Ⅰ-Ⅱ 爪痕
2017.4/15 更新分 1/1
・作者多忙のため、しばらく更新は週に一回のペースにさせていただきます。毎週土曜日の更新を予定しています。
翌日も、五名の放浪者はタウロ=ヨシュの集落を目指して名もなき森の中を歩いていた。
前日の晩、蛇神の紋章を焼かれて以来、チチアは大人しくなっている。よって、ナーニャの他には自分から口を開こうとする者もいなくなってしまっていた。
森の中を進むごとに、冷気は厳しくなっていく。リヴェルが故郷のロゼッドの町を出奔してから、まだ半月ていどしか経ってはいないはずであるのに、そこは異国のように様相が変わってきていた。
樹木の葉や幹の色合いも、どんどん暗鬱に黒ずんでいっている。蛇や蜥蜴といった寒さに弱い生き物は姿を見せず、その代わりに、野太い声で鳴く野鳥や毛むくじゃらの小さな生き物が森の隙間を横切っていくようになった。
「それでもマヒュドラの領土に比べれば、この辺りも温暖なほうなんだろうね?」
ナーニャが尋ねると、タウロ=ヨシュは「ああ」と底ごもる声で応じた。
「このあたりは、ゆきもふらない。あさ、みずがこおることもない。それだけで、おれたちにはあたたかいようにかんじられる」
「雪。雪かあ。そんなの、辞典の絵でしか見たことはないよ。凍った雨粒が空からふわふわ降ってくるだなんて、まったく想像もつかないなあ」
「ふわふわですめばくろうはない。まひゅどらのいぶきは、ときとしてにんげんのたましいをもこおらせてしまうのだ」
「いわゆる、吹雪というやつかな? まったく心を踊らされるね。許されるなら、君の集落だけではなくマヒュドラの領土まで足をのばしたいものだよ」
タウロ=ヨシュの紫色の瞳が、探るようにナーニャを見つめる。
「おまえがじょうだんをいっているわけではないということはわかる。おまえはひょっとして……まひゅどらにかみをのりかえるかくごであるのか?」
「そうするべきだと信じることができれば、やぶさかではないよ。何せ僕は、西の王国ではまともに生きていけない身の上なのだからね。……でも、僕やゼッドはリヴェルのように北の血が入っているわけではないし、なかなか難しいのだろうね」
「あたりまえだ。にしのたみがまひゅどらにかみをのりかえるなど、おれはきいたこともない」
この大陸において、四大神の存在は絶対である。西の民として生まれれば西方神セルヴァを、北の民として生まれれば北方神マヒュドラを魂の主人として生涯を生きていくことになる。
しかしその中で、「神を乗り換える」という行為が許されてもいた。
たとえば、西と東の間で子供が生まれたとき、どちらの神の子として生きていくかは、親に決められることになる。たいていは母の側の神の子とされるのが普通であるが、のちに父の側の神に信仰を乗り換えるというのは、ありえない話ではないのである。
その際は、新しく仕える神の神殿まで出向いて、宣誓をする必要がある。その誓いが破られれば、死後に魂を砕かれることになるのだ。アムスホルンの人間にとって、四大神への帰依というのは絶対のものであったのだった。
「リヴェルなんかは、マヒュドラに神を乗り換えようとは考えなかったのかな?」
と、いきなりナーニャに矛先を向けられて、リヴェルは大いに慌てることになった。
「わ、わたしがですか? どうしてわたしが、そのような真似を……」
「どうしてって、リヴェルは北の民みたいに金色の髪と紫色の瞳をしているじゃないか。その姿だったら、北の地のほうが生きやすいぐらいだろう? それで、今まで庇護してくれていた父親を亡くしてしまったのだから、マヒュドラに神を乗り換えようと考えるほうが自然であるように思えてしまうのだけれど」
「そ、それはそうかもしれませんが……姿はどうあれ、わたしは十五年間、西の民として育てられてきたのです。そうそう敵対国であるマヒュドラの民になりたいとは考えられませんし……西と北では、言葉も異なります」
「ああ、外見的には北の民でも、言葉が通じなければ北の地に移り住むことは難しいか。……そういえば、どうしてタウロ=ヨシュは西の言葉を扱えるのかな?」
「……ぐんじんであれば、てきのことばをしるひつようもでてくる。きたのたみのぐんじんには、にしのことばをつかえるにんげんもおおい」
「でも君は、軍人じゃなくて自由開拓民なんだろう? ひょっとして、西の開拓民たちと交易するために言葉を覚えたのかな?」
