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アムスホルン大陸記  作者: EDA
第二章 ねじれゆく世界
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エピローグ 五人の夜

2017.3/15 更新分 1/1

 すべての災厄を退けたのち、リヴェルたち五名はフィーナの家に舞い戻っていた。

 フィーナたちの正体を知った以上、そのような場所に戻ることさえ恐ろしかったが、さすがにこのまま夜の森に身を投じることはかなわなかったのだ。


 奇跡的に、負傷をしている人間はいなかった。あれだけの騒乱で誰ひとり傷を負うこともなかったというのは、本当に奇跡と呼んでも差し支えのない僥倖であっただろう。

 その代わりに、誰も彼もが疲弊しきっていた。一番役たたずであったリヴェルさえもが、自力で歩くことさえままならないほど疲れ果てていた。身体のほうは無事であっても、度重なる悪夢と絶望がリヴェルの心を蝕んでしまっていたのだった。


 そして、ナーニャである。

 火神の魔法を乱用したナーニャは、この場にいる誰よりも疲弊しきっていた。かつてナーニャがこれほどまでに弱りきった姿をリヴェルの前にさらしたことはなかった。


 ナーニャは外套を脱がされて、寝具の上に寝かされていた。その身体は普段以上の熱を宿し、白い面からは血の気が引いていた。赤い瞳をまぶたに隠し、短い呼吸を繰り返すその姿は、熱病にかかった幼子のように無残で弱々しかった。


「こいつはもう助からないんじゃないかなあ。咽喉でも掻っ切って楽にしてやるのが親切ってもんかもしれないよ」


 ぐったりと壁にもたれかかっていたチチアが、投げやりな声でそう言った。

 たちまちゼッドの猛禽のごとき眼光を突きつけられ、チチアは「何だよぅ」と身体を縮める。


「だって、助からないなら、苦しむだけ損じゃん! そんな炭火みたいに身体が熱くなっちゃうなんて、普通じゃないよ!」


「……ナーニャはもともと、体温が高いんです」


 そのように言い返しながら、リヴェルは水瓶の水で手ぬぐいを固く絞った。

 それでナーニャの白い額に浮かんだ脂汗をぬぐってやると、まぶたが弱々しく上げられていく。


「気持ちいいなあ……できれば頭から水をかぶりたいぐらいだよ……」


「ナーニャ、大丈夫ですか?」


 リヴェルは思わず、その胸もとに取りすがってしまった。

 衣服や毛布ごしに、凄まじい熱気が伝わってくる。チチアに言われるまでもなく、それは普通の人間に耐えられるような熱さではなかった。


「泣いてるの、リヴェル……? 僕は大丈夫だよ……ただ、火神に魂の端っこをかじられてしまっただけさ……」


 そのように言いながら、ナーニャは力を失った赤い瞳で室内を見回した。


「全員、無事だったんだね……僕の炎の巻き添えにならなかったのなら、幸いだ……」


 その言葉に、五人目の人間がもぞりと身じろぎをした。

 あの磔にされていた、マヒュドラの男である。男はチチアが家の物入れから引っ張り出してきた西の装束を纏っており、その手には果実酒の土瓶を握りしめていた。


「おまえは、なにものなのだ? ほのおのせいれいかなにかなのか?」


 たどたどしい西の言葉が、その口から放たれる。地鳴りのように重々しい声音であるのに、幼子のように稚拙な発音であるのが、何やらおかしな感じであった。


「僕の正体は、僕にもよくわかっていないんだよ……君のほうこそ、どうして北の民が西の版図でこのような目にあうことになってしまったのかな……?」


 男は、答えようとしなかった。

 金褐色の渦巻く髪を肩まで垂らした、マヒュドラの大男である。その身体はゼッドよりもひとまわりは大きく、全身に岩のような筋肉が盛り上がっている。チチアの準備した西の装束もまったく寸法が合っておらず、胸もとは大きくはだけられてしまっていた。


