Ⅱ-Ⅰ 裁きの塔
2017.3/27 更新分 1/1
朱の月の二十一日。
アルグラッドの黒羊宮で舞踏会が行われた、その翌日である。
中天に、クリスフィア姫が首尾よくダーム公爵領に旅立つのを見届けてから、レイフォンは『裁きの塔』へと向かうことになった。
同行しているのは、ティムトとディラーム老である。
燦々と降りそそぐ陽光の下、灰色の石畳を辿って歩きながら、ディラーム老はずっと感慨深げな面持ちをしていた。
「あのクリスフィア姫というのは、本当に果敢な姫君だな。それゆえに、おかしな陰謀に巻き込んではならじと思い、なるべく身を遠ざけるように心がけていたというのに……このたびは、それが裏目に出てしまったというわけか」
「ディラーム老に責任のある話ではありませんよ。憎むべきは、姫にそのような災厄をもたらそうとした何者かです」
「年若き姫君の寝所に忍び込み、よりにもよってシムの媚薬などを撒き散らすとは……そのような恥知らずは、何度でもセルヴァに魂を打ち砕かれるがいい!」
憤慨しきった声で述べてから、ディラーム老はレイフォンに鋭い眼差しを向けてきた。
「しかし、その犯人は本当にあのオロルという薬師なのだろうか? わたしの生命は、あの者のもたらす薬によって救われたようなものなのだが……」
「並々ならぬ洞察力と直感をお持ちになっているクリスフィア姫がそのように感じたのですから、その可能性は否めないのでしょうね。……ただし、薬師風情が自分の意思でそのような真似に及ぶというのは考えにくいことです。どうあれ、それを命じた何者かが背後には潜んでいるのでしょう」
「ううむ。ならば、あの者を従者としている新王が一番あやしく思えてしまうが……そう断ずるのは早計なのだろうな」
「もちろんです。焦らずに、確かな証を探し求めることにしましょう」
「うむ……しかし、そうして敵方に目をつけられてしまった姫をダームなどに向かわせてしまってよかったのだろうか? それも、武官の護衛もつけずにというのは、あまりにも……」
「私もそのように思ったのですが、護衛の同行は丁重に断られてしまったのですよ。まあ、今後は姫も用心するでしょうし、むざむざと暗殺者に屈するようなことにはなりますまい」
自分自身をも安心させたいがために、レイフォンはそのように言ってみせた。
ティムトは相変わらず従者としての大人しげな表情を保ちながら、半歩後ろを歩いている。
「まあ、まずは目前の問題を片付けることです。バウファ殿から届けられた言葉が真実であるならば、これは由々しき事態でありますからね」
今日の朝方、祓魔官のゼラが神官長バウファの使いとしてレイフォンの執務室を訪れてきたのだ。
そのゼラが言うには、失踪した十二獅子将ダリアスの副官たる人物は、罪人として『裁きの塔』に幽閉されているらしい――とのことであった。
「馬鹿な! 十二獅子将の副官までを担っていた人間が、何の罪も明らかになっていない状態で、そのような場所に閉じ込められているというのか!?」
その話を伝えたとき、ディラーム老は顔を赤くして激昂していたものであった。
確かにそれは、王国の法にもとる行いであったのである。
しかしレイフォンは、怒れるディラーム老をなだめるのではなく、それをいっそう発奮させるべしとティムトから申し渡されていたのだった。
「そのルイドなる人物が王都に呼びつけられて罪人同然の扱いを受けているようだ、とは聞いていたのですけれどね。『裁きの塔』に幽閉というのは、罪人同然でなく罪人そのものです。正式な審問もされていないルイド殿をそのような場所に幽閉するというのは、本来考えられないことでしょう」
「当然だ! そのような無法を捨て置くことができるものか!」
ということで、レイフォンたちは三人連れ立って、『裁きの塔』に向かうことになったわけである。
これは、『賢者の塔』に出向くよりもいっそう心の弾まない行いであった。『裁きの塔』というのは、野に放つことのできない罪人が集められた牢獄であるのだ。
その心の弾まない建物が、いよいよ眼前に近づいてくる。
造りとしては、かつて訪れた『賢者の塔』と大差はない。灰色の煉瓦で造られた巨大な塔だ。
ただ異なるのは、その周囲が堅固なる石塀に囲まれていることである。