「じゆうかいたくみんでも、まひゅどらのこであることにかわりはないのだから、にしのにんげんとこうえきすることなどはゆるされない。……おれはただ、ちちからこのことばをならっただけだ」
「父君から? でも、父君だって自由開拓民なのだろう?」
「ああ。しかし、よしゅのいちぞくは、もともときたのみやこにすまうせんしのかけいだった。それが、ちちのだいでみやこをはなれ、じゆうかいたくみんとしていきていくことになったのだ。おれのちちは、まひゅどらのせんしであったそふににしのことばをならったのだろう」
「へえ。王国の民であったのに、自由開拓民に身をやつすことになったのか。西の地では、あまり聞かない話だね」
セルヴァにおいては王国にまつろわぬ自由開拓民のほうが卑しき身分とされているのだから、それも当然の話であった。いっぽうで、自由開拓民が王国の民になるために集落を出て、兵士として志願する、というのはよく耳にする話である。
「……なににせよ、かみをのりかえるというのはかんたんなはなしではないし、てきたいこくのあいだにうみおとされたにんげんというのは、いやでもくなんにみちたじんせいをおくることになる」
そのように述べながら、タウロ=ヨシュがリヴェルのほうに目を向けてくる。
その紫色の瞳には、ちょっと判別の難しい感情の光が渦を巻いていた。
「よしゅのいちぞくにも、にしのおとこのこどもをはらんだおんながいた。そのこどもももちろんまひゅどらのことしてそだてられることになったが……ははをわかくしてうしなってからは、きたのおうこくにいばしょをみいだすことができず、せるぶぁにかみをのりかえたときく。だいじなのはかみやひとみのいろではなく、そのちすじと、そしてたましいのありようなのだ」
「そうか。それじゃあリヴェルのような身の上でも、西の血が入っているというだけで、なかなかマヒュドラでは受け入れられることもない、ということなんだね。つくづく君は深い業を背負っているんだね、リヴェル」
「わ、わたしなんて、ナーニャに比べれば――」
と言いかけて、リヴェルはあたふたと口を閉ざすことになった。
ナーニャは赤い目を細めて、にっこりと微笑んでいる。ナーニャは相変わらず、自分の素性をタウロ=ヨシュたちには語っていないのだ。
「とりあえず、君の同胞との対面を楽しみにしているよ、タウロ=ヨシュ。彼らがどうしても西の民を受け入れることはできない、という気持ちであるのなら、集落の外で夜明かしをさせていただくからさ。何も心配しないでほしい」
「……そのことばがしんじつであると、おれはしんじている。それがしんじつでなければ、おれはたましいをかけておまえをほろぼすだろう、なーにゃ」
「君の信頼には応えてみせるよ。どうか安心してもらいたいものだね」
そのタウロ=ヨシュの集落には、まだ到着しないのだろうか。
朝から何度かの小休止をはさみ、ずっと歩きづめなのである。あたりはそろそろ薄暗くなってきていたし、夜の訪れもそれほど遠くはないように感じられた。
「……大丈夫ですか、チチア?」
さきほどからずっと静かにしている娘に、リヴェルは小声で呼びかけてみる。
右手の甲に包帯を巻きつけたチチアは、額の汗をぬぐいながらリヴェルをにらみつけてきた。
「あたしなんかより、あんたのほうがよっぽど息も切れてるじゃん。人の心配をしてる場合かっての」
「あ、はい。そうですね」
「……だいたい、あたしなんかを心配する筋合いじゃないでしょ? 昨日の夜から、いったい何なんだよ」
言葉の内容はとげとげしいが、声にはやっぱり昨日までの元気がない。そうだからこそ、リヴェルも心配せずにはいられないのだった。
「チチアはいちおう、わたしたちの恩人じゃないですか。あの恐ろしいフィーナたちを裏切ってまで、わたしたちに窮地を教えてくれたのですから」
「だからそれは、自分が助かりたかっただけだよ。それに、あんたと赤目野郎は置いて逃げるつもりだったしね」
「そうだとしても、結果的にわたしたちは救われました」
「どこがだよ! 厄介事を片付けたのは、みんな赤目野郎と剣士さんじゃん! あたしなんて、あんたと同じぐらい役に立ってないだろ!」
「……それでも、同い年の女の子であるチチアが旅の道連れになってくれたことは、わたしにとって心強いです」
チチアは眉を吊り上げて、いきなりリヴェルのほうに左手をのばしてきた。
