Ⅴ-Ⅰ ゼラドの都オータム
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朱の月の二十五日。
ついに偽王子の一行は、ゼラド大公国の首都オーラムの地を踏むことになった。
ゼラド大公国はセルヴァの南部、王都アルグラッドと南の王国ジャガルの間に位置する独立国家である。
距離としては、王都から徒歩でひと月、トトスの荷車ならば半月、トトスの早駆けならば五日ていどの位置となる。王都よりもなお日差しは厳しく、きわめて温暖な地域であった。
そのゼラド大公国に住まう人々も、西方神セルヴァの子であることに違いはないが、王都アルグラッドの支配からは脱し、自らが西の王国の支配者であると公言している。セルヴァの王にとっては、北の王国マヒュドラと同じぐらい不倶戴天の存在であった。
もとを質せば、ゼラド大公家も王家の血筋であるのだ。
四代前の王の姉が、半ば追放される形で南部の辺境の町オーラムに追いやられた。当時のオーラムは貧しい町で、ジャガルからの旅人が足を休める宿場町のような扱いであったのだ。河川は遠く、井戸の水も豊かとは言えず、町の周囲は不毛の荒野であった。そこに、思いがけない鉱山を発見することになり、百年近くをかけて今のような力と規模を持つに至ったのである。
王姉とその末裔たちはこのような辺境に追いやられた無念を糧として、死に物狂いで町を盛り立てた。遠方にある河川から用水路で水を引き、鉱山を掘り、少しずつ町を発展させていった。当時の王に忠誠を誓い、その庇護を受けながら、陰でひっそりと牙を磨き続けたのだ。
幸い、鉱山の開拓や鋼の精製に関しては、ジャガルから協力を得ることができた。数百年の昔から友好国であったジャガルは鉄の王国という異名を持ち、とりわけその方面に造詣が深かったのだ。
そうして力を得たオーラムは、近在の町を併呑して、ゼラド大公領を名乗ることが許された。
そののちに叛旗をひるがえして、独立を宣言してのけたのである。
以来、王都アルグラッドの軍とは何度となく刃を交えている。
国力においては比較にもならなかったが、ゼラド大公国には地の利があった。首都と定めたオーラムは険しい岩山に囲まれており、天然の要塞たりえたのだった。しかもこの数十年でジャガルと強い絆を結び、そちらとの交易でますます豊かになっている。ジャガルは今でもセルヴァの友好国であったが、ゼラド大公国との諍いに関しては完全に不干渉の宣言を立てていた。
むろん、ゼラドの側でもアルグラッドを陥落させるのは容易ではない。その代わりに、手近な町に侵略の手をのばして、じわじわと領土を広げようと画策している。ゼラドとアルグラッドの戦いは、そういった領地の陣取り合戦に終始した。ゼラドとアルグラッドの間に存在する町は、この数十年で何度となく戦火にさらされ、そのたびに君主を変えることになったのだった。
そんなゼラドの都オータムに、ついに彼らはやってきてしまった。
セルヴァの第四王子カノンを僭称する偽王子の一団である。
アルグラッド軍の急襲を受け、ゼラド軍にそれを救われてから、すでに十日もの日が過ぎている。トトスを乗り捨てる覚悟で駆けさせても、それぐらいの日がかかってしまったのだ。
アルグラッド軍との戦いで、傭兵団の数は五十余名にまで減じていた。
およそ百余名はいた仲間の半数ていどが、王都の軍によって魂を返されてしまったのだ。
それをオータムまでいざなったゼラド軍の総勢は、およそ千名ほどであった。
軍隊としては小規模なのであろうが、五十名ばかりの傭兵であらがえる数ではない。もっと力をつけてからゼラド大公国を頼ろうと考えていたエルヴィルも、当初の予定を曲げて従う他なかった。
「待たせたな、カノン王子よ。ここがゼラド大公国の中枢、オータム城だ」
荷台の扉が乱暴に開かれて、荒っぽい声が届けられてくる。
この一軍の将たる、第一連隊長ラギスである。
黒光りする角つきの兜と、鱗のような鎧を纏ったその姿は、いつ見ても禍々しかった。
そんなラギスの言葉を受けて、偽王子たるシルファは無言で立ち上がる。
シルファと同じ車で移動することが許されたのは、エルヴィルとメナ=ファムのみである。三人は、覚悟を決めて車の外に降り立つことになった。
「へえ、これはこれは……」
と、思わずメナ=ファムは一人で声をあげてしまう。
