Ⅰ-Ⅰ 三人の虜囚
2017.9/16 更新分 1/1
その日もリヴェルたち三人は、薄暗い荷車の中に閉じ込められていた。
手足は革紐でくくられてしまっているために、ほとんど身動きすることもできない。身体の下にはいちおう申し訳ていどに毛皮の敷物が敷かれていたが、激しく揺れる荷車の中では気休めていどにしかなり得なかった。
「ああもう、うんざりだよ。何だか岩の下にべったり張りついた蛞蝓にでもなった気分さ」
そんな風にぼやくチチアの声も、だいぶん力を失ってきてしまっている。
すると、別の方向からナーニャがくすくすと笑い声をあげた。
「蛞蝓っていうのは、あの手も足もない愉快な生き物のことだね? 図鑑でしか見たことはないけれど、なかなか言い得て妙な表現じゃないか」
「何をへらへら笑ってやがるんだよ。元気になったんなら、とっとと得意の魔法だか何だかであいつらを皆殺しにしちまえばいいのにさ!」
「そんな真似をして、ヴァルダヌスまでをも燃やしてしまったらどうするのさ? だいたい僕は、僕が敵と見なした相手にしかあの力をふるうことができないんだよ?」
「あいつらは立派な敵だろ! セルヴァの民にとっては仇敵のマヒュドラの民で、おまけにあたしたちをこんな目にあわせてくれてるんだからさ!」
「彼らは僕たちを審問の場に引き連れていこうとしているんだろう? その間、逃げたり暴れたりしないように手足を縛りあげるのは当然の話じゃないか。僕が彼らと同じ立場でも、きっと同じように振る舞うだろうね」
チチアが空元気でわめいているのに対して、ナーニャのほうは普段通りの小悪魔的な軽口であった。
炎の魔法で消耗した体力も、この数日間で完全に回復することができたのだ。このように絶望的な状況下にあって、それだけが唯一の救いであった。
タウロ=ヨシュの故郷である辺境区域の集落から連れ出されて、いったいどれだけの日が過ぎたのか。リヴェルはもう日を数える気力も失ってしまっていたが、少なくとも五、六日は経過しているはずであった。
二日をかけて辺境の森を抜けた後は、この古びた荷車の中に閉じ込められて、ひたすら荷物のように扱われている。ここから出してもらえるのは日に二回だけで、食事を与えられるのは夜の一回だけだ。それも、飢えて死んでしまわないように、彼らの晩餐の残り汁を与えられるだけであるので、日に日に力は奪われてしまっていた。
ゼッドとタウロ=ヨシュは、それぞれ別の荷車に乗せられている。
タウロ=ヨシュは夜の食事のときにだけ顔をあわせることができたが、ゼッドに至っては一度たりとも姿を見ていなかった。
タウロ=ヨシュいわく、それはリヴェルたちがゼッドに対しての「人質」であるためであるらしい。
「あのゼッドというのは、みるからにきょうじんなせんしだからな。かわひもでてあしをくくっても、なかなかあんしんできないのだろう。だから、ゼッドがにげだそうとしたらおまえたちをころすといって、そのうごきをふうじているのだ」
いつだったかの晩、タウロ=ヨシュはそう言っていた。
「ほんとうにいちばんきけんであるのはナーニャなのだろうが、あいつらはそのことをしらん。だが、おまえがかってなまねをすれば、きっとゼッドがあやめられてしまうことだろう。だから、けっしてばかなまねをするのではないぞ、ナーニャよ」
「わかっているよ。君は僕の秘密を守ってくれたのだからね。決して君の信頼を裏切ったりはしないと、ここに約束しよう」
タウロ=ヨシュはあの集落を襲った怪異について、見たままの事実をマヒュドラの兵士たちに伝えていたが、ただ一点、ナーニャの魔法に関してだけは口をつぐんでいたのだった。
彼らは、マヒュドラの領地をも襲った『氷雪の巨人』の正体を探っていたのだ。そこに、ナーニャが妖しの力を使う魔法使いだなどと告げたら、どのような騒ぎになるかもわからない。だからタウロ=ヨシュは、油と炎を使って『氷雪の巨人』や生ける屍どもを撃退したのだと虚言を吐くことになったのである。
