Ⅳ-Ⅲ 脱出
2017.6.10 更新分 1/1
その日は朝から、ラナの様子がおかしかった。
立ち居振る舞いは普段通りであるが、どこかその面に暗い陰がさしているように思えてならなかったのだ。
(いや、おかしいと言えば昨晩からか。腹が痛いなどと言って食事も残していたし、ろくに喋らないまま眠ってしまったしな)
学士長フゥライにおとぎ話の書物をもらって以来、ダリアスはそれをラナに読んで聞かせるのが眠る前の習慣になっていた。しかし昨晩はそれすらも断って、ラナは早々に眠ってしまったのだった。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。一晩眠れば、きっと元気になれると思いますので」
眠る前に、ラナはそう言っていた。
そして本日は、朝からいつも通り元気に働いている。少なくとも、どこかに痛みを抱えているような様子はなかった。
しかしそれでも、ラナは暗い面持ちをしているように見えてしまう。身体のほうに変調の兆しがない分、ダリアスは余計にそれが心配になってしまった。
(ここ数日はティートも姿を現さないし、ギムたちのことが心配で居たたまれなくなってしまったのだろうか)
すでにダリアスたちが王都を出奔してから、十日近くが経過している。その間、ずっとこのような場所で身をひそめていたのだから、日を追うごとに鬱屈してしまうのも致し方のないところではあった。
(ティートのやつは、いったい何をぐずぐずしているのだ。シーズかトライアスのどちらかが敵方であるというのなら……いっそのこと、俺が姿を現して、どのような態度を取るか見届けてやればいいのではないか?)
そのようにも思うが、ティートがすっかり姿を見せなくなってしまったので、鬱憤のぶつけようもなかった。
薄明るい聖堂で溜息をつくダリアスを、ラナがおずおずと振り返ってくる。
「大丈夫ですか、アッカム? お疲れでしたら、寝所のほうに戻られてはいかがでしょう……?」
「こうして座っているだけでは疲れようもない。お前こそ、身体のほうは大丈夫なのか?」
「はい、ご覧の通りです」
聖堂の座席を拭き清めていたラナは、薄く微笑みながらそう言った。
普段通りと言えば普段通りのはかなげな笑顔であるが、それすらもダリアスを心配させないようにと無理をしているように感じられてしまう。
時刻はすでに、夕刻が近かった。
今日も朝から数えるぐらいの人間しか訪れてはいない。このダームの地においては、あまり熱心にエイラに祈りを捧げようという人間も存在しないようだった。
「昨晩はあまり食べていないのだから、無理をしないようにな。お前もそろそろ仕事を切り上げたらどうだ?」
「はい。こちらももうすぐ片付くと思うので……よかったら、先にお戻りになられてください」
そうするべきなのだろうか、とダリアスは考えた。
ラナのことは心配であるが、こうして見守っているだけでは何の役にも立ちはしない。それどころか、自分がこのような場所に出張っているだけで、ラナに余計な心労をかけているようにさえ思えてしまった。
「それでは、俺はひと足先に――」
と、ダリアスが言いかけたとき、聖堂の奥にある扉が開かれた。
ラナは、ハッとした様子でそちらを振り返る。
「こちらでしたか、レミ。……約束通り、物置きの片付けを手伝っていただけますか?」
それは、神殿長のロムスであった。
このエイラの神殿を取り仕切る、壮年の小男である。
いつもにこやかに微笑んでいるその顔が、ダリアスの姿を認めて「おや」と驚きの表情を浮かべる。
「アッカム殿もこちらでしたか。いったいどうされたのでしょう?」
「ああ、いや……少しレミに話があってな」
「……何か、込み入ったお話でも?」
「いや、そういうわけではないのだが」
ダリアスは、返答に窮してしまった。
ロムスは、にこりと優しげに微笑む。
「それでしたら、どうぞご安静にされてください。よろしければ、茶でも届けさせましょうか?」
「ああ、いや……これ以上、迷惑をかけるわけには……」
「そのようなことはお気になさらないでください。困っている人々に手を差しのべるのが、我々のつとめなのですから」
王都の神官どもなどとは比べ物にならないぐらい、このロムスという人物は善良であるようだった。
このような人物まで騙さなくてはならないという我が身の境遇に、また胸が苦しくなってしまう。
「茶は無用だ。……それでは、寝所に戻らせてもらう」
ダリアスは、全身に手傷を負っているという体で、よろよろと立ち上がってみせた。
傷ついてもいない足を引きずりながら、横手の小さな扉へと向かう。
「では、レミもまたのちほどにな」
ラナは布巾を握りしめたまま、ダリアスの姿をじっと見つめていた。
その表情の変化に気づいて、ダリアスは思わず立ちすくんでしまう。
ラナは、まるで月の精霊のような表情で微笑んでいた。
強い日の光を浴びたら、そのままふっと消え入ってしまいそうな風情である。
そして、その瞳に浮かぶのは――いったいどのような感情のあらわれなのか、ダリアスにはうまく判別することもできなかった。
「レミ……?」と、ダリアスは思わず立ち止まってしまう。
するとラナは、同じ表情のまま、ひとつうなずいた。
「どうぞ、寝所のほうに……仕事が終わったら、わたしもすぐに向かいます」
その不思議な眼差しに背中を押されているような心地で、ダリアスは扉をくぐることになった。
が、そのまま寝所に向かう気持ちにはなれず、薄暗がりの中で立ちつくす。そこは聖堂から使用人の寝所やかまどの間へと通ずる回廊であった。
(いったい何だというのだ? どうしてラナは、あんな目で俺を見つめていたのだ?)
