Ⅳ-Ⅰ 学士との対話
2017.10/7 更新分 1/1
ダリアスは、鎧戸の隙間から屋敷の外を覗き見ていた。
クリスフィアとその侍女を乗せた荷車が、王都からの使者とともに門の外へと向かっていく。その姿が完全に見えなくなってから、ダリアスは鎧戸を閉めて室内に向きなおった。
「クリスフィア姫たちも出立したようだ。お前には面倒をかけて申し訳なく思っているぞ、リッサよ」
「いえいえ、お気づかいなく。毎日毎日、港町まで引っ張り出されていた日々を思えば、どうということもありません」
言葉の内容は友好的であるが、リッサは書物に目を向けたまま、顔を上げようともしなかった。
「それに、この屋敷にはそれなりの蔵書がそろっていますからね。これらをすべて読み尽くすまでは文句の声をあげるつもりもありませんので、御心配なく」
「……でも、リッサであったら数日ですべての蔵書を読み尽くしてしまうかもしれませんね」
そのように述べたのは、長椅子に座したラナであった。
トレイアスにあてがわれた、ダーム公爵邸の客間である。もともとクリスフィア姫たちが逗留していたこの部屋に、四日前からダリアスとラナも身を寄せているのだった。
「さすがに数日では難しいですね。一日に二冊を片付けたとしても……まあ、半月ぐらいはもつと思いますよ」
人を食ったリッサの発言に、ラナは再び「まあ」と笑った。
リッサは変人の類いであったが、ラナとは妙に気のあうところもあるらしい。というか、リッサの頓狂な言動が、ラナの気持ちを少なからず癒してくれているようであるのだ。ダリアスは、リッサを置いていってくれたクリスフィアの判断に、心から感謝することになった。
ギムとデンがレイフォンによって保護されたのかもしれないと聞き、ラナはダリアス以上の期待と不安を抱え込むことになったのである。まったく行方の知れなかった四日前までに比べれば、まだしも希望の持てる状態ではあったのだが、それでも確かな話が知れない限りは、やっぱり心から安堵することも難しかったのだった。
「……で、半月以内に王都に戻る目処は立ったのでしょうかね?」
やっぱり書物に目を落としたまま、リッサがダリアスに問うてきた。
ダリアスはラナのかたわらに腰を下ろしながら、「さてな」と応じてみせる。
「実際のところ、お前はフゥライ殿を迎えるために居残ってもらっているようなものなのだ。フゥライ殿さえ姿を現してくれれば、その後は二人で王都に戻ってもらっても、こちらはいっこうにかまわんぞ」
「うーん、さすがにあと半月もあれば、ご老体の書物あさりも一段落するかなあ。今回はどんな珍書を買いあさったのか、僕も早く拝見したいところです」
この屋敷の中にあって、もっとも呑気であるのはこのリッサなのかもしれなかった。
彼女は王都における陰謀とも無関係であるし、ダーム公爵邸を見舞った災厄についても知らぬ顔をしている。世俗の面倒事など、彼女にとってはすべて他人事であるようだった。
だからダリアスたちも、リッサの前ではいまだに正体を隠している。何も知らないのであれば、知らないままでいるのが幸いというものであろう。玉座を巡る陰謀劇などに関わってしまったら、誰もがそれまでの生活を壊されることになってしまうのだ。
「とりあえず、俺はクリスフィア姫に代わってフゥライ殿と言葉を交わさなければならないからな。その仲介役を果たした後は、お前の好きにしてくれ」
「はいはい、了解いたしました。半月以内にあのご老体が姿を現すことを祈っておきましょう」
「……そうだ、それに俺からも、お前にひとつ問うておきたいことがあったのだが」
やはり書物からは面を上げぬまま、リッサは「何です?」と応じてくる。
「お前は《賢者の塔》で学業に励む学士であったのだろう? それならば、薬師というものとも交流を持っているのではないか?」
「薬師ですか。こちらはべつだん用事もありませんが、あちらが書庫を訪れることは多いですよ。シムの文献などから薬草の扱い方を学んでいるのでしょう」
「ならば……オロルという薬師に心当たりはないだろうか?」
それは、ついさきほどクリスフィアの口からもたされた名前であった。
実際には四日前にも名前を聞いていたが、そのときはそれほど重要な相手とも思わなかった。というか、クリスフィアもこの四日間でさまざまな出来事を吟味する内に、その重要性に思い至ったのだろう。そうでなければ、クリスフィア自身がリッサに問うていそうなところであった。
(いや、王都の事情に疎いクリスフィア姫には、学士と薬師が同じ《賢者の塔》で過ごしているという事実を知るすべもなかったということか。俺だって、姫を送り出すまで失念していたぐらいだからな)
ダリアスがそのようなことを考えている間に、リッサは「うーん」と首をひねっていた。
「オロル、オロル……どこかで耳にしたことはあるような気がするのですが、思い出せませんね。僕とは関わりの薄いお相手であるようです」
