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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第三章 紡がれる運命
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Ⅴ-Ⅲ 密約

2017.6/17 更新分 1/1

「あーあ、毎日退屈だねえ!」


 大きな声をあげながら、メナ=ファムは長椅子の上にひっくり返ってみせた。

 シルファはくすりと小さく笑い、エルヴィルは険しい視線を向けてくる。


「おい、メナ=ファム。いかに王子殿下が寛容であろうとも、少しは節度というものを考えるべきだろうが?」


「節度だか何だか知らないけど、退屈なもんは退屈だよ。これじゃあ身体がなまる一方さね」


 三人がゼラド大公国のオータム城に招かれてから、すでに数日が経過していた。

 しかしその間に、大きな変化はない。ときたま大公や他の貴族どもに呼び出されて、同じような会話を繰り返したぐらいのものである。


 今のところ、シルファが粗略に扱われることはなかった。

 エルヴィルの話した素性が真実か虚言か確認されるまでは、客人として遇そうという心づもりなのだろう。


 食事などは、メナ=ファムが呆れるぐらい豪華なものが準備されていた。

 衣服も、真新しいものに着替えさせられている。

 それに、毎日浴堂という場所で身を清めさせられることになり、それが現在のシルファたちにとっては一番の厄介事であった。何とか小姓や侍女などは遠ざけて、メナ=ファムが一人でシルファの面倒を見ているが、どこで正体が露見してしまうかと戦々恐々の日々である。


 しかしそれ以外は、平和なものであった。

 そのあまりの平穏さに、メナ=ファムはだんだん嫌気がさしてきてしまったのだ。


「お忘れかもしれないけど、あたしはもともとシャーリの川辺の狩人だったんだ。朝から晩まで大鰐どもとやりあえるような身体にできあがってるんだよ。いつまでもこんな場所に閉じこもってたら、刀や弓の扱い方を忘れちまいそうさ」


「それでも、俺の言葉が真実であると知れるまでは、ひたすら耐え忍ぶしかあるまい」


「そいつはいったい、いつになったらハッキリするんだい?」


 エルヴィルは「さてな」と肩をすくめた。


「たとえトトスを早駆けさせても、オータムとアルグラッドを行き来するのに半月はかかろう。あとは、俺の素性を調べるのに、どれぐらいの日数がかかるかだ」


「行き来に半月!? ここは王都からそんなに離れているのかい!?」


「行って戻るのに半月であれば、それほどの距離とは言えまい。荷車を引かせたトトスであれば、片道だけで半月はかかるのだからな」


 メナ=ファムは、心底から呆れることになった。


「王都と大公国ってのは、そんなに遠い場所にあるのに、どうして戦争なんてしてるんだい? それぞれの場所で楽しく暮らせばいいだけのことじゃないか?」


「王都とオータムの間に広がる領土には、数多くの町がある。それらの町を支配するのに相応しいのはどちらか、それを巡って争っているのだ」


「はん、馬鹿馬鹿しい話だね! 銅貨なんて、酒と食い物を買う分だけ稼げれば、それで楽しく生きていくことはできるのにさ!」


 すると、無言で二人のやりとりを見守っていたシルファが、穏やかな面持ちで言葉をはさんできた。


「メナ=ファムの言うことももっともだが、それを言ったら王都とマヒュドラなどは、もっと離れているのだぞ。たしか、王都とオータムの倍ぐらいの距離はあったのではないのかな」


「ええ、ちょうどそれぐらいの距離でしょうね」


「つまり、その間の領土には、さらに多くの町が存在することになる。それらの領土を守るために、王都の人間はわざわざ国境まで軍を差し向けることになっているのだろう」


 それらはきっと、エルヴィルからの受け売りの知識に違いない。小さな神殿の下女であったというシルファに、外界の情勢など知るすべはなかったはずであった。


「わたしも、愚かしいことだとは思う。しかし、ゼラド大公国はともかく、マヒュドラにセルヴァの領土を踏みにじる資格はあるまい。いまだにグワラムという領土はマヒュドラに侵略されたままであると聞くし……マヒュドラが牙を剥く限り、セルヴァの王は戦いをやめることもかなわぬのだろう」