目の前に、巨大な石造りの城が立ちはだかっていたのだ。
暗灰色の石で造られているために、全体的に黒ずんで見える。川べりの森を切り開いた集落で生まれ育ったメナ=ファムには、呆れるしかないような巨大さであった。
人間とは、これほど巨大な建造物を造ることのできる存在であったのだ。
どれだけの人間をかき集めて、どれだけの時間をかければ、これほどのものを造りあげることができるのか。メナ=ファムには想像もつかなかった。
「……俺の部下たちはどこに連れていかれたのだ?」
エルヴィルがささくれだった声で尋ねると、ラギスは口もとをねじ曲げながら肩をすくめた。
「ここはすでに跳ね橋の内側であるのだ。素性の知れぬ傭兵どもなど、招き入れるわけにもいくまい。……というか、連隊長である俺ですら、このていどの部下しか同行させることは許されないのだからな」
確かにメナ=ファムたちの周囲には、十名ばかりの兵士しかいなかった。
その代わりに、それに倍する数の兵士たちが、さらに外側から包囲している。そちらも胴体には鱗のような鎧を纏っていたが、兜には奇怪な紋章が刻みつけられており、短めの外套も砂塵で汚れたりはしていない。そして、その手にはいずれも長槍が携えられていた。
「まずは大公殿下にお目通りを願おうか。カノン王子の到着を待ちわびておられるだろうからな」
シルファはうなずき、足を踏み出そうとした。
その眼前に、二人の衛兵が立ちはだかる。
「その前に、腰のものをお預かりいたします」
エルヴィルが険しく眉を寄せた。
「城に足を踏み入れる前から、俺たちの刀を奪おうというのか?」
「……ここはすでに、王城の内でありますゆえ」
エルヴィルは舌打ちをして、腰の長剣を鞘ごと差し出した。
シルファは短剣を、メナ=ファムは半月刀を、それぞれ同じように差し出してみせる。
さらにはラギスまでもが同じ扱いを受けているのを見て、メナ=ファムは目を丸くすることになった。
「驚いたか? これがゼラドの流儀なのだよ、お客人」
飢えた獣のように目を光らせながら、ラギスはにやりと笑う。
エルヴィルとはまた異なる物騒さを潜めた眼光である。
兜が邪魔で人相ははっきりとしないが、ラギスはまだ若かった。エルヴィルと同じぐらいで、せいぜい二十歳を少し超えたぐらいだろう。引き締まった精悍な面立ちをしており、黄色の肌はメナ=ファムに負けないぐらい日に焼けている。兜からこぼれる髪は黒褐色で、瞳は黒色だ。
エルヴィルは復讐の念に憑かれていたが、こちらの若者は野心の炎に身を焦がしているように見受けられた。
千名もの兵を率いる身でありながら、王城においては刀を取り上げられてしまう。そういった扱いにも不満があるのだろうか。
ともあれ、メナ=ファムたちは衛兵の先導で城門をくぐることになった。
周りを取り囲むのもすべて衛兵であり、ラギスの部下たちは全員その場に取り残されるようだった。
「……傷の具合いはどうだい、王子殿下?」
昼でも薄暗い城の中を歩かされながら、メナ=ファムはこっそりシルファに呼びかける。
シルファは正面を見据えて歩を進めながら、「問題ない」と応じてきた。
「かの者たちから上等な薬を与えられたからな。ずいぶん前に熱も下がったし、何も案ずることはない」
当然のことながら、偽王子としての凛然たる声音と口調である。
白くて秀麗なその面も、彫像のように硬質的で冷たい表情に鎧われている。
ゼラド軍は、救いの主だ。
彼らが現れていなかったら、シルファは高い確率で王都の軍の手に落ちていただろう。メナ=ファムやエルヴィルなどは、皆殺しにされていたに違いない。
しかしそれでもなお、ゼラドを味方と見なせるかどうかはわからなかった。
アルグラッドの王家とは不倶戴天の仲であるゼラド大公家が、王殺しの嫌疑をかけられている第四王子を手中にした。彼らがそれをどのように扱おうというのか、メナ=ファムでなくとも不穏な想像しかできなかったに違いない。
(しかも、もともとエルヴィルのやつはゼラドの力を利用して王都の連中に復讐をしようと考えていたってんだからねえ)
そのように考えると、溜息がこぼれそうになった。
しかし、溜息などついているひまはない。メナ=ファムは、メナ=ファム自身の意思でシルファと行動をともにしているのだ。ここまできたら、腹を据えてシルファと自分の運命を見届けるしかなかった。
