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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第三章 紡がれる運命
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Ⅲ-Ⅲ 再会

2017.6/3 更新分 1/1

 クリスフィアがダーム公爵領に到着して、三日が過ぎ去った。

 月日で言えば、朱の月の二十五日のことである。

 その日もクリスフィアは、朝からダームの港町を駆けずり回っていた。


 学士長フゥライは、いまだに発見できずにいる。フゥライが逗留しそうな宿屋や立ち寄りそうな場所をくまなく捜索しているのだが、ときたま目撃の証言が得られるぐらいで、いっこうに消息をつかむことができずにいたのだ。


「えい、いったい何なのだ! フゥライという御仁は、わたしたちから逃げまどっているとしか思えんぞ!」


 さすがにいくぶんめげてきたクリスフィアがそのように声をあげると、水筒の水で咽喉を潤していたリッサが「きっとそうなのでしょうね」と不機嫌そうに応じてきた。


「どういうことだ? わたしたちから逃げ回る理由など、そのご老人には一片も存在しないはずであろうが?」


「ですから、《賢者の塔》を離れた学士長は羽の生えたトトスのようなものだと言ったでしょう? また窮屈な手綱をつけられてはたまらんと思って、懸命に行方をくらませようとしているのですよ、きっと」


 さまざまな国の人間が行き交う往来で、クリスフィアは深々と溜息をつくことになった。


 実は二日前、再びエイラの神殿を訪れた際に、フゥライからの伝言を届けられることになったのである。

 その内容は、「所用が片付けばダーム公爵邸までおもむく」というものであった。

 しかしその日もその翌日も、フゥライがダーム公爵邸に現れることはなかった。それどころか、港町においても一日置きにねぐらを変えて、クリスフィアたちから逃げ回っている様子なのである。


 一年の大半を《賢者の塔》で過ごし、ときたまこうして市井に下るのが、フゥライにとっては一番の楽しみであるのだという。それにしたって、侯爵家の嫡子たるクリスフィアの要請を二の次にするなどというのは、本来許される話ではなかった。


(普段であれば、貴族に媚びへつらわない頑固爺というのも、わたしにとっては愛すべき存在であるのだがな)


 しかしこの際は、厄介なことこの上なかった。クリスフィアの一番の使命はダーム公爵トレイアスと十二獅子将シーズの内心をうかがうことであったのに、一日の大半をフゥライの捜索に費やすことになってしまったのだ。


 もちろん同時進行で、そちらの仕事も果たしている。昨日などは、わざわざシーズの屋敷や兵舎などを訪れて、内情を探ることになった。トレイアスとも毎晩食事をともにして、あれこれ探りを入れている。


 だが、なかなか両名の真情をあばくことはできなかった。

 二人とも、ベイギルス新王やカイロス先王の話題に及ぶと、笑ってごまかしたり話をそらしたりで、いっこうに本音を覗かせようとしないのである。ただひとつわかったのは、彼らがクリスフィアとそのように込み入った話をするつもりはない、ということだけだった。


(逆に考えれば、このたびの災厄に関して何かしら思うところがある、ということなのだろうな。あのような騒ぎで先王を失ったのだから、当たり前と言えば当たり前の話だが……それでも、そうまでして心情を隠す必要があるのだろうか?)


 たとえばディラーム老などは、すべての話を打ち明けてくれる前から、先王を失った無念を語っていた。家臣としては、そのように思うのが当然のところだろう。

 しかしトレイアスとシーズの両名は、交流の薄い新王を揶揄したり皮肉ったりするぐらいで、先王や第四王子については固く口を閉ざしていた。それはすなわち、赤の月の災厄の夜に関しては何も触れたくはない、という意思表示であるように思えてならなかった。


(本当は、先王を亡くしたことを強く嘆いているのか……あるいは、すでに新王に絶対の忠誠を誓っているのか……それを、隠そうとしているのだろうな)