 メナ=ファムとは別の長椅子に座したシルファは、落ち着き払った様子でそう述べていた。

 気品や威厳はそのままに、ずいぶんくつろいだ様子である。腕の傷もよくなってきたし、今のところは平穏に過ごすことを許されているので、気持ちが安定してきているのだろう。


 しかしメナ=ファムは、その姿からひとつの懸念を覚えていた。

 どんなにくつろいでいても、シルファは偽王子として振る舞わなくてはならない。この部屋には盗み聞きの細工がほどこされていると、ラギスからも明言されていたためだ。


 だからシルファは、あくまで偽王子としての体裁を守ったまま、このようにくつろいだ姿を見せているのである。その事実こそが、メナ=ファムを嫌な気持ちにさせているのだった。


(この城に到着してから、シルファは一度も本当の自分を見せていない。朝から夜まで、ずっと王子様の役を演じ続けてるんだ。こんな生活をずっと続けてたら……何だか、偽王子としての姿が本物になっちまいそうじゃないか)


 メナ=ファムの視線に気づいたシルファが、「どうしたのだ?」と微笑みかけてくる。

 それもやはり、偽王子としての凛然とした微笑みである。


「今から気を張っていても、身が持つまい。休める内に、しっかりと休んでおくがいい。いずれまた、メナ=ファムの力が必要になるときは必ず訪れるのだからな」


「……ふん。仰る通りでございますね、王子殿下」


 メナ=ファムがぶっきらぼうに応じると、シルファはいぶかしげに眉をひそめて、長椅子から立ち上がった。

 そのままメナ=ファムのほうに歩いてくると、分厚い敷物に膝をつき、心配そうに顔を覗き込んでくる。


「本当に様子がおかしいようだな。どこか身体の具合でも悪いのか?」


 わずかに血の色を透かせた青灰色の瞳が、じっとメナ=ファムを見つめてくる。

 宝石のように美しい瞳だ。

 十分な治療と食事を与えられて、その白い面にもかつてないほどの生気がみなぎっている。毎日メナ=ファムに洗われている銀灰色の髪などは、宝石のようにきらめいていた。


 メナ=ファムは寝っ転がったまま、シルファの襟首に腕をのばした。

 そのまま白くて細っこい首筋をからめとり、自分のほうに引き寄せる。盗み聞きの細工はあっても覗き見の細工はなかったという話であったので、これぐらいの粗相は許されるだろう。


