は薄く、そして、完璧なまでの無表情だ。
御者台に座しているのでわかりにくいが、かなり背丈は高いだろう。長身痩躯というのも、シム人の大きな特徴なのだった。
「ラムルエル、か。やはり東の民というのは愉快な名前をしているな。わたしの名前は、クリスフィアだ」
アブーフの人間でなければ、そうそうクリスフィアの名前を知る者はない。礼儀としてクリスフィアは名乗ったが、若きシム人は感じ入った様子もなく目礼を返してくるばかりであった。
「お前は南のほうからやってきたのか? 何か変わった話でもあれば聞かせてもらいたいものだ」
「変わった話。……セルヴァの王、弟、継承されました」
「ああ、どうやらそうらしいな。西の民としては、実に由々しきことだ」
「セルヴァの王、害した、王子であるようです。第四の王子、強い恨み、晴らすため、父と兄たち、害した、聞いています」
「なるほどなるほど」
王都を見舞った災厄については、すでにきっちり布告が回されているようである。王都から遣わされた使者たちが、セルヴァの全土を駆け巡ることになったのだろう。それで王都から一番遠いアブーフにまでその報は届けられたのだから、よほど主街道から外れた僻地でない限りは、もはや知らぬ者もないはずであった。
「まあ、実際のところは王都アルグラッドにでも出向かなければわからないのだろうがな。……いや、王家の人間にとって都合の悪い話であれば、たとえ宮殿の中に足を踏み入れても真実を知ることはできないのかもしれないが」
「…………」
「うん? どうしたのだ?」
「奇妙な噂、聞きました。第四王子、生きている、噂です」
「ほう? 前王を鏖殺した大罪人が、まだ生きていると?」
「はい。第四王子、玉座を得るため、兵士、募っている、聞きました。真実なら、大きな戦、なるかもしれません」
「それはずいぶん素っ頓狂な噂だな。まがりなりにも前王を鏖殺した大罪人がぬけぬけと王都を脱出できるなどとは考えにくいぞ」
「はい。単なる噂です。……しかし、ゼラド大公国、それを知れば、第四王子、強い力を得るでしょう」
「ああ、かつての王族が打ち立てたという独立国家か。王都よりもさらに南にある国のことなど、わたしには今ひとつピンとこないな」
しかしそうなると、十二獅子将のヴァルダヌスも存命である、ということになるのだろうか。
クリスフィアとしては、得体の知れない廃王子などよりも、セルヴァ最強の剣士と名高いヴァルダヌスのほうが、よほど好奇心をそそられる存在なのだった。
「あの、姫様……?」と、フラウがまた心配げに声をかけてくる。
どれほど穏やかな気性をしていると言われていても、シム人は異国の民だ。なおかつ、彼らは野盗や無法者を寄せつけない、あやしげな力――毒草の扱いや星読みの秘術というものに長けている。ひと昔前まで、彼らは魔術の民として大陸中の人間に恐れられていたのである。
なおかつ、温和な気性をしているのはシムでも草原に住まう民のみで、たとえば山の民と称されるゲルドの一族などは北の民にも劣らぬ猛々しい気性を有している、とされている。そういった連中は山から下りてくることもないので、セルヴァの人間にとっては半ば伝説上の存在であるにも等しいが、それゆえに、強く恐れられてもいるのだった。
(フラウなんかはそうそう城下に下りることもないだろうからな。シムの民を恐ろしがるのも当然か)
クリスフィアなどは、配下の傭兵たちと親睦を深めるために、たびたび城下町の酒場に顔を出している。そういう場にもシムの商人は大勢ひそんでいたので、クリスフィアにとってはそれなりに馴染みの深い存在なのだった。
それにクリスフィアは、そういった東の民たちを好ましくも思っていた。
凶暴であるという山の民などは知ったことではない。自分の故郷を遠く離れて、異国たるセルヴァにおいて行商に励む、こういうシムの民の自由さに、クリスフィアは一種の憧憬にも似た感情を抱いていたのだった。
(どんな風に反抗してみせたって、わたしはアブーフの外で生きていける身ではないからな。どんなに窮屈で鬱陶しくても、わたしはアブーフ侯爵家の嫡子なんだ)
ほんのちょっぴりほろ苦い気持ちを味わわされながら、クリスフィアはラムルエルなる若者に笑いかけてみせた。
「少し咽喉が渇いたな。何か手頃な果実でも持っていないか?」
ラムルエルはけげんそうに小首を傾げつつ、手綱を操ったまま器用に後方へと腕をのばした。
御者台のすぐ後ろに積まれていた大きな包みから、淡い黄色の果実が取り出される。それはつやつやと照り輝く、ラマムの実であった。
「ラマムの実か。そいつはいいな。ひとつ売ってくれ」
クリスフィアは腰の物入れから赤い銅貨を引っ張り出して、それをラムルエルのほうに親指で弾き飛ばした。
ラムルエルは慌てるそぶりもなく、ラマムの実をクリスフィアのほうにぽんと投じ、空いた手で銅貨をつかみ取った。
「おお、さすがだな」
クリスフィアは、受け取ったラマムの実にさっそく歯をたてる。
清涼なる甘さと酸っぱさが口に広がり、ゆたかな果汁が咽喉を潤した。
「うん、いい熟れ具合だ。もっと甘くもなるのだろうが、わたしにはこれぐらいの酸っぱさがちょうどいい」
ラムルエルはぺこりと頭を下げてから、もうひとつラマムの実を放ってきた。
手綱から両手を離すわけにもいかなかったので、クリスフィアは慌てて手にしていたラマムを口だけで支え、飛んできた新たな果実を捕獲した。
「赤銅貨一枚、ラマム二個、相応です」
「ほうか。ほれはいたみいる」
シム人よりも聞き取りづらい言葉を返しつつ、クリスフィアはラマムの実を後方に投げつけた。
「きゃあ」という可愛らしい声をあげつつ、フラウは危なげもなくそれをつかみ取る。
クリスフィアは空いた手で口もとの果実をつかみ、ラムルエルににやりと笑いかけてみせた。
「それでは、息災にな。縁があれば、またまみえることもあるだろう、ラムルエルとやら」
「よき風、御身に吹きますように、クリスフィア」
ラムルエルの返答に満足しつつ、クリスフィアはトトスの脇腹を蹴った。
常歩で進む荷車を後方に引き離し、ひたすら西へと疾駆する。
クリスフィアとラムルエルが再びまみえることはあるのか、すべては西と東の神の御心次第であった。