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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第三章 紡がれる運命
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Ⅰ-Ⅴ 氷雪の巨人

2017.7/29 更新分 1/1

「おそらくは、森の中に潜んでいたんだろうね。あれが僕の感じていた瘴気の正体だ」


 ナーニャの笑いを含んだ声が響く。

 こんな際でも、ナーニャはまだ笑っていたのだ。

 その間にも、その氷雪の巨人はじりじりとこちらに近づいてきていた。


 身の丈がタウロ=ヨシュの倍ほどもある、文字通りの巨人である。

 その巨大な頭は、周囲の家屋の屋根よりも高い位置にある。

 しかもその巨人は、地面を這いずるようにして前進しているのだ。もしもあれが人間のように後ろ足で立ち上がったら、どれほどの高みにまで届くのか、そんなことは想像したくもなかった。


 異形の、恐ろしい怪物である。

 その全身は、さきほどまでの魔物たちと同じように、白い氷雪で覆われている。まるで、ちょっとした小山が生命を吹き込まれて動きだしたかのような有り様であった。


 その岩塊のような顔には、目らしきものと口らしきものしか見当たらない。

 しかもその目は青く光る鬼火そのものであり、口は、ムントのように大きく横に裂けていた。


 地面に下ろされた両腕は、その一本ずつが人間の胴体よりも太い。その図太い樹木の幹みたいな腕で地面をかき、ずりっずりっとリヴェルたちのほうに這い寄ってきているのだ。


 いったいこれがどういう魔物なのか、リヴェルにはさっぱり見当もつかなかった。

 ひょっとしたら、リヴェルの知らない巨大な獣が森の中に棲息していて、それがこの集落の住人たちみたいに氷漬けにされて憑依されたのか、とも思えたが――その半透明の白い氷雪の奥には、ぼんやりとした黒い影しか確認することはかなわなかったのだった。


 巨大な漆黒の影が、氷雪の甲冑を纏って、このような姿をさらしている。リヴェルには、そうとしか考えられなかった。

 そうすると、やっぱりこれは蛇神ケットゥアと根を同じくする邪神の類いだとしか思えなかった。


「な、何をのんびり待ちかまえているのさ! とっととあんたの魔法とやらで何とかしてよ!」


 リヴェルの腕をつかんだまま、チチアが金切り声をあげた。

 迫り来る巨人の姿を見つめながら、ナーニャはまだ微笑んでいる。


「だけどさ、ご覧の通り、あいつは全身に氷雪を纏っているだろう? 今の炎だけで焼きつくせるかどうか、はなはだ心もとないのだよね」


「でも、黙って突っ立ってたら、踏み潰されるだけじゃんか!」


「いや、手持ちの炎が大きければ大きいほど、僕の魔法も強くなるんだ。だから、せめてこの家が屋根まで燃えあがるぐらいまで、時間を稼ぎたいところなんだよね」


 ナーニャたちが火をつけた長老の家は、窓や壁の穴から黒煙を吐き出しているばかりで、焼け崩れるまでには至っていなかった。

 魔物たちを焼き尽くした炎も、今では動かぬ屍のもとでぶすぶすとくすぶっているばかりである。


「そういうわけで、ゼッド、タウロ=ヨシュ、多少なりともあの魔物の動きを止められないものかな? 火が大きくなる前にこの建物が潰されてしまったら、もうあらがうすべはなくなってしまうと思うのだよね」