やはりラナは、様子がおかしかった。
ロムスに対して、何か思うところでもあるのだろうか? 少なくとも、ロムスが現れるまでは、ラナもあそこまで常と異なる様子を見せてはいないはずだった。
(しかし、ロムスはただの神殿長だ。このたびの騒ぎにも無関係のはずだし。これまでにあやしげな様子を見せたこともない。……やっぱりあんな善良そうな人間を騙していることに罪悪感がつのってしまったのだろうか?)
だが、仮にそうだとしても、あのような表情を浮かべる理由にはならないように思えた。
ダリアスはしばらく迷ったのち、閉めたばかりの扉を薄く開いてみた。
その隙間から聖堂の様子をうかがってみるが、すでにラナたちの姿はない。
ダリアスは音をたてないように気をつけながら、さらに扉を押し開いた。
そこから、首だけを出してみると――奥側に歩いていくラナとロムスの背中が見えた。
何もおかしなところはない。
ただ、ロムスの手がラナの指先をつかんで引いていた。
その姿を見た瞬間、ダリアスの胸に得体の知れない激情が渦を巻いた。
(……幼子や貴婦人ではあるまいし、どうして手を引く必要があるのだ?)
ダリアスが煩悶している内に、二人の姿は扉の向こうに消えた。
それはまるで、ラナが巨大な怪物の口に呑み込まれるようにも見えてしまった。
(馬鹿な。神に仕える人間が――しかも、愛と純潔の女神たるエイラに仕える神殿長が、使用人の娘によからぬ思いを抱くことなど――)
そのようにも思うが、胸に渦巻く激情は燃えさかるばかりであった。
分厚く巻かれた包帯の下で、ダリアスはぎりっと奥歯を噛み鳴らす。
(駄目だ。とうてい放ってはおけん)
それでもダリアスは余人の目をはばかって、片足を引きずりながら奥の扉へと向かった。
誤解であるなら、それでかまわない。しかし、ラナにさきほどの表情は何だったのだと問い質すまでは、寝所に戻る気持ちにはなれなかった。
(用心深く振る舞えよ。俺はあらぬ疑いに目を曇らせているだけなのかもしれないのだからな)
必死に自分に言い聞かせながら、ダリアスはさきほどよりも立派な造りをした扉を開いた。
ここから先は、ダリアスも足を踏み入れたことはない。神殿長の執務室だとか書庫だとか、ダリアスには用事のない場所であるはずだった。
あちこちに明り取りの窓が切られてはいるが、聖堂よりは薄暗い。
人の気配は、まったく感じられなかった。
(物置きの片付けとか言っていたな。それは、どこのことだ?)
