Ⅳ-Ⅱ 疑惑
2017.5/6 更新分 1/1
夜――ダリアスは、エイラの神殿の寝所でラナに本を読んで聞かせていた。
日中に、学士長のフゥライから受け取った書物である。それはあの老人が言っていた通り、セルヴァに伝わる神話や伝承をおとぎ話の形でまとめあげた幼子のための読み物であった。
登場するのは四大神や七小神、それに不思議な妖精や魔物などだ。北方神の眷族である氷雪の妖精がセルヴァの領土に悪戯で雪を降らせたり、豊穣神マドゥアルが酒の匂いにつられて人間たちの宴にまぎれこんだり、運命神ミザが悩める恋人たちに正しい道を指し示したり、と――いずれもどこかで耳にしたことがあるような、ごくありふれた寓話を編んだ一冊である。
その中でラナが気に入ったのは、花の妖精と剣士の物語であった。
月の花という伝説上の花の妖精が、人間の剣士に恋をしてしまう。それで月の女神に願い事をして人間の姿にしてもらうのだが、最後はけっきょく女神との約束を守れずに魂を失ってしまうという、悲恋の物語であった。
すべての話を聞き終えると、ラナはその物語だけもう一度聞かせてほしいとせがみ、最後にはうっとりとした顔で書物を胸もとにかき抱いていた。
「素敵なお話ですね……わたしはこの話が一番大好きです」
「そうか。俺はあんまり、好きにはなれないのだが」
「あら、どうしてですか?」
「どうしてと言われてもな……とりあえず、月の女神のやり口が気に食わん。花の妖精に情けをかけたのなら、最後まできちんと面倒を見てやるべきではないか。条件つきで温情など与えるから、このように悲しい結末になってしまうのだ」
「まあ」とラナは微笑んだ。
「ダリアス様は、そのようにお考えになられるのですね……わたしはそれほど悲しい結末だとは思わなかったのですが」
「いや、これほど悲しい結末はないだろう。魂を失ってしまう上に、最後に目にするのは剣士が他の娘と恋仲になる姿なのだぞ? これでは剣士などに近づかず、妖精のままふわふわ生きていたほうがまだしも幸せだったではないか」
「それでも、剣士が幸福になる姿を見届けることができたのですから、きっと満ち足りた気持ちで魂を返すことができたのだろうなと思います。それに……たった七日間とはいえ、愛する相手と幸福な時間を過ごすことができたのですから……」
「七日間など、あっという間だ。心正しき者は最後まで幸福な日々を送るべきだろう」
ラナは書物をかき抱いたまま、とても切なげにダリアスを見つめていた。
「ダリアス様は、本当にお優しいのですね。……でも、妖精にはもともと人間と結ばれる資格などなかったのです。ですからやっぱり……これが正しい結末なのでしょう」
ダリアスは、思わず言葉を失ってしまった。
そのように語るラナが、まるで花の妖精そのもののように感じられてしまったのだ。
燭台のわずかな光に照らされるその面は、微笑んでいるのに泣いているように見えた。
「ラナ、お前は……」
ダリアスはそのように言いかけたが、けっきょく口をつぐんでしまう。
すると、その静寂を埋めるかのように、寝所の戸板が外から叩かれた。
ダリアスは、反射的に長剣をひっつかんだ。
ラナは、青ざめた顔で戸板のほうを振り返る。
「ど、どなたでしょうか……?」
「このような夜更けに申し訳ありません……ティートです」
二人は同時に安堵の息をつくことになった。
立ち上がろうとするダリアスを押し留めて、ラナが戸板のほうに向かう。閂を外して戸板を開けると、そこから現れたのはまさしく灰褐色の頭巾と外套を纏った痩身の若者であった。
「失礼いたします。……まだお休みにはなられていませんでしたか」
「ようやく姿を現したな。ダーム公爵家に乗り込む算段は整ったのか?」
「……その件についてご相談があります」
ティートがしずしずと入室してくると、ラナは素早く戸板を閉めて、きちんと閂まで掛けた。今はダリアスも顔の包帯を外しているため、余人に素顔をさらすこともかなわないのだ。
ここはもともと使用人のために造られた寝所で、非常に狭苦しい。部屋の半分は寝台に占領されており、あとは小さな棚と卓があるだけの粗末な造りであった。
ダリアスは、その寝台に腰を下ろしている。この部屋では、そこぐらいしか座る場所も存在しないのだ。
「どうぞ、ラナもお座りください。わたしはここでけっこうです」
ティートにうながされるままに、ラナはまたダリアスの隣に腰を下ろした。ティートはダリアスたちの正面で、片方の膝を床につく。
