Ⅰ-Ⅳ 氷雪の悪夢
2017.6/24 更新分 1/1
リヴェルは、生きたまま地獄に落とされたような心地であった。
かつて人間であった存在が、魔物と化して襲いかかってくる。そのような状態は、地獄と称してもまだ足りないほどであった。
数日前には、蛇神に魂を奪われた巫女たちも、同じような有り様に成り果てていた。しかし、ナーニャの言う通り、彼女たちは自らの意志で蛇神に魂を捧げたのだ。罪もない人間を大勢殺めて蛇神の生贄に捧げてきた彼女たちは、生きながらにして魔物のようなものであった。
しかし、現在リヴェルたちを囲んでいる彼らは違う。
いかに北方神が冷血かつ蛮なる神であるとしても、自分の子らにこのような呪いをほどこしたりはしないだろう。これはもっと凶悪な、蛇神ケットゥアにも劣らぬ禍々しい存在によってもたらされた災厄であるはずだった。
全身を氷雪に覆われた北の民たちが、ぎくしゃくとした動きでリヴェルたちに襲いかかってくる。
それがゼッドの長剣とタウロ=ヨシュの斧によって粉砕されていくたびに、リヴェルは胸が引き裂かれるような思いであった。
北の民は、リヴェルにとって敵対国の人間だ。いかにその血を半分受け継いでいようとも、決して情けをかけてはならじ、とリヴェルは幼い頃からそのように言い聞かされていた。
しかし、現在リヴェルたちを取り囲んでいる彼らは、自由開拓民であった。確かに北方神マヒュドラの子であることに違いはないが、王国の法には縛られず、下賤と蔑まれる代わりに自由に生きていくことを許されている人々であるのだ。よって、彼らは西の王国との戦いにも加わってはおらず、リヴェルにとっても仇敵とは呼べない存在であるはずだった。
いや――たとえ彼らが北の王国の民であったとしても、リヴェルの思いに大きな違いはなかったのかもしれない。
どのような素性であれ、人間がこのような運命に見舞われることが正しいとは思えなかった。
ましてや、タウロ=ヨシュは彼らの同胞であったのだ。
彼の家族、母親や妹たちなどは、真っ先に頭を砕かれて、薄闇の向こうにまで吹き飛ばされていた。
タウロ=ヨシュは、いったいどのような心情で、かつての同胞たちに斧を振り下ろしているのか――それを想像するだけで、リヴェルは頭がおかしくなってしまいそうだった。
「おっと危ない」
と、ナーニャの声が耳もとで響く。
それと同時に、視界が赤く染まった。
またナーニャが火神の魔法を発現させたのだ。
棍棒を握りしめた氷雪の魔物の一体が、それで紅蓮の炎に包まれた。
凍てついた大地に膝をつき、しばらくぶんぶんと棍棒を振り回してから、ぐしゃりと潰れて動かなくなる。
その姿を見届けて、ナーニャは「ふう」と息をついた。
「こんなことを繰り返していたら、僕も早々に力尽きてしまいそうだ。だけどさすがに、ゼッドとタウロ=ヨシュだけで何とかなる数じゃないよね」
両名がどれほど果敢に戦っても、状況はまったく好転していなかった。
もともと魔物と化した遺骸は百体ばかりもあったし、さらにその後からぞくぞくと数が増えているようなのだ。おそらくは、家屋の中で息絶えていた者たちまで、魔物と化して押し寄せてきているのだろう。
しかもその魔物たちは、頭を砕かれようとも心臓を潰されようとも、動きを止めようとしなかった。ならばと両足を砕いても、腕を使って這いずってこようとしてくるのである。これではいつしかゼッドたちのほうが力尽きてしまうことは明白であった。
「タウロ=ヨシュ! さきほどの話じゃないけど、どこかに油なんかはないものかな?」
珍しくナーニャが大きな声をあげると、ひときわ巨大な魔物の右膝を砕いて、その巨体をおもいきり蹴り飛ばしたタウロ=ヨシュが、咆哮のような声で応じた。
「さいちょうろうのいえに、すこしばかりはあるはずだ! まほうをつかうのか!?」
「うん。大きな火種さえあれば、彼ら全員の魂を浄化することはできると思うよ」
「……さいちょうろうのいえは、ひろばをはさんだはんたいがわだ!」
言いざまに、タウロ=ヨシュは魔物の腕を叩き割った。
