Ⅱ-Ⅰ 金狼宮の新たな客人
2017.9/23 更新分 1/1
「おお、よくぞ参ったな、レイフォンよ」
レイフォンとティムトが入室すると、ディラーム老の笑顔に出迎えられることになった。
金狼宮の、ディラーム老の執務室である。今日も執務の卓で熱心に帳面を広げていたディラーム老は、いつになく上機嫌であるようだった。
「ロア=ファムに会いに来たのだな? よければ、儂もともに話を聞かせてもらおう」
「ええ、それはもちろん。……ディラーム老は、すっかりあの少年がお気に入りのようですね」
「うむ。自由開拓民などというのは、皆あのように清々しい性根をしておるのかな。あやつと言葉を交わしているだけで、心地好い風に吹かれているような気持ちになれるのだ」
そう言って、ディラーム老は物思わしげに目を細めた。
「赤の月の災厄の以降も、我々には痛ましい話しかもたらされることはなかった。ダリアスの副官であったルイドは毒草で正気を失い、シーズは魂を返すことになり……いったい儂は何のために生きながらえたのかと、臍を噛むような思いであったのだ」
「ええ。その中で、ロア=ファムとの出会いは数少ない光明のひとつでしたね。それに、クリスフィア姫も」
「ああ、クリスフィア姫も、今日には王都に戻ってくるのだったな。それもまた喜ばしい話だ」
十二獅子将シーズの訃報がもたらされてから四日が過ぎて、本日は黄の月の一日。この日に、クリスフィアは帰還してくる予定であったのだった。
しかしそれは、ダーム公爵邸を見舞った悲劇とは関係がない。単に、戴冠式のために招いた貴族たちの大半が王都に到着したため、前祝いの宴が開かれることになったのである。それで、招待客の一人であるクリスフィアも帰還を余儀なくされたのであった。
(まあ確何にせよ、クリスフィア姫が無事に戻ってくるのは喜ばしいことだ)
レイフォンも、こっそりそのように考える。
ティムトはこれまでに、二度ほどクリスフィアに使者を送っていた。一度目はギムとデンの口から十二獅子将ダリアスの生存を知らされたとき、二度目はその潜伏場所がダームであるかもしれないと判明したときだ。しかし、二度目に送った使者に関しては、七日が過ぎた現在でも王都に戻っていなかったのである。
王都からダームまでは安全な行き道であるので、屈強の剣士でもある使者が不慮の事故で動けなくなったとは考えにくい。ならば、何者かがレイフォンらとクリスフィアの通信を邪魔しようと考えた、ということだ。
(クリスフィア姫がダームに向かってから、およそ十日か。このていどの期間では公爵家の動向を探ることなど、難しかったかもしれないな。だけどまあ、無事に戻って来られれば、それだけでもまずは十分だ)
レイフォンがそんな風に考えていると、ディラーム老が「さて」と立ち上がった。
「では、客人たちのもとまで出向くか。それとも、ロア=ファムをこちらに呼びつけるか?」
「いえ、よければ他の客人たちとも話をさせてください。話す内容に不都合でも生じそうなときは、そのときに場所を移しましょう」
ということで、三人は守衛の守る寝所へと足を向けた。
守衛といっても、ディラーム老直属の配下である。この部屋は、ディラーム老が心から信頼する人間のみによって守られているのだった。
「邪魔するぞ。レイフォンがおぬしたちに話があるそうだ」
寝所に控えていた三名が、それぞれ異なる面持ちでレイフォンらを見返してくる。
グレン族の若き狩人ロア=ファム、鍛冶屋のギム、革細工屋のデンである。
ギムとデンが床に膝をつこうとしたので、レイフォンは「礼など不要だよ」と告げてみせた。
「二人とも元気そうで何よりだ。ギム、傷のほうはいかがかな?」
「……はい。お陰様を持ちまして、養生させてもらっておりやす」
ギムは、四十前後の壮年の男であった。ずんぐりとした体格で、顔も腕も黄褐色に焼けており、四角い顔にはぼうぼうと無精髭を浮かせている。槍で貫かれた肩の傷はずいぶん良くなったはずであるが、その眼差しは暗かった。
(行方知れずの娘御が心配でならないのだろうな。まったく、気の毒なことだ)
そんなギムのかたわらで、デンはきょときょとと視線をさまよわせている。こちらは善良で純朴な、城下町生まれの若者である。相変わらず、貴族を前にすると平静ではいられないらしい。
そして最後の一人、自由開拓民の少年ロア=ファムだけは、臆することなく椅子に腰かけたままであった。