 ゼッドは無言のまま、足を踏み出した。

 その姿に、チチアがまた悲鳴をあげる。


「あんな化物に、刀で何ができるってのさ!? 殺されに行くようなもんだよ!」


「しかし、せをむけてにげだすこともできまい」


 タウロ=ヨシュもまた、斧を手に足を踏み出した。


「あのかいぶつが、おれのどうほうのかたきだというのなら……なんとしてでも、このばでいきのねをとめてやる」


 ゼッドがタウロ=ヨシュを振り返り、左手で自分を指さしてから、それを魔物の左側に向けた。


「……わかった。おれはみぎがわからむかおう」


 二つの大きな人影が、それぞれ巨人の左右へと散っていく。

 巨人は広場を突っ切って、リヴェルたちのほうに近づいてこようとしていた。放っておけば、もう十を数える内にここまで到達してしまっていただろう。


 巨人の左側に回り込んだタウロ=ヨシュが、斧を振り上げて怒号をあげた。

 しかし巨人は、何も気づいていないかのように前進を続けている。

 そうと見て、タウロ=ヨシュは巨人に斬りかかった。

 巨人の腕が地面におろされる瞬間を見計らって、その手首のあたりに斧を叩きつける。


 硬質の音色が、薄闇の中に響き渡った。

 巨人が前進するのをやめて、鬼火の双眸でタウロ=ヨシュの側に向きなおった。


 それと同時に、今度は逆側からゼッドが斬りかかる。

 大上段から振り下ろされたゼッドの長剣は、巨人の肘のあたりを叩いた。

 砕かれた氷雪が、きらきらと舞い上がる。

 だが、それで巨人が痛痒を覚えた様子はなかった。


 人間の胴体ほどもある巨人の右腕が、のろのろと持ち上げられる。

 タウロ=ヨシュは、後方に飛びすさった。

 次の瞬間、タウロ=ヨシュが寸前まで立っていた場所に、巨人の拳が思わぬ速度で振りおろされた。


 指のない岩塊のごとき拳がしたたかに地面を殴りつけ、リヴェルたちの足もとまで揺れた気がした。

 たまらず、チチアが悲鳴をあげる。


「あいつ、さっきの連中よりよっぽど素早く動けるじゃん! あんなの、絶対にかなわないよ!」


「……大丈夫だよ。あとほんのちょっとで、こちらの準備は整うから」


 ナーニャの声は、いまだに冷静さを失っていない。

 その声に導かれるようにして、リヴェルは背後の建物を振り仰いだ。

 板を張られた屋根の隙間から、黒い煙があがり始めている。真紅の炎がそこから噴きあがるのも時間の問題であるようだった。


 しかし、それとは別に、リヴェルはナーニャの身が心配になっていた。

 ナーニャはさきほどから、ずっとその身に禍々しい紋様を浮かびあがらせているのである。その赤い瞳は炎そのもののように燃えあがり、これだけ離れていても、その身体からは尋常ならざる熱気が伝わってくる。


「ナ、ナーニャ、炎の準備ができるまで、身体を休めることはできないのですか?」


 リヴェルが思わず声をあげると、ナーニャは笑顔でこちらを振り返ってきた。


「大きな術を使うには、僕自身にもそれ相応の準備が必要になるんだよ。炎が燃えあがるのを待つのと同時に、僕もこの内の魔力を燃えさからせておく必要があるのさ」


「だけど、この前だって、ナーニャはあれほど弱り果てることになってしまいましたし……」


 蛇神ケットゥアを退けた後、ナーニャは一晩中、高熱でうなされることになってしまったのだ。

 ナーニャはそのとき、「火神に魂の端っこをかじられてしまっただけ」と述べていた。リヴェルには、それが軽口や比喩ではなく、ナーニャが己の生命を代償にして魔法を行使しているように感じられてしまったのだった。


