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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第三章 紡がれる運命
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Ⅲ-Ⅰ 交易の町ダーム

2017.3/31 更新分 1/1 ・4/6 誤字を修正

 赤の月の二十二日。

 前日に王都アルグラッドを後にしたクリスフィアは、その日の中天にようやく目的の地に辿り着くことができた。


 ダーム公爵領の中央部に位置する、公爵家の当主トレイアスの邸宅である。

 王都の中央部からダームの中央部に移動するには、トトスの車で丸一日もかかることになってしまったのだ。


 車など引かさずに、トトスに直接またがって早駆けをさせていれば、出発した日の夜遅くには到着することもできただろう。しかし、王都で危うい目にあった以上、不案内な場所で無茶をするのは危険であったし、また、このたびはフラウばかりでなく、自分でトトスを駆ることもできない道連れを一名だけ同行させていたのだった。


 その人物は、さきほどからぶすっとした面持ちでクリスフィアの後についてきている。この人物は車の中でもずっと難しげな書物に没頭していたので、丸一日が経過してもまったく親交は深まっていなかった。


「ご当主様。王都よりのお客人が到着いたしました」


 屋敷の案内をしてくれていた小姓の少年がそのように告げると、巨大な扉が内側から開かれた。

 次の間などは準備されておらず、扉を開けるとそこはもう応接の間であった。


 広い部屋が、けばけばしい色彩に満ちている。四方の壁は極彩色の天鵞絨に覆われており、棚にはいかにも高級そうな壺や彫像や短剣などが鎮座されて、まるで宝物蔵か何かのようだ。

 その中心に置かれた長椅子に座していた人物が、「おお!」と大きな声をあげる。


「其方がアブーフ侯爵家の姫君か。よくぞ参ったな! さ、遠慮はいらぬから入ってくるがいい」


 クリスフィアとフラウともう一名が入室すると、扉は音もなく閉められた。その役を担っていたのは、シムの絹を肢体に纏った、妖艶なる美女である。

 その美女は、しゃなりしゃなりと部屋を横切って、主人の椅子の背後に立つ。浅黒い肌をしていて切れ長の目をした、シムの血を感じさせる風貌であった。


「お初にお目にかかる。わたしはアブーフ侯爵デリオンの一子、クリスフィアと申す者で――」


「堅苦しい挨拶など必要ない! まずはそちらに座られよ」


 クリスフィアは一礼し、主人の正面にある長椅子に座らせていただいた。フラウともう一名は、シム風の美女と向かい合う格好でその背後に立つ。


「俺がこの屋敷の主人であるトレイアスだ。この屋敷の中では格式張ったことを禁じているので、どうかその流儀に従っていただきたい」


「それはわたしにとって、何よりありがたい話です。何分、辺境たるアブーフにて生まれ育った身でありますれば」


「それではさぞかし王都でも窮屈な思いをさせられたことだろう。大いに羽をのばされるがいいぞ!」


 五大公爵家といえば、セルヴァにおいて王家に次ぐ力を持つ血筋である。このトレイアスという人物は、そういった印象をいい意味で裏切ってくれる御仁であるようだった。


 背丈はクリスフィアよりも小さいぐらいかもしれないが、実に恰幅がいい。それも、王都の一部の貴族のようにぶくぶくと肥え太っているのではなく、ずっしりと固太りしている印象だ。

 黄白色の肌は健康的に日に焼けており、くせのある褐色の髪はこざっぱりと切りそろえている。大きな鼻の下には立派な口髭をたくわえており、茶色の瞳は子供のように無邪気そうな光を浮かべていた。


 年の頃は、クリスフィアの父親と変わらないぐらいだろうか。上等な絹の長衣を纏っており、手首や指先にはごてごてとした飾り物をたくさんつけている。なんとなく、大貴族というよりは大商人とでも呼びたくなるような風貌であった。