「そちらのほうは、お変わりありませんでしたか? 数日ばかりもご連絡をすることができず、申し訳ない限りです」
「こちらは、うんざりするぐらい変わりばえのしない毎日だ。いい加減に、ここを出る算段が立ったのだろうな?」
「は……それが、いささか面倒なことになってしまいまして……公爵家に、王都からの客人というものが住みついてしまったのです」
「ああ、アブーフ侯爵家の姫君というやつだな」
ティートは頭巾の陰で「は?」と目を丸くした。
「ど、どうしてダリアス様がそのことをご存じで……? 姫君らは、本日ダームに到着したばかりであるという話であったはずですが……」
「そうか、その話を先にしておくべきだったな。変わりばえのない毎日ではあったが、今日だけはそうとも言い切れぬ出来事があったのだ」
そうしてダリアスは、単調な日常に突如として現れた珍客について語ってみせることになった。
ティートは「なるほど……」と物思わしげに眉をひそめる。
「姫君たちは、学士長フゥライ様をお捜しになられている、と……いったいどうして、アブーフの姫君が学士長などを捜し求めておられるのでしょうね……?」
「それはこちらが聞きたいぐらいだ。やはり、お前でもわからぬか」
「皆目見当もつきません……これもゼラ様にご報告するしかないでしょう……しかし、得体の知れない姫君たちの目的を知ることができたのは僥倖でありました。わたしなど、困惑するばかりでありましたので……」
「それで、ダーム公爵に関してはどうなのだ?」
勢い込んでダリアスが尋ねると、「お静かに……」とたしなめられてしまった。
「現在、調査を進めております。……ことによったら、もう数日はお待ちいただくことになるやもしれません」
「なに? 王都を出てから、もう六日が経っているのだぞ? いったい何をそのように手間取っているのだ?」
「申し訳ありません……ダーム公爵家には、やはりすでに敵方の手がのびている恐れがあるのです……」
ダリアスは身を乗り出して、外套に半ば隠されたティートの顔を覗き込む。
「それは、真実の話なのか? まさか、俺の動きを封じるために、適当なことを述べたてているわけではあるまいな?」
「ど、どうしてわたしがそのような真似を……? わたしがそのような真似をする道理はないではありませんか……?」
「わからんが、とにかくお前たちは俺に動くな騒ぐなと申しつけるばかりで、何もやらせようとしないではないか? これはひょっとして、俺を飼い殺しにするための策謀なのではないかと疑い始めたところだ」
「で、ですからどうして、わたしたちがそのような真似を……」
「ふん。たとえば、来月には戴冠の祝宴というものが控えている。あれで諸侯へのお披露目を済ませてしまえば、新王はいっそう地盤を固めることができるだろう。それまでは、俺に余計な真似をさせないように足止めをしている、とかな」
ティートは困り果てたように、目をぱちくりとさせていた。
「ダ、ダリアス様は、いまだに我々がダリアス様をあざむいているとお考えになられているのでしょうか……?」
「このように陰気な場所に閉じ込められていては、こちらの考えも陰気に染まってしまうということだ。痛くもない腹を探られたくないというのなら、いいかげんに俺を外に出せ」
「は……ですから、ダーム公爵家の内情をつまびらかにするまでは、と……」
「待て。公爵家に敵方の手がのびているやもしれん、という話だったな。それは、公爵家の人間が謀反を起こさぬように見張られている、という意味なのか? それとも……すでに公爵家が敵方の勢力に取り込まれている、という意味なのか?」
「それは……その両方、でございます……」
「両方とはどういう意味だ。まったく意味がわからんぞ」
するとティートは居住まいを正して、いっそう低い声で驚くべき言葉を告げてきた。
「いまだ確証のある話ではありませんが……どうやら、ダーム公爵のトレイアス様か、あるいは十二獅子将のシーズ様の、どちらかが敵方の人間である可能性があるのです……」
「……なんだと?」
ダリアスは、血の流れが速くなっていくのを感じた。
「それが真実であれば、一大事ではないか。それは、どれだけ確かな話なのだ?」
「は……今のところは、五分五分かと……ですから、トレイアス様かシーズ様のどちらかが敵方の間者であり、謀反を起こさぬように相手を見張っている、という構図であるようなのです……」
トレイアスかシーズのどちらかが敵方の人間であるというのは、言うまでもなく恐るべき話であった。