その石塀に設置された巨大な門が見えてくると、ディラーム老は足を速めて近づいていった。
「お役目、ご苦労である」
ディラーム老がそのように呼びかけると、槍をかまえた守衛たちは張り詰めた面持ちで敬礼をした。この『裁きの塔』とて、王城の敷地内に存在するのだ。そこに配置された兵士で、かつての元帥たるディラーム老の姿を見違える人間などいようはずもなかった。
「とある罪人に問い質したき儀がある。門を開けよ」
「はっ!」
守衛たちは、何の疑問も呈そうとはしないまま、至極従順に開門した。
颯爽と歩を進めるディラーム老を追って、レイフォンとティムトもそれに続く。
(さすがに公爵家の人間でも、『裁きの塔』にこうまですんなり通されはしないだろう。だからティムトも、今回はディラーム老に同行を願いたかったのだろうな)
貴族としての身分はディラーム老よりもレイフォンのほうが上位であるわけだが、やはり王城内における十二獅子将の威信というのは馬鹿にできぬものなのだ。
が、いよいよ暗鬱なる建物の入り口まで到達したときには、そこまで簡単にはいかなかった。
「大変申し訳ありませんが、本日ディラーム将軍閣下が来訪するという旨は伝えられておりません。いかなる罪人にご用事であるのか、こちらで確認させていただけますでしょうか?」
「……十二獅子将ダリアスの副官をつとめていたルイドなる男が、こちらに収監されたと聞いた。それが真実であるかどうかを確かめさせてもらう」
「ダ、ダリアス殿の副官でありますか? 失礼ながら、そのような人物を受け入れたという記録はどこにも――」
「記録はない、と? ならば、なおさら確かめねばならんな」
その内の怒りを眼光と声音に集積させながら、ディラーム老はそう言いつのった。
「すべての責任はわたしが取る。その扉を、開けよ」
「……かしこまりました」
守衛は巨大な鉄鍵でもって、扉を開錠した。
鉄の板を打たれた扉が、うめき声のような音色を響かせながら大きく開かれる。
その先には、窓の少ない暗い通路が長くのびていた。
その最果てに待ちかまえているのは、また巨大な扉と守衛たちである。罪人たちは、こうして念入りに外界と隔絶されているのだ。
そうして進めば進むほどに、守衛たちの態度は頑なになっていった。
最後の扉を守っていた守衛たちは、ディラーム老の言葉を聞くや、大あわてで人を走らせた。そうして連れて来られたのは、兜に立派な房飾りをつけた守衛の長であった。
「ひ、非常に申し訳ないのですが、いかなディラーム将軍閣下といえども、正式な届け出もなくここをお通しするわけには――」
「ほう。その届け出というのは、わたしの生命や誇りよりも重いものであるのか?」
ディラーム老らしからぬ、高圧的で貴族的な物言いであった。
しかし、正式な手続きなどをしていれば、受理されるのに何日かかるかもわからない。その間にルイドの身を別の場所に移されてしまうか――最悪、秘密裡に始末されてしまうことだってありうるのだ。この際は、多少の問題が残ろうとも強行的な手段に出るしかなかったのだった。
守衛の長はレイフォンが気の毒になるぐらい煩悶したのち、自分が同行することと、三階より上には立ち入らぬことを条件に、入館を許すこととなった。
三階より上は、貴族の中でも王家か公爵家に縁あるぐらいの貴き身分であった罪人たちが収容されているのだ。言ってみれば、セルヴァ王家と公爵家の数百年の怨念がわだかまる空間であるはずだった。
(まさかルイドのことを隠し通したくとも、そのような場所に放り込むことはできないだろう。……というか、そのような場所までいいように使えるとしたら、いよいよベイギルス陛下がすべての首謀者であったという証になってしまうものな)
そのようなことを考えながら、レイフォンはついに『裁きの塔』の内へと足を踏み出すことになった。
通路はせまく、天井は高く、そしてすべてが灰色の石造りである。窓は天井の付近の壁に小さく切られているばかりで、日差しらしい日差しも入ってきていない。その代わりに、壁には昼から燭台が掲げられていた。
壁はじっとりと湿っており、空気はすっかり澱んでしまっている。罪人たちはともかくとして、このような場所で働かされている兵士たちもよく正気を失わないものだ、とレイフォンは溜息でもつきたい気分であった。
