Ⅴ-Ⅳ 黒き軍勢
2017.3/11 更新分 1/1
「無駄な抵抗はやめておくことだ! もう貴様たちに逃げ場はないぞ!」
街道の南側を埋めつくした王都の軍の一団から、やがてそのような蛮声が届けられてきた。
「俺の名は、アルグラッド第二遠征兵団、第三大隊の指揮官たる千獅子長ゲイムだ! 抵抗をやめて、第四王子カノンを僭称する叛逆者を引き渡せ! さすれば、残りの者たちの生命は保証してやろう!」
「ゲイムか。《毒牙》ロネックめの腰ぎんちゃくめ」
ぎらぎらと両目を燃やしたエルヴィルが、低い声で言い捨てる。
トトスの上で、シルファにしっかりと腰をつかませながら、メナ=ファムはそちらを横目で見た。
「あちらもあんたと同じく千獅子長様かい。ってことは、あちらさんの総勢は千名ってことになっちまうのかねえ?」
「それだけの兵を率いていたなら、わざわざ俺たちを峡谷の外に引きずり出すまでもなかっただろう。峡谷で足止めをしたのが二百名なら、あとはせいぜい三百か四百ていどだろうさ」
「そいつを聞いて安心したよ。ま、こっちの数倍の戦力ってことに変わりはないけどね」
傭兵団の総勢は百余名であったが、この場にいるのは自前のトトスにまたがった七十余名のみだ。前方に立ちはだかる分だけでも百は超えており、それと同数の敵が背後から迫っていると考えれば、まったく心を安らがせることはできなかった。
街道は、文字通り敵軍で埋めつくされてしまっている。十名ずつの兵士が横に並び、最初の二列は弓をかまえ、残りの者たちはトトスにまたがって槍を掲げているのだ。それで右手側はそそりたつ岩山の斜面であり、左手側は森林地帯であるのだから、この場から逃げ出すには目の前の敵を蹴散らして強引に押し進むか、トトスを捨てて森の中に逃げ込むしかなかった。
「さ、あちらさんが痺れをきらす前に、とっとと先手を取ってやろうよ。後ろの連中に追いつかれたら、いよいよおしまいだろ?」
「そんなことはわかっている。しかし、あちらは弓兵と槍兵の二段構えで待ちかまえているんだ。頭から突っ込んでも、狙い撃ちにされたあげく、串刺しにされるだけだろう」
「それなら、あたしに考えがあるんだけどね」
そうしてメナ=ファムが小声で自分の考えを伝えてみせると、エルヴィルは疑わしげににらみつけてきた。
「本気で言っているのか? よほど熟練のトトス乗りでも、そんな芸当は不可能だろう」
「うちの集落にも荷物引きのトトスがいたんでね。狩人を目指す子供たちは、みんなそいつで遊びながら身体を鍛えてたのさ。平らな道を走らせるより、曲乗りのほうが得意なぐらいなんだよ」
それでもエルヴィルが険悪な目つきのままであったので、メナ=ファムは肩をすくめてみせた。
「失敗したら、王子様だけじゃなくあたしだって魂を召されちまうんだ。自信がなかったら、こんなことは言いだしゃしないよ」
エルヴィルはなおもしばらく考え込んでから、ようやく側近の傭兵に何事かを囁きかけた。
その傭兵は青い顔でうなずくと、前方の敵どもに悟られぬように、そろそろと荷車にトトスを寄せていく。
「これから、十を数えよう! それまでに投降せねば、問答無用で全員を斬り捨てるぞ!」
そこに、再び蛮声が響いた。
このような際でありながら、メナ=ファムはついつい苦笑してしまう。
「王都の兵隊さんってのはずいぶんのんびりしてるんだね。シャーリの大鰐は十も待っちゃくれないよ」
メナ=ファムの軽口を黙殺し、エルヴィルは側近の男に指示を出す。
「あの馬鹿が五までを数えたら実行しろ。……すべてはセルヴァの御心のままに」
「御心のままに」と男は決死の覚悟をみなぎらせながら、うなずいた。
よほどの幸運に恵まれない限り、彼は間違いなく一番最初に魂を返すことになってしまうのだ。
彼にそんな運命をもたらしたのはメナ=ファムであったのかもしれないが、べつだん心を乱されることはなかった。それは単に順番の問題であり、この場に集った人間は全員が同じぐらい大きな危険に身をさらすことになるはずであった。
第四王子を僭称するシルファと行動をともにした人間は、この場で代償を払わなくてはならないのだ。
メナ=ファムもまた自分の意思でこの一団に加わっていたのだから、その責任を他者に押しつける気持ちにはなれなかった。