王家に続いて五大公爵家までもが敵方の手に落ちたら、もはやそれは王国の命運を握られたのと同義なのである。
「あの災厄の日以降、ダーム公爵家でも、ひそかに王都の内情を探ろうという動きがあったようなのです……しかし、隠密裡に放たれた密偵は、王都の地を踏む前に、ことごとく始末されてしまったようで……状況から鑑みるに、それはダーム公爵領においてきわめて高い地位にある人間同士のひそかな戦いであるとしか思えぬのです……」
「トレイアス殿かシーズのどちらかが密偵を放ち、どちらかがそれを始末したということか。何ということだ……いったいどちらが、憎むべき敵であるのだ?」
「それを探っている最中であるのです……幸いと言うべきかどうか、ダーム騎士団そのものはそういった騒ぎに関与している様子はありませんので、おそらく外部から招いた人間に、そういった裏の仕事を任せているのではないかと……」
「騎士団は、敵方の手に落ちていないのだな? それは確かに朗報だ」
「は……シーズ様の副官や、公爵家の高官たちにもあやしいところはない、というところまでは突き止めることもできました……ですから、残るはトレイアス様かシーズ様のどちらかなのです」
ダリアスは腕を組み、大いに思い悩むことになった。
公爵家の当主たるトレイアスと、騎士団の長であるシーズ。どちらが敵でも、それは脅威である。
しかし、そのどちらもが薄汚い陰謀などには不似合いな人柄であるということを、ダリアスは知っている。豪放磊落なトレイアスか、秀麗な容姿で貴婦人を騒がせるシーズか、いったいどちらが許されざる背信者であるのだろうか。
「ですが、アブーフの姫君というものがこのたびの陰謀と無関係であるのでしたら、幸いでありました。この上、侯爵家の嫡子などというものまでが加わってしまったら、大変な事態になってしまいましょう」
「いや、しかし、完全に無関係であるとは言いきれん。そもそも、そのような立場の人間が学士長などを捜すというのもおかしな話なのだ。何か他に隠された企みがないとも知れぬのだから、決して油断するべきではないだろう」
「は……それに関しては、ゼラ様のご指示を仰ぎたく思います」
ティートが、ゆらりと立ち上がった。
「それでは、わたしはこれにて……さっそくゼラ様に伝書をしたためねば……」
「待て。その後、王都で新しい動きはないのか? ギムとデンに関しては、どうなのだ?」
「両名は、いまだ《裁きの塔》であるようです……お生命に危険はないようですので、くれぐれもご心配なきように、と……」
その言葉に、ラナは詰めていた息をもらした。
ティートは、深々と一礼する。
「では、失礼いたします……また近日中にご報告をいたしますので……」
ティートは部屋を出ていき、ラナは閂をしっかりと掛けた。
そうして、また深々と息をつく。
「おい、ラナ……」
「大丈夫です。わたしなど、ギムたちに比べれば何の苦労も背負ってはいないのですから……最後まで、自分の仕事をやりとげたいと思います」
このような騒ぎにラナたちが巻き込まれるのは、決して正しい運命ではない。
しかしまた、ラナたちにこのような運命をもたらしたのはダリアスに他ならないのだ。このような立場にあるダリアスには、なかなかかける言葉が見つからなかった。
「それでは、そろそろ休みましょうか。あまり燭台の油を無駄に使っては、神殿の方々に申し訳ありませんし……」
「ああ、そうだな」
ダリアスは靴を脱ぎ、寝台の上に横たわった。
ラナも同じように寝台の上に身を移しつつ、卓の燭台に手をのばす。
その息が炎を吹き消すと、寝所は一瞬で闇に包まれた。
「ダリアス様、よき夢を……」
「ああ、お前もな、ラナ」
ダリアスは壁のほうを向いて、ギムから授かった長剣を胸もとに抱え込んだ。
ラナも寝台に横たわる気配がする。
二人はもう何日も、こうして同じ寝台で眠っているのだ。
神殿の人々には夫婦であると言って回っているのだから、こればかりはしかたがない。別々の寝所を要求するような真似はできなかったし、安全の面からもラナと別の部屋で眠ることはできなかった。
ダリアスの図体がでかいので、油断をすると肌が触れそうになってしまう。また、肌が触れなくとも、ラナの体温が背中にじんわりと伝わってくる。その温もりに気持ちを乱されぬよう、ダリアスは冷たい長剣をしっかりと抱え込み、想念の中へと逃げ込むのが常であった。
(トレイアスかシーズのどちらかが背信者……これは、由々しき事態だな)
幸い、この夜は想念の種に困ることもなかった。