「でも、どうなのだろうね。グワラムという土地を占拠している北の民たちは、果たして僕たちの無実を信じてくれるのだろうか?」
赤く燃える焚き火の炎を赤い瞳で見つめながら、ナーニャはそのように尋ねていた。
それに対するタウロ=ヨシュの返答は「もちろん」であった。
「おれはたたかいをいやがっておうこくからにげだしたいちぞくのまつえいだが、おうこくのただしさをうたがったりはしていない。かつておれのそせんたちがちゅうせいをちかっていたおうこくのせんしたちがただしいそんざいであるとしんじている」
「君にとっては、そうかもしれないけどね。でも、残念ながら、僕たちは北の民が憎んでやまない西の民だ。まともな裁きなど下されず、問答無用で首を刎ねられるという可能性もありうるのじゃないだろうか?」
「……そのときは、おれもともにたましいをかえそう。おまえたちにしんじろといったいじょう、それぐらいのかくごはかためているつもりだ」
タウロ=ヨシュの瞳には、激情の炎がくすぶっていた。
彼はすべての家族と同胞を失って、しかもその亡骸を相手に斧をふるうという、苛烈な運命をくぐり抜けてきた身であるのだ。その眉間に刻まれた苦悩の皺が消えることはこの先ありえるのか、それを考えただけでリヴェルは胸が痛くなってしまった。
「わかったよ、タウロ=ヨシュ。僕も君の信頼と覚悟に応えたいと思う。……ただし、いざというときには、僕も大人しく首を刎ねられるつもりはない。それだけは、いちおう覚えておいてほしいかな」
ナーニャとタウロ=ヨシュの問答を脳裏に思い出しながら、リヴェルはふっと溜息をついた。
ナーニャは、覚悟を決めているのだ。少なくとも、グワラムでどのような裁きが下されるか、それを見届けるまでは逃げたり暴れたりするつもりはないらしい。それはそれで当然の話なのかもしれなかったが、リヴェルの気持ちは重くなる一方であった。
「……リヴェルはずいぶん静かだね。眠ってしまったのかな?」
と、頭の上のほうからナーニャの声が聞こえてくる。
ガタゴトと揺れる荷車の中で、リヴェルは懸命にそちらへと首をねじ曲げた。
敷物の上に横たえられたまま、ナーニャはうっすらと笑っている。
その白い面は冴え冴えと美しく、真紅の瞳は神秘的だ。
このような目にあわされても、ナーニャの妖しい美しさはこれっぽっちも損なわれていなかった。
「何だ、起きてたのか。黙り込んでいても気が沈む一方だろう? よければ、僕たちとおしゃべりをしようよ」
「あたしはあんたとおしゃべりを楽しんでたつもりはないよ!」
視界の端でチチアがわめき、そのままぐったりと脱力した。
それを横目で確認してから、ナーニャはまた笑い声をあげる。
「ずいぶん心配そうな顔だね。リヴェルの身は僕が必ず守ってあげるから、何も心配はいらないよ」
「はい……だけど……」
だけど、これから向かうグワラムは、もともと西の領土であったのだ。
マヒュドラに占領されてから、まだ五年も経ってはいない。西の領民たちは奴隷として働かされており、そして城主や貴族などは――もしかしたら、人質として生かされている可能性もある。それがリヴェルにとって、一番の不安であったのだった。
ナーニャは半生を牢獄のような場所で過ごしてきたという話であったので、グワラムの貴族でもその姿を目にしたことはないのかもしれない。
しかしゼッドのほうは、平民たるリヴェルでも名前を知る、セルヴァで一番の英傑であった。
王都アルグラッドの十二獅子将、ヴァルダヌス。
その名前を知らない者など、少なくともセルヴァの版図には存在しないことだろう。王国の情勢に興味のない自由開拓民であれば話は違うのかもしれないが、そうでない限りは嫌でも耳に入ってくるはずだ。