そんな中で、唯一心にひっかかるのは東の民ラムルエルの存在である。
彼だけは、自分の意思とは無関係にこの一団と行動をともにすることになってしまっていたのだ。
「ラムルエル、あんたはこんな一団と運命をともにする筋合いはないんだから、無駄死にしないように頑張りな」
「はい。メナ=ファム、ご武運を」
しかしラムルエルは、東の民特有の静けさで御者台に収まっていた。
これから魂を召されてしまうかもしれないのに、その黒い面には何の感情も浮かべられていない。東の民というのは目が切れあがっていて鋭い面立ちであるはずなのに、それは何だかトトスみたいにとぼけた顔つきにも見えてしまった。
そうして、「五!」という声が響いた。
それと同時に、側近の男がメナ=ファムたちの乗り捨てた荷車に飛び移る。
その荷車には、まだ一頭だけトトスが繋がれているのだ。御者台に飛び込んだ男はその手綱を握りしめ、トトスの荷車を急発進させた。
「続け! 敵陣を突破するぞ!」
巨大な荷車の背後について、エルヴィルが咆哮をあげる。
七十余名の傭兵たちは、鬨の声をあげてそれに従った。
もちろんメナ=ファムも、そこにまぎれてトトスの腹を蹴る。位置取りは、荷車でぎりぎり隠れられるぐらいの右端だ。
シルファはぎゅうっとメナ=ファムの胴体をつかんでいた。
白銀の甲冑などを纏っているのだから、シルファは真っ先に狙われてしまうことだろう。メナ=ファムもメナ=ファムで、命運は西方神と大いなるシャーリに託す他なかった。
「馬鹿どもめ! 撃て!」
ひゅんひゅんと空気を引き裂きながら、矢が飛来する。
メナ=ファムは刀を抜いて、荷車の屋根ごしに向かってくるそれらを次々と弾き返した。
荷車は、変わらぬ速度で街道を駆けている。トトスには矢除けの防具がつけられていたし、御者台の男も必死に刀を振り払っているのだろう。願わくば、敵の最前列に到達するまでは、この勢いのまま突進してほしかった。
「メ、メナ=ファム……」
「いいから、あんたは黙ってつかまってな。その手を離したときが魂を召されるときだよ」
刀を左手に持ち替えながら、メナ=ファムは舌なめずりをした。
そろそろ頃合いであるはずだった。
シャーリの大鰐を眼前に迎えたときと同じぐらいの気持ちで、メナ=ファムはその瞬間を待ちかまえた。
やがて、凄まじい怒号と衝突音が響き渡る。
街道を埋め尽くした兵士どもに、荷車が突っ込んだのだ。
それと同時に、メナ=ファムは手綱を右手側に引き絞った。
トトスはそちらに首をもたげて、方向を転換する。
目の前に、岩山の斜面が迫り寄った。
「きゃあっ!」とシルファはメナ=ファムの胴体を抱きすくめてくる。
その感触を心地好く思いながら、メナ=ファムはトトスの腹を蹴った。
トトスはしかたなさそうに、鋭い鉤爪を岩盤に突き立てる。
メナ=ファムはそのままトトスを走らせた。斜めに傾いだ岩山の斜面を、街道と並行に走り抜けるのだ。トトスの頑健な脚力であれば、このように無茶な真似もしばらくは可能なはずだった。
後の問題は、乗り手の力量である。トトスの身体は四十度ぐらいに傾いてしまっているので、当たり前に乗っていればたちまち乗り手は転げ落ちてしまう。しかもメナ=ファムの両手は刀と手綱でふさがってしまっているので、トトスの胴体をはさみこんだ両足だけで体勢を維持しなければならなかったのだった。
そんな曲乗りを楽しみながら、メナ=ファムは左手側の下界へと視線を走らせる。
街道は、びっしりと兵士たちに埋めつくされていた。横に十名が並べるとして、縦にはそれ以上の数がのびている。人数は、二百名近くにも及んだだろう。
その最前列では、横倒しになった荷車を中心に、兵士と傭兵たちが斬り結んでいる。荷車が体当たりをくらわせたことで、だいぶん陣形が乱れているようだ。
それにそもそも、敵に突破されないようにと密集陣形を取っていたために、敵は身動きが取れなくなっていた。助走をつけなければ岩山の斜面を登れるはずもなかったので、こちら側の騎兵たちもせいぜい槍を向けてくるぐらいのことしかできていなかった。
その穂先を刀で弾き返しながら、メナ=ファムはトトスをひた走らせる。