 その顔もまた、岩に彫り込まれた彫刻のようにごつごつとしている。高く秀でた額の下では紫色の瞳が力強く輝いており、鈎状にせり出た鼻の下には金粉のように不精髭がこびりついている。口は大きく、下顎もがっしりとしており、これならばカロンの足肉でも骨ごと噛み砕けるのではないかと思えるほどだった。


 チチアの話によると、彼はもう十日ほども前からこの集落に捕らえられていたのだそうだ。

 そうして毎晩のようにあの沼の前まで引きずり出されては、女人たちの慰みものにされていたらしい。彼の頬や首筋には、おぞましい爪痕や鬱血の痕などが紫色に残されてしまっていた。


 しかし、彼はその強靭な生命力で正気を保ち続けていたのだ。

 食料は十分に与えられていたらしいが、普通であれば数日で気が触れていたところだろう。最後には咽喉を切られて沼に沈められるのだと知らされていたそうなのだから、なおさらだ。


 それでも彼は凶運に屈せず、今日まで反撃の機会をうかがっていた。その執念でフィーナを撃退し――そうして、さらなる悪夢を眼前に迎えることになったわけである。


「君は僕たちを救ってくれたし、僕たちは君を救ってあげたよね……僕たちもいちおう西の民ではあるけれど、できることなら、君とは敵対したくない……この場はおたがいの神に目をつぶってもらうことはできないかな……?」


 とても苦しそうな声で、ナーニャはそのように述べたてた。

 マヒュドラの男は底光りする目でその姿を見返しながら、やがて答えた。


「おれは、かいたくみんのこにすぎない。まひゅどらのたみであることにちがいはないが、にしのにんげんとたたかったことはないし……にしのにんげんににくしみをむけるりゆうはない」


「開拓民の子……? そうか、マヒュドラにも自由開拓民ってものが存在するんだね……それじゃあもしかして、君はもともとこの森に住んでいて……それで、あの女人たちにかどわかされることになってしまったのかな……?」


「……このもりはだれのものでもないじゆうなばしょだ。だからおれたちは、このちをあらたなこきょうとさだめた」


「うん、ここは地図にものらない辺境の暗黒地帯だからね……そうか、それで北側はマヒュドラと接しているのだから、マヒュドラの自由開拓民が暮らしていてもおかしくないってことか……こいつはまったく盲点だったよ……」


「ナーニャ、あまり無理に喋らないでください」


 ナーニャの声がどんどん弱まっていくことに耐えきれず、リヴェルはそのように言葉をはさんでしまった。

 ナーニャの胸もとにあてがっていた手に、火のように熱い手が重ねられる。


「大丈夫だよ、僕は絶対に死んだりしない……こんな凶運なんかに屈したりはしないと、ゼッドと二人で誓ったんだから……」


 その面にかぼそい微笑を浮かべながら、ナーニャはまた男のほうを見た。


「君……よかったら、僕たちを君の集落まで案内してくれないか……? 僕たちは西の民だけれど、西の王国では生きられない身なんだよ……」


「あんた、何を言ってるのさ!」


 チチアが驚愕の声をあげ、ナーニャはくすくすと笑い声をもらす。


「実は僕たちは、罪人として追われている身なんだよ……だから、西の王国で暮らすことはできないのさ……」


「……ざいにんをどうほうのもとにつれかえることはできない」


 北の男が、きっぱりと言い捨てた。

 それをなだめるように、ナーニャは微笑する。


「僕たちは、降りかかる火の粉を払っただけさ……この夜に見舞われた災厄と同じことだよ……僕たちは、何の抵抗もせずに蛇神に殺されるべきだったのかな……? 僕には、そうは思えないんだけど……」


 男は、口をつぐんでしまった。

 ナーニャは熱い息を吐き、赤い瞳をまぶたに隠す。


「この一晩で、ゆっくり考えてみてほしい……明日には僕も動けるようになるだろうから……それでおたがいに進むべき道を決めようよ……」


「……わかった」と男は低く応じた。


「なににせよ、おまえたちはいのちのおんじんだ。まほうつかいだろうとほのおのせいれいだろうと、そのじじつだけはかわらない。わがな、たうろ=よしゅのなにかけて、おまえたちからうけたおんぎはわすれないとここにちかおう」