リヴェルたちのさらに後ろに引っ込んでいたチチアが、「そんなの無理だよ!」と悲鳴をあげる。
「この魔物どもを蹴散らせるなら、最初からやってるだろ! だったら、家と家の間から森のほうに逃げたほうが――!」
「そっちにもっと恐ろしい魔物が潜んでいたら、どうするんだい? 身動きの取れない森の中で挟み撃ちにされたら、もうおしまいだと思うよ」
そのように述べながら、ナーニャはまた新たなラナの葉を取り出した。
「チチア、君の荷袋から毛皮の敷物を出してもらえるかな?」
「し、敷物? そんなものを、どうしようってのさ?」
「せめてもの火種にするんだよ。どこもかしこも凍ってるんだから、そんなものでもないよりはましだと思う」
チチアは絶望に顔をひきつらせながらも、それ以上は文句を言おうとはせずに、言われた通りのものを背中の荷袋から引っ張りだした。
広げれば人間ひとりをくるめそうなぐらいの大きさをした、防寒用の毛皮の敷物だ。それを両手に握りしめたまま、チチアはナーニャのほっそりとした背中をにらみつけた。
「出したよ! こいつをどうすんの!?」
「今から一体の魔物に炎をくらわせるから、そいつが消える前に上からかぶせておくれよ」
言うが早いか、ナーニャは包囲をせばめてくる魔物どものほうに足を踏み出した。
一番手近にいた魔物が、のろのろとナーニャにつかみかかろうとする。
ナーニャは杖の先にラナの葉をこすりつけ、三たび、炎の魔法を発現させた。
小さな火種から火炎が巻き起こり、魔物の巨体にからみつく。
「ほら、今だよ」
チチアは決死の形相で、敷物を振りかぶった。
その手を離れた敷物が、燃える魔物の頭上にふわりとかぶさる。
ぶすぶすと、毛皮の焦げる臭いがした。
魔物は、地響きをたててくずおれる。
そして――敷物に炎が燃え移った。
黄昏刻の薄闇に、真紅の炎がぼうっと浮かびあがる。
「ゼッド! タウロ=ヨシュ! こっちだよ!」
ナーニャが、炎に向かって突進した。
周囲の魔物どもが、ナーニャに向きなおる。
すると、足もとの炎からさきほどよりも巨大な火炎が生まれいで、魔物どもの巨体を端から呑み込んでいった。
「僕が先頭を走るから、みんなついてきて! リヴェルとチチアも遅れないようにね!」
リヴェルは、足がすくんで動けなかった。
すると、横合いから頭を小突かれた。
「呆けてる場合かよ! あんた、死にたいの!?」
怒った顔をしたチチアがリヴェルの手をつかみ、走り始めた。
その間に、ナーニャは燃える敷物を拾いあげている。
真っ赤な炎に包まれた敷物を、素手でつかんでいるのだ。
ナーニャに襲いかかろうとする魔物は、そこから生まれる火炎の竜に次々と呑み込まれていった。
「はん! けっきょくこの中で一番の化け物はあいつってことだね!」
憎まれ口を叩きながら、チチアは走り続ける。
その手に引かれて、リヴェルもよたよたと走ることができた。
気づけば前方はタウロ=ヨシュに、後方はゼッドにはさまれている。
ナーニャの炎をまぬがれた魔物たちは、その両名によって斬り捨てられることになった。
魔物どもの動きが緩慢でなければ、こんな形で強行突破することはできなかっただろう。
しかしまた、魔物どもの数は尋常なものではなかった。その内の何体かがナーニャの炎で焼かれても、その焦げついた屍を乗り越えて、次から次へと押し寄せてくるのだ。
「早く早く! この火種も、もうそんなに長くはもたないよ!」
タウロ=ヨシュの向こう側から、そんな声が聞こえてきた。
周りが魔物だらけであるので、自分がどこを走っているのかも判然としない。もう広場を突破することはできたのだろうか。
「タウロ=ヨシュ! 最長老の家というのは?」
「ひだりがわにみえる、いちばんおおきないえだ!」
走っても走っても、この悪夢は永遠に続くのではないかと思えてならなかった。
足はもつれ、咽喉が焼けつくように痛む。心臓などは、最初から痛いぐらいに胸の中で暴れていた。
(わたしたちも、ここで死んでしまったら……彼らと同じように、氷雪の魔物と化してしまうの?)