しかたないので、ダリアスは手近な扉を叩きながら、奥に突き進むことにした。
しかし、どの扉からも応答はない。神官たちは、みんな出払ってしまっているようだ。
はやる気持ちを抑えつつ、ダリアスは前進する。
そうしてけっきょくは、突き当たりにある一番立派そうな扉の前に立つことになった。
おそらくは、神殿長の執務室であろう。扉の真ん中に、エイラの紋章が掲げられている。
その紋章のすぐ脇を、ダリアスは拳で小突いてみせた。
しばらくの静寂の後、「どなたでしょうか……?」というロムスの穏やかな声が返ってくる。
「申し訳ない。レミに伝え忘れたことがあったのだ」
なるべく平坦な声音で、ダリアスはそう告げた。
またしばらくの静寂が流れたのち、今度はラナの声が聞こえてくる。
「どうされたのですか、アッカム……? 今ちょっと手を離せないのですが……」
「時間は取らせん。とにかく、顔を見せてくれ」
どくどくとこめかみのあたりに血が流れていくのを感じながら、ダリアスはそのように言いつのった。
頑丈そうな扉ごしに聞こえるラナの声は、いかにも弱々しかった。
「……申し訳ありません。寝所にお戻りください、アッカム……」
「時間は取らせんと言っているだろう。ここを開けてくれ」
我慢がきかずに、ダリアスは扉に手をかけてしまった。
しかし、どうやら閂が掛けられているらしく、扉はびくともしない。
その瞬間、ダリアスは立ちくらみにも似た激情を覚えた。
「物置きの片付けで、どうして閂などを掛ける必要があるのだ? ここを開けろ、レミ!」
「寝所にお戻りください……どうかお願いです、アッカム……」
ダリアスは身を引いて、肩から扉に体当たりをくらわした。
木造りの扉が、その一撃で頼りなく軋む。
「な、何をなされるのですか!?」
ロムスの悲鳴じみた声も聞こえてきたが、ダリアスはかまわなかった。そうして二度、三度と体当たりをくらわせると、扉と壁の間にわずかな隙間ができた。
ダリアスは、右足でおもいきり扉を蹴りつける。
凄まじい破壊音とともに、扉は大きく開け放たれた。
留め具ごと吹き飛ばされた閂が、床の上に落ちる。
部屋の中は、通路に劣らず薄暗かった。
すべての窓に、帳が下ろされていたのだ。
そして――その中央に、半裸のロムスがへたり込んでいた。
純白の長衣は卓の上に放り出されて、貧相な裸身があらわにされている。
その横合いに据えられた長椅子に、ラナが座していた。
その身もまた半裸であり、ラナは脱いだ上衣を胸もとにかき抱いていた。
その面には、ふた筋の涙がこぼされている。
「貴様!」と咆哮をあげて、ダリアスはロムスにつかみかかった。
「ひいっ」と逃げようとするロムスを組み伏せて、その咽喉もとに手をかける。
すると、ラナがダリアスの背中に取りすがってきた。
「おやめください! ダリ――アッカム!」
「離せ! このような痴れ者をただで済ますものか! 貴様、いったいどういうつもりなのだ!?」
ロムスは死にかけた獣のような声をあげながら、ダリアスの手首をつかんできた。しかしそれは、幼子のように非力な抵抗であった。
「答えろ、痴れ者め! この娘は――俺の妻なのだぞ!?」
「おやめください……わたしのことはいいのです。わたしたちには、他に頼る相手もいないのですから……」
ダリアスの背にすがりながら、ラナは泣いていた。
怒りの炎に胸の内を炙られながら、ダリアスはロムスの身体を引き起こす。
「さあ、答えろ。貴様はどのような手管で俺の妻をたぶらかそうとしたのだ、痴れ者よ?」
「わ、わたしはただ、相応の代価をいただこうと思っただけだ!」
ロムスが、そのようにわめきたてた。
その顔にはもはや善良なる神殿長の面影もなく、ただひたすらに醜悪なばかりであった。
「相応の代価とはどういうことだ? 俺の傷が癒えれば、働いて恩を返すという約束であっただろうが?」
「し、しかしあなたは、やはり傷など負っていなかったようですな、アッカム殿。……わたしを先にあざむいたのは、あなたがただ!」
醜悪なるその顔に、いっそう醜悪な笑みが浮かぶ。
「その包帯の下の顔にも、傷などは負っていないのでしょう? そうして面相を隠そうとするからには、罪人であるに違いない。罪人であれば、衛兵をお呼びするのが王国の民としての道理でありましょう?」
「……そのような言葉を並べたてて、俺の妻をたぶらかしたわけか」
「罪人をかばうのであれば、相応の代価でありましょう」
ダリアスは、ふっと息をついてみせた。
「……手を離せ、レミ。事情は理解することができた」
「申し訳ありません……わたしは、ただ……」