この中では一番若年であり、身体も小柄であるのに、実に堂々とした振る舞いだ。黄色みがかった瞳から放たれる眼光の鋭さにも変わりはない。この金狼宮に身柄を移されてからは十分な食事も与えられているはずなので、むしろ以前に見たときよりも力強さが増したようにさえ感じられた。
「やあ、ロア=ファム。何も不自由はしていないかな?」
レイフォンが問いかけると、「無論だ」という返事が返ってきた。
「こんな立派な部屋をあてがわれて、不満の言葉など述べられるはずもない。この部屋だけで、俺の家と大差のない大きさであることだろう」
「そうか。だけど、狩人たる君にとっては、石造りの宮殿など窮屈なだけなのだろうね」
「それにもやっぱり、無論としか答えようはないが……なかった生命を救ってもらえたのだから、あなたがたには感謝している」
牢獄ではレイフォンをお前呼ばわりしていたロア=ファムも、身柄を移されてからは多少なりとも態度を改めていた。
しかしけっきょくは蛮なる自由開拓民であるので、真っ当な礼儀作法など知るすべもない。そういった明け透けな態度が、今のディラーム老には何らかの癒しになっているのかもしれなかった。
(まあ、お門違いの陰謀劇に巻き込まれた身としては、それもむべなるかなというところなのだろう。私だって、ゼラやジョルアンやロネックなどと語らうよりは、このロア=ファムと語らっていたほうがよほど幸せだ)
レイフォンたちも予備の椅子に腰をおろしつつ、三名の客人らと相対した。
ギムとデンにも着席するようにうながしてから、まずはレイフォンが口火を切る。
「ロア=ファム、君の今後の処遇に関してなのだが……君にはこのまま、しばらく王都に留まってもらいたいと考えている」
ロア=ファムは、けげんそうに眉をひそめた。
「俺にはその言葉にあらがうすべなどありもしないが、しかし、いったい何のために留まるのだ? これ以上は、何の役にも立てそうにないように思うのだが」
「そんなことはないよ。君は偽王子との架け橋になりうる、唯一の存在であるのだからね。もしかしたら、君の働きひとつで、王国をゆるがす大きな戦を止められるかもしれないんだ」
ロア=ファムは、ますますうろんげに瞳を光らせた。
レイフォンは、あらかじめティムトに教えられていた言葉を紡ぎ続ける。
「偽王子は、ゼラド大公国の手に落ちた公算が高い。このままだと、偽王子は王都を侵略せんとするゼラドの旗印に祭り上げられてしまうだろう。……王都と大公国の確執についてはご存じかな?」
「よくは知らぬが、大公というのも王家の血筋なのだろう? それで、自分たちこそがセルヴァの王であるべきだと言い張って、戦を起こしているのだと聞き及んでいる」
「うん、その認識で間違ってはいないね。だからきっと、ゼラドは第四王子カノンに玉座を明け渡すべし、という大義名分で、王都に侵攻しようと目論むはずなのだよ」
偽王子がゼラドの手に落ちたのは、もう半月ばかりも前のことだ。今頃はゼラドの心臓たるオータム城まで招かれて、ベアルズ大公との密約を果たしていることだろう。
「それはきっと、かつてないほどの大きな戦になるはずだ。また、王都とゼラドの間に存在するセルヴァの領国が、第四王子の正統性を信じてしまったら、ゼラドの侵攻を無抵抗で許してしまうかもしれない。そのような事態に陥ったら、王都を守る十万の獅子の軍も、かつてないほどの苦境に見舞われてしまうことだろうね」
「……そのような話で、ますます俺に出番が回ってくるとは思えないのだが」
「いや、そんなことはないよ。だって偽王子のおそばには、君の大事な姉君メナ=ファムが控えているはずなのだからね」
レイフォンは、ゆったりと微笑んでみせた。
「偽王子を追っていた討伐部隊の人間に話を聞いたのだけれども、君の姉君はたいそうな活躍であったらしいよ。偽王子をトトスの後ろに乗せて、単身、守り抜こうとしていたらしい。その手綱さばきといったら、熟練の騎兵が舌を巻くほどであったとのことだ」
「ああ……あいつは、トトスを乗りこなすのが巧みだったからな」
「おまけに姉君は、かつての千獅子長エルヴィルと思しき人物よりも屈強の戦士だというのだろう? それほどの傑物であるならば、ゼラドに身を置いてからも偽王子に重宝されている公算が高い、偽王子とて、側近にはなるべく信用の置ける人間を控えさせたいだろうからね」
「それで俺に、偽王子との……というか、馬鹿な姉との架け橋を担わせようと考えたわけか」
ロア=ファムは、赤褐色の髪をがりがりと掻きむしった。
