Ⅲ-Ⅱ 公爵家の晩餐
2017.4/29 更新分 1/1
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ダーム公爵家で初めて迎える、夜である。
クリスフィアたちは約束通り、日が沈む寸前に公爵邸へと舞い戻り、トレイアスと食卓を囲むことになった。
卓には、三人の人間しかついていない。クリスフィアと、トレイアスと、そしてリッサである。本来、リッサはこのような場で客人として招かれるような身分ではなかったが、トレイアスのほうから同席を求めてきたのだった。
もっともリッサ本人はそれを喜んでいる様子もなく、さきほどからぶすっとした面持ちで料理をつついている。公爵家の料理人たちが準備した豪勢な料理も、この偏屈ものの学士の心をなごませることはかなわなかったようだった。
「しかし、そのように邪魔そうなものを目の上にくくりつけて、よくも不自由がないものだな! たいそう器用に料理を取り分けているではないか?」
己の故郷の支配者であるダーム公爵その人がそのように呼びかけても、仏頂面のまま「はあ」と応じている。
「これを外したら、それこそ三歳の幼子のように料理をこぼして、このご立派な敷き物を汚してしまうことでしょうね。また、自分が何を食べているのかもわからないまま、料理を口に運ぶことになると思います」
「ふむ。おぬしは暗がりで書物などを読みあさっていたせいで、そのように目を弱めることになってしまったのだという話であったな。まったく学士というのは因果な身分であるようだ」
「探究の喜びと引き換えにしてのことなのですから、どうということもありません。書物を読むことができないのなら、目など不要の長物でしょうからね」
「世の学士というものは、みんなおぬしのように愉快な人間であるのかな? そうだとしたら、これまで縁を結ぶ機会のなかったことが惜しまれるほどだ!」
晩餐の場においても、トレイアスは豪放に振る舞っていた。
その背後にたたずんだシム風の侍女は、薄く笑いながら硝子の酒杯に黄金色の酒を注いでいる。ときたま料理を追加で運んでくる小姓を除けば、主人のそばに控える従者もこの女とフラウの二名のみだった。
(ふむ……この食堂にも守衛の姿はなし、か。公爵家の当主という身分にありながら、ずいぶん無用心なものだ)
もちろん部屋の外では大勢の守衛たちが主人を守っているのだろう。しかし、もしもクリスフィアに悪心があったならば、たやすくトレイアスの首を獲ることも可能である。たとえ腰のものを外で預けているとしても、卓の上には料理を切り分けるための刀がいくらでも準備されているのだ。
(それだけこの地が平和であり、また、わたしがそのような真似をするわけがないと信頼してくれているのか……そうであるとしても、無用心であるということに変わりはない)
そのようなことを考えながら、クリスフィアは黙々と腹を満たし続けた。中天から日が落ちるまでダームの港町を駆けずり回っていたので、ひたすらに空腹であったのだ。
しかし、そうして半日を費やしても、けっきょく学士長たるフゥライと巡りあうことはできなかった。
リッサの案内でフゥライの立ち寄りそうな場所を一通り捜索したのだが、彼がこの地に滞在しているという痕跡を見出すことさえかなわなかった。唯一の成果といえば、エイラの神殿でフゥライらしき老人を見たというレミの証言ばかりであった。
(レミに、それとアッカムと言っていたか……どうもあの二人は、気になるな)
亭主のほうは元傭兵だなどと述べていたが、その言葉もはなはだしく疑わしいものであった。まず負傷しているという言葉からして虚言であろうし、一介の傭兵がクリスフィアをも凌駕する力量を持っているというのもなかなかありえる話ではない。クリスフィアは、自分こそがアブーフで一番の剣士であると自負している身であるのだった。