「そうか。クリスフィア姫の話では、新王陛下の従者であるという話であったのだが」
「ああ、あのシム人みたいにひょろひょろとしたご老人ですか。あの御方でしたら、しょっちゅう書庫にも出入りしていたようですよ」
ダリアスはわずかに昂揚して、身を乗り出すことになった。
「では、そのオロルというのはどういう人物であるのだろう?」
「どういう人物と言われましてもね。僕はそのご尊顔を拝見したこともありませんので」
「なに? しかし、しょっちゅう書庫に出入りしていると言ったではないか」
「出入りはしていても、わからないものはわかりません。あのご老人は、以前のあなたのように頭巾と襟巻きで顔を隠してしまっていたのですよ」
リッサはダリアスの顔を知らないようであったので、室内では素顔をさらしていた。ただ、髪は黒く染められたままである。
「まがりなりにも王宮につとめる人間が、素顔を隠すことなど許されるのか?」
「ええ。噂によると、病気か何かで顔がただれてしまっているそうですよ。それに、ベイギルス陛下が戴冠されるまでは王宮に出入りすることもなかったようですし、貴き方々に見とがめられることもなかったのでしょう」
「ふうむ……しかし、王宮に出入りできる身分になってからも人相を隠しているというのは、いかにも不調法だし、あやしげだな。それほど徹底して人相を隠しているのか?」
「そうですね。外から見えるのは目もとぐらいでしたよ。それこそシムの民のように真っ黒な瞳をしていて、肌は青黒い病人のような色合いでした。で、しわくちゃの皮膚で声もくぐもっていますからご老人と思っていましたけど、よく考えたら年齢も知りません」
ぺらぺらと喋りながら、その目はずっと書物の字を追っている。それで中身が頭に入るのかと、ダリアスのほうが心配に思うぐらいであった。
「あの御仁はたしか、ベイギルス陛下の息女ユリエラ姫を、病魔からお救いになったという話でしたね。それで、ベイギルス陛下おかかえの薬師となられたそうです」
「それは、いつぐらいの話なのだろうか?」
「さて、姫が幼かった頃に、としか聞いていません。姫は今でも十分に幼いですけれどね」
それでもユリエラは、すでに十五歳に達しているはずであった。
それが幼かった頃というと、五年から十年ぐらいはさかのぼることになるのだろうか。
(そんな昔から新王に仕えていたとなると、確かに色々とあやしく感じられるな。クリスフィア姫が敵方の一味と疑うのも無理からぬところだ)
そのオロルという男は、カノン王子の寝所を探っていたクリスフィアと、エイラの神殿で出くわした。その後、クリスフィアは媚薬を嗅がされたロネックに襲われることになった。それだけで、オロルがこのたびの陰謀に関わっていると断じることはできないが――何にせよ、あやしいことに変わりはなかった。
(シムの媚薬や使い魔などというものは、よほどの知識がなければ扱えないはずだ。特に前王はシムのあやしげな術を嫌っていたので、そういう輩も王宮内では排斥されていたはずだしな)
王都に向かったクリスフィアは、首尾よくオロルという男を締め上げることがかなうだろうか。
こればかりは、ダリアスも西方神に無事と成功を祈るしかなかった。
「そういえば――」
と、リッサが気安い調子で声をあげた。
「あの日にも、オロルという御方は書庫をうろちょろしていましたね」
「うん? あの日というのは、いつのことだ?」
「だから、赤の月の騒ぎがあって、エイラの神殿から書物の山が運び込まれた日のことですよ。クリスフィア姫は、その中から失われた書物の所在を求めて、フゥライ学士長を捜しておられたのでしょう?」
ダリアスは、思わず息を呑むことになった。
リッサは、変わらぬ調子で書物の頁を繰っている。
「それで僕にオロルという御方のことをお尋ねになったのではないのですか? 差し出口だったら、申し訳ありませんね」
「い、いや、まさしくそういう話を聞きたかったのだ。だったら、そのオロルという男が書物を盗んだということもありうるのだろうか?」
「それは誰にだってありえる話ですよ。書物の山はその日から翌日まで物置に仕舞われていたのですから、書庫に足を踏み入れた全員に疑いをかけることができるでしょうね」
そのように言ってから、リッサは細長い指先で頭をかいた。
「もしもあの書物を発見できたのなら、僕にも中身を拝見させていただきたいところです。題名もわからないほど古びた書物でしたが、あれはいかにも奇書といった雰囲気の書物でしたよ」
「そうか」と答えてから、ダリアスは長椅子の背にもたれかかった。
すると、ラナがじっと自分を見つめていることに、ようやく気づくことができた。
「ああ、すまない。ついつい話に夢中になってしまったな」
「いえ」とラナは口もとをほころばせた。
ただ、その瞳にはいくぶん悲しげな光が灯ってしまっている。