そのしなやかな指先がリヴェルの耳をひっつかみ、したたかにひねりあげてくる。
「痛い痛い痛い! チチア、何をするんですか!」
「何なんだよ、あんたは! あたしをからかって遊んでんの? それとも、あたしを見下していい気になってんのかい?」
「か、からかってもいないし、見下してもいません! み、耳がちぎれちゃいます!」
「ふん!」とひさびさに鼻息をふくと、チチアはようやくリヴェルの耳を解放してくれた。
じんじんとうずく耳を押さえながら、リヴェルは涙目になってしまう。
「ひどいです、チチア……」
「ひどいですじゃないよ! ああもう、わけのわかんない娘っ子だね!」
すると、前方を歩いていたナーニャが笑顔で振り返ってきた。
「どうかしたのかい? 楽しい話なら、僕もまぜておくれよ」
「なんにも楽しかないよ! 黙って歩いてな、この赤目野郎!」
「ふふん。元気になったのなら何よりだね。君もようやくリヴェルのありがたみがわかってきたのかな」
「何がありがたみだよ! こんなちんちくりん!」
「リヴェルはね、そこにそうして存在しているだけで周囲の人間の心を癒してくれる、とても不思議な女の子なんだよ。人を傷つけたり物を壊したりすることしかできない僕たちには、何より得難い存在であるのさ」
チチアはうろんげにリヴェルをにらみつけてくる。
リヴェルは首をすくめながらそれを見返すことしかできなかった。
「……まもなくおれのしゅうらくだ」
と、力強く歩を進めていたタウロ=ヨシュが言い捨てる。
辺りはますます暗くなってきており、冷気も鋭く肌を刺すようになっていた。
するとナーニャは、その秀麗なる面から笑みを消し去り、妖しく光る真紅の瞳でタウロ=ヨシュの姿を見上げた。
「本当にもうすぐなのかな、タウロ=ヨシュ?」
「ああ。めじるしのたいじゅをとおりすぎた。もうひゃっぽとはかからないだろう」
「そうか。それはまずいかもしれない」
タウロ=ヨシュは、いぶかしげにナーニャを振り返った。
「なにがまずいのだ? おまえはおれのしゅうらくをめざしていたのだろう?」
「うん。だけど、この先からは強い瘴気を感じてしまっているんだよね。……あの、蛇神が眠っていた沼にも負けない、強烈な瘴気をさ」
タウロ=ヨシュの双眸に、猜疑の光が宿された。
その目が、前方の暗がりへと向けられる。
「ちょっと急ごうか。リヴェルとチチアは、僕やゼッドから離れないようにね」
「おいおい、ここまで来てまた化け物なんかに出くわすのは御免だよ?」
不敵に言いながら、チチアの声もわずかに震えている。
ゼッドは外套の頭巾をはねのけて、腰の長剣に手をかけていた。
「……しゅうらくには、おれよりもうでのたつおとこしゅうがなんにんもいる。なにがあろうとも、たやすくやられたりはしない」
激情を潜めた声でつぶやきながら、タウロ=ヨシュはがさがさと茂みをかき分けていった。
そうして何歩も行かぬ内に、樹木がまばらになっていく。
明らかに、人間の手によって伐採された跡も見て取れた。
そして、冷気が強まっていく。
この冷気は、いったい何なのだろう。気づくと、吐く息までもが白くなっていた。
(何かおかしい……太陽が完全に沈んだわけでもないのに、ここまで寒くなるなんて……)
外套の下で、リヴェルは魔除けの印を切った。
しかし、セルヴァの聖印もその力で災厄を退けることはできなかった。
ほとんど駆け足になったタウロ=ヨシュに続いて樹木の間をすり抜けていくと、唐突な感じで視界が開けた。
彼の集落に到着したのだ。
そこには木造りの家屋がいくつも建てられて、道も平たく踏み固められていた。
だが、生ある人間の姿はない。
それは当然の話であった。
その集落は、まるでマヒュドラの息吹にさらされたかのごとく、白と透明の氷雪に支配されてしまっていたのである。
家も、樹木も、地面までもが、冷たく凍てついてしまっている。
まるですべてがシムの硝子細工であるかのようだった。
「ばかな……」とタウロ=ヨシュが抑制を失った声を振り絞る。
その目は、集落の中央――丸く切り開かれた広場のほうに向けられていた。
そこには奇怪な氷の彫像が、ずらりと並べられていた。
タウロ=ヨシュのように巨大なものや、リヴェルのように小さなものや――実にさまざまな大きさと形状をした氷の彫像が、何十体と並べられている。
それらはみんな、氷漬けにされた北の民たちだった。