「あたしはあんたのことが心配なんだよ、シルファ」


 可能な限り声をひそめて、メナ=ファムはそのように囁きかけてみせた。

 腕一本で拘束されたシルファは、華奢な肩をわずかに震わせたようだった。


「わたしは大丈夫です。……いつでもメナ=ファムがそばにいてくれるのですから」


 そんな言葉が、メナ=ファムの耳に吹き込まれてきた。

 メナ=ファムは身を離し、シルファの顔を見つめ返す。

 シルファは、シルファの表情ではかなげに微笑んでいた。

 それでメナ=ファムも、ようやく笑うことができた。


 そのとき、部屋の扉が外から叩かれた。


「失礼いたします。連隊長ラギス様が、メナ=ファム様をお呼びです」


「あん?」とメナ=ファムは眉をひそめてしまった。

 エルヴィルも、同じ表情で扉のほうを振り返る。


「今、メナ=ファムと言ったのか? あの連隊長殿が、メナ=ファム一人を呼びつけていると?」


「はい。何か内密のお話があられるそうです」


 閉ざされたままの扉から、小姓のくぐもった声が聞こえてくる。

 エルヴィルは、たっぷりと不審のこもった眼差しでメナ=ファムをにらみつけてきた。


「あたしなんかに、いったい何のご用事なんだろうね。きな臭いったらありゃしない。何とかこいつを断ることはできないもんかねえ?」


「……このゼラドにおける連隊長というのは、王都で言う十二獅子将に当たる立場だ。将軍に次ぐ階位である人物の命令に逆らうことは許されぬだろう」


 そのように述べてから、今度はエルヴィルがメナ=ファムに顔を寄せてきた。


「おい、言っておくが――」


「何も言う必要はないよ。あたしの今の一番の目的は、王子殿下をお守りすることなんだからさ」


 メナ=ファムは、勢いをつけて立ち上がった。

 そして、心配げに自分を見上げているシルファの頭を、くしゃくしゃにかき回してみせる。


「それじゃあ、ちょいと行ってくるよ。五体満足で帰って来られるように祈っておいておくれ」


 メナ=ファムはエルヴィルにも笑いかけてから、客間を出た。

 扉の外には、小姓と二人の兵士が待ちかまえている。小姓はそのまま次の間に残り、兵士たちがメナ=ファムを案内するようだった。


 部屋の出口を見張っていたのとは、別口の兵士たちだ。槍は持っておらず、刀だけを下げている。どちらもメナ=ファムより背は低かったが、その分ずんぐりとしていて力は強そうだった。


(どうもゼラドってところには、あんまり大きな人間がいないみたいだね。決して弱そうには見えないけどさ)


 それでも、メナ=ファムが本気で暴れれば、この二人を打ち倒すことは容易いだろう。片方の兵士から刀を奪えば、五つを数える前に片付けられるだろうと思う。


 しかしここは、王城の中だ。城の中には山ほどの兵士が潜んでいるはずであるし、城門は固く閉ざされている。そして、城門を突破したところで、跳ね橋が上げられていては、外に逃げ出すこともできない。それがわかっているからこそ、見張りや案内役にそれほどの兵力を割いていないのだろう。


(それでも、最悪な場合は、ここから逃げ出す手段を探すことになるんだろうからな。できれば、城門までの道筋なんかは覚えておきたいもんだ)