「このようなことで、お前を責めるわけはないだろう? お前はその身を犠牲にしてまで、俺などを守ろうとしてくれたのだ」
ラナの体温が、ダリアスの背中から離れていった。
嗚咽をこらえようとする気配が、かすかに伝わってくる。
それを背中に感じながら、ダリアスはロムスの小さな身体をおもいきり投げ飛ばした。
ロムスの小さな身体は本棚にぶち当たり、べしゃりと床の上に落ちる。
その衝撃で、本棚は大量の書物とともにロムスの身体へとのしかかることになった。
「ぎゃああっ!」というぶざまな悲鳴を最後に、ロムスの身体は動かなくなる。ただ、書物の隙間から覗く指先が、ぴくぴくと痙攣していた。
「……服を着ろ。ここから出るぞ」
「で、ですが……」
「ですがも何もない。これ以上、このような胸糞の悪い場所にいられるものか」
ダリアスは、ゆっくりとラナのほうを振り返った。
自分の上衣をかき抱いたラナは、涙に濡れた瞳でダリアスの姿を見つめている。
「怒ってはいないと言っているだろう。だから、もう泣かないでくれ」
「……はい」と小さな声で答えるや、ラナはダリアスに背を向けた。
何も纏っていないラナの背中を見せつけられて、ダリアスは慌ててそっぽを向く。
しばらくののち、服を着込んだラナとともに、ダリアスは執務室を飛び出した。
幸い、あれだけの騒ぎを起こしても、他の神官たちは姿を見せようとしていなかった。
「こ、これからどうなさるおつもりなのですか?」
「こうなったら、ダーム公爵邸に出向いているティートと合流するしかないだろう。何なら、そのまま公爵邸に突撃してもいい」
そのように答えながら、ダリアスはラナにうなずきかけてみせた。
「ティートの策が不十分であったから、お前があのような目にあうことになったのだ。俺はもう少しで、ギムにも自分にも顔向けできなくなるところだった」
「ダリアス様……」
「泣くなよ、ラナ。悪いのは、俺とティートだ。あとは、王都でふんぞりかえっている祓魔官めだな」
ラナを安心させようと、ダリアスは笑ってみせようと考えたが、包帯を巻いたままではそれもかなわなかった。
しかたがないので、回廊を小走りで進みながら、ラナの頭にぽんと手をのせる。
こんな幼子をあやすようなやり口ではラナを悲しませるだけだろうかと危うんだが、ラナはまたその目に涙をためながら微笑みを返してきてくれた。
「わたしこそ、けっきょくダリアス様にご迷惑をおかけしてしまいました。でも……こうしてまた心を偽ることなく、ダリアス様と言葉をかわすことができるようになって……心から嬉しく思ってしまっています」
「まったく無茶な真似をしたものだな。察するに、昨晩の内からあの痴れ者めに脅されていたのか?」
「はい。衛兵を呼ばれたくなかったら、その身を捧げよ、と……あの御方は、最初からわたしたちの素性を疑っていたようですね」
「ふん。神官などというのは、やはり痴れ者の集まりだということだな。あの祓魔官めを信用していいのかどうか、いっそう疑わしくなってきてしまったぞ」
そのように言葉を交わしながら、二人は聖堂にまで辿り着いた。
ダリアスは真っ直ぐ出口に向かおうとしたが、ラナに「お待ちを」と引き止められてしまう。
「ティート様から銅貨を預かっていますので、それも持っていきましょう。どのような事態に陥るかもわかりませんので」
「一刻も早くこの場を離れたほうがいいと思うのだが……まあいい。手早く済ませるぞ」
もしもティーノと合流できなかったら、銅貨が必要なこともあるだろう。それに、ラナも人相を隠せるように外套を纏っておくべきだと思えた。
自分たちの寝所に駆け込んで、必要な荷物をかき集める。その中で、ラナは卓の上に置かれていたおとぎ話の書物も荷袋にいれていた。
「では、行くぞ」
慌ただしく、聖堂に舞い戻る。
すると、奥の扉のほうから多数の人間の声が聞こえてきた。ついに執務室の惨状が神官たちの知るところになったのだ。
二人は、エイラの神殿を飛び出した。
西の空には雲がたなびき、うっすらと紫色に染まり始めている。いよいよ夕刻が近づいてきているのだ。
状況は最悪に近かった。
しかしダリアスは、何やら清々しい気分でもあった。
ようやくあの陰気な建物から出ることがかなったのだ。十日近くも自由を奪われていたダリアスにとって、それは牢獄から解放されたような心地であった。
「ラナの身は、俺が絶対に守ってやるからな」
「はい」とうなずくラナの瞳には、もはや涙もなかった。
そうして二人は、街路をひた走り――やがて最初の曲がり角で、アブーフ侯爵家を名乗る奇妙な一団と出くわすことになったのだった。