「なんと馬鹿げたことを考えるのだ……大きな戦の真っ只中で、俺を敵軍の陣地まで送りつけようというつもりなのか?」
「いや、できるならば、戦が激化する前にその役を担ってもらうのが理想的だね。流される血は、一滴でも少なくしたいと望んでいるよ」
「しかし、姉メナは偽王子とやらに同情だか心配だかをして、行動をともにすることになったのだ。俺が何を言おうとも、偽王子を裏切ることだけは決してないだろう」
「ああ。姉君をこちら陣営に引き込もうと考えているわけではないから、そこのところは心配ないよ。我々は、君たち姉弟に和平の使者役を担ってもらいたいのさ」
レイフォンがティムトに言い含められていたのは、ここまでであった。
偽王子やゼラド大公国と、どのような形で和平を結ぶことがかなうのか、レイフォンには見当をつけることもかなわない。
「君がそれを了承してくれるなら、虜囚の身分を解いて、客人として迎えられることになる。ついさっき、王陛下からもそのお許しをいただいてきたところなのだよ」
「…………」
「また、無事に和平がかなったあかつきには、君の姉君の罪も不問にするというお言葉をいただいている。叛逆行為を働いた人間に対して、ここまでの恩赦がかけられることは、通常ありえないだろうね」
ロア=ファムはわずかにうつむいて、長い前髪の隙間からレイフォンをねめつけてきた。
「……俺はいささか、あなたという人間の性根を判じかねている」
「うん? 私の性根?」
「ああ。あなたの言葉は、まるで大鰐の顎のようだ。姉メナの生命を引き合いに出されては、俺にあらがうすべはない。言葉だけでこれほどまでに追い詰められたのは初めてのことだ」
「いや、君を追い詰めているつもりはなかったのだが……」
「ああ。同時に、あなたの言葉は花の蜜のように甘い。姉の罪が許されることなど想像もしていなかった俺にとって、あなたの言葉は希望そのものであるように感じられる。……それがまた、俺には恐ろしく感じられてしまうのだ」
レイフォンはしばし迷ってから、自分の心情を打ち明けることにした。
「私は、誰もが幸福になればと願っている。今の我々にとっての幸福は、偽王子との和平を結ぶことであるし、君にとっての幸福は、姉君の罪が許されることだろう? それらを同時に果たすために、最善の道を探しただけなのだよ」
「…………」
「もちろん、君の姉君に対する情愛を利用した、という見方もできるだろう。だけどそれなら、君も我々を利用すればいい。我々を利用して、姉君を破滅の運命から救い出すんだ。……それを利用と考えるか助け合いと考えるかは、今後の我々がどのような関係を築いていけるかにかかっているんじゃないのかな」
レイフォンは頬のあたりに視線を感じて、ティムトのほうを振り返った。
ティムトは軽く目を見開いて、レイフォンを見つめている。レイフォンが勝手なことを語り始めているのをとがめている様子はないので、レイフォンはほっとした。
「まあ、今すぐに答えを出す必要はないよ。ゼラドだって、それだけ大きな戦の準備をするには相応の時間がかかるはずだから、まだいくらかの猶予はあるはずだ」
「いや……」と、ロア=ファムは首を振った。
「最初に言った通り、俺にあらがうすべはないのだ。あなたからの提案は受け入れて、その上であなたの性根を見定めさせてもらおうと思う」
「そうか、ありがとう。君と確かな信頼関係を築けるように努力させていただくよ」
レイフォンは安堵の息をついて、ディラーム老のほうに向きなおった。
「では、彼の身柄は正式に、ディラーム老の預かりということにさせていただきます。それでよろしいですね?」
「ああ。これでロア=ファムを、自由に外まで連れ出せるのだな。こいつは実に、喜ばしい話だ」
ディラーム老は、笑いじわを作って破顔した。
「おぬしが何か騒ぎを起こせば、その責任は儂が取らされることになる。おぬしが儂の見込んだ通りの人間であることを祈っておるぞ、ロア=ファムよ」
「ああ。あなたがたに決して迷惑はかけないと約束する」
これでロア=ファムの一件は、ひとまず落着であった。
残るは、ギムとデンである。
「さて、君たちにはとりたてて伝えるべき言葉はないのだが……むしろ、君たちのほうこそ、我々を問い詰めたいところだろうね」
「い、いえ、貴き方々を問い詰めるだなんて、そんなことはできるはずもありませんが……でも、ダリアス様とラナについては、いったいどうなったのでしょうか……?」
気弱げに身を揺すりながら、それでもデンが必死な面持ちで言いたててくる。