「ふむ。そちらの侍女は、なかなかの美人だな! まあ、俺の侍女ほどではないが」


「恐れ入ります。こちらは侍女のフラウで、もう一名は……この地の案内人として同行させた、学士のリッサと申します」


 お行儀よくお辞儀をするフラウのかたわらで、リッサもしかたなさそうに頭を下げる。

 それは、あの『賢者の塔』の書庫で遭遇した若い学士であった。

 トレイアスは、「ほほう」と感心したような声をあげる。


「何者かと思ったら、学士などであったのか。して、学士よ、其方は何故にそのようなものを顔にくくりつけておるのだ?」


「……こちらは、弱った目の力を助けるための器具です」


 リッサはこのような場においても、あの奇妙な器具を顔に装着させていた。目もとをすっぽり隠せるぐらいの大きさで、真ん中にぽつんと黒い穴の空いた、二枚の皿のごとき器具である。明るい日の下で見ると、それは実に珍妙な姿であった。


 また、ひょろひょろに痩せた身体にだぶだぶの装束を纏ったその姿も、どこか見る者の笑いを誘ってしまう。それは詰襟のついた学士のお仕着せであるのだが、あんまり寸法が合っていないために、子供が大人の服を纏っているような珍妙さがかもしだされてしまっていた。


「さすがに学士などという者には変わり者が多いようだな! ……しかし、案内人などを引き連れてくるとは準備のいいことだ。そのようなものは、こちらでも好きなだけ見繕ってやれたのにな」


「ええ。ですがこの者ももともとはダームの生まれであったそうなので、何も不自由はないかと思われます」


 なおかつリッサには、それ以上に重要な任務も託されている。すなわち、行方知れずの学士長を捜すための案内人である。学士長の人柄をよくわきまえており、なおかつダームの生まれでもあったこの人物が、運悪くその役を受け持つことに相成ったのだった。


「そろそろ中天の鐘が鳴る頃合いであろう。よければ、昼の食事など一緒にどうかな?」


「いえ。本日はこのまま、港町のほうを見物させていただこうかと考えております」


「ふむ。海を見ずしてダームを訪れたとは言えぬからな! それでは、姫と親交を結ぶのは夜の楽しみとしておくことにしよう」


 ダームに滞在する間は、この公爵家の邸宅で世話になる段取りになっていたのだ。

 クリスフィアは長椅子に座したまま、深く頭を下げてみせた。


「このたびは、突然の来訪を許していただき、とても感謝しております。このご恩は、いつか必ずお返しさせていただきますので」


「なに、遠方よりの客人を迎えるのは、俺にとって一番の楽しみなのだ。しかも、アブーフの人間などというものは、俺にとってシムやジャガルや渡来の民よりも物珍しい存在であるからな! 氷雪に脅かされる北の地での生活とはどのようなものであるのか、夜にはたっぷり聞かせていただこう」


 早駆けの使者がクリスフィアの来訪を伝えたのは昨晩のはずであるのに、彼は二つ返事でそれを了承してくれたのだ。ダームの公爵というのはずいぶん寛容な人物なのだなとクリスフィアも不思議に思っていたのだが、当人と対面したことによって、ようやく納得することができた。


(このような人物ならば、薄汚い陰謀などには一切加担していないと信じたいところだが……さてさて、どうなのだろうな)


 クリスフィアがレイフォンたちから託された使命は二つ。学士長の行方を突き止めることと、ダーム公爵トレイアスおよび十二獅子将シーズなる人物の内情を探ることである。


「それでは、日の沈む前には帰参いたしますので、なにとぞよろしくお願いいたします」


 そうしてクリスフィアは、まずは一つ目の使命に取りかかるべく、陽気で豪放な公爵家当主の屋敷から辞去することにした。


                 ◇


「あーあ。どうして僕がこんな面倒な用事につきあわなくてはならないんだろう」


 一刻の後、トトスの車によって港町にまで到着すると、学士のリッサは不平に満ちみちた声音でそのようにつぶやいた。

 本人は独り言のつもりなのかもしれないが、しっかりクリスフィアにも聞こえている。が、無理な頼みごとをしたのはこちらのほうであるので、クリスフィアは聞こえないふりをすることにした。