そんな恐怖心だけが、リヴェルの足を動かしていた。
たとえ無残に殺されようとも、そんな運命だけは受け入れるわけにはいかなかった。
「ここだ!」というタウロ=ヨシュの怒号が響いた。
ようやくチチアの足が止まり、それと同時にリヴェルは崩れ落ちてしまう。
そんなリヴェルの頭上に、ナーニャの声が降ってきた。
「ゼッド、何とかこの場所で魔物たちを食い止めてね。リヴェルとチチアを、くれぐれもよろしく」
荒い息をつきながら、リヴェルはようよう面を上げた。
しかしその場にナーニャの姿はなく、目に映るのはチチアとゼッドの姿のみだった。
三人は、木造りの大きな家の前で身を寄せ合っていた。
その家の側を除く三方は、すでにまた魔物たちに取り囲まれてしまっている。
これでは場所が移っただけで、さきほどまでと何も事態は変わっていなかった。
ゼッドはすでに、魔物たちと向かい合っている。
チチアはリヴェルの隣に片方の膝をつき、ぜいぜいと息をついていた。
「こんなんで本当に助かるのかよ。あいつら、あたしらを置いて裏口から逃げてったんじゃないだろうね」
そのように述べながら、チチアは腰に吊るしていた鉈を取り上げた。
包帯に包まれた手で、それをぎゅっと握りしめる。
その左手は、まだリヴェルの手をつかんだままだった。
「せっかく生きのびたのに、こんなところで死んでたまるもんか。あたしは絶対に、真っ当な人間としての快楽をむさぼってやるって決めたんだ」
その強い光をたたえた目が、ちらりとリヴェルのほうを見た。
「ね、あんたもどうせ生娘なんでしょ? それとも、赤目野郎や剣士さんと情を交わした間柄なの?」
「え、ええ? い、いったい何を言っているのですか……?」
「人間としての幸せや悦楽をむさぼる前に魂を返すんじゃあ、何のために生まれてきたかもわかんないでしょ? あんたも、ちっとは踏ん張りな」
魔物どもが、ぞろぞろと押し寄せてきた。
ゼッドの豪剣が、それを斬り伏せる。
再び、悪夢のような戦いが始まったのだ。
しかも今度は、ゼッドが一人でそれを撃退しなければならなかったのだった。
ゼッドは、鬼神のごとき剣技を備えている。
しかし相手は、ゼッドよりも巨大な図体をした魔物の群れだ。
いまだにゼッドの力が衰えていないように見えるのは驚嘆に値したが、いつまでもこんな無茶な戦いを続けられるとは思えなかった。
「……二人とも、もう少し下がれ」
不自由な口を動かして、ゼッドがそう言い捨てた。
リヴェルとチチアはほとんど這いずるようにして、家屋の玄関口にまで引きさがる。
ゼッドはその眼前に立ちふさがり、とにかく近づいてこようとする魔物どもを叩き伏せる戦法に切り替えたようだった。
「畜生! 本当にあいつら、逃げたんじゃ――」
そのように言いかけたチチアが、眉をひそめた。
それと同時に、リヴェルも異変に気づくことができた。
何かを燃やす焦げくさい臭いが、家屋の奥から漂ってきたのだ。
おそるおそる振り返ると、家の横手から黒煙があがっていた。
ナーニャたちは、家の中で火を焚いたのだ。
「ゼッド! なるべく玄関から離れて!」
ナーニャの声が響いてきた。
得たりと、ゼッドは横合いに跳びすさる。
そちら側にいた魔物どもをなぎ倒し、リヴェルたちのほうに視線を向けてくる。
ある種の予感にとらわれて、リヴェルはチチアの腕を引っ張った。
「チ、チチア、わたしたちも、ゼッドのほうに……」
「何だよ! 家の中に逃げ込んだほうが早いんじゃないの!?」
不満の声をあげるチチアを引っ張って、リヴェルはゼッドの足もとに倒れ込んだ。
「ナーニャ! 全員、玄関から離れました!」
