Ⅰ-Ⅰ 明日のために
2017.3/23 更新分 1/1
蛇神ケットゥアを退けたその翌日、五人は森を北西に進んでいた。
妖しい炎の魔法の使い手、ナーニャ。
比類なき剣士である、ゼッド。
邪教徒の一団を裏切った娘、チチア。
マヒュドラの自由開拓民である、タウロ=ヨシュ。
そして、北と西の混血であるリヴェルの五人連れである。
その旅の間、ずっとうるさくしていたのは、もちろん傍若無人なるチチアであった。
「あーあ! 一歩進むごとに寒さが厳しくなっていく感じだね! こんなことなら、もっとたくさんの服を着込んでおくべきだったよ!」
旅の装いは、すべて彼女の暮らしていた集落で整えることができていた。あの集落には、これまで旅人や開拓民などから強奪した持ち物が山のように残されていたのだ。
もともと旅装束であった三名はもちろん、チチアもタウロ=ヨシュも寒さに備えて衣服を着込んでおり、革の外套を纏っている。さらには大きな荷袋を背負って、そこに大量の食料や水筒なども詰め込んでいた。
両名ともに、力強い足取りである。
屈強なる北の民であるタウロ=ヨシュはともかくとして、チチアの頑健さもリヴェルよりは上回っていた。人跡も稀な森の中を突き進むというのは相当に過酷な作業であるはずなのに、朝からずっと元気に騒ぎたてている。
「確かに、なかなかの寒さだね。これなら西の開拓民たちも、むやみに北上しようとはしないだろう。そうだからこそ、北の開拓民たちが己の住処と定めることもできたのだろうね」
そのように相槌を打ったのは、ナーニャであった。
昨晩はひどい高熱であったのに、一夜が明けるとナーニャはすっかり元気になっていた。まだいくらかは体温が高いようにも感じられたが、少なくとも表面上は元気に見えたし、リヴェルなどよりはよっぽど足取りも軽かった。
「こんなに寒くちゃ、蛙もとれないよ! あいつらは、温かい場所にしかわいて出ないんだから!」
「まあ、これだけの干し肉があれば十分なんじゃないかな。タウロ=ヨシュの住む集落までは、二日もあれば到着できるみたいだし」
チチアをやりこめる声にも、普段の元気が戻っている。チチアもまた、元気いっぱいに「ちぇーっ!」と応じていた。
(確かにゼッドの言う通り、チチアと話しているときのナーニャは楽しそう……なのかな?)
チチアはチチアで、奇妙な娘であった。何がおかしいかと言えば、このように奇妙な人間の集まりの中に身を置いて、まったくそれを気にかけていないのが一番驚くべきところであった。
彼女は、ナーニャが火の魔法を使う姿を見ているのである。
それでも彼女は、ナーニャに対する態度を改めようとはしなかった。むやみやたらと不満の声をあげては、それを片っ端から打ち砕かれるという、その繰り返しだ。
しかしまた、リヴェルも自分で思っていたよりは、心を乱さずに済んでいた。
蛇神教団の生き残りであるチチアに、北の民の自由開拓民であるタウロ=ヨシュというとんでもない旅の道連れができてしまったというのに、それをすんなり受け入れてしまっている。それはひょっとしたら、ナーニャがそれ以上に常識離れした存在であったため、驚いたり怯えたりする気持ちが麻痺してしまっているのかもしれなかった。
ただし、ほんの少し収まりの悪い部分も感じてしまっている。
ナーニャがチチアと楽しげに喋っているのが、嬉しいような寂しいような――それは、自分でも判別のつけにくい感情であった。
(……ちょっと素っ頓狂なところはあるけれど、見た目は普通の女の子だよね)
そのようなことを考えながら、リヴェルはこっそりチチアの姿を盗み見た。
十五歳とは思えないぐらい色香にあふれている、という一点を除けば、どこにでもいそうな西の民の娘である。褐色の長い髪は適当にくくって、やや吊りあがり気味の茶色い目を明るく光らせている。
その黄白色の肌はずいぶん日焼けしてしまっていたが、このような森の中で数年間も住んでいたとは思えないほど、瑞々しくてなめらかな質感をしていた。あの集落には立派な浴堂などが準備されており、そこに住まう女人たちはみんな美貌を保つことに執心していたのだという話であった。
こんな娘が一人で人里に下りたら、確かに野盗どもの餌食になってしまうだけかもしれない。だから彼女も、しぶしぶこの一団に加わっているわけだが――どうやら今でも、引き返せるものなら引き返したいと願っている様子であった。