「我々にとっては、学士長を知るお前だけが頼りだ。どうかよろしく頼むぞ、学士殿」


「そのように言われましてもね。あなたはダームの広さをご存じなのですか? この港町を一周するだけでも一日かかってしまうでしょうよ」


 クリスフィアと言葉を交わす際にも、その無礼さにはあまり変わりがない。しかし、この人物のそういう傍若無人なところは、クリスフィアにとって好ましいものであった。

 そんなクリスフィアたちに、トトス車の御者が笑顔で声をかけてくる。


「では、わたくしどもはこちらでお待ちしております。どうぞお気をつけて」


「うむ。五の刻までには戻るつもりでいるので、それまでは存分に身体を休めておいてくれ」


 この御者は、レイフォンが自分の領地から連れてきた従者であった。クリスフィアの安否を慮り、わざわざそのような人物を託してくれたのだ。

 御者は町の入り口にある酒場へとトトスの首を巡らせる。そこが旅人からトトスを預かる場所でもあるのだろう。同じように車を引かされたトトスたちが頻繁に出入りをしている。


「それにしても、聞きしにまさる賑やかさですね。王都の城下町よりも賑やかに感じられるぐらいです」


 目立たぬように旅用の外套を纏ったフラウが、瞳を輝かせながら周囲を見回している。

 確かにその辺りは、旅人とトトスの車でたいそう賑わっていた。道は大きく切り開かれて、その左右には石造りの建物がずらりと立ち並んでいる。印象としては、城下町よりも宿場町に近い様相であった。


 また実際、ここはすべての旅人に行き来が許されている交易の要であるのだ。猥雑で、奔放で、粗野な熱気に満ちみちた、とても好ましい賑やかさであった。


「ふん。ここは港町の端も端なんですからね。これぐらいの賑やかさで驚いていたら、あとで目を回すことになってしまうでしょうよ」


 小脇に分厚い書物を抱えたリッサが、憎たらしげな口調でぼやいている。色が生白くてひょろひょろの体格をした若き学士は、強い日差しから逃げるように外套の頭巾をかぶりなおした。


「さ、行くなら行きましょう。こんな中から学士長を見つけだすなんて、藁の山から針を探すようなものですけれどね」


「頼りないな。お前には、学士長の立ち寄りそうな場所にもいくらかの見当はついているのだろう?」


「ふん! あの学士長をそんな簡単に見つけられたら苦労はしませんよ。《賢者の塔》を離れたあの御方は、羽の生えたトトスのようなものなのですから」


 ともあれ、大事な使命を放り出すことは許されない。クリスフィアとフラウは、リッサの案内でいよいよダームの港町に足を踏み入れることになった。


 そうして半刻ばかりも歩くと、さきほどのリッサの言葉が真実であったことが知れた。

 すなわち、町の賑わいが倍ほども騒がしくなってきたのである。


 人の数が、尋常ではない。そして、道の端にはさまざまな屋台や露店が出されている。まるで祭のごとき賑わいだ。

 そしてそこには、実に色々な姿をした人間が行き交っていた。

 半分ぐらいは黄色い肌をした西の民であったが、もう半分は、黒い肌をした東の民、白い肌をした南の民、それに、どこの生まれともつかぬ奇妙な風体をした人々で占められていたのである。


 中には、かつてシャーリの集落で出会ったロア=ファムのように黄褐色の肌をした者もいた。セルヴァの南部や中央部に住まう、自由開拓民か何かであろう。

 そして、東や南との混血であるような人々もたくさんいた。北の果てに生まれ育ったクリスフィアには南の民自体が珍しかったのであるが、そのずんぐりとした体格や緑色の瞳を見間違えることはなかった。


「あ、姫様、あれは……?」


 と、フラウが腕に取りすがってくる。

 そちらに目をやったクリスフィアは、思わず長剣の柄に手をかけそうになってしまった。


「おい、リッサよ。あれは北の民ではないのか?」


「は? いかなダームといえども、北の民との交易など許されるはずがないでしょう。あれは、北の民に代わってマヒュドラの恵みを届ける、渡来の民というやつですよ」


 それは、北の民と見まごう魁偉な姿をした大男たちだった。

 クリスフィアよりも頭一つ分は背が高く、誰もが岩のように分厚い体格をしている。その肌が赤銅色に焼けているのも、故郷よりも日差しの強い地で奴隷として働かされる北の民にはよく見られる色合いであった。