 そしてクリスフィアは、昨晩レイフォンから驚くべき言葉を届けられてもいた。

 なんと、行方知れずのダリアスがまだ生きていて、どこかに潜伏しているかもしれない、というのだ。


 こまかい事情までは伝えられなかったが、とにかくダリアスが生きているということを証言する人間を発見できたらしい。これはまだ宮廷内でもごく一部の人間にしか知らされていない話であるので、くれぐれも他言無用――と、王都から駆けつけてきた使者はそのように述べていた。


(あちらはきちんと成果をあげているのに、まったく不甲斐ないことだ。せめて学士長ぐらいは捕まえておかねば、面目が立たんぞ)


 そのように考えながら、クリスフィアはリッサとフラウを振り返った。


「さて、休憩はもう十分であろう。また港の市のほうでも覗いてみるか」


「ええ? まだ歩き回ろうというおつもりですか? 僕はもう、足が棒ですよ!」


 たちまちリッサが不平の声をあげる。ここは街路の片隅であり、名も知れぬ店の壁によりかかったリッサは、確かにくたびれきった顔をしていた。


「だいたい、この三日間でダームの港町は案内しつくしたでしょう? これ以上は、僕を連れ回す必要なんてないんじゃないでしょうか?」


「いや、わたしとフラウだけでは、三歩も進まぬ内に迷子になってしまいそうだ。現に、ここから港の市に向かうにはどの道を辿ればいいのか、わたしにはさっぱり見当もつかんしな」


「頭の中に地図を描いてくださいよ! 覚えようという気がないから覚えられないんです」


 リッサは壁に背をつけたまま、ずるずるとへたり込んでしまった。


「とにかく、僕はもう一歩も動けませんからね! 案内させたいなら、おぶっていってください!」


「ふむ。そうするしかないなら、しかたあるまいな」


 そうしてクリスフィアが近づこうとすると、リッサはぎょっとした様子で壁にべったりとへばりついた。


「や、やめてくださいよ。冗談に決まってるじゃないですか。そんな、幼子でもあるまいし」


「お前は痩せているから、幼子のようなものだ。何も気にする必要はない」


「気にしますよ! 人間にべたべた触られるのは嫌いなんです!」


 すると、額の汗をぬぐいながら、フラウも「あの」と声をあげてきた。


「わたしも少々疲れてしまいました。それに、ここから港まで足をのばしていたら、明るい内に戻ることも難しくなってしまうのではないでしょうか?」


 太陽は、すでに西に大きく傾いている。もう一刻もすれば、夕闇が降りてくる頃合いであろう。


「しかたないな。それでは、屋敷に戻ることにするか」


「ええー? 御者と荷車のところまでは、ここから半刻もかかりますよ?」


「いや、だからといって、ここで夜を明かすわけにもいくまい?」


「こんなにへとへとなのに半刻も歩けませんよ! 水筒も空っぽになっちゃいましたし!」


 クリスフィアは、再び溜息をつくことになった。


「それでは、どこかでひと休みしてから、荷車を預けた酒場まで戻ることにするか。この辺りで、茶を飲める店などはあるのか?」


「ここからだったら、噴水通りの《カロンのひづめ亭》ですね!」


 リッサはぴょこんと立ち上がるや、意気揚々と歩き始めた。


「何をやってるんですか? はぐれても知りませんよ?」


 クリスフィアは口をへの字にしてしまったが、フラウはくすくすと笑っていた。


「リッサというのは面白い娘ですね。彼女が案内役をつとめてくれているおかげで、わたしは毎日楽しいです」


「そうか。フラウが楽しいなら何よりだな」


 しかたなしに、クリスフィアもリッサの後を追うことにした。

 大通りに出て、少し歩くと、巨大な噴水が見えてくる。広場にはたくさんの屋台が出されており、人通りも格段に多かった。


「ああ、くたびれた! まったく、この数日間で一生分を歩かされた気分ですよ」


 目当ての店を見つけたリッサは、入り口の前に出されていた粗末な椅子の上に腰を下ろした。小さな丸い卓を囲む形で、ちょうど残り二つの椅子が置かれている。他の卓は、すでに他の客たちに占領されていた。