「セルヴァの第四王子カノンを名乗る者が到着いたしました!」
石造りの回廊をさんざん歩かされたのちに、巨大な両開きの扉の前まで案内される。槍を持った衛兵が大声でそのように告げると、同じ格好をした衛兵が無言で扉を引き開けた。
広々とした空間が、メナ=ファムたちの前にさらされる。
天井が高く、回廊よりは明るい。足もとには鰐除けの葉みたいに濃厚な緑色をした絨毯が敷かれており、室の奥には玉座が据えられていた。
その気になれば、百名以上の人間を招くこともできそうな部屋だ。
しかしその場には、片手で足る数の人間と、それを守る十名ていどの衛兵の姿しかなかった。
ただし、玉座の背後には一面に帳が張られており、その向こう側からは複数の人間の気配がする。狩りの最中と同じぐらい気を張っているメナ=ファムには、それが手に取るようにはっきりと感じられた。
「おぬしがセルヴァの第四王子を名乗る者か。……礼はよいから、兜を取って顔を見せてみるがいい」
玉座の人物が、鷹揚にそう述べた。
衛兵に左右をはさまれたシルファは、恐れげもなくその言葉に従う。
とたんに謁見の間は、驚嘆のざわめきに包まれた。
メナ=ファムからは後ろ姿しか見えないが、シルファの美貌が人々にさらされたのだ。たとえ身分は偽りでも、その美しさだけは真実のものであった。
「なるほど、銀色の髪に、血の色を透かせた瞳か……その肌も、ジャガルの民に負けぬほどの白さであるし、風聞に違わぬ美しさであるようだな」
「……わたしは貴方に直接言葉を返すことは許されるのだろうか、ゼラド大公よ?」
玲瓏なる声音で、シルファがそう述べた。
ゼラドの支配者は唇の端を吊り上げながら、「許そう」と応じる。
「ならば、問わせていただきたい。この遥かなオータムの地にあっても、わたしの風聞というものは伝わっているのだろうか?」
「無論だ。おぬしの存在については、銀獅子宮が燃え落ちる以前から面白おかしく取り沙汰されておったよ、第四王子を名乗る者よ」
どうやら彼らは、いまだシルファを第四王子とははっきり認めていないようだった。
もちろん、それが当然の話なのだろう。普通に考えれば、前王や宮殿とともに業火で焼かれたという第四王子が生きのびている道理はないのだ。
(それにしても、なかなか一筋縄ではいかなそうな御仁だね)
メナ=ファムは、そのように考える。
一城の主などというものとあいまみえるのは初めてのことであったが、これが生半可な人間でないという事実はひと目で知ることができた。
おそらく若い頃は、剣士としても勇名を馳せたのだろう。大柄で、いささか肥満気味ではあるものの、いかにも腕力のありそうな体格をしている。その身に纏っているものも、メナ=ファムが想像していたよりは華美でもなく、ただ頭に宝石をあしらった銀の環をはめているばかりであった。
褐色の髪は肩まで垂らしており、口もとと顎にはゆたかな髭をたくわえている。その茶色い瞳は好奇と不審の念を等分にたたえながら、じっとシルファの姿を見据えていた。
「しかし、おぬしのほうはその齢になるまでエイラの神殿に幽閉されていたという話であったのだから、ゼラドについて知るすべなどなかったであろうな。……おぬしが本当に第四王子カノンその人であるならば、だが」
「…………」
「ならば、まずは名乗らせていただこう。我こそはゼラド大公ベアルズ、こちらは第一子息のデミッド、第二子息のラバッド、そしてゼラド軍の総帥たるタラムスである」
大公の子息たちというのは、特にメナ=ファムの気にかかるような相手ではなかった。父親に似て恰幅はいいが、どうにも肉がだぶついてしまっている。ぶくぶくと肥え太って、剣を取ったことなど一度もなさそうだ。しかも、二十歳は優に超えているだろうに、何だか幼子みたいに甘ったれた顔つきをしている。顔立ちも体格もそっくりなので、どちらが兄でどちらが弟なのかもメナ=ファムには判然としない。
いっぽう、タラムスという武人には興味をひかれた。
すでに四十を超えていようかという齢でありながら、実に力強い風貌をしている。背丈などはメナ=ファムの肩にも届かないぐらいであるのに、骨太でずっしりとした体格をしており、剣の腕も相当のものであるように感じられた。
褐色の髪は渦を巻いており、顔の下半面ももしゃもしゃとした髭に覆われている。そこから除く肌は、いかにも南部の人間らしい黄褐色だ。