 そのように物騒なことを考えているとはおくびにも出さず、メナ=ファムはてくてくと歩き続けた。

 やがて到着したのは、代わり映えのない扉の前である。

 階段は使わなかったので、ここも二階の一室だ。


「ラギス連隊長殿、メナ=ファムなる自由開拓民をお連れいたしました」


 片方の兵士があげた声に、「入れ」という言葉が返ってくる。

 扉を開けると、次の間というものは存在せず、すぐに室内であった。

 燭台の数が少ないのか、ずいぶんと薄暗い。兵士は、いくぶん戸惑った様子で薄闇の中を見回した。


「ご苦労だったな。帰りは俺が部屋まで送っていくので、お前たちは自分の仕事に戻るがいい」


「は……それでは、失礼いたします」


 兵士たちはメナ=ファムを薄暗がりの中に押し込んでから、扉を閉めた。

 メナ=ファムはその場に立ったまま、右手の側に視線を差し向ける。


「あたしに何のご用事だい? 自由開拓民なんざ、あんたがたにとっては卑しき蛮族に過ぎないってんだろう?」


「ふん。いかにも蛮族らしい言い草だな」


 メナ=ファムの視線の先で、もぞりと黒い人影が動いた。

 長椅子に横たわっていたラギスが、身を起こしたのだ。

 燭台に照らされるその姿は、腰の下帯しか纏ってはいなかった。


「人を呼びつけておいて、ずいぶんあられもない姿だね。それが貴族様の流儀なのかい?」


「俺は貴族ではない。たとえ貴き血をひいていても、爵位のない貴族などゼラドでは相手にもされぬのだ」


 薄暗がりの中で、ラギスはにやにやと笑っていた。

 この暗さでも、その瞳が強い光を燃やしているのがわかる。


「こっちに来い。まずは酒でも楽しむがいいさ」


「こんな場所で、大した知り合いでもない相手と酒を酌み交わす気にはなれないね。用事があるなら、とっとと済ませておくれよ」


「このように離れていては、話をするにも不便だろうが? いいから、こっちに来い」


 そう言って、ラギスは長椅子に腰を落としてしまった。

 しかたなく、メナ=ファムはそちらに近づいていく。


 部屋の造りも、シルファたちに与えられた客間と大きな違いはないようだった。足もとには毛足の長い敷物が敷かれており、いくつかの長椅子と木造りの卓が置かれている。


 メナ=ファムは、卓をはさんでラギスの向かいに腰を下ろした。

 ラギスは酒杯を取り上げて、咽喉を鳴らしつつ果実酒を飲みくだす。


「ふん。相変わらず、色気のない格好をしているな」


「ああ。物心ついた頃から、娘らしい装束なんかとは縁がなかったんでね」


 メナ=ファムが身につけているのは、ゼラドで準備された布の装束であった。最初は女物のひらひらした装束が準備されていたので、エルヴィルと同じ男物を準備してもらったのだ。


「お前の名前は……メナ、だったか?」


「名前だけで呼ぶのは家族だけさ。メナ=ファムと、氏つきで呼んでほしいもんだね」


「ふん」とラギスはまた鼻を鳴らした。

 その黒い火のような目が、じろじろとメナ=ファムを見回してくる。


「嫌というほど日には焼けているが、顔立ちは悪くない。赤茶けた髪に黄色がかった瞳というのも……まあ、気にしなければ、それまでか」


「…………」


「さすがに腕には、筋肉が目立つな。そして憎たらしいことに、俺よりも背が高いときている。カノン王子と比べたら、頭半分以上も大きいのではないか?」


「だったら、何だっていうのさ? あんたはいったい、何のためにあたしを呼び出したんだい?」


「それはもちろん、王子がお前のような蛮族の女を重宝している理由を探っているのだ」


 口もとを歪めながら、ラギスはそう言い捨てた。


「王子は浴堂でも、お前以外の侍女たちを遠ざけているようだな。あの女のように美しい王子は、自分よりも大きくて力強い女に組み伏せられることを悦びとしているのか? まったく、趣味のよろしいことだ」


「……くどいようだけど、あたしは夜伽なんかを申しつけられちゃいないからね」


「しかし、同じ寝所で眠っているのだろう? 伝声管を使っても、喘ぎ声を盗み聞きすることはできなかったようだがな」


 メナ=ファムは、心からうんざりしてしまった。


「あのお綺麗な王子殿下が、あたしみたいな大女に食指をのばすはずがないだろう? あたしだって、まだしばらくは狩人として生きていくつもりだったから、男なんざに関心はないんだよ。あたしが王子殿下の子を身ごもることなんてありえないから、何とか納得してくれないもんかねえ?」


「それでも大公閣下らは、お前のような下賤の女が王子の周りにいることを疎ましく思っているようだぞ」


 そのように述べながら、ラギスは酒杯に新たな酒を注いだ。


「もちろん、力ずくでお前を城の外に放り出すことは容易い。だが、王子が真の王子と認められれば、この先は手をたずさえていくことになるのだから、なるべく事を荒立てたくはないのだろう。……そこで、俺の出番というわけだ」


「あんたが出てきて、何がどうなるってのさ?」


「わからんか? お前は、俺の女になるのだ」


 ラギスは、ひと口だけ果実酒を飲んだ。

 メナ=ファムは、いっそううんざりしながら、その姿をにらみ返す。


「さっぱりわからないね。そんな真似をして、何の意味があるんだい?」


「お前の情が俺に移れば、王子も気持ちを改めるだろう、ということだ。それに、お前が子を孕んでも、王子ではなく俺の子とすることができるから、セルヴァ王家の血を汚さずに済む、というわけだな」