(学士長が見つかるまでは、毎日あの神殿に立ち寄ってみるべきか。……しかし、あれほどの剣士を敵に回しては厄介なことになる。いずれにせよ、あの者たちはこたびの一件とも無関係であるのだろうし、むやみに刺激するのも利口とは思えん)
こぼれそうになる溜息を、クリスフィアは甘辛い魚肉の煮汁とともに飲み下した。
すると、ようやくリッサをからかうことにも飽きたらしいトレイアスが、クリスフィアのほうに視線を転じてきた。
「どうであろうかな、クリスフィア姫よ? 我が屋敷の料理を楽しんでいただけているかな?」
「ええ、どれも珍しく、そして美味です。アブーフでは、あまり魚料理を口にする機会もありませんので」
「ふむ。北の地においては川の水さえ凍てつくという話であったが、それは真実であるのかな?」
「常に凍っているわけではありませんが、朝方に氷が張ることは珍しくありません。寒さの厳しい時節であれば、大の大人が川面に立てるほどです」
「それは愉快だな! やはり北の地というのは、同じセルヴァの領土でありながら、シムやジャガルに負けぬほど不可思議な土地であるらしい!」
トレイアスは、ご満悦の様子であった。さきほどから一人で黄金色の酒をあおっており、誰よりもたくさんの料理を胃袋に収めている。みずから剣を取ることはないとしても、豪傑と呼ぶに相応しい立ち居振る舞いであった。
(さほど裏のある人間とも思えぬが、実際はどうなのだろうな)
クリスフィアに託されたもう一つの任務、それはこの人物の人となりを見定めることであった。
前王の死についてはどのような気持ちでいるのか。もしもそこに不正な企みが隠されていたなら、現在の王に牙を剥く心意気を有しているのか――クリスフィアは、それを突き止めなければならなかったのだ。
「ところで、トレイアス殿は――」
と、クリスフィアが小手調べに質問の言葉を発しようとしたとき、手ぶらの小姓が主人に近づいてきた。
その小姓から何事かを耳打ちされたトレイアスは、「おお」と瞳を輝かせる。
「姫よ、珍しい客人がやってきたので同席させたいのだが、いかがであろうかな?」
「珍しい客人ですか?」
「うむ。我がダーム公爵騎士団を取りまとめる、十二獅子将のシーズ殿だ」
それは、勿怪の幸いというものであった。その人物も、トレイアスに劣らず心情を探るべき相手であるのだ。
クリスフィアが快諾すると、やがて一人の青年が小姓の案内で食堂に姿を現した。
「おお、シーズ殿、ひさかたぶりだな! こちらがアブーフ侯爵家の第一息女たるクリスフィア姫だ!」
「初めてお目にかかる、アブーフの姫君よ。わたしはダーム公爵騎士団長、十二獅子将のシーズと申します」
それは二十歳を少し超えたぐらいに見える、ごく若き将軍であった。
レイフォンから伝え聞いたところによると、災厄前から着任している十二獅子将の中では、ヴァルダヌスとダリアスに次いで三番目に若い人物であったらしい。貴公子らしく秀麗な容姿をした、長身の青年である。
色の淡い髪を肩まで垂らしており、目鼻立ちなどは優男の部類だ。しかし、武官らしく勇壮な装束を纏ったその長身は、十二獅子将の名に恥じないていどには鍛え抜かれている気配があった。
(数千名から成るという騎士団の、これが指揮官になるわけだな。まあ、王都で出会ったジョルアン将軍あたりと比べれば、その立場に相応しい風格か)
騎士団と称されてはいるものの、実際に騎士の位にあるのは、もちろん上位の人間のみであろう。それでも広大なるダームの領地を守り、時にはマヒュドラやゼラドとの戦いにも参じることのある、屈強なる部隊であるはずである。王都に留まって町の治安を守ることに専念する防衛兵団とやらの指揮官などとは差があって然りであった。
(しかしこれなら、剣の腕そのものはあのアッカムと名乗った男のほうが上手であろうな)
それはつまり、クリスフィアよりも力量は下である、という意味でもあった。
明確な根拠はない。常にマヒュドラの蛮族たちと戦い続けてきた、勇士としての勘である。
「さあ、お好きな席に座るがいい。なんべんも言って聞かせている通り、俺の家では食卓においても序列などは忘れてもらうからな!」
