Ⅴ-Ⅳ 歪み
2017.7/22 更新分 1/1
「今日のところも、宰相とかいうじーさまに呼び出されて、おんなじような質問を繰り返されただけだね。その他には、とりたてて変わったことも起きなかったよ」
薄暗がりの中でメナ=ファムがそう報告すると、ラギスは硝子の酒杯を揺らしながら「そうか」とうなずいた。
メナ=ファムたちがこのオータムの都を訪れてから、十日目――そして、メナ=ファムがラギスから間諜という仕事を託されてから、五日目のことである。
メナ=ファムは、立派な長椅子にだらしなく寝そべったラギスの姿を眺めながら、ひとつ溜息をついてみせた。
「ねえ、この間諜とかいう仕事に意味はあるのかい? あんたがどういう話を期待しているのかは知らないけど、こっちはあくびが止まらないぐらい代わり映えのない毎日なんだ。こんな話、聞いてたって何も面白くないだろう?」
「ふん。たった五日で、お前の忍耐は尽きてしまったということか?」
「忍耐が必要な仕事でもないだろ。毎晩こうやって、あんたの寝所に引っ張り出されるだけのことなんだからさ。ただ、あんたのほうは面白くも何ともないだろって言ってんのさ」
するとラギスは、燭台の光に酒杯を透かしながら、口もとをねじ曲げた。
「べつだん、面白さを求めてこのような真似をしているわけではない。まあ、お前がその身を使って俺の退屈さをまぎらわしてくれるというのなら、喜んでお相手をしてやろう」
「どうしてあたしがあんたの退屈しのぎのために身体をまかせなくちゃならないんだい。そんな台詞は、一人で大鰐を退治してからほざきな」
「ほう、お前の集落では、鰐を仕留めなければ女を抱くことも許されないのか?」
「当たり前だろ。狩人としての仕事を果たせない男に嫁を取ることなんて許されるはずがないじゃないか。狩人の一族に、弱い血はいらないんだよ」
「ふん。血筋を重んじるのは貴族も蛮族も一緒か」
そのように述べてから、ラギスは光の強い眼差しをようやくメナ=ファムのほうに向けてきた。
「まあ、退屈だなどとほざいていられるのも、今の内だ。あのエルヴィルという男の素性が確かめられた暁には、すぐにでも戦の準備が始められるのだからな。そうすれば、お前にもぞんぶんに間諜として働いてもらうことになるだろう」
「ふん? なんべんも言ってるけど、王子殿下の不利になるような真似はできないからね?」
「俺も最初に言ったはずだ。王子の身を可愛いと思うならば、俺に従うのが一番の良策だとな」
ラギスは身を起こして、飲みかけの酒杯を卓に置いた。
その目は、いよいよ黒い火のように燃えあがっている。
「俺が一番に知りたいのは、大公閣下がどの姫君をカノン王子にあてがおうと考えているかだ。それが知れるまで、俺も迂闊に動くことはできんからな」
ゼラドの支配者であるベアルズ大公は、カノン王子にセルヴァの王位を与えようとしている――それが、ラギスの考えであった。
そして、新たな王となったカノンに自分の血族を娶らせることによって、大公家の血筋を王家の血筋に割り込ませる。しかるのちに、邪魔なカノンを暗殺してしまえば、その壮大なる計略も完了する、という手管だ。
「でも、大公閣下とやらには息子しかいないんだろ? ってことは、それほど血の濃くない相手しか準備することはできないわけだよね」
「だからこそ、だ。大公閣下がセルヴァ王妃の座を誰に与えようと考えているか。それを知ることで、大公閣下が誰を重んじているかを知ることができる。よほどの信頼を置いていない限り、そのような大役をまかせることはかなわぬだろうからな」
「で、あんたはその誰かさんに取り入ろうって考えてるのかい? そいつはずいぶん、ご苦労な話だね」
ラギスはいっそう口もとをねじ曲げながら、メナ=ファムのほうに顔を寄せてきた。