すべての力を振り絞って、リヴェルはそのように叫んでみせた。
次の瞬間、ぽっかりと口を開けていた玄関口から、紅蓮の炎が放出された。
火炎の竜がうなりをあげて、魔物どもに襲いかかる。
金と赤の火の粉を撒き散らしながら、数十体の魔物が一瞬で炎に包まれた。
火炎の向こうで、黒い影が苦悶に身をよじっている。
数日前の夜の、再現だ。
さらに幾筋もの炎が乱舞して、魔物どもを次々とたいらげていく。
また、魔物どもを焼きつくす炎から、さらに新たな炎が生まれて、それが周囲の魔物どもに喰らいついた。
すべての情景が、朱に染まっていく。日没を目前に控えた薄暮の中で、この集落だけは禍々しい炎に照らしだされることになった。
「すげえ……やっぱあいつは、化け物だ……」
リヴェルのかたわらで、チチアがそのようにつぶやいている。
すると、背後の壁から凄まじい破壊の音が響いてきた。
ぎょっとして振り返ると、壁から鉄の刃が覗いている。家の中から振るわれた斧が、一撃で壁に穴を穿ったのだ。
さらに何度か斧が振るわれると、頑丈に組み上げられた板がぼろぼろと地面に落ちた。
それで生じた巨大な穴から、タウロ=ヨシュがぬっと現れる。
さらにその後からは、ナーニャが姿を現した。
ナーニャの顔や手の甲には、真紅の奇怪な紋様がびっしりと浮かびあがっていた。
「何とか間に合ったみたいだね。みんな僕の魔法の巻き添えにならなくて何よりだ」
ナーニャが、唇を吊りあげて笑う。
その瞳もまた真紅に燃えあがり、ナーニャ自身からも炎のような熱気が伝わってきた。
まるで炎が人間の形を取っているかのような、それはありうべからざる姿であった。
遠くのほうから、新たな魔物がのろのろと近づいてくる。
すると、ナーニャたちが出てきた穴からも炎が噴きあがり、その魔物の巨体をも蹂躙してしまった。
「はからずも、集落に住んでいた全員を僕の炎で焼くことになりそうだ。これで彼らの魂が解放されるといいんだけどね」
ナーニャがそのようにつぶやくと、険しい目つきで周囲の惨状を見回していたタウロ=ヨシュがそちらを振り返った。
「ほのおには、すべてをきよめるちからがある。たとえあやしいまほうのほのおでも、きっとおれのどうほうのたましいをすくってくれるだろう」
「うん。まあ何にせよ、魔なるものに肉体を奪われたままにしておくわけにはいかなかったからね」
と――ナーニャの炎と化した瞳が、あらぬ方向に向けられた。
「それじゃあ、最後の大仕事だね」
「な、何だよ? これでもう、魔物どもはやっつけられたんだろ?」
チチアが不安そうに言うと、ナーニャは「いや」と薄く笑った。
「彼らに非業の運命を与えた張本人が残っているじゃないか。蛇神ケットゥアよりも厄介そうな気配がするけれど、そいつはいったい何者なんだろうね」
すると、ナーニャの声に応じるかのように、地鳴りのごとき咆哮が轟いた。
チチアはびくっと身体を震わせて、リヴェルの腕をつかんでくる。
ゼッドはゆっくりと、ナーニャと同じ方向に目をやった。
それに気づいたタウロ=ヨシュも、そちらに視線を差し向けると――「なんだあれは?」という驚愕の声を振り絞った。
リヴェルは一回まぶたを閉ざし、口の中でセルヴァへの祈りを捧げてから、みんなと同じ方向を見た。
白い影が、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。
あれほど巨大な存在が、いったい今までどこに潜んでいたというのか――それは、平屋の家屋の屋根よりも高い位置に頭のある、醜い氷雪の巨人であった。