「……何をじろじろと人の顔を見てるのさ?」
と、その目が苛立たしげにリヴェルをねめつけてくる。
「あ、いえ、わたしは別に……」
「ふん! あんたはいいよね、半分がたは北の血筋だってんだから! 見た目も北の民そのまんまだし、西より北のほうが暮らしやすいぐらいなんでしょうよ!」
すると、ずっと無言で歩いていたタウロ=ヨシュが、眉間に深いしわを刻みながら、こちらを振り返ってきた。
「きたとにしのあいだにうまれることが、こうふくだとでもおもうのか? たとえがいけんはきたのたみでも、せるぶぁをかみとあがめるいじょう、そのむすめはにしのたみだ。それでもきっと、きたのちをひくにんげんとして、にしのちではかこくなせいかつをしいられることになっていたのだろう」
チチアは何も言い返そうとはせずに、つんとそっぽをむいてしまう。
その姿をしばらく無言でにらみつけてから、タウロ=ヨシュもまた前方に向きなおった。
タウロ=ヨシュは、途方もない大男である。長身のゼッドよりも頭半分は大きく、身体も一回りは分厚い。全身が岩のような筋肉に覆われており、その上腕などはリヴェルの腰よりも太いほどであった。
リヴェルは北の民の血を引く娘であったが、西の地で生まれた西の民だ。そうしてリヴェルの生まれた土地には女の奴隷しかいなかったので、男の北の民を見るのもこれが初めてのことだった。
噂に聞く通りの、魁偉な姿である。
金褐色の渦巻く髪に、紫色の淡い瞳というのはリヴェルと同じものであるはずなのに、他に似たところはまったくない。額と眉がせり出ており、鼻も口も大ぶりで、岩の彫像のように厳つい面立ちをしている。もしも敵として出会ったならば、これほど恐ろしい相手はいないだろうというぐらい、それは迫力に満ちた姿であった。
「そういえば、聞こう聞こうと思っていながら、すっかり忘れていた話があったんだけど」
と、ナーニャがタウロ=ヨシュを振り返って、言った。
「君は何歳なのかな、タウロ=ヨシュ? 僕はね、十六歳だよ」
「……おれもおなじだ」
「えっ!? 君も十六歳なの!?」
タウロ=ヨシュが無言でうなずいたので、横で聞いていたリヴェルも心の底から驚いてしまった。
「へーえ、見えないねえ! それで、リヴェルとチチアは十五歳だったっけ? こんな若衆ぞろいだと、ゼッドの苦労はつのる一方だねぇ」
「…………」
「あんたは何歳なのさ、剣士さん?」
と、チチアが微妙に色気を上乗せした流し目を送りつつ尋ねたが、ゼッドは答えようとしなかった。
代わりにナーニャが「ゼッドは二十一歳だよ」と応じる。
「ふうん、二十一かぁ。貫禄があるからもっと年長に見えないこともないけど、ちょうどいい年頃だねぇ」
「…………」
「二十一と十五だったら、それほど悪くない差だと思うんだけど、あんたはどう思う?」
「…………」
「つまんなーい! 露骨に興味なさそうな顔しないでよ!」
チチアはむくれた声をあげ、ナーニャは楽しそうに笑った。
「蛇神の巫女ではなくなったのに、チチアはまだゼッドとまぐわいたいの? まあ、好きにすればいいけど」
「えっ! このお人とまぐわってもいいの!?」
「かまわないよ。ゼッドが了承するならね」
「へーえ、このお人はてっきりあんたと出来てるのかと思ってたけど。……ていうかさ、あんたは本当に男なの?」
と、チチアは小さな鼻を動物のようにひくつかせた。
「どうもあんたは、女みたいな匂いもするんだよね。だからフィーナたちも、あんたを嬲りものにしたいとはあんまり思わなかったんじゃないのかなぁ」
「ふうん? まあ、どっちでもいいんじゃない? いちおう僕は、神にこの身を捧げた巡礼者ってことになってるわけだし」
「はん! あんなあやしげな魔法を使っておいて、巡礼者が聞いて呆れるよ! あんたなんて、蛇神にも負けないあやしい邪神の子なんじゃないの?」
「さあ、どうだろうね」
くすくすと笑いながら、ナーニャは肩をすくめていた。
ナーニャは、まだ自分たちの素性をチチアたちには打ち明けていないのだ。
(それは、どうしてなんだろう? まだチチアたちのことを信用していないから……? それとも、これから向かう集落で悶着を起こしたくないから……?)