「ええ、わきまえておりますよ」
通常であれば、階位の高い貴族が上座に近い席につくべきなのだろう。トレイアスがわざわざ前置きを述べたのは、どう考えても平民にしか見えないリッサが、すでに上座に近い席に陣取っているためと思われた。
家の主人たるトレイアスは卓の一面を占領しており、右手側の上座にはクリスフィアが、左手側の上座にはリッサが座している。シーズなる若き将軍は、迷うそぶりも見せずにリッサの隣の席へと足を進めた。
「ほう、これは意外だな。俺はてっきり、美しき姫君の隣に陣取るのではと考えたのだが」
トレイアスがにやにやと笑いながらそのように述べたてると、シーズは如才なく微笑みながら腰を下ろした。
「隣に座っては、そのお美しいご尊顔を見るのに不自由でありますからね。こうして向かいの席についたほうが、目を喜ばせることもかなおうというものです」
「なるほど、そこまでは考えが及ばなかった! ……このシーズ殿という御仁は、王都においてもダームにおいても数々の浮名を流した女泣かせであるのでな。クリスフィア姫もそちらの侍女も、十分に用心されるがいい」
自分のみならずフラウまでをも引き合いに出されてしまうと、クリスフィアも愛想笑いを浮かべる気持ちにはなれなかった。
シーズは同じ微笑みをたたえたまま、リッサの横顔を見つめている。
「その言い様では、こちらの御方に失礼でしょう。とはいえ、わたしの言葉もいささかならず礼を失していたやもしれません。決してあなたを誹謗したわけではないのですよ、学士殿」
「はあ。べつだん何でもかまいませんが。上っ面の美醜など、僕にはどうでもいいことですし」
「クリスフィア姫が艶やかなるミゾラの花であるとしたら、あなたは月の下でひっそりと咲くラナの花のようです。わたしにとって、それはどちらも得難い美しさであると感じられます」
「はあ。それはどうもご丁寧に」
リッサはかまわず、焼かれた魚の身をほじくっている。
クリスフィアとしては、ちょっと見過ごせないやりとりであった。
「あ、あの、シーズ殿。恐れながら、あなたはそういうご趣味をお持ちであられるのか?」
「そういうご趣味とは? 美しきご婦人を愛でるのは、男子にとって当然の行いでありましょう」
「し、しかし、そのリッサとて、同じ男子の身ではないか?」
クリスフィアの言葉に、今度はシーズが驚くことになった。
「失礼。あなたは殿方であられたのかな、学士殿?」
「いえ。どちらかといえば雌に分類されると思いますが」
「ああ、それならよかった。男女の別もわからぬままに美しさがどうのと述べていたら、末代までの恥になるところでした」
クリスフィアは呆然としながら、ななめ後ろに控えていたフラウを振り返った。
フラウは困り果てたように微笑みながら、クリスフィアの耳もとに口を寄せてくる。
「姫様は、彼女を殿方と思っておられたのですか?」
「フ、フラウはあやつが娘であるとわかっていたのか? いったい、いつからだ?」
「いつからというか……最初にお会いしたときから、そのように思っていましたが……」
クリスフィアは、改めて正面に視線を転じた。
ぽきぽきとした骨っぽい体格をしたリッサである。学士の装束がぶかぶかであるので、あまり詳細は見て取れないところではあるが――それにしたって、年頃の娘らしいなよやかさや可愛らしさなどは、どこにも見出すことはできなかった。頭だって、のばし放題のぼさぼさだ。
「何も気にする必要はありませんよ、クリスフィア姫。僕だって、自分が男だとか女だとかを意識して生きているわけではありませんから」
「あ、いや、しかしその……」
「いいんですってば。あの大罪人たる第四王子だって、男だか女だかわからないような生き物であったという噂でしたしね」
食堂の空気が、一瞬にして凍りついた。
しかしそれは、トレイアスのあげたわざとらしい笑い声ですぐに粉砕されてしまう。
「忌み子たる第四王子の名をそうも軽々と口に出せるとは、なかなか豪気な学士であるな! いや、これは愉快なことだ!」