「いらっしゃい。《カロンのひづめ亭》にようこそ。今日は上等な燻製肉が入ってるよ」


「晩餐が近いから、ラマンパの実か何かで十分だよ。あと、チャッチの茶を三つね」


「はいよ。ちょいと待ってておくれ」


 気のよさそうな壮年の女が、また店の中に引っ込んでいく。それを横目に、クリスフィアたちも着席することにした。


「こういう店での振る舞いに関しては、お前もずいぶん手馴れているようだな、リッサよ」


「それはいちおうこの港町の生まれですからね。だから僕を、こんなところにまで引っ張ってきたんでしょう?」


「それは確かにその通りだが……しかし、どうしてダームで生まれたお前が、王都で学士などになることを目指そうと考えたのだ?」


 目の上にひっつけた皿の向こうから、リッサはけげんそうにクリスフィアを見つめているようだった。


「学士になるには王都に向かうしかないでしょう? 質問の意味がわかりませんよ」


「いや、このように素晴らしい故郷を捨てて、どうして学士などになろうと考えたのか、そこのところがわからぬのだ。何か込み入った事情でもあるならば、無理に話す必要はないが」


「込み入った事情などありゃしませんよ。僕はダームで生まれたからこそ、学士を目指すことになったんです」


 そのように述べながら、リッサは通りのほうに目を向けた。


「この地には、世界中からあらゆる人間が集まります。大陸だけではなく、海の外からもですね。そこから伝わるさまざまな伝承や神話などを耳にしている内に、僕はこの世界のことをもっと深く知りたいと考えるようになったのですよ」


「世界のことか。ずいぶん壮大な話だな」


「もしも僕があなたみたいに頑丈な身体を持っていたら、きっとこの足で世界中を旅して回りたいと考えたのでしょうね。でも、そんなことは不可能だから、僕は書物の中に世界の真理を見出そうと考えたのです。この世界はいったい何なのか、神話や伝承の裏にはどんな真理が隠されているのか――僕は、そいつを解き明かしたいのですよ」


 いつも仏頂面をしているリッサの顔に、何か不思議な表情が浮かんでいるように感じられた。

 しかし、目もとが隠されてしまっているために、はっきりとはわからない。


「実際、このアムスホルンという大陸は、おかしな土地ですよ。六百年前に四大王国に支配されるまでは、いったいどのような世界であったのか、すべて謎に包まれてしまっています。残されているのは、すべてふわふわとした神話や伝承ばかりで、実態がまったくつかめないんです。まるで誰かが意図的に隠してしまったかのような有り様なのですよね」


「それはだから、実際に神々や魔物に支配されていた、ということなのではないのか? もちろんわたしにだって、そんな世界は想像することもできないが」


「だったらその期間、人間たちは何をしていたんです? ある日いきなり神々や魔物がいなくなって、人間が支配者に担ぎあげられたわけですか? それでは神々や魔物たちは、いったいどこに隠れてしまったのでしょう?」


 クリスフィアには、答えることができなかった。

 リッサはひとつ肩をすくめると、いつもの仏頂面を取り戻して、またこちらに向きなおってくる。


「ということで、僕はこの世界の成り立ちや真の相というものを探究するべく、学士を志すことになったわけです。あーあ、こんなところにまで連れ出されなければ、日に三冊は書物を読めたでしょうにね」