「何も心配する必要はないよ。僕たちが生き抜くためには、何としてでもあの魔物を討ち倒さなければならないからね」


 自分自身が魔物であるかのように妖しく微笑みながら、ナーニャがまた巨人たちのほうに目を向ける。

 それと同時に、巨人の拳がタウロ=ヨシュの胴体をなぎ払った。


 その手から斧が離れて、タウロ=ヨシュは凍てついた家屋の壁に叩きつけられる。

 斧は地面に落ち、タウロ=ヨシュは動かなくなった。


「タウロ=ヨシュ!」


 今度は逆側の腕が、ゼッドに振り下ろされる。

 ゼッドは後方に跳躍しながら、長剣を一閃させた。

 鉄で岩を殴るような音色が響き、巨人の腕の先が砕け散る。

 人間で言えば、巨人の左腕の手首から先が粉々になっていた。

 恐ろしいばかりの、ゼッドの剣技である。


 しかし、その代償は大きかった。

 ゼッドの長剣もまた、真ん中でぽきりと折れてしまっていたのだ。


 巨人は天を仰ぎ、声なき絶叫を振り絞ったようだった。

 何も聞こえないのに、びりびりと空気が震えている。遠くのほうで、たくさんの鳥たちが梢を揺らして逃げていった気配がした。


 その間に、ゼッドは折れた長剣を打ち捨てて、地面に転がっていたタウロ=ヨシュの斧に飛びついた。

 地上に向きなおった巨人が、鬼火の双眸でゼッドをにらみすえる。

 ゼッドは斧をかまえながら、それと相対した。


「駄目だ! 逃げろ、ゼッド!」


 ふいに、ナーニャが鋭い声をあげた。

 それはナーニャらしからぬ、切迫した声音であった。


 ゼッドは、巨人が腕をのばしても届かない位置に立ちはだかっている。

 それでもゼッドはナーニャに従い、横っ飛びに逃げようとした。


 そのとき、信じ難いことが起きた。

 大きく裂けた巨人の口から、氷雪まじりの竜巻が生み出されたのだ。

 跳躍の途上であったゼッドは、右足を竜巻にからめ取られると、暴風に吹きあげられた小枝のような勢いで天空に弾かれて、そのまま肩から墜落することになった。


「ゼッド! ああ、ゼッド!」


 無意識の内に、リヴェルはそちらに駆け寄ろうとしてしまった。

 それをチチアに、背後から羽交い絞めにされる。


「馬鹿、行くなってば! あんたが行ったってどうにもならないだろ!?」


「でも、ゼッドが……!」


 ゼッドは地面に手をついて、何とか立ち上がろうとしていた。

 その鼻先に、巨人がずりずりと這い寄っていく。


 斧は、どこかに飛んでしまっていた。

 そしてゼッドは何とか膝立ちの体勢を取ったものの、それ以上は動けずにいる。

 巨人は青い双眸を明滅させながら、再び巨大な口を開いた。


「……よくも、僕のゼッドを傷つけてくれたね」


 感情の欠落したナーニャの声が、低く響いた。

 それと同時に、背後の家屋が倒壊した。

 ついに炎が、家屋を内側から焼き滅ぼしたのだ。


 瞬間、世界は真紅と黄金に染めあげられた。

 巨大な炎が渦を巻き、天も焦がさんばかりに噴きあがる。

 ナーニャが地を蹴り、ゼッドたちのほうに突進した。


「こっちを見ろ! お前の敵は、僕だ! そして、僕の敵は、お前だ!」


 ゼッドにとどめをさそうとしていた巨人が、いぶかしそうにナーニャを見た気がした。

 その瞬間、背後の炎が竜と化し、紅蓮の竜巻となって氷雪の巨人へと襲いかかった。


 また声もなき絶叫が空気を震わせる。

 その足もとで、ナーニャがゼッドに飛びついていた。

 まだ膝立ちの体勢であったゼッドの頭を、ナーニャがぎゅうっと抱え込む。

 炎の竜は、そんな二人の身体を避ける格好で、次から次へと巨人の巨体をからめ取っていった。


「ちょ、ちょっと、あたしらも逃げないと!」


 リヴェルとチチアは、燃える家屋と巨人の間に陣取っていたのだ。炎は二人の頭上を走り抜けていたが、何かの間違いが起きればリヴェルたちをも灰にしてしまいそうであった。


 それでもナーニャたちのほうには近づくこともできなかったので、リヴェルとチチアは左手側の家屋に近づくことにした。そこでは、壁に叩きつけられたタウロ=ヨシュが昏倒していたのだ。


「うひゃあ、ひどい騒ぎだね! 軍隊だの盗賊だのに町ごと焼き討ちにされてる気分だよ」


 タウロ=ヨシュのかたわらに屈みこんだチチアが、震える声でそのようにつぶやいた。


 燃えた家屋から幾筋もの炎が渦を巻き、離れた場所にいる巨人へと襲いかかっている。それは、この世にありうべからざる光景であった。

 そして、もがき苦しむ巨人の足もとには、ゼッドを抱きすくめたナーニャの姿がある。

 炎は彼らを避けていたが、その姿もまた真紅と黄金に照らし出されて、まるで死を待つ殉教者のように見えてしまった。


(もしかして――)


 もしかして、数ヶ月前にはセルヴァの王都で、これと似たような光景が現出していたのだろうか。

 燃え落ちる宮殿の中で、ゼッドを抱きすくめるナーニャ。その炎は、彼らの父であり君主であったセルヴァの王をも焼き滅ぼし、大勢の人間の運命を狂わせた。そうして彼らは、西の王国に自らの居場所を失ってしまったのだった。