「愉快でしたか? 別に名前までは口にしていませんし、口にしたところで災いが降りかかるとも思いませんが」
「そうですね。かの王子もセルヴァに魂を返したのです。死者の裁きは大いなるセルヴァにおまかせするべきなのでしょう」
シーズも笑顔を取り戻して、シム風の侍女に注がれた黄金色の酒に口をつけた。
リッサの発言は予想外であったが、これは好機であるのかもしれない。そのように考えて、クリスフィアもさりげなく口を開くことにした。
「かの災厄の日から、もうひと月以上が経っているのですね。王都ではどれほどの騒ぎになっているのかと危うんでいたのですが、存外、落ち着いたものでありました」
硝子の酒杯を掲げたまま、シーズがゆっくりとクリスフィアのほうに視線を向けてくる。
「クリスフィア姫は、王都に立ち寄られてから、このダームにまで足をのばされたのでしょうか?」
「ええ。そもそもわたしは、戴冠の祝宴に招かれた身であるので」
「ああ、戴冠の祝宴……たしか、来月の半ばには開催されるのだという話でしたね」
「トレイアス殿やシーズ殿も、もちろん参席されるのでしょう?」
クリスフィアの言葉に、片方は大きな声で笑い、もう片方はやわらかく微笑んだ。
「さすがに公爵家の当主としては、参席を断るわけにもいくまいな! 十二獅子将たるシーズ殿とて、それは同様であろう?」
「はい。ゼラドやマヒュドラの蛮族どもが大人しくしていれば、の話ですが」
「ダームから王都まではトトスで一日の距離であるのだから、参席を断る理由にはなるまいよ。ひさびさに、王都の姫君らを喜ばせてやるがいいさ」
両者の会話は、どことなく白々しく響いているように感じられた。
しばし迷った末、クリスフィアはもう少しだけ踏み込んでみる。
「かの災厄には、おふた方もさぞかし驚かされたことでしょうね。このダームにまで、累が及ぶことはなかったのでしょうか?」
「ああ。このようなときだからこそ、しっかり公爵家の領地を守るべしと念を押されたまでだ。公爵領を踏みにじられない限り、王都の領土も安泰であるのだからな」
「……おふた方は、新王ベイギルス陛下の覚えもめでたかったので?」
トレイアスは、酒杯の酒を飲み干してから、にんまりと笑った。
「隠し事は性にあわんので、はっきり述べさせてもらおう。俺はまだ、新王陛下と一度として言葉を交わしたことがないのだ」
「一度として、ですか?」
「うむ。不敬を承知で言わせてもらうと、戴冠前のベイギルス陛下は、王宮内でも常に小さくなっておられたからな。俺は俺で大きな祝宴でもない限りは王都に出向くこともなかったし、そうそう言葉の交わしようもなかったのだ」
クリスフィアが視線を差し向けると、シーズは優雅な感じに肩をすくめた。
「わたしは、一度だけ……いつかの祝宴で陛下のご息女と語らっていた際に、武官風情が王族の娘をたぶらかすつもりかと怒鳴りつけられてしまいましたね」
「ふふん。十二獅子将たるシーズ殿に嫁入りできるならば願ってもないことであろうが、一夜の恋で純潔を散らされてはたまったものではないだろうからな」
「当時のユリエラ姫は、まだ十四歳にもなってはおられませんでしたよ。わたしとて、十二獅子将ではなく副官の身分であったと思います」
「それではいっそう、たまったものではなかろうて!」
嘘をついたり、何かを誤魔化したりしている様子はなかった。
だけどやっぱり、どこか空々しいやりとりである。
「それにしても、前王や王子ばかりでなく、六名もの十二獅子将がいちどきに身罷られたというのは衝撃でありました。そちらの方々とは、懇意にされていたのでしょうか?」
「ふむ。バンズの騎士団長であったウェンダ殿は、かつてダームの騎士団長をつとめておられたな。まだ俺の父親が当主である時代のことだが」
「わたしはルデン元帥のもとで戦う機会が多かったです。勇将の名に相応しい武人であられました」
