プロローグ 二人の刻
2017.9/9 更新分 2/2
「やあ、ひさしぶりだね、ヴァルダヌス」
ヴァルダヌスが草むらに膝をつくなり、足もとからそんな声が聞こえてきた。
エイラの神殿に幽閉された、カノン王子の声である。半地下の寝所に住まう王子は、小さく切られた格子つきの窓からヴァルダヌスに呼びかけてきているのだった。
「おひさしぶりです、カノン王子。お元気なようで、何よりです」
「僕のほうは、何も変わりようのない日々だからね。戦場で生命を賭して戦ってきた君に心配されるいわれはないよ」
光のない闇の向こうから、くすくすという笑い声が聞こえてくる。
ヴァルダヌスは地べたに手をついて窓から室内を覗き込んでみたが、陽光の届く場所にカノン王子の姿はなかった。
「今回もたくさん武勲をあげてきたのかい? そろそろ元帥に昇格かな?」
「まさか。俺は十二獅子将の中でも一番の若輩なのですよ? 現在の立場だって、不相応に思っているぐらいなのです」
「でも、戦場に出れば一番の武勲をあげて、闘技会とやらでは第一位の勲を賜ったのだろう? そういう立派な人間こそが、人の上に立つべきなんじゃないのかな」
「剣士としての力量と、将軍としての器量というのは、必ずしも一致するわけではありません。俺などに獅子の軍を率いる元帥の役はつとまりませんよ」
「それじゃあ、剣士として一番だということは否定しないんだね。まったく、大したものだ」
意地の悪そうな王子の笑い声に、ヴァルダヌスは眉をひそめることになった。
「どうされたのですか、王子? 俺は何か、王子の機嫌を損ねることでもしでかしてしまったでしょうか?」
「そんなこと、できるわけがないじゃないか。ふた月以上も王都を離れていた君が、どうやって僕に嫌がらせをすることができるというんだい?」
「だったら、どうしてそのように意地の悪い言葉で俺をからかうのです?」
「僕の底意地が悪いのは昔からさ。こんな湿っぽくて薄暗い場所で暮らしているから、魂が腐り果てているのだろうね」
ヴァルダヌスはもう一度手をついて、暗い寝所を覗き込んだ。
「今日はどこに隠れているのです? ふた月ぶりなのですから、お顔を見せてください」
「僕はどこにも隠れちゃいないよ。その綺麗なラグールの大鷹みたいな目を凝らして、よく捜してごらん」
そうは言われても、ヴァルダヌスの大きな身体が陽光をさえぎってしまうため、寝所の中はいっそう深い闇に包まれてしまっているのだった。
ここからは、壁際に置かれた本棚の側面ぐらいまでしか見て取ることはできない。その陰にある寝台の辺りに潜んでいるのだとしたら、もう判別のつけようもなかった。
「ねえ、ヴァルダヌス、君と初めて顔をあわせてから、いったいどれぐらいの歳月が過ぎたのだろうね?」
その姿を現さないまま、カノン王子はふいにそのようなことを述べてきた。
地面に這いつくばったまま、ヴァルダヌスは「およそ五年ほどでしょう」と答えてみせる。
「五年か。それはなかなかの歳月だね。……その間に、新米の騎士だった君は百獅子長となり、千獅子長となり、ついには十二獅子将にまでのぼりつめた。いまやセルヴァで知らぬ者もいない、若き猛将ヴァルダヌス……ってところなのかな」
「……それがいったい、何だというのです?」
「いい加減に、君は君の人生を大切にするべきなんじゃないかと考えたんだよ、ヴァルダヌス。君みたいに明るい行く末を約束された人間が、忌み子の廃王子なんかに関わるべきじゃない。王宮の人間は、みんなそんな風に憂慮しているんじゃないのかな」
確かに一部の人間は、そのように考えている節があった。つい先日も、ヴァルダヌスは部下のエルヴィルにその一件で責めたてられることになったのだ。
しかし、王宮や兵士間における噂話など、カノン王子の耳にまで届くことはないはずであった。
「べつだん、そのような言葉を耳に入れる必要は感じません。俺と王子がどれだけ親交を重ねようとも、誰の迷惑にもなりはしないでしょう?」
「いや、他ならぬ君自身の迷惑になっているはずだよ、ヴァルダヌス。君との婚儀を心待ちにしている姫君だって、内心では忌々しく思っているのじゃないのかな」
「また俺をからかおうというおつもりですか。……それに、アイリア姫はそのように考える御方ではありません。王子の境遇に対しても、ひどく胸を痛められているのですから」
「ふうん。そうやって、君は僕との交流を面白おかしく触れ回っているんだね。セルヴァ随一の剣士と美しい姫君の寝物語で僕の話なんかを取り扱っていただけるなんて、まったく光栄な話さ」
「……カノン王子、本当にどうされたのですか?」
ヴァルダヌスは、いよいよ本気で心配になってきてしまった。
「俺のいないふた月の間に、何かあったのでしょうか? 何でも包み隠さずにお話しください」
「だから、話しているじゃないか。君はそろそろ僕なんかと手を切るべきじゃないかと忠告しているのだよ、ヴァルダヌス」