あるいは、ここがすでに西の版図から外れているため、なのだろうか。
白銀の髪と赤い瞳をしたナーニャは、とても特徴的な容姿をしている。しかも、その火の魔法で王や王宮を燃やしてしまったようなのだから、西の王国で騒ぎを起こしてしまえば、それが王都にまで伝わって、正体が露見してしまう恐れもあるだろう。
しかし、この地図にも載っていない辺境の暗黒地帯であるならば、それを恐れる必要がない。しかも、この地の住人であったチチアとタウロ=ヨシュは、もしかしたら西の王都を見舞った災厄そのものを知らない公算が高かったのだった。
(そんな相手に、わざわざ正体を知らせる必要はないってことなのかな。……ううん、わかんないや)
リヴェルは、たいそう複雑な心地であった。
自分だけに秘密を打ち明けてくれたというのは、何だか誇らしいような気もしてしまうし――その反面、二度と西の王国には戻らないという決意を感じて、少し恐ろしくもなってしまうし――さらに、これではしばらくナーニャに過去のことを聞くこともできなくなってしまうな、という思いもある。
(ナーニャは本当に、北の民の集落で暮らしていくつもりなのかな……)
タウロ=ヨシュは西の民に憎しみは持っていないと宣言していたし、事実、そのように振る舞ってもいた。しかし、集落の住人全員がそのような気持ちであるのかはわからない。リヴェルは混血であるというだけで後ろ指をさされていたというのに、北の民の集落で西の民が生きていくことなど、本当に可能なのだろうか。
考えれば考えるほど、リヴェルにはわからなくなってしまっていた。
◇
その夜である。
森の中にちょっとした空き地を見出した一同は、そこで身体を休めることになった、
ゼッドが背負っていた鉄鍋に貴重な水が注がれて、数々の食材とともに熱されていく。当然のこと、その仕事を担うのはリヴェルであった。
「ううん、いい香りだね! これだけの食料が手に入ったんだから、期待しているよ、リヴェル?」
「あ、あまり期待はしすぎないでください。半分ぐらいは、見たこともない食材なのですから」
「ふん! だったら、あたしにまかせてくれりゃあいいのにさー!」
荷袋から引っ張り出した毛皮の毛布にくるまりながら、チチアが舌を出している。わずか一日歩いただけで、この辺りはずいぶん冷え込みが厳しくなっていた。
ゼッドとタウロ=ヨシュは、油断のない目つきで周囲の闇を見回している。チチアいわく、この辺りで危険なのはゲドルの毒蛇のみで、それもこんなに寒かったらみんな南のほうに逃げてしまうだろう、とのことであったが、何せ蛇神が降臨したような地であるのだ。危険な獣はいなくとも、それ以上に危険な魔なるものの存在を警戒しないわけにはいかなかった。
「お、お待たせしました。鍋が煮えたようです」
最後の味見を済ませてから、リヴェルは人数分の椀に煮汁を取り分けた。チチアとタウロ=ヨシュの分は、もちろんフィーナの家から持ち出してきていたのだ。
「ふん!」とまた鼻を鳴らしてから、チチアが真っ先に口をつける。
とたんに、その眉がきゅっとひそめられる。
ナーニャはゼッドの口にそれを届けてから、自分も木匙で煮汁をすすり、赤い瞳を喜びに輝かせた。
「美味しいね! フィーナの家で食べさせられた料理より美味しいぐらいだよ!」
「い、いえ、決してそんなことは――」
「本当だってば! ね、ゼッドもそう思うでしょ?」
ゼッドは無表情のまま、小さくうなずいた。
リヴェルは頬を染めながら、思わずうつむいてしまう。
リヴェルは何も、難しいことはしていなかった。ただ、与えられた干し肉と野菜を煮込んで、塩と香草で味付けをしただけだ。これが美味であるとしたら、その功績は食材のほうにあるはずだった。
干し肉はすべて蛙の肉であったが、これはキミュスの鳥に劣る肉ではない。それに、干し肉として仕上げられるのに辛みのきいた香草が使われており、その味や香りがいっそう深みを与えてくれているような気がした。