「現在の元帥は、ロネック将軍とジョルアン将軍でありますね。……ずいぶんお若い身で元帥の勲を賜ったのだなと、わたしは少々驚かされました」
クリスフィアは、次の一手を投じてみる。
トレイアスの笑いが、いくぶん皮肉っぽい感情を帯びた。
「ロネック将軍はまだ若いが、闘技会で第二位の座を勝ち取った勇士であるからな。遠征兵団団長としては唯一の生き残りでもあるし、何も不思議なことはない。……それに比べて、ジョルアン将軍というのは、いささか器量が足りていないように思えてしまうな」
「ジョルアン将軍は、名家のお生まれでありますからね。四代前には王家から姫君を迎えてもおられたでしょう」
「四代前までさかのぼるなら、ゼラド大公家とて立派な血筋だ。どのみち、敵兵は将軍の血筋などを慮ってはくれまいよ」
「血筋だけで元帥の座を賜われるものなのでしょうかね。アブーフでは考えられないことですが」
クリスフィアも、意識的に軽口を叩いてみた。それも本音の一部をさらけだすだけのことなので、何も苦労はない。
「王都においても、なかなか容易いことではなかろうよ。言っては何だが、六名もの十二獅子将を失って人材がかつえたゆえの采配であったのだろうさ。そもそも、防衛兵団の経験しかない十二獅子将が元帥に選任されるというのも、当たり前の話ではないからな」
「そうなのでしょうね。公爵家の騎士団にはまだ三名もの十二獅子将が控えているのにと、わたしもいささかうろんに思いました」
クリスフィアの言葉に、シーズはまた肩をすくめている。
「トラウス殿やグレクス殿ならばまだしも、わたしではとうてい力が足りません。……力も血筋も足りていない、と言うべきでしょうかね」
「失礼ながら、シーズ殿はどのようなお血筋で?」
「わたしは、男爵家の血筋です。とはいえ、ヴェヘイム公爵家の分家に過ぎませんよ。まあ、下級騎士の血筋であったダリアス殿やヴァルダヌスに比べれば、苦労は少ないほうであったのでしょうがね」
「シーズ殿は、ヴェヘイム公爵家に縁あるお人であられたのか」
それはヴェヘイム公爵家の嫡子たるレイフォンからも聞かされていない事項であった。
が、シーズは「いやいや」と首を振っている。
「たまさか爵位を賜ることになった、力なき血筋です。今では本家とも大した交流はありませんし、ヴェヘイムの片隅で小さな荘園をまかされているばかりですよ」
「それに、今後もヴェヘイムの騎士団長をまかされることもなかろうしな! 王都の連中は、公爵家と十二獅子将が懇意になりすぎることをもっとも恐れているのだ! 騎士団長が公爵家の飼い犬に成り下がっては、いつ王家に牙を剥くかもわからんからな!」
「わたしは王家の忠実な刀です。そしてトレイアス殿とは良き友になりえたと自負しておりますよ」
王家と公爵家のそういった関係性については、クリスフィアもすでに聞き及んでいた。王家の人間は、公爵家が自由に武力を行使できないように、騎士団長の座は王都から派遣された十二獅子将に与えるべしという法を打ち立てているのである。
アブーフで生まれ育ったクリスフィアからすると、それはずいぶんいびつな取り決めであるように感じられた。仮に、アブーフ全軍の指揮権を王都の人間にゆだねよと命じられれば、自分たちは全力であらがうことになるだろう。自分たちにはセルヴァ王の家臣ではあっても下僕ではないという誇りがある。
(要するに、武力というくくりで考えれば、重要なのは公爵家の当主ではなく、騎士団長たる十二獅子将のほうである、ということか。そういえば、騎士団長のダリアスやウェンダという将軍は災厄の生贄にされてしまったようだが、公爵家の当主は誰ひとり奇禍には見舞われていないのだったな)
たとえ公爵家の当主が新王に叛意を抱いても、騎士団長たる十二獅子将を懐柔できぬ限りは、いかなる武力をふるうこともかなわないのだ。
そのように考えながら、クリスフィアはシーズの姿を観察した。
その視線に気づいたシーズが、にこりと微笑みかけてくる。