(貴族のことなんてよくわからないけど、王都で祝典でもあればアブーフやジェノスの貴族さえ招かれるぐらいなんだし……グワラムの貴族でも、ゼッドの顔を知る人間はいるかもしれない)
それでゼッドの正体が露見してしまったら、ナーニャの正体にだって察しがついてしまうことだろう。
そもそも、ゼッド――十二獅子将のヴァルダヌスは、廃王子カノンとともに王宮で焼け死んだとされているのだ。そのかたわらに、こんな目立つなりをしている人間がいれば、おのずと正体も知れてしまうはずだった。
(ナーニャはそれを、どう考えているんだろう。王国の人間に追われないように、辺境を目指していたはずなのに……王国の領土に連れ戻されることに不安はないのかな……)
リヴェルはナーニャの姿を見つめ続けたが、容易く内心を覗かせるような相手ではなかった。
それどころか、自分のほうこそが内心を覗かれているような心地になってしまい、思わず目をそらしてしまう。
「本当にリヴェルは心配性なんだなあ」
笑いを含んだナーニャの声が響く。
それから、いきなり頭に何かがぶつかってきた。
驚いて顔を上げると、鼻先にナーニャの笑顔があった。
ナーニャは固い床の上をごろごろと転がって、リヴェルのもとにまで近づいてきたのである。
「……確かにセルヴァの貴族が生き残っているかもしれない場所に向かうのは、僕にとって危険なことだ。でも、今からそんな心配をしたってしかたがないだろう?」
チチアに聞かれぬように声をひそめながら、ナーニャがそのように囁いた。
「逃げようがあるなら逃げ出したいところだけどさ。この状況じゃあ、それも難しい。だったら、腹をくくるしかないよ」
「ええ、それはわかっているつもりなのですが……」
「それにね、マヒュドラの人々がすでに氷雪の妖異を知っているというのなら、話が早い。敵の敵は味方ということで、意外とすんなり彼らとも手を組めるかもしれないじゃないか?」
リヴェルは、ぎょっと身をすくませることになった。
「き、北の民と手を組むというのは、何の話ですか? それに、敵というのは……?」
「敵というのは、もちろん氷雪の妖異のことさ。あれはさすがに、僕一人の手に負える相手ではないかもしれないからね」
「で、でも、あの恐ろしい巨人はすでにナーニャが討ち滅ぼしていますよね……?」
するとナーニャは、心から愉快そうに口もとをほころばせた。
「あんなもの、大樹からのびた枝葉を払ったに過ぎないよ。あの醜い巨人を生み出した何者かは、今でもどこかで誰かを氷漬けにしているはずさ」
「あ、あれは人の手で生み出されたものだというのですか?」
「人……と言ってしまっていいのかなあ。それを人と呼ぶならば、この僕だって立派な人なのだろうね」
「ナーニャは、人ではないですか」
リヴェルが言うと、ナーニャは目を細めて微笑んだ。
ナーニャがたまにしか見せない、慈愛に満ちみちた微笑みである。
「今でもリヴェルはそんな風に言ってくれるんだね。あのように恐ろしい力を行使する存在は、たいてい化け物と呼ばれるはずだけれども」
「いえ、決してそんなことは……ひゃあっ!」
リヴェルは思わず、悲鳴をあげてしまった。
目の前で微笑んでいたナーニャが、唇でリヴェルの鼻に触れてきたのである。
「あはは」と笑うナーニャを見つめながら、リヴェルはぐんぐんと頬が熱くなっていくのを感じた。
「残念ながら、唇には届かなかったよ。何もそんな、ギーズの大鼠にかじられたみたいな声をあげることはないじゃないか」
「な、な、ナーニャ、いったい何を……」
「リヴェルが可愛いのがいけないんだよ。度を越した可愛らしさというのは、もはや罪だね」
ナーニャの笑顔は、悪戯小僧のそれに変じていた。
言葉を失うリヴェルの耳に、「ちょっと!」というわめき声が聞こえてくる。