「俺のように下賤の人間が王宮内で生き残るには、よほど賢く立ち回らなければとうてい立ち行かんのだ。俺よりも下賤な自由開拓民などには理解できまいな」
「そんな話、理解したくもないね。あんただって、ちっとも楽しそうに見えないしさ」
「……何だと?」
「あんたは大公閣下のご落胤でありながら、母親が平民であったばかりに苦労させられてるってんだろ? そんなあんたがどうしてこんな息苦しい場所に執着しているのか、あたしにはそいつがさっぱりわからないんだよ」
ラギスは「ふっ」と、笑い声とも溜息ともつかない息をもらすと、身体を引いて長椅子の背もたれにもたれかかった。
「それこそ、お前にはわかるまい。自分よりも無能なものどもが、ただ血筋の正しさだけで次期の大公と褒めそやされて、この世の悦楽をしゃぶりつくしている。それを横から眺めているしかない人間の鬱屈など……お前などに、わかるはずがない」
「わからないね。あたしだったら、そんな場所にはとっとと見切りをつけて、新しい居場所を探していただろうと思うよ」
「それはお前が、根っから下賤の生まれであるからだ。俺のように、半分だけ高貴な血筋という人間こそが、この世でもっとも救い難いのだろうさ」
ラギスは手をのばして、酒杯に残っていた果実酒を一息に飲みくだした。
その姿を眺めながら、メナ=ファムはまた溜息をつく。
「あんたってさ、あたしが怒らせてやろうと思ったときには、ちっとも怒らないんだね。やりにくいったらありゃしないよ」
「ふん。お前は俺を怒らせようとしていたのか? そんな真似をして、お前に何の得がある?」
「そりゃあ、あんたがどういう人間であるのかを見極めたいんだよ。怒れば、色々と本性が透けて見えるだろうからさ」
するとラギスは珍しくも、声をあげて笑い始めた。
「それを俺に打ち明けてどうする。つくづく浅はかな女だな」
「浅はかでけっこうさ。腹の探り合いなんて、まっぴらなんでね」
メナ=ファムは足を組み、おもいきり横柄な姿勢を取ってラギスの笑顔をにらみつけてみせた。
「ところでさ、あたしは何のためにあんたに協力してやってるんだろうね?」
「うん? 今度は何を言いだすつもりだ?」
「だって、ここの連中は最終的に王子殿下を亡きものにしようと企んでるっていうんだろう? で、あんたもそいつに肩入れして、甘い汁を吸おうとしてるだけじゃないか。だったら、あんたにだけ力を貸す理由はひとつもないように思えちまうんだよね」
「ふん。それでも俺がいなければ、お前は大公閣下の企みを知ることもできなかったのだ。報酬としては、十分だろうが?」
「いーや、足りないね。というか、このままだったら、あたしだって真面目に間諜だとかいう仕事を果たす気持ちにもなれないだろ。何があっても知らんぷりして、あんたには適当な話だけを報告してりゃ、それで済む話なんだからさ」
ラギスはうろんげに眉をひそめた。
「それで? けっきょくお前は、何が言いたいのだ?」
「だから、あんただったらもう一手、何か考えがあるんじゃないのかと思ったのさ。あたしがきちんと仕事を果たしたくなるようなご褒美を、何かしら準備してるんだろう? 準備してないなら、それまでの話だけどさ」
するとラギスは横を向き、くっくっと声を殺して笑い始めた。
それは、さきほど声をあげて笑っていたときよりも愉快げに見える仕草であった。
「本当にお前は、腹の探り合いをする気がないのだな。それでいて、妙に目端はきくようだし……本当におかしな女だ」
「楽しそうで何よりだね。それで、何かご褒美の準備はあるのかい?」
「……まあよかろう。俺とて、お前という人間の本性を探る必要があったのだ。それがこの夜にかなったということにしておいてやろう」
そんな前置きをしてから、ラギスは不敵な眼差しをメナ=ファムに向けてきた。
「俺の条件は、こうだ。もしもお前が俺の間諜として働くならば、俺が大公閣下の野望を阻止してやる」