 ただ異なるのは、髪と瞳の色である。

 その大男たちは、燃えるような赤毛と青い瞳か、あるいは錆びた鉄のような暗灰色の髪と黒い瞳を有していた。


「渡来の民……つまり、海の外からやってきた人間たちというわけか」


「ええ。大神アムスホルンの子ならぬ竜神の民たちです。もともと北や東の民としか縁を結んでいなかった彼らも、最近は頻繁に姿を見せるようになったのですよ。シムやマヒュドラの恵みをどっさり携えてね」


 人混みをぬって歩きながら、リッサはそのように述べていた。

 その渡来の民たちは、巨大な荷物を背負って歩いていたり、酒場の前で昼から果実酒を酌み交わしたりしていた。


「他にも海の外から交易にやってくる人間はいますけれど、町の中にまで姿を現すのは彼らぐらいでしょう。アムスホルンは、外の人間を嫌いますからね」


「アムスホルンが、外の人間を嫌う? そもそもセルヴァの父たる大神アムスホルンは、悠久の眠りについているという伝承であろうが?」


「眠っていてもなお人間を選別するのがアムスホルンでしょう? そら、いわゆる『アムスホルンの息吹』というやつですよ。大陸アムスホルンの外で生まれた人間は、大神の寝息で病魔に冒されてしまうんです」


 それは、大陸の人間が幼き頃にかかる病魔の名前である。その病魔に打ち勝った人間だけが、現世で生きていくことを許されるのだ。


「だが、我々とて、幼き頃に選別されているではないか。……ああ、海の外から来た人間は、幼くなくともその病魔に脅かされてしまうということか?」


「ご名答。一度かかれば二度とかからないのが『アムスホルンの息吹』ですが、海の外から来た人間は、幼き頃にその病魔を患っていないので、大の大人でも罹患してしまう恐れがあるのですよ」


 とても面倒くさそうな口調でありながら、リッサは饒舌であった。日常の会話よりも、こういった話題のほうが舌もなめらかに動くのだろう。


「で、大人になってから『アムスホルンの息吹』にかかると、それはもうひどい有り様になってしまうようです。幼子よりも強い熱を出し、十人に九人は魂を召されてしまうそうですね」


「それは恐ろしい話だな。そのような中で、よくもこの地に足を踏み入れようと思えるものだ」


「ま、度胸試しのようなものなのでしょう。一日や二日ばかり町を歩いたところで、そうそう罹患するものでもないでしょうから。実際、渡来の民が病魔で魂を返したという話は、僕もそれほど耳にした覚えはありませんしね」


 そのように述べてから、リッサは細っこい肩をすくめた。


「だいたい、伝承は伝承に過ぎません。この大陸に強力な伝染病が存在するというのは事実なのでしょうが、実際に神が寝息を吐いている姿を見たことのある人間などいやしないのですからね」


「ほう。我らの父たるセルヴァのそのまた父たるアムスホルンに対して、実に恐れげのない言葉だな」


「このていどの戯れ言で魂を砕かれはしないでしょう。これが許されないなら、学士などのきなみ魂を砕かれてしまいますよ」


「なるほどな」とクリスフィアは応じたが、フラウはその隣でこっそりセルヴァに許しを乞う文言を唱えていた。神の従順なる子としては、まあこちらのほうが正しい行いである。


「さて。あてどもなく歩いたところで、目的を達することはできなそうだな。まず我々はどこに向かうべきなのだ?」


「そうですねえ。……あ、エイラの神殿にでも出向いてみましょうか」


「エイラの神殿? そのような場所に、学士長殿の好む書物などが存在するのか?」


「いえいえ。学士長は、七小神の中で特に純潔の神エイラを崇めているのですよ。何日かに一度ぐらいは祈りを捧げに来ているかもしれませんし、神殿の人たちに言伝でも頼めば、用事は足りるかもしれないじゃないですか」


 リッサがそのように言うならば、クリスフィアの側にあらがう理由はない。

 ただ、それがエイラの神殿であるというのが、クリスフィアにはいくぶん引っかかっていた。


(カノン王子が幽閉されていたのも、王都のエイラの神殿だった。どうして数ある小神の中で、よりにもよってエイラばかりが取り沙汰されるのだ? ……これは果たして、ただの偶然であるのか?)


