Ⅳ-Ⅰ エイラの神殿
2017.4/4 更新分 1/1 ・4/6 誤字を修正
「あ、あの方たちは、いったい何だったのでしょう……?」
あやしげな客人たちがエイラの神殿を出ていくと、ラナはとても不安げな声でそのようにつぶやいた。
その手は、いまだにダリアスの腕に取りすがったままである。外套ごしに感じられるその感触にいくぶん気持ちを乱されながら、ダリアスは「わからん」と答えてみせた。
「アブーフというのは、王都からもっとも遠方にある領地のひとつだ。あの灰色の瞳や日に焼けていない肌からして、アブーフの人間であるという言葉に嘘はないのだろうが……しかし、このような場所をうろついている理由はさっぱりわからんな」
「お、王都からの追っ手ではないのでしょうか……?」
「わからん。そもそも、あやつらが捜しているという老人こそ何者なのだ?」
「な、名前はフゥライとおっしゃるそうです。ここ数日で、二度ほどお姿を見かけました」
「フゥライというと……《賢者の塔》を預かる学士長と同じ名だな」
しかし、どうしてアブーフの人間が王都の学士長などを捜しているのか、さっぱり意味がわからない。まず、学究の徒の頂点たる人物が交易の要ダームを訪れる理由からしてわからなかった。
「他には何と言っていたのだ? 言伝の内容を正確に教えてくれ」
「は、はい……そのフゥライというご老人が現れたら、お弟子のリッサが行方を捜しているということを伝えてほしいと……そして、あの方々は公爵家の邸宅に滞在しているので、そちらに連絡をいただきたいとのことでした」
「うむ。確かに、ダーム公爵家に連絡をよこせなどと言っていたな。しかし、そのような場所はよほど身分のある人間でなければ滞在を許されるものではないぞ」
「は、はい。ですからわたしも、恐ろしくなってしまって……」
そのように述べながら、ラナはぎゅっとダリアスの腕を抱きすくめてきた。小さな肩が、不安に震えてしまっている。
「わからんな……しかし、アブーフの人間が王都を見舞った災厄に関わっているとは、さすがに思えん。あやつらは、トトスの足でもひと月はかかる北の果てに住まっているのだ。きっと俺たちとは無関係のことでダームを訪れただけなのだろう」
「そ、そうだといいのですが……」
「案ずるな。何が起きようとも、お前の身は俺が守ってみせる」
この数日で、ラナはすっかり心のほうを弱らされてしまっていた。
しかしそれも無理からぬことだろう。王都を出奔してから、はや六日。このエイラの神殿まで送り届けられたダリアスとラナは、偽りの名前と身分で人目をはばかりながら、ずっと暗澹たる日々を過ごしていたのである。
髪はティートの準備した薬で黒く染め、ダリアスに至っては包帯で顔を隠している。それで傭兵とその妻という身分を騙り、この神殿の世話になっているのだ。真実を知るのはティート一人であったので、ダリアスたちはこの神殿の神官たちをもあざむかなくてはならなかったのだった。
(これでは城下町にいた頃と何も変わらないではないか。……いや、ラナまで巻き込んでしまった分、なお厄介だ。俺たちは、いつまでこのように息を潜めていなくてはならないのだ?)
ダリアスは、それこそダーム公爵邸に連れていかれるのだと思っていた。それで公爵家の当主たるトレイアスと十二獅子将シーズに事情を打ち明けて、後ろ盾になってもらうのだろうと考えていたのだ。
しかし、待ち受けていたのは、また雌伏の日々であった。ラナは下女として働かされ、ダリアスは一日中暗い寝室に閉じ込められてしまっている。神殿の人間たちはおおむね親切であったが、これでは鬱屈する一方であった。
「もうしばし時間をください。どうにもトレイアス公爵の周囲にはあやしげな人間が多いため、入念な下調べが必要であるようなのです」
ティートは、そのように述べていた。
トレイアスならば、ダリアスも王都の祝宴などで何回かは顔をあわせている。陽気で豪放で、卑劣な陰謀などとはまったく縁のなさそうな人柄だ。そうであるからこそ、ダリアスも身を寄せるのにダームの地を選んだのである。
しかしまた、ダームというのは特殊な町でもあった。世界中から商人の集まる交易の要で、この地で手に入らないものはない、とまでされている。豊かさでは、王都アルグラッドに並ぶほどであろう。セルヴァで唯一、外海を有している町なのだから、それもむべなるかなというものであった。
(シムやジャガルや海の外からも人間が集まるのだから、それはあやしげな人間だって含まれることだろう。そのようなものを恐れていては、話にならん)