ただしその瞳は、緑色に炯々と輝いていた。
小柄な体躯に、頑丈な骨格、ゆたかな髭と、緑色の瞳――これで肌の色さえ白ければ、噂に聞くジャガルの民そのものである。もしかしたら、この御仁は西と南の混血なのかもしれなかった。
「……本当に美しいなあ。女だったらよかったのに」
と、兄弟のどちらかが笑いを含んだ声でそのようにつぶやいた。
すると、隣にいた兄弟も同じような調子で相槌を打つ。
「別に男でもかまわないじゃないか。閨に入れば、どちらでも一緒さ」
「ラバッドは節操がないな。僕は断然、女がいいよ」
「あれあれ。それじゃああの小姓はどうして泣きながらデミッドの寝所から駆け出してきたのかな。僕だってあいつには目をかけていたのに」
「あれは一夜の気まぐれさ。まあなかなか可愛らしい顔立ちをしていなくもなかったしね」
自分は何か言葉を聞き違えているのだろうか、とメナ=ファムは首を傾げそうになった。
しかし、大公たる父親が太い眉を吊り上げたところを見ると、そういうわけでもないようだった。
「お前たちは、少し静かにしておれ。今は我が審問をしているさなかであるぞ」
「はい、大公殿下」
「申し訳ありません、大公殿下」
兄弟たちは、目を見交わしてくすくすと笑い合う。
妙齢の少女や幼子であれば可愛らしいかもしれないが、いい年をした男たちのやりとりである。メナ=ファムは、気色悪いのを通りこして愉快に感じられるぐらいだった。
「何にせよ、ラギスは手柄であったな。のちほど褒美を取らせるので、下がるがよいぞ」
気を取りなおしたように大公がそう告げると、野心に燃える若き隊長は金属の鎧に包まれた肩をぴくりと震わせた。
「御意にございます、大公殿下。ですが、かの者たちを捕らえた経緯につきましては、小官の口から詳細を述べさせていただきたく――」
「すでにトトスの早駆けで詳細は伝えられておる。下がるがよい」
面倒くさげに言いながら、大公は肉厚の手をゆるゆると振った。
まるで幼子でも追い払うかのような仕草である。
ラギスは一拍置いてから「御意にございます」と繰り返し、二名の衛兵たちとともに謁見の間を退出していった。
「さて、それでは審問を続けさせてもらおうか。……我々はどのように振る舞うべきであろうかな、第四王子カノンを名乗る者よ?」
「……どのように、とは?」
「セルヴァ王家は、常々ゼラド大公家に頭を垂れるべしと命じてきた。その王家の末裔たるおぬしは、我々にどのような振る舞いを求めているのかと思ってな」
「……わたしは確かにセルヴァ王家の血筋であるが、同時にまた、王位継承権を剥奪された身でもある。ゼラド大公たるあなたに何を申しつける力もないことは明白であろう」
「ふむ。なかなか殊勝なことだ。では、我々がおぬしの身柄を王家に返そうと考えても、それにあらがおうという気持ちはないのであろうかな?」
「……わたしの身柄を、王家に返す?」
「うむ。セルヴァ王家はおぬしを重大な叛逆者と見なしている。おぬしが本物の王子であれ偽物の王子であれ、それは当然のことであろう。前王を弑した叛逆者か、あるいは王家の血筋を僭称する痴れ者か――どちらにせよ、大罪人であることに違いはないのであるからな」
そのように述べながら、大公はまた傲岸な顔つきで微笑んだ。
子息たちは声を殺して笑っており、将軍は仏頂面だ。
「我々は、長きに渡ってセルヴァ王家と争ってきた。しかし、おぬしの身柄を手土産にして和解でも申し入れれば、その争いにも終止符を打つことができるかもしれん」
「……その言葉が本心であると、わたしに信じよと?」
「信じられぬ理由があるであろうか?」
「ある。それならば、セルヴァの中央部にまで軍を差し向けて、王都の軍からわたしの身柄を奪った理由が立つまい」
いっかな心を乱した様子もなく、シルファはそのように言い捨てた。
「ゼラド大公ベアルズよ、わたしは半生を幽閉されてきた身だ。貴き身分の人間らしい腹芸などにつきあっていられる器量は持たない。願わくば、率直な気持ちで言葉を交わさせていただきたく思う」
「なに、実に堂々とした立ち居振る舞いではないか。おぬしが本物であれ偽物であれ、どこの誰がそのような作法を教授したのであろうかな?」
シルファは無言のまま、斜め後ろにたたずんでいたエルヴィルのほうに視線を向けた。