「何だって? それは……王都との戦いを取りやめさせる、という意味かい?」
「いいや、違うな。戦がなければ、俺は何の手柄をあげることもできん。王都アルグラッドへの侵攻という大きな戦は、俺にとっても必要なのだ。……ただし、カノン王子に玉座を与えるという大公閣下の企みは、何としてでも俺が食い止めてやる」
メナ=ファムには、ますます意味がわからなかった。
そんなメナ=ファムの当惑を楽しんでいるかのように、ラギスは唇を吊り上げている。
「アルグラッドの連中は、思うぞんぶん痛めつけてやろう。ただし、最後に敗れるのは、ゼラド大公国だ。カノン王子が、ゼラドの力で玉座を授かることはない。俺がそのように、仕向けてみせる」
「よくわからないね。そんなことをして、あんたにどういう得があるってんだい?」
「損得の話をするならば、ゼラドが王都を征服したところで、俺には何の得もないのだ。得をするのは、大公閣下とその腹心だけなのだからな。それでは、俺の武勲も霞んでしまうではないか?」
ラギスの目に、まためらめらと暗い炎が宿り始める。
怨嗟に満ちみちた、復讐者の眼光だ。
「あやつらだけに、いい目を見させてなるものか。だから俺は、王都の連中を相手に勝って勝って勝ちまくって、確かな武勲をあげてから、他のやつに失敗をさせて、勝っていたはずの戦を最後で台無しにしてくれよう。そうすれば、大公閣下の怒りはその失敗した人間に向けられて、そのぶん俺が上に這い上がれるということだ」
「……そんな無茶な真似ができるのかい? だいたい、それじゃあ王子殿下はどうなっちまうのさ?」
「自分の運命は自分で切り開くがいい。ただ、俺としては戦の後、カノン王子をゼラドに連れ帰る気はない。それでは、またぞろ大公閣下が野心の炎を燃やしてしまうからな。兵を失い、戦火に焼かれた王都の宮殿で、お前たちはぞんぶんに自分たちの復讐心を満たすがいいさ。ゼラドの軍が退いた後に、お前たちが王位を簒奪しようとすまいと、俺の損得に関わりはないからな」
ラギスの双眸は、黒炭の内で燃える熾火さながらであった。
メナ=ファムは、悲しみにも似た感情を抱きながら、低くつぶやく。
「ラギス、あんたは……そこまで父親のことが憎いんだね。自分の父親が栄華を手にすることが、あんたには我慢ならないんだね」
「ああ、そうだ。しかし、武勲をあげなければ俺の行く末も閉ざされてしまう。俺が心健やかに生きていくには、ゼラドの中で俺だけが勝ち続けて、他の連中に負けてもらう他ないのだ」
ラギスは空になった酒杯を壁に叩きつけた。
「どうだ、俺とお前たちは、それなりに利害が一致しているだろう? 俺の策に従えば、少なくともお前の大事なカノン王子がゼラドに殺されることはない。おまけに、憎き王都の軍勢を瀕死寸前のところまで痛めつけてやろうというのだから、実に親切な申し出ではないか」
「……エルヴィルだったら、そんな風に考えるかもしれないね。あんたたちは、どこかに似ているところがあるように思ってたんだけど……復讐心にとらわれてるってところが、そっくりだったんだ」
「そうか。ならば時期を見て、あの千獅子長めにも俺の申し出を伝えてやるがいい。ただし、あいつの素性が確かめられて、戦の準備が始められてからな」
メナ=ファムは、復讐心にまみれたラギスの眼光から目をそらし、息をついた。
「了解したよ。それじゃあ、そろそろ王子殿下のもとに帰らせてもらおうかね。もう見張りの連中にあやしまれないぐらいの時間は経ってるだろ?」
「ああ、そうだな」と応じつつ、ラギスがぐいっと顔を寄せてくる。
「しかしな、こんな夜は、なかなかに厄介だ」
「うん? 何の話だい?」
「こんな風に血がたぎっては、女でも抱かねばなかなか眠れそうにない。しかし、俺はお前に夜伽を申しつけているという体裁を守らねばならんので、手頃な官女を寝床に引き込むこともできんのだ。これは、なかなかの苦労なのだぞ」