 しかし、いくら頭を悩ませても解答の得られるような問題ではない。

 その疑念は心の片隅にしっかりとしまいこみつつ、クリスフィアはリッサの案内でエイラの神殿を目指しすことにした。


 さすがはこの地の生まれだけあって、リッサの足取りに迷いはない。人混みをすりぬけて、すいすいと歩いている。いっぽう王都でひどい目にあったクリスフィアは暗殺者なども警戒しなくてはならなかったので、なかなか気を抜くことができなかった。


「フラウ、決してわたしから離れるなよ」


 ほとんどフラウのほっそりとした肩を抱き寄せるようにして、クリスフィアは雑踏の中を歩き続けた。

 やがてリッサが足を止めたのは、いくぶん人通りの少ない小路に入ってからだった。


「この突き当たりにあるのが、エイラの神殿です。豊穣神マドゥアルや運命神ミザの神殿であったら町の反対側であったので、荷車を呼びつける必要があったでしょうね」


「ふむ。それにしても、道を進むにつれて、妙に生臭くなってきたように感じられるのだが」


「そいつは潮の香りです。海が近づいてきた証拠ですよ。学士長の捜索などやめにして、海でも見に行きますか?」


「いや。物見を楽しむのは学士長を見つけた後だ。……では、神官たちに挨拶でもさせていただくか」


 白っぽい石で組み上げられた神殿へと、歩を進めていく。そちらに近づくにつれ、人通りはいよいよ少なくなってきた。

 道の左右にも家屋は建てられているが、どれも店ではなく普通の住居なのだろう。商人や旅人にはあまり用事のない区画なのだ。


 そうして神殿に近づくと、何か硬質的な音色が聞こえてきた。

 石や金属を打ち鳴らすような音色であるが、剣戟とは異なる。建物の中ではなく、裏庭かどこかから響いてきているようだ。


「これは何の音色であろうな?」


「さあ? 石工職人を呼びつけて、新しい彫像か祭壇でもこしらえているんじゃないですかね」


 ならば、クリスフィアたちには関係ないことだ。

 建物の扉は解放されていたので、クリスフィアは遠慮なく踏み込ませていただくことにした。


 建物の中は、がらんとしている。

 まあ、エイラの神殿など、婚儀を前にした人間ぐらいしか用事はないのだ。貧しい家であれば婚儀そのものをエイラの神殿で挙げることもあるのだろうが、今日のところはそういう話もなかったようだった。


 入ってすぐは礼拝堂で、石造りの卓と座席がずらりと並べられている。一列に十人ぐらいが並んで座れるぐらいの大きさで、それが左右に十列ぐらいずつ設えられていた。


 その座席を掃除している下女が一人いるだけで、神官も修道女も見当たらない。しかたないので、クリスフィアはその下女のほうへと近づくことにした。


「仕事中にすまぬが、ちょっと話を聞かせてもらえるか?」


 下女は、びくりと肩を震わせてから、こちらを振り返った。どうやらクリスフィアたちが入室してきたことにも気づいていなかったらしい。


 なかなか可愛らしい顔立ちをした娘である。年の頃は十五、六といったところか。肩までのばした黒髪はぼさぼさで、身に纏っている布の装束もずいぶん粗末なものであったが、とても柔和で優しげな眼差しをしている。


 ただ、その小さな顔には何やら暗い陰が差していた。

 なんとなく、雨に打たれる小さな花のようなはかなさが感じられてしまう。何か大きな悩みを抱え込みながら、懸命にそれをねじふせようとしているかのような風情であった。


「……わたしに何かご用事でしょうか?」


 座席を清めていた布巾をぎゅっと握りしめながら、娘はたいそう不安げに問い返してきた。身長はフラウと同じぐらいで、クリスフィアよりも頭半分は小さい。


「うむ。実は人捜しをしているのだ。フゥライという名のご老人であるのだが、こちらの神殿に姿を現したことはなかっただろうか?」


「はあ……わたしは数日前からこちらで働かせていただいている新参者ですので、あまりそういうことは……」


「年は六十を超えており、頭は真っ白で、僕に負けないぐらい痩せていますが、もうちょっと背は高くて、背筋はしゃんとしているご老人です。下顎にだけ長い髭をたくわえていて、瞳の色は明るい茶色、肌の色は普通の黄色ですね」