「だから、どうしていきなりそのようなお考えになってしまわれたのです?」
「いきなりじゃないよ。僕はずっと、そんな風に考えていた。このふた月で、その考えが固まってきただけのことさ」
感情の欠落した声音で、王子はそのように言い継いだ。
「僕は闇の中で生まれ落ち、闇の中で死んでいく忌み子だ。誰にも知られないまま、この魂をセルヴァに返すのが、僕にとっての正しい道なんだ。そんな僕に関わったって、ぬぐい難い穢れをおびてしまうだけだろう。君は最初から、僕なんかに関わるべきじゃなかったんだよ、ヴァルダヌス」
「そんな話は、納得できません。カイロス陛下だって、いつかはきっと王子を自由の身に――」
「そんなことは、ありえないんだってば。僕を自由にしたら、きっとセルヴァは滅亡する。それでもただちに僕の首を刎ねようとしないのは――僕を産んだ王妃に対する、せめてもの温情であったのかな」
王妃は、カノン王子を産み落としてすぐに、魂を返すことになってしまったのだ。
理由はわからない。忌み子を産んでしまった天罰であるだとか、我が子を奪い去られてしまった悲しみで息絶えてしまったのだとか、そんな風説しか残されていないのだった。
「どうして王子が、セルヴァを滅ぼすことになるのです? 王子は火神の呪いだとか仰っていましたが、俺にはさっぱりわけがわかりません」
「僕にだって、わからないよ。ただ、この魔術書が真実を記しているのだとしたら……僕は、呪われた火神を現し世に召喚するための依り代だということになってしまうのだよね」
カノン王子は、それこそ悪神のように不吉な含み笑いをしたようだった。
「君だって、うかつに僕に近づいたら、火神の呪いで滅びの炎に包まれてしまうかもしれないよ? だから、大人しく自分の居場所に――」
「いい加減にお姿を見せてください、カノン王子」
ヴァルダヌスは、強い口調で王子の言葉をさえぎってみせた。
「ふた月ぶりの再会だというのに、この仕打ちはあんまりです。それでもお隠れになられるおつもりなら、この格子を叩き折ってでもお顔を拝見させていただきますよ」
「……格子を壊したところで、そんな小さな窓からは誰も入れないよ」
「だったら、壁をも壊すまでです」
しばらくの沈黙の後、本棚の陰から白い姿が現れた。
灰色の粗末な夜着を纏った、カノン王子だ。
着ているものは粗末でも、その姿は魔性のように美しい。まもなく訪れる銀の月で十六の齢を数える王子は、宮殿のいかなる姫君よりも美しい容姿をしていた。
胸もとまでのびた髪は、銀細工のようにきらめく白銀色である。
肌は、つくりもののように白い。マヒュドラの民でもジャガルの民でも、ここまで透き通るような肌をした人間はいないに違いない。
そしてその目は、血涙石のごとき真紅である。
何度目にしても見慣れるこのできないその姿に、ヴァルダヌスはふた月ぶりに息を呑むことになった。
「……ありがとうございます。神殿の壁を壊さずに済みました」
内心の昂揚や喜びを押し隠しながらヴァルダヌスがそのように言いたててみせると、王子は子供のように唇をとがらせた。
「そんな真似をしたら、たとえ十二獅子将でもただではすまないよ? 僕の存在に近づくこと自体、僕の父にとっては禁忌のはずなんだからね」
「はい。おかげで首を刎ねられずに済みました」
こらえかねて、ヴァルダヌスは口もとをほころばせてしまった。
それでカノン王子は、いっそうすねた顔になってしまう。
「これだけ悪態をつかれながら、何を笑っているのさ? 君には鞭で打たれることに悦楽を見出す被虐の趣味でもあるのかい?」
「そのような知識も、書物で得たのですか? 悪い書物をお読みですね」
王子は、ひたひたと窓の下にまで歩を進めてきた。
そうして首をのけぞらして、白い咽喉もとをさらしながら、ヴァルダヌスの顔を見つめてくる。
「……満足したなら、王宮に戻りなよ。そして、二度とここには来ないことだね」
「またそれですか。どうして俺に意地悪を言うのです?」
「意地悪じゃない。僕があれだけ並べたてた言葉を、君はちっとも聞いていなかったのかい?」
王子は、癇癪を起こしたように地団駄を踏んだ。
妖艶に微笑むのも、子供のように振る舞うのも、この王子にとってはどちらも自然な姿なのである。
「君は僕なんかに近づくべきじゃないんだよ。セルヴァ随一の剣士として、王国を守る十二獅子将として、光に満ちあふれた生を送るといい。そのかたわらに、美しい姫君をはべらせてさ」
「……まさかとは思いますが、その、アイリア姫のせいで気分を害されているわけではありませんよね?」
「どうして僕が、顔も知らない姫君なんかに気分を害されなきゃいけないんだよ! 君がどこの姫君と乳繰り合おうと、僕には関係ない話さ! 好きなだけ、可愛い赤児をこしらえればいいじゃないか!」
薄闇の中で、王子の瞳が赤く燃えさかった。