トトスはじょじょに斜面を下ってきてしまっていたが、このまま行けば敵陣を越えることはできそうであった。
「あれが第四王子を騙る痴れ者だぞ! 決して逃がすな!」
そのように声をあげながら、トトスの方向を変えるのにも難渋している様子である。立派な白装束の騎兵たちが為すすべもなくもがいているその姿は、身なりが立派であればあるほど滑稽であった。
(だけど、問題はこの後なんだよね)
岩山は高々とそそりたっているため、そこを駆け上がっていくことはさすがにできない。いずれはメナ=ファムのトトスも街道に降り立たねばならないのだ。
(こっちは二人乗りの分、動きも鈍いからな。平地の追いかけっこは分が悪い。エルヴィルたちがどれぐらい引っかき回してくれるかにかかってるだろうね)
しかし、メナ=ファムはメナ=ファムにできることをやり通すばかりであった。
最悪、トトスは乗り捨てて森に逃げ込む所存である。どのような獣が潜んでいるかもわからない森に身を投じるのはあまりに無謀な行いであったが、それでも町育ちの兵士たちよりは狩人たるメナ=ファムのほうが、まだしも生き残れる公算は高いようにも思えた。
(ま、すべてはシャーリの導くままにさ)
ついに敵陣営の最後尾にまで到達した。
メナ=ファムは手綱を引き絞り、トトスの腹を片方だけ蹴り飛ばす。
トトスは岩盤を蹴り、下界へと飛来した。
その足もとには、あわれな敵兵の姿があった。トトスの首を巡らせて追走の準備にあったその敵兵の胸もとを、トトスの鉤爪でおもいきり踏みにじってから、メナ=ファムは街道にと降り立った。
そのまま勢いは弱めずに、トトスを走らせる。
ぐんぐんと速度が増していき、心地好い風がメナ=ファムの髪や頬をなぶっていった。
振り返ると、最後尾の騎兵たちが猛然と追いかけてきている。最初に蹴り飛ばしたやつがトトスごとひっくり返っていたのでそれが多少の邪魔をしていたが、二百名を数えようかという騎兵が総がかりで追ってきそうな勢いであった。
(さて、いったいどんなもんかね)
思ったほど、一気に距離を詰められたりはしない。あちらはあちらで重い甲冑がトトスの足を鈍らせているのだ。メナ=ファムとシルファは革造りの鎧であったため、その分はトトスの苦労も軽減していた。
それでもやっぱり二人を乗せているのだから、敵のほうに分があることに変わりはない。トトスが百歩も進まぬ内に、メナ=ファムは三体の騎兵に追いすがられてしまっていた。
「あきらめろ! もう逃げられんぞ!」
長い槍が、容赦なく突き出されてくる。
メナ=ファムは、それを刀で弾き返した。
左右をはさまれては、もうおしまいだ。メナ=ファムはちょっと思案してから、再びトトスの首を右手側に巡らせた。
トトスが、岩山の斜面を駆け上がる。
それからすぐに、メナ=ファムはトトスを街道へと飛来させた。
ほとんど真横に並びかけていた敵兵に、またトトスの鉤爪をくらわせる。兵士はあわれげな悲鳴をあげながら地面に落ちていった。
「くそっ! 小癪な真似を!」
次の騎兵が、槍を振りかぶる。
その首筋に、矢が突き立った。
その兵士ももんどり打って地面に落ち、最後の一人が愕然と後方を振り返った。
街道は、猛然と追いすがってくる騎兵たちに埋めつくされている。しかしそこには白装束のアルグラッド軍と色とりどりの鎧を着込んだ傭兵たちとで入り乱れており、必死に斬り結びながら追いすがってきていたのだった。
メナ=ファムたちを追撃するために密集陣形が崩れて、エルヴィルたちも突破することができたのだろう。白装束のほうが倍以上も数は多かったが、このような混戦では身軽な傭兵たちのほうが機動力を活かせているようにも見えた。
(ま、いちおうは計算通りか)
シルファはひとりだけ優美な甲冑を纏い、自分が第四王子であるということをこれ以上もなく見せつけていたので、それが単騎で逃げようとすれば、敵も必死に追いすがってくるであろうと予測していたのだ。その混乱に乗じて敵陣を突破すればいい、というのがエルヴィルに伝えた計略であった。
(でも、後ろからは別の隊がうじゃうじゃと追いすがってきてるんだからね。立ち止まったら、そこで終わりだ。まったく、ぞっとしない話さ)
ともかくメナ=ファムは、トトスを走らせるしかなかった。