 おどおどとした娘の声にかぶせるようにして、リッサがべらべらとまくしたてる。

 その勢いに娘はいくぶん気圧された様子であったが、途中で「あ」と小さな声をあげた。


「下顎に白い髭をたくわえたご老人ですか……それは、少し目尻が下がっていて、いつも優しげなお顔をされている御方でしょうか……?」


「書物の収集がうまくいっていれば、目尻は下がっているかもしれませんね。そうでなければ、こんな風に眉間にしわを寄せていることのほうが多いですけれども」


 と、わざわざリッサが目を助ける器具をずらしてまで実演してみせたので、娘は「まあ」と口もとをほころばせた。

 それでもやっぱり、どこか憂いげに見えてしまう表情だ。


「たぶん、二度ほどお目にかかったことがあると思います。こちらの神殿にはあまり多くの人間は訪れませんので、見覚えることがかないました」


「この数日ばかりで二度も訪れているのか。では、また近日中に訪れるやもしれんな」


 勢い込んで、クリスフィアも身を乗り出してしまう。


「そのご老人は、いつもどれぐらいの刻限に訪れるのだ? 今日、これから訪れることもありうるだろうか?」


「そこまではわかりかねますが……昨日お姿を見たばかりですので、今日は来られないかもしれません。来られる刻限は……最初の日は中天前の朝方で、昨日は昼下がりであったと思います」


「そうか。……では、もしも次にお姿を見せられたときは言伝を頼めるだろうか? お弟子のリッサがあなたを訪ねに来た、とな」


 しかし、それだけでは連絡のつけようがない。

 しばし迷った末に、クリスフィアはこのようにつけ加えることにした。


「それで、できれば至急ご連絡をいただきたいと伝えてほしい。我々は、公爵家の邸宅で世話になっている身だ」


「公爵家……ダーム公爵家のことですか?」


 娘はちょっと顔色を失って、また後ずさろうとした。

 クリスフィアは、なんとかその気持ちをなごませようと、なるべくにこやかな顔をこしらえてみせる。


「何もそのように恐れる必要はない。公爵家で世話になっているのだから、あやしげな人間ではないという証にもなるであろう? 決して迷惑はかけないので、どうか力を貸してほしい」


「あなたがたは……いったい何者なのですか……?」


 クリスフィアは、娘の肩が小さく震えていることに気づき、思わず眉を寄せそうになってしまった。

 いきなり貴族の肩書きを出せば警戒されるのも当然であるが、ここまで動揺するというのは、あまり普通の話ではない。何か貴族にひどい目にあわされたことでもあるのか――あるいは、後ろ暗いところでもあるのだろうか。


「……どうしたのだ、レミ?」


 と、ふいにくぐもった男の声が礼拝堂に響き渡った。

 目をやると、奥のほうにあった扉から大きな人影が出てくるところであった。


「あ、奥で休んでいなければ――」


「かまうな。その者たちは、何者なのだ?」


 それは、奇怪な人物であった。

 顔にぐるぐると包帯を巻いて、人相を隠してしまっているのだ。

 額から鼻の下までを包帯で巻いているために、頭と下顎ぐらいしか外に出ていない。その髪は娘と同じように黒色をしており、包帯の隙間から覗く瞳は、濃い茶色であった。


 身に纏っているのはやっぱり粗末な布の服であるが、その上からさらに薄汚れた外套を羽織っている。背丈はクリスフィアよりも拳ひとつ分ぐらいは大きく、そして実に鍛え抜かれた体躯をしているようだった。