一見は優男で、いかにも年頃の娘から騒がれそうな風貌である。そういった部分は、確かにヴェヘイム公爵家の血筋なのかもしれなかった。
(トレイアスという御仁に疑うべきところは少なそうだし、まずはこちらの御仁に焦点を絞るべきか)
そしてそれは、トレイアスの目がないところで探るべきなのかもしれない。クリスフィアはそのように判断して、大人しくキミュスの足をかじることにした。
「そういえば、まだあの神官殿はお屋敷に出入りされていたのですね」
と、シーズがふいにそのような言葉を口にした。
トレイアスは「神官?」とけげんそうな顔をする。
「あの、ちょっと陰気な感じのする神官殿です。何日か前にも、お屋敷をうろついておられたでしょう?」
「ああ、あれは神官ではなく、従者か何かであるそうだ。俺の家の霊廟を調査したいなどという物好きでな。まあ、害になるような人間でもなさそうなので、好きにやらせることにしたのだ」
「霊廟を調査ですか? あまり聞かない話ですね」
「うむ。公爵家の霊廟に祀られている石碑の文字を解読したいなどと言い出してな。そんなものは、学士の領分なのではないのか?」
ひさびさに水を向けられると、リッサは関心もなさそうに「はあ」と首を傾げた。
「僕の領分は書物から真理を導き出すことですので。その御方が解読の結果を書にしたためてくだされば、喜んで読ませていただきますよ」
「ふふん。案外、おぬしらは気が合うやもしれんな。毎日遅くまでこの屋敷に入りびたっているので、いずれは顔をあわせることもあろう」
「神官と学士というのは、水と油なのですけれどね。神の言葉をも研究の材料に貶めてしまう学士の存在は、神官にとって我慢のならないものであるようなのですよ」
「なるほどな。俺から見てみれば、どちらも変人としか思えぬわ」
ひとしきり笑ってから、トレイアスは小姓に甘い菓子を所望した。これだけさんざん飲み食いしながら、食後の菓子まで楽しむつもりであるらしい。
「しかし、屋敷の中まで自由に歩かせるとは、いささか無用心ではありませんか? さきほども、執事のご老人と書庫の前で語らっておりましたよ」
「出入りの際には入念に身を改めているので、大事はない。盗人などでなければ、何でもかまわぬさ。あの石碑に財宝のありかでも記されていれば儲け物だしな!」
「身分は確かなのですか? いずれの神殿の人間なのです?」
「王都の聖教団の人間であるようだ。今はエイラの神殿の食客であるそうだがな」
クリスフィアは、茶の杯を取り落としそうになってしまった。
「トレイアス殿、それはダームの港町にあるエイラの神殿のことなのでしょうか?」
「うむ? ダームにおいて、すべての神殿は港町に造られておるよ。ダームは、あの港町から領土を広げていった土地であるからな」
それは何だか、妙にクリスフィアの神経に触る話であった。
奇妙な夫婦――いや、本当の夫婦であるかもわからない男女の潜んでいた、エイラの神殿。その神殿の世話になっている人間が、このような場所に出没していたのだ。普通に考えれば偶然に過ぎぬが、こういう符号はいつもクリスフィアを落ち着かない心地にさせるのである。
「その人物は、何という名前であるのでしょう? ひょっとしたら、わたしも王都で顔をあわせた相手であるかもしれません」
「ふむ、何といったかな……たしか、ティール……いや、ティートだ。そこの学士に負けぬぐらい痩せ細った、まだ若い男であったよ」
「ティートですか。わたしの知り合いではありませんね」
まったく聞き覚えのない名前である。が、クリスフィアはその名前も心に刻みつけておくことにした。
(あのアッカムと名乗っていた男は、ダーム公爵家の名前にも過敏な反応を見せていたからな。もしかすると、そのティートとかいう男もあやつの仲間で、何かよからぬことを企んでいるのやもしれん)
ともあれ、本日の晩餐もようやく終わりに近づいているようだった。
明日にはもう少し確かな成果をあげることはできるのか。そのようなことを考えながら、クリスフィアは残っていた茶を飲み下すことにした。