 そのとき、さきほどの女性が大きな盆を手に姿を現した。


「お待ちどうさん。チャッチの茶が三つに、ラマンパの実ね。お代は赤銅貨二枚だよ」


「ああ、ありがとう。……まさか、僕に払えとは言いませんよね?」


 クリスフィアは苦笑しながら、言われた通りの代金を支払った。

 女性は笑顔で引っ込んでいき、リッサはさっそくチャッチの茶に口をつける。


「ああ、美味い! 疲れたときには、やっぱり冷たい茶ですね」


「これがラマンパの実か。これはこのまま食べていいものなのか?」


「他に食べようがあるなら、どうぞお好きなように」


 ラマンパの実というのは、親指の爪ぐらいの大きさをした淡い褐色の豆だった。見た目はつるんとしており、鼻を寄せると香ばしい匂いがする。


「ラマンパの実は温かい土地でないと育ちにくいですからね。アブーフ生まれのあなたがたには馴染みがないわけですか」


 そのように述べながら、リッサはつまんだ豆粒を口の中に放り入れた。

 クリスフィアとフラウも、おそるおそるそれにならう。


 噛むと、ラマンパの実はあっけなく粉々になった。

 香ばしい匂いが、鼻のほうにまで抜けていく。カリカリと心地好い食感でありながら、意外に油分も豊富であり、冷たいチャッチの茶をいっそう美味しくいただくことができた。


「この風味には覚えがあるな。料理で使われたりもしているのかな」


「ああ、焼いた魚に削って粉にしたものをまぶしたりしますね。こんなちっぽけな豆粒ですが、意外に滋養はあるそうですよ」


 何となく、なごやかな空気が漂っているように感じられた。

 晩餐などではトレイアスたちも同席しているため、あまり気安く口をきくこともできないのだ。リッサなどは好き勝手に振る舞っていたが、秘密の任務をおびたクリスフィアはいつも気を張っていなければいけなかったのだった。


「何だか、アブーフから王都を目指していた頃を思い出しますね。あの頃も、毎日が楽しかったです」


 チャッチの茶を手に、フラウが笑顔でそのように述べたてた。

「そうだな」とクリスフィアも微笑を浮かべてみせる。


 二人はこの地で、初めて海というものを見ることができた。そこに浮かんだ巨大な商船を見ることもできた。北の民と見まごう巨体をした渡来の民や、小柄で白い肌をした南の民、どこにでも現れる黒い肌の東の民――リッサの言う通り、この地には世界中からさまざまな人々が集っていた。遊びで訪れていたのなら、これほど興味深い土地はなかなか他になかっただろう。


(もしもすべての厄介事を片付けて、アブーフにまで舞い戻ったら、再びこの地にやってくる機会はあるのかどうか……ちょっと難しいところだろうな)


 クリスフィアは、しばらく任務のことを忘れることにした。

 自由に使える時間は、せいぜい残り半刻ほどだ。それぐらいの時間は好きに過ごしても、誰に責められるいわれもないはずだった。


「本当に、この港町で一夜を過ごしたいぐらいだな。お屋敷の立派な晩餐などより、宿屋で食べる素朴な魚料理のほうが、きっとわたしたちには美味に感じられるぐらいだろう」


「きっとそうですね。リッサと三人なら楽しいでしょうし」


「僕は何でもかまいませんよ。今度は宿屋をご所望ですか?」


「いや、そうするわけにはいかんのだ」


 残念ながら、時が来れば公爵邸に戻らざるを得なかった。

 本日は、またシーズも公爵邸を訪れる予定になっているのだ。要人が二人顔をそろえる機会を、自ら無駄にするわけにはいかない。


「そういえば、例のティートという御方には、けっきょく会えずじまいですね」


 と、フラウがふいにそのようなことを言いだした。

 ティートというのは、公爵邸に出入りしている謎の人物だ。王都の聖教団の関係者であるという話であったが、それ以上のことはわからない。ただ、その人物がダーム領のエイラの神殿に身を寄せていると聞いて、クリスフィアは得体の知れない警戒心をかきたてられたのだった。


「公爵家の霊廟の調査をしているんでしたっけ。何を調べているのか知りませんが、酔狂なことですね」


「ふむ。学士であるお前がそれを酔狂と笑うのか?」


「何も笑っちゃいませんが、そんな場所に世界を解き明かす謎が隠されているとは思えませんね。どうせ近年になって建て替えられた、ご立派な霊廟なのでしょうし」


「聖教団の人間というものも、学士のように世界の謎を解き明かそうとしているのか?」


 最後のラマンパの実を口にいれたリッサは、それをガリガリとかじりながら首を傾げた。


「以前にも言いましたが、神官と学士というのは正反対の立場にあるのですよ。我々は世界の秘密をあばこうとしている身で、あちらは世界の秘密を守ろうとしている身である、とでも言いましょうかね。西方神の教義こそが唯一絶対の真理であると信じている彼らにとって、そこに人間目線の解釈や分析をほどこそうとするのは、一種の冒涜に値するのですよ」