「タウロ=ヨシュか……素敵な名前だね……」


 そんな言葉を最後に、ナーニャは眠りに落ちてしまったようだった。

 リヴェルは手の甲で自分の涙をぬぐってから、またその額に手ぬぐいをあてがう。

 手ぬぐいを新しい水で絞ってあげたかったが、リヴェルの右手はしっかりとナーニャにつかまれてしまっており、それをもぎ離す気持ちにはなれなかった。


「北の民の集落なんて冗談じゃないよ……ああもう! あたしはどうしたらいいんだろう!」


 と、チチアが頭を抱え込みながら悲嘆の声をあげる。

 マヒュドラの男――タウロ=ヨシュは、紫色の瞳でうるさそうにそちらをにらんだ。


「おまえはいまわしいじゃきょうとだ。ほかのものたちはともかく、おまえをしゅうらくにつれかえるきはない」


「あたしだってあんたらの集落なんてごめんだよ! 北の民なんざに肩入れしたら、西方神に魂を砕かれちまうだろうからね!」


「……蛇神の巫女として生きてきたお前が、今さら西方神の怒りを恐れるのか?」


 リヴェルは、愕然と面を上げることになった。

 レイノスの町の宿屋以来、初めてゼッドが口を開いたのである。

 険悪な目つきでタウロ=ヨシュのことをにらみ返していたチチアも、びっくりまなこでゼッドを振り返る。


「何だよあんた、喋れたの? どこかの女に舌でも噛みちぎられたのかと思ってたよ!」


「……お前はナーニャの秘密を知ってしまった。そんなお前を、西の王国に帰すことはできない。そして、いったん蛇神に魂を捧げたお前を、西方神が許すこともないだろう」


 頬がひきつれてしまっているために、ゼッドの言葉もたどたどしい。しかしそれは、聞く者を安心させる落ち着きと重々しさを兼ね備えた、実に心地好い声音であった。

 チチアは親指の爪を噛みながら、上目づかいでゼッドを見つめる。


「どっちみち、あたしが一人で人里に下りたところで、まともに生きていくことはできないだろうさ。野盗か何かに襲われて、そこのマヒュドラ野郎みたいに大勢で嬲りたおされるのが関の山だろうね」


「…………」


「あんたもこいつらについてっちゃうの? 今からでも考えなおさない? 西の王国で生きていけないってんなら、せめて西の自由開拓民の集落を探すとかさあ、色々と手立ては残ってるじゃん!」


「……たとえ自由開拓民の集落であっても、そこがセルヴァの版図である限り、俺たちは生きていくことができないのだ」


 ゼッドは低く言いながら、リヴェルとナーニャの重ねられた手の上に左の手を重ねてきた。

 その指先には、ナーニャとも異なる人間らしい温もりが備わっていた。


「……チチアよ、お前と言葉を交わしているときのナーニャは、実に楽しそうだった。お前なら、リヴェルと同じように旅の道連れとなることを許されるだろう」


「だから、そんなの許されたくもないっての!」


 大きな声で言いながら、チチアは足もとに丸められていた自分の毛布をひっかぶった。


「もういいよ! 頭ん中がぐちゃぐちゃでわけわかんない! 明日のことは明日決めるから! 毒蛇の生き残りが襲いかかってきたら、きっちり追い返してよね!」


 そうしてチチアが静かになると、タウロ=ヨシュもこちらに背を向けて、小山のような肉体に毛布をかぶった。身体が大きすぎて足の先がはみだしてしまっていたが、北の生まれの人間にはこれしきの寒さなど何ほどのものでもないのかもしれなかった。


 二人の体温を手の先に感じながら、リヴェルはナーニャとゼッドの姿を見比べる。

 ナーニャはいくぶん安らかさを取り戻した顔で眠っており、ゼッドは感情のうかがえない眼差しでそれを一心に見つめていた。


 明日はいったい、どのような一日になるのだろう。

 そのようなことは見当もつかなかったが、リヴェルはこの二人とまた一緒に夜を過ごせることに、ようやく深い安堵と喜びを感じることができた。

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