街道はわずかに蛇行しながら、果てしもなく続いている。ぎりぎりトトスでも通れるような雑木林でも現れないものかとメナ=ファムはわずかに期待していたのだが、周囲の情景には何の変化も見られなかった。
そこに、「ああっ!」という悲痛な声が響き渡った。
それと同時に、メナ=ファムの腰に巻きついていたシルファの腕が、片方だけ外されてしまう。驚いて振り返ると、シルファの右の二の腕に矢が突き立っていた。
だらりと下げられた右腕に、真っ赤な血がしたたっていく。腕には肘までの篭手しかつけられていなかったので、敵兵の矢はシルファの華奢な腕を完全に貫いて、その鏃を前側から覗かせていた。
「シルファ、大丈夫かい!? もう片方の腕だけは、死んでも離すんじゃないよ!」
「いえ、わたしはもう無理です……メナ=ファム、ありがとうございました」
青い顔で、シルファが微笑みかけてくる。
白銀の兜に半ば隠されたその面には、少女ではなく偽王子の凛然とした表情が浮かべられていた。
最後にぎゅっとメナ=ファムの腰を抱きすくめてから、シルファは大地へと身を投じようとした。
メナ=ファムの手は、刀と手綱でふさがっている。ほんの一瞬だけ迷ってから、メナ=ファムは手綱を手放し、離れゆくメナ=ファムの腕をつかみ取った。
そのまま疾駆するトトスから飛び降りて、空中でシルファの身体を抱きすくめ、背中から地面に落ちる。その瞬間、メナ=ファムはめいっぱいにのばした片腕と両足で地面を叩き、少しでも衝撃を分散させた。
重荷を失ったトトスはいっそう元気よく走り去っていき、メナ=ファムは刀とシルファを抱えたまま、ごろごろと地面の上を横転する。そうして肩から岩山の岩盤に激突することで、ようやく動きは止められた。
「メナ=ファム……どうして……」
苦痛に顔をしかめながら、シルファがそのようにつぶやいた。
今の衝撃で矢の先端は折れていたが、傷口にはまだ柄の部分が残されているので、それほどの出血ではない。それを瞬時に確認してから、メナ=ファムはにやりと笑い返してみせた。
「あたしは誰にも指図されないって言っただろ。さ、ここからがいよいよ正念場だよ」
左腕でシルファを抱え、右手で半月刀を握りしめたまま、メナ=ファムはよろよろと身を起こした。
そこに敵兵が殺到して、あっという間に取り囲まれてしまう。その背後には別の騎兵たちが立ちはだかり、エルヴィルたちの接近を食い止めている様子だった。
「生きながらえていたか。つくづく悪運の強いやつだ!」
騎兵の中で、一番立派な甲冑を纏った男がそのように言い放った。
おそらくは、さきほどゲイムと名乗っていた指揮官の男である。呑気に数を数えていたのと同じ声だ。
「貴様が第四王子の名を僭称する野盗の首魁だな? そのまま大人しくしていれば、生きたまま王都に連れ帰ってやろう! あらがえば、首だけを届けられることになるぞ!」
「……それでも王都に引っ立てられたら、けっきょくは首を刎ねられちまうんだろう? この御方が本物であろうと偽物であろうと、あんたたちにとってはたいそう目障りな存在なんだろうからね」
脱出するための隙間を探しながら、メナ=ファムはそのように答えてみせた。
街道の右端に転がってしまったので、目指すべき森は逆の端だ。負傷をしたシルファを抱えてそちらに逃げ込むのには、この刀や槍をかまえた騎兵どもの包囲を突破しなければならなかったのだった。
「大罪人たるカノン廃王子は、自らのもたらした災厄の炎によって滅ぼされたのだ! 貴様が偽物であることは明白であるが、王家の血筋たるカノン廃王子の名を騙り、世間を騒がせた罪は重い! 貴様を許す法などセルヴァには存在しなかろう!」
ゲイムなる男は、そのように述べながら高笑いした。
だったらこちらも死に物狂いで抵抗するしかなくなるわけであるが、そのようなことには考えが及んでいないらしい。また、抵抗されたところでこの戦力差ならば恐るるに足らないと考えているのだろうか。
「貴様は、開拓民の女狩人だな? 王国にまつろわぬばかりか、そのような痴れ者に力を貸すとはな! 貴様は丸裸に剥いたのち、狩られる側の恐怖を思い知らせてくれよう!」
「……そのような真似は、絶対にさせない」
と、シルファが低い声でつぶやいた。