「ふむ。冒涜、か……」


「まあ、現在の聖教団にそんな堅苦しい人間がどれだけ残っているかは、知れたものではありませんけどね。神官たちを支配する神官長からして、現世の享楽にどっぷりつかっているのだという、もっぱらの評判なのですから」


 そのとき、下りの四の刻の半を告げる鐘の音が鳴り響いた。

 太陽はさらに大きく傾き、夕暮れが近いことを教えてくれている。


「すっかり長居をしてしまったな。そろそろ戻らなくては、トレイアス殿をお待たせすることになってしまうだろう」


「はいはい。最後のひと働きですね」


 三人は席を離れて、帰路を辿ることにした。

 通りの賑やかさは、相変わらずだ。この地の宿屋で過ごす者には、まだ慌てるような時間でもないのだろう。


「そうだ。最後にエイラの神殿に寄っていきたいのだが、遠回りになってしまうだろうか?」


「んー? まあ、遠回りと言えば遠回りですが、僕が嘆くほどではありませんね」


「ならば、よろしく頼む」


 すると、クリスフィアのかたわらを歩いていたフラウが不思議そうに顔を寄せてきた。


「姫様は、まだあのレミという娘に何かご用事があるのですか?」


「ああ。二日前には、あえて聞かずにおいたが……ティートという人間を知っているかどうか、それを質しておこうと思ってな」


 そのように答えてから、クリスフィアは前方を歩くリッサの背に呼びかけた。


「リッサよ。公爵家の霊廟を何日もかけて調べるというのは、聖教団の人間にとって当たり前の行動なのだろうか?」


「あまり当たり前とは思えませんね。今さら物珍しい発見があるとも思えませんし」


「そうか。ならばそのティートという人間には、他に何か企みがあるのやもしれんな」


 根拠はない。ただの直感である。しかしクリスフィアは、いつでも自分の直感というものを信じて生きてきたのだった。


(数ある神殿の中で、エイラの神殿に身を寄せているというのが、一番気に食わん。あのレミにアッカムという者たちは、公爵家に対して何か思うところがあるように見えたし……世間話をよそおって、さりげなく様子をうかがってみよう)


 それから四半刻ほども歩くと、クリスフィアにも見慣れた光景になってきた。町の外れの、さびれた区域である。


「あの小路の先が、エイラの神殿だったか」


「ええ。今日は石を彫る音も聞こえてきませんね」


 先頭を歩いていたリッサが、ひょいっと横合いの小路に足を踏み込んだ。

 その瞬間、リッサは「うひゃあ!」と叫んで後ろにひっくり返ってきた。


「どうした、リッサ!」


 フラウのことをかばいながら、クリスフィアは腰の長剣に手をかける。

 すると、リッサを迂回するようにして、巨大な人影が姿を現した。


 旅用の薄汚れた外套に、頭巾から覗く包帯の顔――それは、エイラの神殿をねぐらにする傭兵アッカムであった。

 アッカムもまた、その巨体の陰に伴侶のほっそりとした姿をかばっている。最初に口を開いたのは、その娘のほうだった。


「あ、あなたがたは……こ、このようなところで、何をされているのですか……?」


「実はちょっと、あなたがたにうかがいことがあってな」


 そのように答えながら、クリスフィアは剣の柄から手を離すことができなかった。外套の下で、アッカムも同じようにしていることを本能的に察知したからである。


 それにアッカムは、何やら様子がおかしかった。

 包帯の隙間から覗く茶色の瞳に、凄まじい激情の炎を宿していたのである。

 三日前に初めて顔をあわせたときも、この人物は手負いの獣じみた気迫を発散させていた。しかし、本日の彼は――それこそ、戦のさなかの兵士のように物騒な気配を全身に纏わせていたのである。