リッサの前では素性を隠しているので、こういう際には不自由が生じるのだ。ダリアスはいちおうリッサが読書に没頭しているのを確認してから、ラナの耳に口を寄せてみせた。
「どうしたのだ? 何かあったのなら、小声で話すといい」
「いえ……わたしは何のお役にも立てないので、心苦しく感じたまでです」
「何を言っているのだ。そもそもラナには何の責任もある話ではないぞ」
「それはもちろん、そうなのですが……ダリアス様はクリスフィア姫と出会って以来、ずいぶんお変わりになられました」
そのように囁いてから、ラナはまた悲しげに微笑んだ。
「これこそが、ダリアス様の本来のお姿なのでしょう。とても力強くて、とても雄々しい……王国の行く末を担う勇士のお姿です」
「……それでどうして、お前が悲しい顔をすることになるのだ?」
「何も悲しんではおりません。ただ……わたしのような足手まといは、クリスフィア姫とともに王都へ戻るべきだったのではないかと思えてしまって……」
「何を馬鹿な」と思わず大きな声をあげてしまい、ダリアスは慌てて自制した。
「この状況で王都に戻るのは危険だ。ギムたちが心配なのはわかるが、今少しだけ辛抱してくれ」
「そうではありません。わたしの存在がダリアス様のお邪魔になってしまうことが恐ろしいのです」
ダリアスは息をつき、ラナのほっそりとした指先を握りしめた。
「俺が一番に考えているのは、お前とギムとデンの安全だ。お前たちを守りたいからこそ、俺は必死になっているのだ。その真情だけは、疑わないでほしい」
「ダリアス様のお言葉を疑うことなど、決してありません。……そうだからこそ、心苦しいのです」
ダリアスは、返答に窮してしまった。
そのとき、客間の扉が外から叩かれた。
「侍女のレィミアでございます。アッカム様にお話があるのですけれど、よろしいでしょうか?」
ダリアスは、最後にもう一度ラナの手を握りしめてから、立ち上がった。
念のために襟巻きを鼻のあたりまで引きあげてから、扉を開く。
「どうしたのだ? トレイアス殿が俺をお呼びか?」
「いえ、わたくしがお話をさせていただきたいのです。ちょっとこちらによろしいでしょうか?」
貞淑な侍女の表情で、レィミアが回廊のほうに身を引いた。
ダリアスは用心深く左右の様子をうかがってから、自分も部屋の外に出て扉を閉める。
「どうしたのだ? お前がトレイアス殿のいないところで話を持ちかけてくるとは思わなかったぞ」
「ええ、わたくしは主様の忠実な下僕でございますからね」
そのように述べてから、レィミアはにっと唇を吊り上げた。
それだけで、貞淑な侍女は妖艶な悪女へと変貌を遂げてしまう。
「あなたがたは、いつまでこの屋敷に留まるおつもりなのかしら? わたくしは、アブーフの姫君とご一緒に出ていかれるのを期待していたのですけれど」
「さて、どうだろうな。それはトレイアス殿のご返答次第と考えているが」
「主様のお気持ちは変わりゃしませんよお。あなたがたが本心をさらすまではねえ」
口調も、じわじわと悪女のそれへと変じていく。
その瞳には、嘲弄と苛立たしさの光が渦巻いているように感じられた。
「あと数日もすれば、王都から調査の一団がやってくるんだよお? できればその前に姿を消してくれないもんかねえ?」
「しかし、そのときこそ俺の力が必要になるかもしれんぞ。シーズを失った敵方が、さらなる謀略を仕掛けてくるのかもしれんのだからな」
「主様の身は、あたしが守るさ。あんたの手助けなんざいらないよお」
「それならお前は、ひとりでシーズを退けることができたのか? 俺には、そうは思えんのだがな」
「……それでも、敵か味方かもわからない輩をそばに置いておくよりは、百倍もマシさぁ」
その美しい面に妖しい笑みをたたえながら、レィミアはぎらぎらと双眸を瞬かせた。
「いいかい? あんたの正体を知った上で王都に突き出さなかったのは、主様の温情だ。この温情を踏みにじるようなことがあったら、あんたにはとびきりの毒を撃ち込んでやるからねえ?」
「俺は俺で、トレイアス殿を信頼したからこそ、素性を明かしたのだ。この先も、確かな信頼を築いていきたいと願っている」
「ちッ」と、レィミアは忌々しげに舌打ちをした。
そして、その艶やかな肢体をひるがえす。
「まあいいさ。忠告はしたからね? 生命が惜しかったら、王都からの一団が到着する前に消えてなくなりなあ」
レィミアは、優雅な足取りで立ち去っていった。
あの娘はあの娘で、トレイアスの身を守ることに生命をかけているのだろう。そこまでトレイアスに心酔する理由は知れなかったが、その心情を疑うつもりにはなれなかった。
(願わくは、おたがいの大事なものを守るために、肩を並べて戦いたいものだ。敵に回せば、すこぶる厄介な女だからな)
そのようなことを考えながら、ダリアスはラナたちの待つ客間に戻った。
学士長のフゥライがダーム公爵邸を訪れたのは、それから二日後――奇しくも、ダームを出たクリスフィアが王都に到着したのと同日、黄の月の一日のことだった。