(だけどそれは、やっぱり誰かがナーニャたちをひどい目にあわせようとしたんだ。そうじゃなきゃ、ナーニャがこんな恐ろしいことをするはずがない……絶対に)


 気づくと、リヴェルは涙をこぼしてしまっていた。

 何に対しての涙なのかは、自分でもわからない。ただ、炎の中で抱き合う二人の姿を見つめているだけで、リヴェルはたとえようもない悲しみの淵に突き落とされてしまったのだった。


 そのとき、チチアが「うわ……」と奇妙な声をあげた。

 巨人の纏っていた氷雪の甲冑が、ついにすべて剥ぎ取られたのだ。

 その下から現れたのは、やはり巨大な黒い影に過ぎなかった。

 人間と似て異なる巨大な黒影が、青い双眸を弱々しく瞬かせながら、苦悶に身をよじっている。あの蛇神ケットゥアと同じように、巨人もナーニャの炎で浄化されていった。


 やがて、永遠とも思える時間の果てに、巨大な黒影は完全に消え失せた。

 それで役割を終えた炎の竜も、すみやかに消えていく。残されたのは、家屋のほうでわずかにくすぶる黒煙と、悪夢のような静寂ばかりであった。


 その黒煙をかき分けて、大きな人影がリヴェルたちのほうに近づいてくる。

 それは、ナーニャを抱えたゼッドであった。


 ナーニャは、意識を失ってしまっている。

 そしてゼッドは、額から血を流していた。地面に落ちたときに負傷してしまったのだろう。それはおびただしいほどの流血であった。


「ようやく終わったね! もう、さんざんだよ!」


 壁にもたれてへたりこんだチチアが、内心の怯懦をねじふせるようにして大きな声をあげた。


「それで、今夜はどうするの? もう太陽もほとんど沈んじゃったじゃん! この屍だらけの凍りついた集落で夜を明かすわけ?」


 ゼッドは無言のまま、ナーニャの身体を地面に下ろした。

 ナーニャの白皙から、禍々しい紋様は消えている。

 その赤い瞳はまぶたに隠され、ナーニャは早くも苦しげな息をもらし始めていた。


「あたしらは、か弱い普通の人間なんだからさ! 行く先々でこんな目にあってたら、身がもたないよ! 食料だって、もうほとんど残ってないんだし――何さ?」


 ゼッドが、立てた指を自分の口もとに押し当てていた。

 その瞳には、まだ鋭い猛禽のような光が宿ったままである。


「や、やめてよね。まさか、まだ何か残ってるわけじゃないだろうね? あんただって、刀を折られちゃったんだし――」


 チチアが黙らないので、けっきょくゼッドはその大きな手で彼女の口をふさぐことになった。

 しかしそれも、徒労であった。

 北の側から、何やら喧騒の気配が近づいてきていたのである。


「あ、あれは……?」


 思わずリヴェルも、声をあげてしまう。

 だいぶん濃くなってきた闇の中に、赤い火がいくつも灯っていた。

 たくさんの松明を掲げた一団が、ゆっくりとこちらに近づいてきていたのだ。


 ゼッドは、地面におろしたナーニャの身体を、再びすくいあげた。

 しかし、それ以上は動こうとしない。その額から流れる血は、いつしか彼の精悍な顔を真っ赤に染めてしまっていた。


「お、おいこら、起きろよ! あんたが寝てたら、逃げらんないだろ!」


 チチアが真っ青になりながら、タウロ=ヨシュの頬を叩いていた。

 獣のようにうなりながら、タウロ=ヨシュに目覚める気配はない。

 そうして、リヴェルたちはなすすべもなくその一団に取り囲まれることになった。


「******? ******!」


 底ごもる声が、響き渡る。

 それは、ときおりタウロ=ヨシュが発するのと同じ言葉であった。


 松明の火に照らし出されるのは、いずれも魁偉な大男たちの姿だ。

 金褐色の渦を巻く髪に、紫色に光る瞳、わずかに赤く焼けた白い肌――そして全員が、武骨な鎧を身に纏っている。


 それは、北の王国マヒュドラの軍勢に他ならなかった。

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