リヴェルはその味と香りに合いそうな香草を選んで、つけ加えたのみである。あとは、傷みの早そうな野菜を優先的に使用したばかりであった。
そして何より、煮汁の味を台無しにしてしまうポイタンの実を入れずに済むのがありがたかった。
この森ではポイタンもフワノも食べられてはおらず、その代わりに、ギーゴの根と名も知れぬ豆が主食として食べられていた。
ギーゴというのはとても滋養の豊かな植物の根だ。太いものは人間の腕ほどもあり、すりおろすと粘着性の強いとろとろの汁になる。それに挽いた豆を混ぜ合わせて、天日で干したのち、焼きあげる。そんな保存食がフィーナの家にはたっぷりと準備されていたので、この道中で必要な分だけを頂戴してきたのだった。
チチアはこの保存食を、ギーゴの豆団子と呼んでいた。形状は平べったくて、色はポイタンのような乳白色をしている。表面はかさかさに乾いているが、噛むと中身はねっとりとしており、ほんの少し土の香りが強かったものの、焼いたフワノやポイタンの団子にそれほど劣る味わいではなかった。
「フィーナの家にあった食料は、ぜーんぶあたしらが森の中でかき集めたものなんだからね! ま、中には旅人や開拓民から奪ったものもまざってるかもしれないけどさ! 何にせよ、集めたのはあたしらなんだから、感謝しながら味わってよね!」
そのギーゴの豆団子を口いっぱいに頬張りながら、チチアがそのようにまくしたてた。
それでも鬱憤が晴れなかったのか、リヴェルを険悪ににらみつけてくる。
「どーせあんたも、奴隷としてこき使われてたんでしょ? そんな北の民みたいな外見をしてたら、当然だよね! だから、料理を作るのにも手馴れてるってわけだ?」
「は、はい。わたし自身が奴隷として扱われることはありませんでしたが、母は確かに奴隷でしたし……わたしもかまど番をまかされることが多かったです」
「はん! 女奴隷の子供かあ。そんなんでよく西の民として生きていくことを許されたもんだね! 母親の代わりに家の主人を喜ばせてやったってわけ?」
これぐらいの罵倒は、故郷でもさんざん聞かされていた。
だから、今さらリヴェルが心を乱されることはなかったのだが――その代わりに、ぎらりと双眸を燃やす者がいた。
「だまれ。おまえにひとのこころはないのか? おまえはそのむすめをばかにできるほど、りっぱなせいをあゆんできたのか?」
タウロ=ヨシュである。
チチアは口の中身を呑み込んでから、尖った視線をそちらに返した。
「うっさいなあ。どうしてあんたにそんなことうだうだ言われなきゃいけないわけ? あたしが立派だろうとお粗末だろうと、あんたには関係ないでしょ?」
「かんけいないことはない。おれたちは、おれのしゅうらくにむかっているのだからな」
タウロ=ヨシュはその手の椀を敷布に下ろすと、同じ目つきのままナーニャを振り返った。
「なーにゃよ。おれはおまえをしゅうらくにつれかえるかくごをかためた。おまえはにしのおうこくのざいにんでありあやしげなまほうつかいでもあるが、おれのいのちのおんじんだ。おまえがおれのどうほうにさいやくをもたらすそんざいであったばあいは、おれのたましいをもってみなのいかりをいさめようとかんがえている」
「うん。決して君を裏切るような真似をしないと、何度でも誓わせていただくよ」
「おれはそのことばをしんじた。……しかし、このじゃきょうとのむすめをしんじることはできそうにない」
その言葉を聞いて、チチアは口もとをねじ曲げた。
「信じることができなきゃ、どうしようっての? その図太い指で、あたしをくびり殺そうってのかい? ああ、あたしはあんたを嬲りものにしたフィーナたちの下女だったんだからね! あんな魔女どもに操を散らされた恨みを晴らしたいなら、好きなだけそうすればいいさ!」