眠気などは訪れる様子もないので、ダリアスはその想念の中に打ち沈む。
(騎士団を動かすことができるのは、指揮官たるシーズだ。しかし、王都から派遣されているのは、シーズを含む十数名ていど……残りはすべてダーム公爵領の人間なのだから、シーズたちを始末すれば、新しい指揮官が派遣されるまでは、トレイアスの意のままに動かすことができるだろう。ならば、どちらが敵であっても、脅威の度合いに大した差はない、ということだ)
しかし、現実的に考えて、敵方に与するのはどちらであろうか。
その両名は、どちらも王家とはあまり親密ではない人間であった。なおかつ、現在の境遇に不満があるようにも思えない。前王を弑してまで新王に与する理由は、あまり存在しないように思えてならなかった。
(いや、あの災厄の夜にもダームから動くことはなかったのだから、直接的に関与したわけではないのか……しかし、王都の内情を探ろうとした密偵を始末したというのなら、それは許されざる罪だ。すでに己の手を血で汚す覚悟は固まっている、と見なすべきだろう)
それに、表面上の人柄や関係性などは、あまり意味を為さないようにも思えた。たとえば、大事な人間を人質にでも取られたりすれば、不本意であっても叛逆者どもに加担せざるを得ないだろう。あるいは、多額の報酬で目がくらんだとも考えられる。トライアスやシーズが本当はどのような人間であるのか、それを言いきれるほどダリアスは親密な関係を築いているわけでもなかった。
(だが、逆に考えれば、トレイアスかシーズのどちらかは、王都での動きを不穏に思って、内情を探ろうと考えたわけだ。ならば、背信者を始末すれば、こちらの味方につけることも容易であるかもしれない。まずは前向きに、そう考えるべきか)
ダリアスは、そのように考えた。
そのとき、背中のほうから奇妙な気配が伝わってきた。
ラナの身体が、わずかに震えているように感じられたのだ。
今は、寒さが厳しい時節でもない。毛布は薄っぺらくてところどころに穴も空いていたが、暖を取るには十分なはずである。
ダリアスはしばらく迷ってから、「ラナ……?」と呼びかけてみた。
返事はない。
ただ、ラナはぴくりと怯えるように背中を震わせた。
「ラナ」
とある予感に襲われて、ダリアスは半身を起こした。
覗き見をされないように鎧戸を閉めているので、部屋の中は真っ暗だ。ラナの姿も、闇に溶け込んでしまっている。
ただ、ラナの身体がまだ震えていることは気配でわかった。
そして、必死に嗚咽をこらえている気配も伝わってきていた。
「おい、ラナ」
ダリアスは手探りで、ラナの肩に手を置いた。
細くて温かいラナの肩が、ふるふると震えている。
「どうしたのだ? 何を泣いているのだ? ……ギムとデンのことが心配なのか?」
闇の中で、ラナは首を振ったようだった。
ラナの肩に触れたまま、ダリアスはその耳もとに口を寄せる。
「頼む、泣かないでくれ。お前に泣かれると、俺はどうしていいのかわからなくなるのだ」
「どうか……どうか、お気になさらないでください……」
ラナがようやく口をきいた。
だけどその声は、やっぱり涙声になってしまっていた。
「わたしはただ……あの物語のことを思い出してしまっただけなのです……」
「あの物語? それは……妖精と剣士の物語のことか?」
ラナは答えようとしなかった。
その代わり、まったく別のことを言った。
「わたしは……ダリアス様が幸福な生を取り戻すと信じております……たとえ最後まで、それを見届けることができなくとも……」
ダリアスは得体の知れない情念につき動かされて、ラナの肩を引き寄せてしまった。
どんなに近づいても、ラナの表情を見て取ることはできない。
しかしそれは、幸いなことなのかもしれなかった。
ダリアスは寝台に横たわり、ラナの小さな身体をかき抱いた。
「俺は間抜けな剣士ではないし、お前も花の妖精などではないぞ、ラナ。月の女神など、くそくらえだ」
「……ですが、ダリアス様は……」
「俺もお前も人間だ。それ以上でもそれ以下でもない」
ラナの温もりが、全身に伝わってきた。
さらに、熱いものが胸もとにしみこんでくる。
ラナの身体を壊してしまわないように、ダリアスはそっと力を込めた。
「もう眠れ。何が起きても、俺が守ってやる。そのように、誓ってみせただろう?」
ラナの指先も、おそるおそるダリアスの胸に取りすがってきた。
そうして、声を殺して泣き続けている。
ラナの運命は、絶対に救ってみせよう。
そんな思いを新たにしながら、ダリアスはラナのやわらかい髪に鼻先をうずめた。