「……くだらないね。あたしは誰の子も孕むつもりはないよ」


「しかしこれは、大公閣下じきじきの命令なのでな」


 言うなり、ラギスはメナ=ファムにつかみかかってきた。

 長椅子の上に押し倒されて、肩のあたりを押さえつけられる。シャーリの狩人たるメナ=ファムが隙をつかれるほどの、それは俊敏な動作だった。


「なかなかやるもんだね。まあ、あんたはエルヴィルと互角ぐらいの力量と思ってたけどさ」


「ふん。千獅子長ふぜいでは割に合わんな。せめて、アルグラッドで一番の勇士と名高いヴァルダヌスぐらいを引き合いにしてほしいものだ」


「あいにく、あたしはその御仁と面識がないんだよ」


 両方の肩を圧迫されながら、メナ=ファムはそのように答えてみせた。

 メナ=ファムの上にのしかかったラギスは、ぎらぎらと黒い目を燃やしている。

 しかし、その目に宿っているのは、情欲の炎ではないように感じられた。


「ねえ、あんたは何をそんなに怒ってるのさ?」


「……何だと?」


「王子の侍女を寝取れなんていう命令を下されて、頭にきてるのかい? まあ、あんたみたいに立派な戦士に申しつけるような話じゃない、とは思うけどさ」


 ラギスは、悽愴な顔で笑った。


「俺のような卑しい身分の男には、相応の命令だと思ったのだろうさ。大公閣下にとっては、俺など使い捨ての手駒に過ぎないのだろうからな」


「ふうん? あんたもいちおう貴族なんじゃないのかい?」


 さきほどの口ぶりだと、爵位のない貴族、という身分であるように思えたのだが、それはメナ=ファムの考え違いだったのだろうか。

 するとラギスは、いっそう悽愴な形相を浮かべた。


「……俺の母は、城づとめの侍女だった。ただ美しいというだけで城に召されることになった、ただの平民だ。だから、俺を貴族と認める人間はいない」


「へえ。その口ぶりだと、父親だけは貴族みたいだね」


「……俺は、大公閣下の落胤だ」


 メナ=ファムは、思わずぎょっとしてしまった。


「大公閣下ってのは、この城の主人だろ? それが父親なのに、あんたは貴族ですらないってのかい?」


「大公閣下には、ご立派な子息が二人もいるからな。平民の血がまじった落胤など、使い勝手のいい捨て駒に過ぎんのさ」


 メナ=ファムは、大公一家の姿を思い出した。

 大柄で、野心と生命力にあふれかえったベアルズ大公と、その勇猛さをまったく受け継いでいなそうな、子供のような顔で笑うふとっちょの子息たち――こうしてみると、父親の血をもっとも強く受け継いでいるのは、いまメナ=ファムの目の前で猛り狂っているこの若者なのではないかと思えてならなかった。


「なるほどね。あんたがどうしていつも苛々していたのか、ようやくわかった気がするよ」


「そうか。そいつは、何よりだったな」


 ラギスが、ゆっくりと顔を寄せてきた。

 そろそろ反撃するべきかと、メナ=ファムは心の中で身構える。

 だが、ラギスは途中で動きを止めて、近い位置からメナ=ファムの目を覗き込んできた。


「メナ=ファム、お前には、二つの道が残されている」


「二つの道?」


「ああ。この場で俺の女になるか、それとも……俺の女になったふりをしながら、これまで通りに王子の身の回りの世話をするか、そのどちらかだ」


 メナ=ファムは、真っ直ぐラギスの目を見つめ返してみせた。


「あたしを襲えってのは大公閣下の命令だったんだろう? そいつを自分から破ろうっていうのかい?」


「ああ。こんな命令、栄えある連隊長に相応しいものだとは、とうてい思えぬからな」


 したたるような敵意とともに、ラギスはそんな言葉を振り絞った。


「俺の言うことに従うなら、このまま部屋に帰してやる。その後は……俺の間諜となれ」


「間諜?」


「ああ。王子がこの王城で誰と出会い、どのような言葉を交わしたか、それらをすべて俺に伝えろ。この王城には、味方よりも敵が多いので、俺もなかなか身動きが取れぬのだ。だから、お前が俺の手駒となれ」