 ただし、右足を引きずるようにして歩いている。

 外套から覗く首や腕にも、薄汚れた包帯を巻きつけているようだ。


「こ、こちらはわたしの伴侶である、アッカムと申します」


 じりじりと近づいてくる男を押し留めようとするかのように、娘はその腕に取りすがった。

 クリスフィアは害意がないことを示すために、にこやかな表情を保持し続けた。楽しくもないのに笑顔でいるというのは、クリスフィアにとってなかなかの苦行であった。


「ご心配をかけて申し訳ない。ちょっと奥方にお頼みごとをしていたのだ。よければ、ご伴侶にも一緒に話を聞いていただきたい」


「頼みごとだと……?」と男はうろんげに目を細める。

 不自然なまでにくぐもった、老人のような声だ。

 そうしてクリスフィアが同じ言葉を繰り返しても、アッカムなる男の目から不信の光が消えることはなかった。


「生半可な身分の者では、公爵家に滞在することなど決して許されないだろう。……お前たちは、何者なのだ?」


「……わたしはアブーフ侯爵家に縁ある者で、名はクリスフィアという。こちらは侍女のフラウで、こちらは学士のリッサだ」


 クリスフィアは迷ったが、けっきょく正直に告げることにした。

 アッカムは、「アブーフ侯爵家……」と陰鬱に繰り返している。


「北方の国境に存在する辺境の領土だ。貴族などといっても、そこまでたいそうな身分ではない」


「…………」


「ちなみに、そちらはどういう身分であられるのかな。ずいぶんひどい手傷を負っておられるようだが」


「ア、アッカムはもともと傭兵で……先のグワラム戦役において、このような手傷を負うことになってしまったのです。これではもう傭兵として生きていくことはかないませんので、縁を辿ってこのエイラの神殿で夫婦ともども働かせていただくことになったのです」


 クリスフィアは「なるほど」とだけ言っておいた。

 アッカムは、底光りする目でじっとクリスフィアを見つめてきている。


「それでは、言伝をお願いできるだろうか? ……それで、よければこの話は内密にしていただけるとありがたいのだが」


「……何故だ?」


「我々がそのご老人を捜しているということは、なるべく余人の耳には入れたくないのだ。了承してもらえれば、こちらの銅貨を――」


「銅貨などいらん。俺たちは物乞いではない」


 警戒心を隠そうともしないまま、アッカムはそのように言い捨てた。


「用が済んだのなら、帰るがいい。俺たちにはまだ仕事が残っている」


「うむ。忙しい中、申し訳なかった。親切な夫婦に、セルヴァとエイラの祝福を」


 クリスフィアは軽く頭を下げ、きびすを返した。

 建物を出る前に振り返ると、二人は同じ体勢のままクリスフィアたちの姿を見送っていた。


「……なんだか不思議な感じのするご夫婦でしたね。夫のほうは、少し恐ろしい感じもしてしまいました」


 神殿を出て、小路を少し進んだところで、フラウが嘆息まじりにつぶやいた。

「そうだろうな」とクリスフィアは肩をすくめてみせる。


「あの者たちは、虚言を吐いていた。娘のほうなどは実に善良そうに見えたが、虚言でわたしたちをあざむこうとしていたのだから、あまり感心できたものではない」


「虚言ですか? いったいどの言葉が?」


「男が手傷を負っている、という点だ。あの男は足を傷つけたことがないのだろうな。実にわざとらしい足の引きずりかただった」


 目を丸くするフラウに向かって、クリスフィアはさらに言いつのる。


「おそらくあの外套の下では剣の柄を握りしめていたのだろう。しかもあやつは……わたしでも勝てるかわからないほどの剣士であろうな」


「ひ、姫様がかなわないほどの?」


「うむ。よくて五分、といったところだろう。まあ、そういう勝負をひっくり返すのが、わたしには一番の楽しみであるのだがな」


 何にせよ、クリスフィアたちがエイラの神殿を訪れることなどは誰にも予測できないはずなのだから、敵方の刺客などではありえないだろう。

 ならば、得体の知れない剣士などにかかずらっているひまはなかった。


「わたしの申し出も聞き入れてもらえるかどうか、はなはだあやしいところだな。神殿にはちょくちょく顔を出させてもらうことにして、あとは自力で学士長殿の行方を捜す他あるまい」


「やれやれ。その前にひと休みさせていただけませんかね。ずっと歩きづめで、僕はくたびれ果ててしまいましたよ」


 そうしてクリスフィアたちは、再び港町の雑踏へと身を移した。

 自分たちが学士長フゥライよりも重要な人物と邂逅したことなど、そのときのクリスフィアたちには知るすべもなかったのだった。

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