「うん。こちらも秘密裡に動かなければならないので、なかなか難しいところなのだけれども……それでも、ゼラ殿と言葉を交わして、君たちの告げてくれた話が真実であったということは確認できたよ」
「そ、そうですか! それじゃあ、ダリウス様とラナのやつは……?」
「それが、ゼラ殿も行方はわからないと言い張っていてね。おそらくは、我々が本当にダリアスの味方であるかどうかを判じかねているようなんだ。あれは、なかなか食えない御仁だね」
デンは、がっくりと肩を落としてしまった。
ギムは固くまぶたを閉ざして、自分の心情を押し隠している。
「だから、もうちょっと君たちにはこの場所に留まってもらいたい。君たちを《裁きの塔》に幽閉したのが何者か、それを突きとめないことには危険だからね」
「わかりました……ご迷惑をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします……」
それでレイフォンたちは、いったんその場から切り上げることにした。
執務室に戻って、今度はディラーム老との密談である。
「ゼラという祓魔官は、いまだに音沙汰がないのか? ジョルアンの身辺を探るように言いつけてから、もう七日が過ぎたのであろう?」
「はい。そろそろ何らかの動きがありそうなところなのですけれどね。例の、シーズの一件がありましたから、こちらも彼のほうまで手が回らなかったのです」
「うむ……シーズを失ってしまったのは、かえすがえすも口惜しいことであったな。ダーム公爵邸に押し入った賊というのは、いったい何者であったのだろうか?」
「わかりません。しかし、シーズの生命を狙ったからには、やはり王都の陰謀に関わる何者かの手なのでしょうね」
その賊とやらはダーム公爵邸の守衛によって討ち取られたという報告であったが、いまだにどのような人相風体であったかも伝えられていなかった。知らされたのは、シーズと二名の騎士が魂を返し、一名の騎士が深手を負ったという話のみであった。
「ダーム騎士団団長と十二獅子将の座は、いったい誰に引き継がれるのだろうな。まさか、副官を差し置いて王都から別の人間を差し向けるようなことはないと信じたいが……」
「どうなのでしょうね。王都から差し向けられた一団がシーズの死について調査をするそうですから、まずはその結果次第でしょう」
また、クリスフィア自身も公爵邸に逗留していたのだから、そちらからも話を聞くことはできるはずだ。
新王ベイギルスの派遣した調査団などよりは、そちらのほうがよほど信頼できる情報をもたらしてくれるはずだった。
「では、私は白牛宮に戻ります。クリスフィア姫がこちらに見えたら、またお邪魔をいたしますので」
「うむ。それまでは、ロア=ファムと話でもしていよう」
ロア=ファムの話になると、目もとのゆるむディラーム老である。
ディラーム老はかつて、ヴァルダヌスのことを息子のように可愛がっていたと聞くが、ロア=ファムに対しては孫を得たような気持ちを抱いているのだろうか。
(まあ、それでディラーム老の孤独や無念が少しでも癒されるのなら、何よりだ。本当に、鬱屈するような話ばかりが続いているからなあ」
レイフォンはティムトとともに、自分の執務室を目指した。
その途中で、ティムトがひさかたぶりに口を開く。
「レイフォン様、さきほどは見事な手並みでしたね」
「うん? 何の話かな?」
「あのロア=ファムという者の頑なな気持ちを、わずかなりとも開かせることになった言葉に関してですよ。あのレイフォン様の言葉がなければ、彼もあの場で答えを出すことはなかったかもしれません」
そうしてティムトは、いくぶん語調を強めて言いつのった。
「何というか、彼はクリスフィア姫と似た資質があるように感じられます。理屈ではなく、直感で真実を嗅ぎ分ける資質です」
「そうか。だったら、私がティムトの操り人形であるということも、いずれ彼には露見してしまうのかなあ」
「……そうならないように、最大限の注意を払ってください」
そんな会話をしている内に、目的の場所へと到着した。
そしてそこには、レイフォンたちが待ち望んでいた不吉な姿があった。
「お帰りをお待ちしておりました……折り入って、レイフォン様にお伝えしたいことがございます……」
祓魔官の、ゼラである。
待ち望んでいたはずであるのに、あまり嬉しい気持ちにはなれない。レイフォンは溜息を噛み殺しつつ、幼子のような小男を自分の部屋に招き入れることにした。