ダリアスはそのように思うのだが、ティートは慎重であった。というか、彼は主人たるゼラの指示通りに動いているだけなのだ。彼は毎日、訓練された烏を使って王都のゼラとやりとりをしており、その命令をこなしている様子だった。
「とりあえず、ギムという人物は一命を取り留めたそうです」
ティートからもたらされた言葉で唯一救いとなったのは、その言葉のみであった。
「それで、その後はどうなったのだ? やはり罪人として捕らわれたままであるのか?」
「はい。今は《裁きの塔》に人知れず収容されているようです」
「人知れず? 人知れずとは、どういう意味だ?」
「そのままの意味です。城下町でダリアス様が起こしたあの騒ぎも、正式には何の布告も為されず、なかったことにされてしまったようです」
そんな馬鹿げた話はなかった。
ダリアスは城下町のど真ん中で、何名の衛兵を叩き斬ってしまったのである。そんな大事件を隠蔽できるはずがなかった。
「それを言ったら、災厄の夜の一件とて同じことなのではないでしょうか? あの夜も、ダリアス様は何名かの衛兵を返り討ちにされたのでしょう?」
「ああ。少なくとも三人は斬り捨てたはずだ」
「しかし、そのような布告は回されておりません。少なくとも、宮殿内ではそのような事件が起きたということすら取り沙汰されていないようですよ」
ならばそれは、あの衛兵たちが完全に防衛兵団の職務から離れた場所で暗躍しているという証であった。彼らが職務で動いているのなら、死者まで出たことを隠しおおせるわけがないのだ。
「それではやはり、何者かが衛兵たちを私兵として使っているのだな。……しかし、俺たちが城下町を出ようとしたとき、第一の門の守衛たちは、前日の騒ぎを知っている様子だったな?」
「はい。ですからあくまで、宮殿内に話が伝わらないようにと画策されているのでしょう。町でどのような風聞が巡ろうと、城壁を越えて宮殿内にまで届くことはなかなかないでしょうから」
聞けば聞くほど、忌々しい話であった。
しかもそれでは、ギムの身がどうなってしまうかもわからない。秘密の罪人として収容されているならば、いずれは闇から闇へと葬りさられてしまうのではないだろうか。
「ゼラ様も、そこのあたりを懸念されているようでした。いざというときは、《裁きの塔》からお救いになることも考えておられるようです」
「ほう。あやつがそこまでギムの身を案じてくれようとは、意外だな」
「……もしもその者に危険が及べば、ダリアス様の激しい怒りを買うことになるとお考えになられているのでしょう。ですから、心配はご無用です」
最後の言葉は、ともに話を聞いていたラナに向けられた言葉であった。
ラナは「ありがとうございます」と涙をにじませていたものである。
「ともあれ、今しばしご辛抱ください。ダーム公爵の周囲に敵方の人間が潜んでいないものか、入念に調査いたします」
それが二日前の夜の話だった。
それ以降、ティートはダリアスたちの前に姿を現していない。
無人の礼拝堂で、ラナはいつまでも肩を震わせていた。
「ラナ……」とダリアスはその肩に手をのばそうとする。
そのとき、奥のほうで扉の開く音がした。
ダリアスは素早く視線を巡らせたが、そこから現れたのは神殿長のロムスという人物だった。
「こちらにいらっしゃいましたか。お部屋に姿が見えなかったので心配しておりましたぞ、アッカム殿」
「すまんな……少し外の空気を吸いたくなったのだ」
ダリアスは、懸命にしゃがれ声をこしらえてみせる。
神殿長の小男は、こちらにしずしずと近づいてきながら、やわらかく微笑んでいた。
「お気持ちはわかりますが、お怪我が癒えるまでは、どうぞご安静に。……まあ、愛する奥方と一日中引き離されてしまっては、心が沈むのも道理です」
その言葉で、ラナはようやくダリアスから身を離した。
その顔が、耳まで真っ赤になってしまっている。
「し、仕事の最中に申し訳ありません。すぐに残りを片付けますので……」
「よいのですよ。あなたはよくやってくれています、レミ」
この人物も、ダリアスたちの正体を知らされてはいなかった。手傷を負って、住む場所も追われた傭兵とその妻が、エイラの加護を願って神殿を頼ってきた、というティートの作り話を信じているのだ。
「レミ、あなたの献身は、エイラも見守っておいでです。そんな奥方の慈愛に報いるためにも、今はお怪我を治されることを第一にお考えください、アッカム殿」
「……あなたの温情には心から感謝している、神殿長ロムス殿」
ダリアスはぎこちなく頭を下げてみせる。
神殿長はラナよりも小柄な壮年の男で、とても優しげな風貌をしている。このような人物をも騙さなくてはならないこの身が恨めしくてたまらなかった。