「恐れながら、貴き身分であった罪人でありますれば、それはすべて二階より上に部屋が与えられております。しかし、我々に告げられぬまま、そちらに新たな罪人を迎え入れることは不可能であると思われます」
「セルヴァに誓って、それは確かか?」
「はっ! 貴き身分であった罪人には食事などにも吟味が必要であるため、その数をごまかすことなどは決してかないません。ですから……仮に、正式な手続きなく、罪人ならぬ人間をこの塔に収容するとしたら、それは一階か地下の部屋に、偽りの身分で手続きをされているのではないでしょうか」
「では、まずはそちらから改める他ないな」
そこから先は、いっそう気の滅入る作業が待ち受けていた。
牢獄内の囚人たちの姿を、一人ずつ確認していかなければならなかったのである。
『裁きの塔』に収容されているのは、追放や労役の罰では済まない重い罪を犯した人間ばかりだ。そんな罪人たちと対面しなくてはならないというのは、ほとんどそれ自体が刑罰のようなものだった。
「これも違うな。……ルイドであれば、わたしも何度かは顔をあわせているが、そもそも年格好の近い人間すらいないようだ」
長い時間をかけて一階の牢獄をすべて見て回ったディラーム老は、低く押し潜めた声でそのようにつぶやいた。
案内役の守衛長は、いささかならずげっそりとした面持ちになってしまっている。
「地下に収容されているのは、さらに下賤の身分であった罪人ばかりです。……あの、まだお続けになられるので?」
「無論だ。地下が終われば、その後は二階だな」
一同は、地下の入り口で別の守衛に手持ちの燭台を受け取ってから、石造りの階段へと足を踏み出した。
こちらは部屋が大きく造られており、そこに何名かずつの罪人たちが収容されていた。
通路の側には鉄の格子が張り巡らされており、暗がりの中で死人のようにうずくまっているのがほとんどである。病魔の蔓延を防ぐために、あるていどは身を清められているはずだが、人間の垢や排泄物からもたらされる悪臭が濃密にわだかまっていた。
「……このような場所に、十二獅子将の副官までつとめられたほどの御方が送り込まれるものでしょうか?」
守衛長が小声で問うたが、ディラーム老は無言のまま、闇の向こうを透かし見ていた。
顔を上げようとしない者には声をかけ、その姿を改める。が、その場にいるのもやはり無残にやつれ果てた貴族ならぬ罪人ばかりであった。
そうして念入りに確認をしながら、奥へ奥へと突き進む。
だが、ついに罪人の数が尽きて、無人の牢獄にまで到達しても、求めるべき人間の姿はなかった。
「やはり、おられないようですね。では、上に戻りましょう」
「待て。この先にもいくつか部屋が残されているようだな」
「はい。ですが、罪人は手前から順に収容されていきますので、この先はすべて無人のはずです」
「……いちおう、確認させてもらおう」
ディラーム老はまったく力を失った様子もなく、歩を進めていく。
早く胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込みたいものだなあと心中で嘆きながら、レイフォンはのろのろとその後を追った。
そうして、ついに突き当たりの壁が燭台に照らしだされたとき――奇跡が起こった。
「ああ! 兵士さん! どうか俺たちの話を聞いてください!」
そんな声が、無人であるはずの部屋からいきなり響きわたってきたのである。
場所としては、最奥からひとつ手前の部屋であった。
暗がりの中で、ひょろりとした若者が格子に取りすがっている。
仰天したのは、守衛長の男であった。
「な、何だ、貴様は!? どうしてそのような場所に入れられている?」
「どうしてって! 閉じ込めたのは、あなたがたじゃないですか! でも、俺たちは決して罪人なんかじゃないんです!」
それは、これまで見てきた罪人たちに比べれば、まだしも人間がましい姿をした若者であった。
顔も着衣も薄汚れているが、それほど長きの時間を幽閉されていたわけではないのだろう。いくぶんやつれた面長の顔に、ぽろぽろと涙を流している。
「知っていることは、すべて話しました! これ以上は、何ひとつ隠し事なんてしてやいません! セルヴァに誓って、それは真実です! ですから……お願いですから、俺たちを町に返してください……」