「悪いが、俺たちは急いでいる。話ならば、また今度にしてもらおう」


 底ごもる声で、アッカムはそう言った。

「そうか」とクリスフィアはわずかに腰を落とす。


「しかし、凄まじい殺気だな。それがわたしに向けられたものではない、と信じたいところなのだが――」


「……邪魔をするなら、斬り捨てるぞ」


 アッカムの双眸が、いっそう激しい炎をはらんだ。

 その腕に、レミが取りすがる。


「おやめください、ダ……アッカム! 今は一刻も早く、この場を離れないと――」


 レミのほうは、憔悴しきっている様子であった。

 艶のない黒髪はぼさぼさに乱れて、額にもつれかかってしまっている。その清楚で純朴そうな顔は、今にも声をあげて泣きだしてしまいそうだった。


「何も邪魔立てするつもりはないが、ずいぶん剣呑な雰囲気だな。それに、あなたは――たしか、足も負傷しているという話ではなかったか?」


 クリスフィアは最初からそれを虚言と見抜いていたが、アッカムはもうそんな虚言を突き通す余裕もないようで、二本の足でしっかりと大地を踏みしめていた。


 アッカムは外套を振り払い、剣の柄をつかんだ右腕をあらわにする。

 その腕に、またレミが取りすがった。


「いけません、アッカム! この御方は、貴族なのですよ?」


「そうか……お前はアブーフ侯爵家の人間だと名乗っていたな」


 そこでアッカムの瞳が、奇妙な風にゆらいだように感じられた。


「それでお前は、ダーム公爵の屋敷に逗留しているという話だったが……それは真実なのか?」


「うむ、真実だ。それが虚言であれば、フゥライという人物に言伝を頼んだ意味もあるまい」


「ならば……俺たちにその場所を教えてはくれぬか?」


 クリスフィアは、軽く目を見開くことになった。


「ダーム公爵にどのようなご用事だ? わたしとて客分の身であるのだから、素性も知れぬ人間をともに連れ帰るわけにはいかぬのだが」


「場所を教えてくれるだけでいい。その屋敷には……俺たちの知人が訪ねているはずなのだ」


 クリスフィアは黙考しつつ、その間にリッサを助け起こすことにした。

 そうして、自分の疑問をおもいきってぶつけてみることにする。


「それはひょっとして、ティートという人物のことであるのかな? その人物は、エイラの神殿に身を寄せているのだと聞いた覚えがある」


「……ああ、その男だ。俺たちはその男に用事があるだけなので、公爵邸に足を踏み入れようとは思わん。屋敷の外で待たせてもらうつもりなので、どうか場所だけでも教えてもらいたい」


 そのとき、小路の向こうからけたたましい声が聞こえてきた。


「そ、その者たちを捕まえてください! その者たちは、大罪人です!」


 アッカムが、炎のような目をそちらに差し向けた。

 クリスフィアも覗き込んでみると、道の果てにある神殿の入り口から、神官と思しき男たちがわらわらと出てくるところであった。

 クリスフィアは、一瞬で決断した。


「リッサ、逃げるぞ! 道案内を頼む!」


「え? ああ、はい。荷車に戻ればいいんでしょうか?」


「もちろんだ。なるべくあの者たちに追いつかれないような道順でな」


「嫌だなあ。どうして最後の最後でそんな疲れることをさせるんですか」


 不平の声をあげながら、リッサはよたよたと走り始めた。

 フラウの腕をつかみながら、クリスフィアはアッカムらを振り返る。


「ついてきたいならば、好きにするがいい。納得のいく話を聞かせてもらえるならば、荷車に乗せてやらなくもないぞ」


 立ちすくんでいたアッカムとレミは、それで正気に返ったかのように、慌ててクリスフィアたちを追いかけてきた。

 その背後からは、神官たちのあげるわめき声が力ない小石のように飛んできていた。

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