「礼拝堂のお清めが終わったら、石工の方たちにお茶をさしあげてください。……その後は、わたくしの部屋に来ていただけますか? ちょっと物置の整理をお頼みしたいのです」
「かしこまりました、神殿長様」
神殿長は笑顔でうなずき、また扉のほうに戻っていく。
それを見送ってから、ラナは深々と溜息をついた。
「それでは、ダリ……いえ、アッカムも部屋にお戻りください。このような場所におられては、人目についてしまいます」
「うむ……」
しかし、ダリアスはなかなかそのような気持ちにはなれなかった。
ラナだけを働かせているのは心苦しいことであるし、それに彼女には身を守るすべもない。かなうことなら、一日中だってそばにいてやりたかった。
「せめて、ここの掃除が終わるまでは、ともにいよう。あのように薄暗い部屋に閉じこもっていると、頭がおかしくなってしまいそうなのだ」
「は、はい……ですが、危険ではないでしょうか?」
「そのためにこのような暑苦しいものを顔に巻いているのだ。髪の色も変えているし、なかなか俺の正体など見抜けるものではないだろう」
ダリアスは怪我もしていない右足を引きずって、座席のひとつに腰を下ろした。
「仕事を手伝ってやることはできぬが、こうして見守ることはできる。……それとも、俺などがそばにいても邪魔になるばかりか?」
「まあ……そのようなわけがあるはずはないでしょう?」
ラナは、目を細めて微笑んだ。
彼女らしい、とても魅力的な笑顔であるが、やっぱりその瞳から憂いの陰りが消えることはない。ギムと再会できない限り、彼女がもとの笑顔を取り戻すことはないだろう。
(死ぬなよ、ギム……お前が死んでしまったら、俺は一生、自分を許せなくなってしまう)
そのように思いながら、ダリアスは外套の下で拳を握り込んだ。
そのとき、「失礼いたす」という声が後方から響いてきた。
今度は、外からの来客だ。
そちらを振り返ったラナは、「まあ」と驚きの声をあげた。
「今日もおいでになられたのですね。残念ながら、一足違いになってしまいました」
「一足違い? とは、何の話であろうかな」
背が高くて痩せた人影が、ひょこひょことこちらに近づいてくる。
それは真っ白な髪と髭をした老人であった。
何の変哲もない布の長衣を纏っており、頭には丸い帽子をかぶっている。そこからこぼれた白い髪がもしゃもしゃと渦を巻いており、下顎の髭は痩せた胸もとにまで垂れていた。
相当な老齢であるようだが、背筋はのびており、足取りもしっかりしている。そうして皺の深い面にはとぼけた笑みが浮かべられており、小脇には布の包みが抱えられていた。
(これが、フゥライ……《賢者の塔》の学士長か?)
ダリアスは、息を潜めてその老人の挙動を見守った。
名前ぐらいはわきまえているが、実際にその姿を見たことはなかったのだ。ダリアスは《賢者の塔》などに用事はなかったし、社交嫌いで知られる学士長が戦勝の祝宴などに姿を現すこともなかった。聖教団の連中のようにいがみあうことはなかったものの、武人と学士ではなかなか縁を結ぶ機会もなかったのである。
「実はさきほど、お客人が訪ねて参られたのです。その御方は、学士のリッサと名乗っておられましたが……あの、あなたはフゥライ様でいらっしゃいますか?」
「いかにもフゥライだが、様と呼ばれるような身分ではないよ。ご覧の通り、いつ魂を召されるかもわからん老いぼれにすぎん」
そのように述べて、老人フゥライは愉快げに笑った。
「しかし確かに、リッサというのは不肖の弟子の名だな。リッサが、このような場所まで儂を訪ねてきたというのか?」
「は、はい。クリスフィア様にフラウ様というお連れもご一緒でした。そちらは、アブーフ侯爵家に縁のある方々だと名乗られていましたが……?」
「アブーフ侯爵家? はてはて、そちらはまったく心当たりがないな。で、リッサは何の用事で儂を訪ねてきたと?」
「それはうかがっておりませんが……何か、内密のお話があるそうです。それで現在は、ダーム公爵の邸宅に滞在されているとのことです」
「ふうむ。何やら面倒事の香りがするな。リッサもさぞかし不機嫌そうな顔をしていたであろう?」
「え、ああ、はい。あまり楽しそうなご様子ではなさそうでしたが……」
「うむ。あやつも儂と一緒で本の虫だからな。まあ、このようなことでもなければ日に当たる機会もなかろうし、人間にも虫干しは必要か」
やっぱり愉快げに笑いながら、フゥライは卓の上に包みを置いた。
「まあ、そのようなものは放っておけばよい。もしまた姿を見せるようであれば、師の休養を邪魔するなとでも伝えておいてくれ」
「そ、それではダーム公爵のお屋敷には向かわれないのですか?」
「儂のほうに用事はないからな。せいぜい町を歩き回らせて、弱りきった足腰を鍛えなおさせてやるとしよう」