「およしよ、チチア。君も困った娘だね。……それで? 君はどのように考えているのかな、タウロ=ヨシュ? 昨日も言った通り、僕の秘密を知ってしまったチチアは西の版図に帰すこともできないのだけれども」
「……このむすめのたましいをかみのもとにかえすつもりはないのか?」
「ないよ。僕が殺めるのは、僕を殺めようとする相手だけだ。それ以外の人間を、口封じのために殺める気持ちにはなれないね」
「ならば、そのむすめにもかくごをしめしてもらおう」
タウロ=ヨシュが立ち上がり、チチアの目の前にまで歩を進めてから、また膝を折った。
チチアはまったく臆した様子もなく、タウロ=ヨシュの巨体を見上げている。
「……そのこしのなたをとれ」
「鉈? 鉈を取ってどうすんのさ? まさか、あたしとあんたで殺し合いでもしようっての?」
「ちがう。そのなたで、みぎのてくびをきりおとすのだ」
リヴェルは自分の椀を取り落としそうになってしまった。
チチアは爛々と目を輝かせながら、せせら笑っている。
「そいつは何の冗談さ? 自分の手首を自分で叩き斬れっての? どうしてあたしがそんな馬鹿げたことをしなきゃならないのさ!」
「おまえのてには、いまわしいじゃしんのもんしょうがきざまれている。そのもんしょうをすてることで、じぶんのかくごをしめしてみせろ」
チチアの右の手の甲には、青紫色の蛇神の紋章が刺青として刻みつけられているのだった。
チチアは唇を噛み、その紋章に目を落とす。
「おれのしゅうらくに、じゃきょうとをちかづけるわけにはいかない。このあともおれたちとこうどうをともにするつもりならば、てくびをきりおとして、じぶんがじゃしんのこではないというあかしをしめせ」
「はん、馬鹿馬鹿しい! あたしがそんなトチ狂った真似をすると思う?」
「しなければ、あしたはおまえをこのばにおいていく。ひとりでこのもりをぬけられるかどうか、じぶんのかみにうんめいをたくすがいい」
チチアは黙りこくっていた。
そのやりとりを興味深げに見守っていたナーニャが、くすくすと笑い声をあげ始める。
「確かにその紋章は危険だね。蛇神ケットゥアは退けたけれど、またその眷族にでも出会ってしまったら、今度こそ君の魂はそちらにとらわれてしまうかもしれない。その紋章は、蛇神に魂を捧げるという証に他ならないんだからさ」
「…………」
「僕はタウロ=ヨシュの言葉に賛成するよ。僕はわりあい君のことが嫌いではないけれど、蛇神の巫女なんかと一緒に旅をするのは気が進まないからね。願わくば、この場で忌まわしい蛇神なんかとは決別してもらいたい」
「ナ、ナーニャ、それはあまりにも……」
「そうすることが、彼女のためでもあるんだよ。蛇神ケットゥアっていうのは、彼女に凶運をもたらして両親を奪った存在でもあるんだからさ」
チチアは「なるほどね……」と低い声でつぶやいた。
「けっきょくは、誰も彼もがあたしのことを邪魔者って思ってたわけかい……」
「そんなことはないよ。できれば僕は、君と行動をともにしたいと考えている。そのために、過去の罪を精算してほしいのさ」
「はん! 適当なことを抜かしてんじゃないよ!」
怒声をほとばしらせるや、チチアはその腰の鉈を抜き放った。
それを左手に持ち替えて、右の手の平をばんっと地面に叩きつける。
「や、やめてください、チチア! 薬もないのに、手首なんて斬り落としてしまったら――!」
「すぐに傷口を火で焼いてあげれば、生命が助かることもあるんじゃないのかな。痛みで悶死しなければの話だけど」
ナーニャは悪神のように笑っているし、タウロ=ヨシュは鋭い眼光でチチアをねめつけている。そうしてゼッドは、感情の読めない目つきでこの一幕を見守っていた。
「あたしだって……あたしだって、好きでこんな紋章を刻みつけたわけじゃないんだよ!」
チチアが鉈を振りかぶった。