「……そんな真似をして、あんたに何の得があるってんだい?」


 メナ=ファムの鼻先で、ラギスは獣のように笑った。


「それは今後の情勢しだいだ。俺は、俺に相応しい運命をつかみ取ってみせる」


「……あんたに相応しい運命、か」


 それはいったい、どのような運命なのだろう。

 不思議とメナ=ファムは、自分を組み伏せているこの乱暴な若者のことが、少し気の毒に思えてきてしまった。


「その言いつけに従えば、あたしを王子のもとに帰してくれるってのかい?」


「ああ。それでもこうして毎晩俺の寝所に呼びつけてやれば、大公閣下も俺が命令を果たしたのだと信じることだろう。そうしてお前は、その日にあった出来事を逐一、俺に報告するのだ」


 そうしてラギスは、白い歯を剥き出しにして笑った。


「言っておくが、このまま大公閣下に従っていても、王子の命運は尽きたも同然だ。王都を陥落させて、セルヴァの王にまつり上げられても、すぐさま大公家の女を娶らされて、子種を絞り取られるだけだ。その後は……すみやかに、魂を返すことになるだろうな」


「王都を攻める道具に利用するだけして、用事が済んだらさようならってことかい? ま、そんなこったろうとは思ってたけどね」


「ああ。だからこそ、大公閣下は王子の血の正しさなど二の次にしているのだ。重要なのは、自分の血族をセルヴァの王妃に仕立てあげることなのだからな。むしろ、王子が偽物であったほうが喜ばしいぐらいの話なのだろうさ」


 メナ=ファムは溜息をつき、そして決心した。


「王子が誰と会い、何を話したか、それをあんたに伝えればいいんだね?」


「ああ。心が定まったか?」


「まあ、それぐらいなら王子の身が危うくなることはなさそうだからね。……ただし、ひとつだけ条件があるよ」


「条件だと?」


「うん。あのラムルエルってお人も、王子と同じ部屋にお招きしてほしいんだよね」


 ラギスは、意表をつかれた様子で目を丸くした。


「ラムルエルというのは、あの東の民だな? あれはただの商人だったのではないのか?」


「ただの商人さ。でも、王子はあのお人が元気にやっているのか、とても心配しちまってるんだよ。あんたが首を刎ねるとか言い出したもんだから、余計にね。……それにあのお人は、王子とも気が合うみたいだったから、退屈しのぎの話し相手にはもってこいなのさ」


 そしてラムルエルは、メナ=ファムとエルヴィルを除けば、唯一シルファの正体を知る人間でもある。今のシルファに必要なのは、偽王子の仮面をかぶらずに済む人間の存在であるはずだった。


「……妙なことは企むなよ。東の民の厄介さは、俺たちも嫌というほど知りつくしている。毒の武器などはすべて預からせてもらうからな」


「もちろんさ。話し相手をするのに、毒なんていらないだろ」


「まったく、おかしなことを言うやつだ。自由開拓民などというのは、みんなお前のように浮世離れしているのか?」


 ラギスはわずかに身を起こしつつ、メナ=ファムの頬にひたりと手をあててきた。


「三番目の道を思いついた。俺の女になりつつ、王子のもとに戻って間諜をつとめるというのはどうだ?」


「そいつは御免だね。いつか刀を置くときが来たとしても、伴侶になる男以外に身体を許すつもりはないよ」


「そうか。自由開拓民などを伴侶に迎えるのは、俺も御免だな」


 そうしてようやく、ラギスはメナ=ファムの上から身を離した。

 もとの長椅子に座りなおして、再び果実酒の酒杯を取る。


「では、今日一日の話を聞かせてもらおうか。この寝所に伝声管は存在しないので、好きなように話すがいい。話が終わったら、王子のもとに帰してやる」


 こうしてメナ=ファムとラギスの間に、奇妙な契約が交わされることになった。

 この行動が、今後のシルファたちにどのような影響をもたらすのか、それはなかなか想像することも難しいところであった。

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