「知らないよ。酒でもかっくらって寝ちまいな」
メナ=ファムは手の甲で、ラギスの顔を押しのけてみせた。
ラギスはこらえかねたように笑い声をもらしている。
「五日も顔をあわせていると、お前のような蛮族でも女に見えてきてしまうから、なお厄介だ。……それでは、俺の姫君を寝所までお送りいたすとするか」
二人は立ち上がり、連れ立って客間の出口に向かった。
その扉を開ける寸前に、ラギスがメナ=ファムの腰に手を回してくる。
気色悪いことこの上なかったが、これも王城の連中に疑われないための大事な芝居なのだった。
ラギスの部屋の前に見張りはいないので、そのまま回廊に出て、シルファたちの待つ寝所に向かう。
この夜は、誰ともすれ違うこともなかった。
ただし、寝所の前には槍をかまえた兵士たちが陣取っているので、その者たちにはこの馬鹿げた芝居を見せつける必要があった。
「もう到着してしまったな。それでは、ゆっくりと眠るがいい」
最後にそのように囁きかけてから、ラギスはメナ=ファムの咽喉もとに唇で触れてきた。
兵士たちは彫像のように無表情のまま、扉を引き開ける。
ラギスはこれ見よがしにメナ=ファムの尻を撫でると、そこで立ち去っていった。
次の間では小姓が寝ずの番をしているので、今度はそれに扉を開けてもらって、ようやく自分の居場所に帰りつく。
(ああ、馬鹿馬鹿しい)
メナ=ファムはラギスの唇が触れた場所をぬぐい、尻のあたりも何度かはたいてから、寝所に向かった。
無人の客間にもメナ=ファムのために燭台が灯されていたので、それを吹き消してから、寝所の扉を開ける。
メナ=ファムには、窓からの月明かりだけで十分であった。
寝所には二つの寝台が置かれており、両方ともに誰かが横たわっている。四日前から同じ部屋で過ごすことになったラムルエルは隣の寝所で眠っているので、それはシルファとエルヴィルであるはずだった。
メナ=ファムは衣服を脱ぎ捨てて、胸あてと下帯だけの姿になってから、右側の寝台に潜り込んだ。
すると、毛布の下で横たわっていた小さな人影が、銀灰色の髪を揺らしながら、メナ=ファムを見上げてきた。
「あれ、起こしちまったのかい? 気配は殺してたつもりなんだけどね」
「いえ。ずっと起きていました」
伝声管の存在を危ぶんで、シルファは小声で囁きかけてきた。
その隣に身を横たえつつ、メナ=ファムはシルファの耳に口を寄せる。
「あたしなんかを待つ必要はないって言っただろ? ほら、さっさと寝ちまいな」
「でも……」
月明かりの下で、シルファの目に涙が浮かんでいるような気がした。
この暗さでは、その不思議な色合いを楽しむすべもない。
「大丈夫だっての。あたしがあんな男に身を許すと思うかい? シャーリの女は、身持ちが固いんだよ」
しかしこの王城内では、すでにメナ=ファムがラギスの情婦に成り下がったのだという噂が蔓延している。メナ=ファムがいくら大丈夫だと言い張っても、シルファはなかなか信用してくれなかったのだった。
「さ、あたしも眠いんだから、寝かしておくれ。夜が明けたら、好きなだけおしゃべりできるんだからさ」
メナ=ファムはシルファの小さな頭を胸もとに抱え込んで、まぶたを閉ざした。
毎日浴堂を使わされているので、その髪からは香草の心地好い香りがする。その香りを楽しみながら眠るというのは、なかなか悪いものではなかった。
(こんな呑気にしていられるのも、あと少しなんだろう。西の王国の神様は、いったいあんたにどんな運命を押しつけようってつもりなんだろうね)
最後にそんな想念を思い浮かべながら、メナ=ファムは睡魔に身をゆだねた。
エルヴィルの素性が確かなものである、という報告が王都の間諜からもたらされたのは、その翌日のことであった。