こらえきれずに、リヴェルはまぶたを閉ざしてしまう。
そして――「何すんだよ!」というチチアのわめき声で、ようやく目を開けることができた。
チチアが眼前のタウロ=ヨシュをにらみつけている。
その鉈を握った左手は、タウロ=ヨシュの図太い指先でしっかりとつかみ取られてしまっていた。
「おまえのかくごはよくわかった。おまえはじゃしんのこでないとみとめてやろう」
「あんた! あたしをからかってたのかよ! ちくしょう、はなしやがれ!」
わめきながら、チチアはぽろぽろと涙をこぼし始めた。
その左手首をつかんだまま、タウロ=ヨシュはナーニャを振り返る。
「このもんしょうは、どうするべきだろうか?」
「そうだね。ちょっと火神におうかがいをたててみようか」
言いざまに、ナーニャの瞳が炎のごとく燃えさかった。
瞬間的に、その面に真紅の紋様が浮かびあがる。
そして――鉄鍋を煮込んでいた焚き火から、一筋の炎が小さな竜のように飛び出して、地面に広げられたチチアの右手へと襲いかかった。
「うきゃあ!」と悲鳴をあげて、チチアは後ろにひっくり返る。
思わずチチアの手を離してしまったらしいタウロ=ヨシュは、顔色を失ってナーニャを振り返った。
ナーニャは一瞬でもとの姿に戻り、「ふう」と息をついている。
「やってみるもんだね。火神も蛇神の巫女は敵であると見なしたようだよ」
「熱い熱い! あんた、いきなり何をすんのさ! 焼き殺されるかと思ったじゃないか!」
「焼け死んだのは、蛇神の巫女としての君さ。今後はどの神を崇めようと、君の自由だ」
チチアは自分の荷袋につかみかかると、そこから引っ張りだした水筒の水をどぼどぼと右手の先にかけ始めた。
その手の甲は、無残に赤く焼けただれ――蛇神の紋章をこの世から消し去っていた。
音もなく立ち上がったゼッドがチチアのもとに屈み込み、その鼻先に何かを突きつける。
それは、ゼッドの火傷を癒すために手に入れた、貴重な薬の詰められた木箱であった。
「ああ、さすがにゼッドは察しがいいね。チチアが火傷を負うことになるだろうと予測していたのかい?」
チチアは涙で頬を濡らしたまま、きょとんとゼッドを見つめ返している。木箱の中身が何であるかを、彼女は知らないのだ。
そしてゼッドは右手が不自由であるために、箱の蓋を開けることもかなわない。遅まきながら、リヴェルもそちらに駆け寄ることになった。
「これは、火傷の薬なのです。いま手当をしますので、ちょっとだけ我慢していてください」
リヴェルがその傷口を綺麗な布でぬぐい始めると、チチアは「何だよぉ」と泣き声をあげた。
「みんなしてあたしを馬鹿にしやがって……気に食わないなら、殴るなり蹴るなりすりゃいいじゃないか! どうせあたしは、親の仇の下女として生きる道を選んだ、ろくでなしだよ!」
「あなたと同じ運命に見舞われた人間でない限り、あなたを蔑む資格なんてないと思います。……それに、そんな悲しい運命を、ナーニャが炎で清めてくれたんです」
チチアはぐしぐしと鼻をすすりながら、子供のように泣き続けた。
その手の甲にとろりとした薬を塗ってあげながら、リヴェルは初めてこの少女の身の上を思いやることができた。
目の前で両親を殺されながら、その仇の下女として生きることを強いられるなんて、それはどれほどの苦痛であり絶望であったことだろう。
そんな凶運に見舞われても、チチアは正気を失うことがなかった。もしかしたら、その強靭さがナーニャには好ましく思えたのかもしれない。少なくとも、リヴェルにはそれを好ましく思うことができた。
(みんなひどい運命を背負わされながら、それでも真っ当に生きていきたいとあがいているんだ)
自分なんて、ナーニャやゼッドやチチアに比べれば、安穏と生きてきたほうなのだろう。
そんなことを考えながら、リヴェルはチチアの手に灰色の包帯を巻きつけていった。