「……ここにも罪人が入れられているということは、奥にも誰かいるやもしれんな」
ディラーム老は面を引き締めて、最後の部屋を覗き込もうとした。
それで若者は、いっそう悲愴な声を振り絞る。
「お願いです! せめて、ギムだけでも! こんなところに閉じ込められて、粗末な食事しか与えられないんじゃあ、せっかく拾った生命を捨てることになっちまいます! 俺はいいから、せめてギムだけでも……どうかお願いしますよぉ……」
そうして若者は石の床にくずおれて、おいおいと泣き始めてしまった。
その間にディラーム老は一人で歩を進め、最後の部屋の前で立ちはだかっている。
「そこの者、顔を上げよ。そして、わたしに名乗るがいい」
どうやらそちらにも、何者かが収容されていたようだ。
レイフォンは慌ててそちらに駆け寄ろうとしたが、なぜかティムトは動こうとせず、泣き崩れた若者の背中を見つめていた。
「レイフォン、こちらだ! この者こそが、ルイドだぞ!」
ディラーム老の昂揚した声に呼ばれて、レイフォンはしょうことなしに歩を進める。
格子の向こうで、ぐったりと壁にもたれている壮年の男がいた。
その顔は不精髭に覆われて、濁った目が力なくレイフォンたちを見つめ返してくる。
「ディラーム老……それにそちらは……レイフォン殿か?」
「ああ、ルイド殿、なんてお姿に……まさか、王都に召還されてから、ずっとこのような場で過ごされていたのですか?」
滅多に怒りを覚えないレイフォンでも、ここは義憤に駆られる場面であった。
「守衛長、こちらがダリアスの副官であったルイド殿だよ。ダリアスは十二獅子将としての職務を打ち捨てて姿を消してしまったが、ルイド殿には何の罪もなく、そして、罪を問うための審問が為されたという記録もない。即刻、この場から解放したまえ」
「は、はい。ですが……」
「ですがではないよ。ルイド殿とて、騎士の階級にあるれっきとした貴族だ。その罪なき貴族を『裁きの塔』などに収容していたのだから、その許されざるべき罪こそがいずれ審問されるだろう。守衛の長たる君は、いったいどのような罪に問われるのだろうね」
守衛長はがくがくと震えながら、腰に下げていた鍵の束をまさぐり始めた。
その手によって開かれた格子から、ディラーム老がルイドに駆け寄る姿を見届けてから、レイフォンはティムトのもとに舞い戻った。
「ティムト、大当たりだよ。ルイド殿は、あちらの牢獄に収容されていた。今回ばかりは、バウファ殿に御礼を言わなければならないね」
しかしティムトは、レイフォンのほうを振り返ろうともせずに、暗い牢獄の内に視線を飛ばしていた。
「レイフォン様、あの奥にももう一人、別の人間が寝かされています。彼らは、六日ほど前にこちらに収容されたそうですよ」
「ふうん、いったいどのような罪を犯したのかな?」
「しどろもどろで要領を得ませんが、どうやら城下町でダリアス将軍をかくまっていたようです」
レイフォンは、心から驚愕することになった。
「そんな報告は、城下町の防衛兵団からは一切もたらされていません。だから彼らも、他の罪人たちとは部屋を離されていたのですね。……守衛長に命じて、彼らも解放させてください」
「あ、ああ、もちろん。しかし、ダリアスを城下町でかくまっていたって……それじゃあ、ダリアスは生きながらえることができていたのか」
「そういうことになりますね。そして、その事実は何者かによって入念に隠されていたわけです」
ぐしぐしと鼻水をすすっている若者の背中を見下ろしながら、ティムトはまた囁いた。
「ようやく運気が巡ってきたかもしれません。彼らはそのまま、白牛宮の客人に迎えましょう。城下町などに帰してしまったら、今度は暗殺者につけ狙われることにもなりかねないですからね」
なんだかレイフォンは、夢魔にたぶらかされているような心地だった。
ダリアスの副官を救いに来たその場所で、ダリアスをかくまっていたという人間たちとまで邂逅することになってしまったのだ。
そして、レイフォンたちにそのような運命をもたらしたのは、神官長のバウファおよび祓魔官のゼラである。
そこから導きだされるのは、いったいいかなる運命の絵図なのか。凡庸を自負するレイフォンなどには、まったく読み取ることなどできるはずもなかった。