「で、ですが、それではのちのちご面倒になってしまうのでは……?」
ラナが不安げな声をあげると、フゥライは「ふむ?」と白い眉をひそめた。
「ああ、そのような言葉を伝えさせては、おぬしが責められることにもなりかねんか。それでは、こちらの用事が済んだらダーム公爵のお屋敷に参上する、と伝えておいてくれ」
「りょ、了解いたしました。……あの、日取りなどを尋ねられたら、なんとお答えするべきでしょうか?」
「日取りは未定だ。まあ、書物を買いあさる銅貨が尽きたら、嫌でも帰ることになろう」
そうしてフゥライは、また声をあげて笑う。
とうてい王都の学士長などという立場にあるとは思えない、大らかで屈託のない笑顔である。ラナもつられて口もとをほころばしていた。
「ところで、そちらの御仁はどなたかな? 見たところ、ずいぶん気の毒なお姿をしておられるようだが」
「あ、あれはわたしの伴侶で……名は、アッカムと申します」
「ほうほう。すでに伴侶のある身であったか。夫婦の語らいを邪魔してしまって申し訳なかったな。用事が済んだら退散するので、ご勘弁を願いたい」
とぼけた口調で言いながら、フゥライは包みの口を開き始めた。
そこに隠されていたのは、古びた書物の束だった。
その中から、比較的新しそうな書物を取り上げて、ラナのほうに差し出してくる。
「これをおぬしに授けよう。時間のあるときにでも目を通してみるがいい」
「わ、わたしにですか? これはいったい……?」
「西に伝わる神話や伝承をまとめた書だな。そんな堅苦しいものではなく、子供でも読めるようにおとぎ話の体裁を整えられたものだ。読み物としては、なかなかの出来であるぞ」
「ど、どうしてわたしにそのようなものを……?」
「ふむ。おぬしがずっと悲しげな目つきをしておるのが気になってな。そういうときは、書に没頭するに限る。すぐれた書は、人の心を癒したり救ったりすることもかなうのだ」
フゥライは、やはり大らかな笑みをたたえたままだった。
ラナは胸もとで手を組み合わせて、申し訳なさそうに目を伏せる。
「わ、わたしのようなものに心をかけていただいて、とてもありがたく思います……ですが、わたしは……文字を読むことができないのです」
「なんと! 文字を読めぬとな!?」
フゥライは、愕然とした様子で身体をのけぞらした。
ラナははかなげに「はい」とうなずく。
「恥ずかしながら、家が貧しかったもので……数字ぐらいしか読むことはできないのです」
「そうか、この世にはそんな不幸な人間もおるのだな……書が読めぬとは、そんな不幸な話はない! 儂がセルヴァの王であれば、どのような幼子にもまず読み書きを教えるようにと新しい法を打ち立てるのだがな!」
フゥライは心底から気の毒そうにラナの姿を見返した。
それから、その目をダリアスのほうに転じてくる。
「では、ご伴侶のほうはいかがかな? 幼子ていどの読み書きができれば、これを読むのに不自由はないと思われるが」
「俺は……俺も貧しい生まれであったので、文字は読めぬ」
もちろん下級とはいえ騎士の出であるダリアスは、読み書きぐらい習得している。が、身寄りのない傭兵を演じるならば、そのように答えるほうが無難であるように思えた。
「そうか、まったく気の毒なことだ。では、神官か修道女にも読んで聞かせてもらうといい」
「あ、いえ、ですが、このように立派な書物を受け取るわけには……」
「なに、遠慮をするような値ではないよ。用事を終えたら、このエイラの神殿に寄付してしまえばいい。それならば、そのように恐縮する必要もあるまい」
ラナの手もとに書物を押しつけて、フゥライは満足そうに微笑んだ。
「それでは、お邪魔した。リッサのやつめに出くわすと面倒なので、しばらくはここを訪れるのも控えておこう。おぬしたちも、くれぐれも貴族などの怒りは買わぬよう、お気をつけてな」
そうしてフゥライはさっさと神殿を出ていってしまった。
ここまでやってきて、エイラに祈りを捧げようともしなかった。つまりは、ラナにこの書物を届けるためだけに、足をのばしたということなのだろう。
ラナは胸もとにその書物をかき抱き、切なげに息をついた。
「あのようにお優しいご老人までを、わたしたちは虚言であざむいているのですね……なんだか申し訳なさのあまり、消え入ってしまいたくなります」
「うむ。しかしそれは……」
「はい、わかっています。決して、ダリ……いえ、アッカムを責めているわけではありません。これは、わたしの選び取った運命なのです」
ダリアスは包帯の下で、唇を噛みしめることになった。
エイラの白い神像は、そんなダリアスたちの姿を石の瞳で静かに見下ろすばかりであった。