「さっきから、何をこそこそやってんのさ? まさか、手足を縛られた状態で乳繰り合おうってんじゃないだろうね?」
「そうだねえ。手足が自由だったら、どんなによかったか――」
と、ナーニャが軽口を返そうとしたとき、荷車が停止した。
たちまちチチアが険しい顔になり、視線をさまよわせる。
「何だい、休みを入れるにはまだ早いよね。日だって暮れてないのにさ」
格子つきの窓からは、弱々しいながらも日の光が差し込んできていた。
すでに何回かの休憩は取っていたので、後はもう日が暮れるまで走り続けるはずである。このように中途半端な刻限に進軍を止めるのは、かつてなかったことであった。
「ま、まさか、何者かに襲われているのでしょうか?」
ナーニャの不穏な言葉を思い出しつつ、リヴェルはそう述べてみせた。
しかしナーニャは、「いや」と首を傾けている。
「そんな気配は伝わってこないね。ここが陣の中心であったとしても、襲撃を受けたのならもうちょっとは騒がしくなると思うよ」
ならば、いったい何だというのだろう。
リヴェルが不安におののいていると、ナーニャがこつんと頭を当ててきた。
「大丈夫だよ。何があっても、リヴェルの身は守ってみせるからさ」
それでもしばらくは、何の音沙汰もなかった。
やがて耳が慣れてくると、外からはざわめきの気配が伝わってくる。荷車を取り囲んだ北の民たちが、異国の言葉で会話を交わしているのだろう。
確かに、何も異変が起きた様子はない。北の民たちも、退屈しのぎに言葉を交わしているような様子であった。
もしかしたら、ただ野営の準備を早めに始めただけなのか、とリヴェルが力を抜こうとしたとき――いきなり、どしんという地鳴りが伝わってきた。
チチアは、「ひいっ」と悲鳴をあげる。
ナーニャは、けげんそうに眉をひそめていた。
「何だろうね。何か、遠くのほうで物凄く重たいものが落ちたような感じだったけれども」
「あ……もしかしたら、跳ね橋が下ろされたのかもしれません」
「跳ね橋?」
「は、はい。グワラムというのは砦でもあるのですから、城内に入るには跳ね橋を使うはずです」
リヴェルが生まれ育ったリセッドの町でも、領主の住まう城には跳ね橋が使われていたのだ。セルヴァとマヒュドラの狭間に位置するグワラムであれば、それよりも強固に守られているはずであった。
果たして、リヴェルたちを乗せた荷車も粛々と行進を再開させる。
これまでのような速歩ではなく、ゆったりとした常歩だ。リヴェルには、跳ね橋を渡るマヒュドラ軍の姿を容易く想像することができた。
「それじゃあ、ついにグワラムに到着したということだね。マヒュドラに奪われたセルヴァの領土、か……それはいったい、どのような有り様なのだろう」
そのように述べてから、ナーニャはまたずりずりとリヴェルのほうに身を寄せてきた。
その囁き声が、熱い吐息とともにリヴェルの耳へと注ぎ込まれてくる。
「ゼッドも何回かは、グワラムの攻防戦に参加しているはずなんだよね。最後に参加したのは、二年ぐらい前だという話だったかな。……あのゼッドでも取り返すことのできなかった領地に荷車で運ばれていくなんて、なんとも奇妙な話だね」
なんて呑気な感想だろう、とリヴェルはいささか呆れることになった。
そんなリヴェルに、ナーニャは無邪気な笑顔を向けてくる。
「セルヴァの貴族もそうだけど、マヒュドラの兵士たちにもゼッドの姿を見覚えている者はいないか、そっちの心配もしておかないといけないのかな。まったくもって、厄介な事態になってしまったものだねえ」
ともあれ、一行はグワラムの領内に連れ込まれてしまったのだった。
現段階で、グワラムはマヒュドラの領土である。西の民を憎む北の民の領土には、いったいどのような苦難が待ち受けているのか。リヴェルはナーニャの温かい身体に寄り添いながら、自分の神に救いを求めることしかできなかった。