大公は、「ほう?」と愉快そうに太い首を傾ける。
「そこな者は、おぬしを守る傭兵団の長に過ぎないと聞いていたのだが、何か立場のある人間であるのかな?」
「……自分の前身は、アルグラッド軍の千獅子長にございます、大公殿下」
エルヴィルが、感情を殺した声音でそのように述べた。
仏頂面であった将軍が、鋭さを増した眼光をエルヴィルに突きつける。
「自分の名はエルヴィルと申します。かつては第三遠征兵団の長ヴァルダヌス将軍の旗下にて、千獅子長を拝命しておりました」
「ヴァルダヌスといえば、第四王子とともに前王を弑逆したという謀反人であったな。その剣の腕はセルヴァでも随一であったと聞く」
「はい。そのヴァルダヌス将軍が、自分にとっては唯一の剣の主でありました」
すると、小柄で肉厚の体躯をした将軍がいっそう気色ばんで身を乗りだしてきた。
「某はこれまでに何度となくアルグラッドの軍と刃を交えてきた。その中で、猛将ヴァルダヌスの率いる獅子の軍には、とりわけ痛い目を見させられたものだ」
「そうでありましょうな。遠征軍の将がディラーム元帥であった際は、まず間違いなく第三遠征兵団が先鋒を受け持っていたでしょうから」
「……それでは戦場において、おぬしの剣も幾度となくゼラドの兵の血に濡れたことであろうな」
タラムス将軍の緑色をした双眸が、いよいよ熾烈に燃えあがる。
それを受け止めるエルヴィルの瞳もまた、同じぐらい激しい炎を宿していた。
「戦場における恨みを晴らしたいというのでしたら、どうぞご存分に。しかし自分は数ヶ月前に千獅子長の任を解かれて、王都を追放された身です。もとをただせば傭兵の身にすぎませぬし、自分の側にゼラドを恨む理由はございません」
「一介の傭兵が千獅子長にまで取り立てられたと申すか? それは格式張ったアルグラッドにおいてはあまり聞かぬ話だな」
猛る将軍を制するように、大公がのんびりとした口調で言葉をはさむ。
エルヴィルは「はい」と首肯した。
「それはヴァルダヌス将軍の公正さゆえです。よって自分は、セルヴァの王ではなくヴァルダヌス将軍に剣と魂を捧げると誓ったのです。そのヴァルダヌス将軍なき今、セルヴァ王家に忠誠を誓う理由は存在いたしません」
「ふむ……そうしておぬしは敬愛する将軍に代わって、第四王子の剣となることを決断したわけか。これは面白い」
「ですが、大公殿下――」
「おけ、タラムス。戦時の恨みを平時に持ち込むのは武人にあるまじき惰弱なる行いといえよう。ましてやこの者たちは、我らに庇護を願っているのであろうからな」
そのように述べて、大公ベアルズはにんまりと微笑んだ。
「まずは旅の汚れを落として、ゆるりとくつろぐがよい。おぬしらを、オータム城の客人として迎えよう。……そしてその間に、おぬしの言葉の真偽をはからせていただく」
「真偽?」
「まずはヴァルダヌス将軍の旗下にエルヴィルという千獅子長が存在したのか。存在したとして、その者は本当に王都を追放されたのか。あとで使いの人間をよこすので、よりこまかな話を語ってみせるがよい」
そうして微笑をたたえたまま、大公はぎらりと両目を輝かせた。
「万が一、我をたばかろうとしていた場合は、それ相応の覚悟をしてもらうぞ、エルヴィルとやら。期待が大きければ大きいほど、それを裏切られた無念は大きくなるものなのだからな」
「御意にございます」とエルヴィルは頭を垂れる。
本当に大丈夫なのかと、メナ=ファムは内心で溜息をつくことになった。
エルヴィルの素性は真実であっても、肝心の王子のほうが偽物であるのだ。それがこの場で露見してしまったら、いったいどれほどの敵意を向けられることになるのか。それはアルグラッドの軍を敵に回すのと同等の危険さであるはずだった。
(せめてシルファが男だったら、ここまで不安になることもなかったんだけどねえ)
しかしそのときは、そもそもメナ=ファムもシルファに同行しようとは考えなかったかもしれない。メナ=ファムは、かよわい娘の身であるシルファが運命の濁流に呑み込まれていくのを見かねて、行動をともにすることになったのだ。シルファが男であったのなら、好きに運命を切り開けばいいと鼻で笑っていたかもしれなかった。
シルファの運命は、いったいどこに向かって流されていくのか。メナ=ファムはいっそう気持ちを強く持って、それを見守らなければならないようだった。