だけどやっぱり、その顔には怒った幼子のような表情が浮かべられている。
「そうして君は光の中で生きていき、僕は闇の中で死んでいく。おたがいに顔をあわさないのが幸福ってもんだろう? 僕は君の婚儀に祝いの花束を届けることもできない身の上なんだからさ!」
「……王子は、俺の存在が疎ましくなってしまわれたのですか?」
ヴァルダヌスは、胸の中に引きつるような痛みを覚えた。
「自由に外界を歩き回る俺と親交を結ぶことが、王子にとっては苦痛に感じられてしまうのでしょうか? だったら、俺は――」
「だったら、何さ?」
「王子に苦痛を与えてしまわないよう、最大限に取りはからいます。ですから、どうか俺の存在をお拒みにならないでください」
王子は、華奢な肩をがっくりと落としてしまった。
「あのねえ、ヴァルダヌス……どうして君のように恵まれた生を歩んでいる人間が、僕なんかに執着するんだい?」
「人が人を慕うのに、理由など必要なのでしょうか?」
「立場のある人間が忌み子なんかを慕う理由はないって言ってるんだよ」
「立場など、関係ありません。王子は、俺が十二獅子将だから親交を結んでおられたのですか?」
「……揚げ足取りは、もうたくさんだよ」
王子はうつむいたまま、上目遣いにヴァルダヌスを見上げてきた。
のばし放題の前髪によって、その秀麗な面は半ば隠されてしまっている。しかしそれは、白銀の光に包まれた神像のように美しくもあった。
「……ナーニャが死んだのは、いつだったかな」
と、王子がふいにそのようなことを言いだした。
不審に思いつつ、ヴァルダヌスは過去の記憶を掘り起こす。
「あれはたしか……俺と王子が出会って、半年ほど経った頃でしょうか」
「それじゃあ、ゼッドは?」
「ゼッドが魂を返したのは、二年前の黒の月です」
小鳥のナーニャは、この宮殿を取り囲む鉄柵の近くに亡骸が落ちていた。あの鉄柵の天辺には侵入者を退けるために毒の罠が仕掛けられており、うっかりそれに触れてしまったのだ。
猟犬のゼッドは、老衰であった。ヴァルダヌスと同じぐらいの時間を生きていたのだから、長く生きたほうだろう。
「ナーニャもゼッドも、僕を置いて死んでしまった。こんな暗がりに閉じ込められたまま、他者の死を見守るしかないというのは、君が思っている以上に不愉快なものなんだよ、ヴァルダヌス」
カノン王子が、感情のない声で言い捨てる。
しかし、銀色の髪から透けるその瞳には、何かしらの激情がくるめいているようだった。
「そして、君が戦場で死んでしまったら、それを僕に伝えてくれる者はいない。この二ヶ月間、僕は毎日、君の死を味わわされていたんだよ、ヴァルダヌス」
「カノン王子、それは……」
「君の存在が苦痛なわけじゃない。でも、僕に苦痛を与えるのは、君の存在だ。君と出会ったりしていなければ、僕はこんな苦痛を知らずに済んだ」
「……だけどそれが人間というものなのです、カノン王子」
ヴァルダヌスは格子をつかみ、懸命に王子へと呼びかけた。
「他者と繋がっていなければ、人間は人間たりえません。そこからもたらされる喜びと苦痛が、人間にとっての生なのだと思います」
「喜びだけでいいじゃないか。苦痛なんていらないよ」
「それでは、都合がよすぎます。苦痛を対価として、人は喜びを得るのです」
ヴァルダヌスは、真情を込めて微笑んでみせた。
「俺もこのふた月は、王子の身が心配でなりませんでした。だけど、その苦痛に耐えたからこそ、こうして再会できた喜びにひたれるわけです。空腹をこらえたほうが食事を美味に感じるのと同じことですよ」
「……ひどいたとえだね。君は詩人にはなれないよ、ヴァルダヌス」
「そのように柔弱なものを目指すつもりは、最初からありません」
カノン王子は唇を噛みながら、ヴァルダヌスのほうに腕をのばしてきた。
めいっぱいに腕をのばして、背伸びまですると、ようやくその指先が窓まで届く。王子は、あまり背が高くないのだ。
格子をつかんだヴァルダヌスの指先に、王子の白い指先が触れる。
王子の指は、誰よりも強い温もりを有していた。
「ヴァルダヌス、お願いだから、僕より先に死なないでほしい」
「俺もなるべく長く生きたいとは願っていますが……でも、俺は王子より五歳も年長なのですよ?」
「僕なんて早死にするに決まってるんだから、普通にしていればヴァルダヌスのほうが長生きするはずさ」
「それでも、約束はいたしかねます。俺だって、王子の死を見届けたりするのは、この上ない苦痛なのですから」
「何だい、苦痛あってこその喜びだとか言ったくせに」
そのように述べながら、カノン王子は子供のように微笑んだ。
それは、ヴァルダヌスが一番好ましく思っている、王子の無邪気な笑顔であった。
国王カイロスが、廃王子カノンとの面談を所望している――そんな報がヴァルダヌスのもとに届けられたのは、それから三月後の赤の月のことだった。