それからメナ=ファムの腕をやんわりおしのけると、白革の外套を払って毅然と立ち上がる。
「わたしの名は、セルヴァの第四王子カノン! 臣民でありながら王家の人間を手にかけて、果たして大いなるセルヴァに許されるものかどうか、試してみたくば試してみるがいい!」
熱く濁った大気を凍てつかせるような、それは冷たくも厳しい裂帛の声音であった。
千獅子長ゲイムは、トトスの上でぎょっとしたように身じろぎをする。
「ま、まだそのような虚言を押し通そうという心づもりか? 王家の人間の名を騙るなど、それこそ西方神に許される行いでは――」
「だから、死した後に魂を砕かれるのはどちらなのか、試してみたくば試すがいいと言っている! たとえ王位継承権を奪われた身であっても、この身に聖なる王家の血が流れているという事実に変わりはない!」
言いざまに、シルファは左手で白銀の兜をむしり取った。
銀灰色の短い髪に、うっすらと赤い色を透かせた青灰色の不思議な瞳――そして、王子と見まごう凛然とした面が、白日のもとにさらされる。
「誰か、わたしの顔を見知る者はいないのか? 忌み子の封じられたエイラの神殿など、お前たちは近づきもしなかったということか?」
「銀色の髪に、赤い瞳……貴様、まさか本当の……」
ゲイムのみならず、他の兵士たちもどよめき始めている。
そしてその背後からは、着実に騒乱の気配が近づいてきていた。
(いいぞ。このまま時間を稼げれば、エルヴィルたちが突っ込んできてくれるかもしれない)
そのように考えながら、メナ=ファムはこっそり刀の柄を握りなおした。
トトスから落ちた衝撃で背中と右足が疼いていたが、骨などに異常がないことはわかっている。場合によっては、騎兵の一人を引きずりおろしてトトスを奪うというのも有効かもしれなかった。
「……貴様が真のカノン王子であるという証はあるのか? あるならば、この場で示すがいい」
「わたしのこの身が、証のすべてだ。この世に生を受けた瞬間からエイラの神殿に幽閉されていたわたしには、王家の証となるものを託される機会はなかった。わたしをわたしと見分けることができるのは、エイラの神殿の唯一の生き残りである年老いた修道女だけかもしれんな」
「エイラの神殿の、唯一の生き残り? 燃えたのは銀獅子宮だけで、神殿などに被害が及ぶことはなかったはずだが……」
「エイラの神殿は、数年前の流行り病でその他の人間をすべて失ったのだ。お前たちのほうこそ、何も事情をわきまえてはいないようではないか?」
シルファは白い首をのけぞらせて、冷たくせせら笑った。普段のシルファならば絶対にしないような、傲岸な笑い方だ。
「こんなわたしに情けをかけてくれたのは、十二獅子将たるヴァルダヌスだけだった! 王弟ベイギルスは、そんなあやつとわたしを薄汚い陰謀に巻き込んで、王殺しの汚名をかぶせたのだ! 父カイロスと忠実なる騎士ヴァルダヌスの魂にかけて、わたしはベイギルスに必ずや裁きの剣を向けてやろう!」
「貴様は……あくまでも自分が第四王子カノンその人であると言い張るのだな……?」
ゲイムの声が、何か毒々しい響きをはらんだ。
「面白い……ならば、なおさらその身を我らに託すがいい。罪人として捕らえるのではなく、秘密裡に我らの主君へと引き渡してやろう」
「お前たちの主君とは、僭王ベイギルスではないのか?」
「神や王は、まぎれもなく主君だ。しかし、俺たちのような兵にとっては、将軍こそが一番手近な主君さ。貴様を十二獅子将たるロネック元帥のもとまで導いてやる。そうすれば……元帥の心ひとつで、貴様が玉座を賜ることもかなうやもしれんぞ……?」
そのとき、ついに包囲の一部が破られた。
しかし、そこから現れたのはトトスに乗った傭兵ではなく、巨大な荷車を引いた二頭のトトスであった。
「ラ、ラムルエル!?」
愕然としながらも、メナ=ファムはシルファの左腕を取った。
その間に、騎兵たちが御者台のラムルエルへと槍を差し向ける。
が、彼らは槍をかまえた体勢のまま、力なくトトスの足もとへと落ちた。
見れば、ラムルエルは細い筒を口もとにかざしている。毒の吹き矢で、兵士たちを眠らせたのだ。
「な、何だ貴様は! こやつを叩き斬れ!」
残りの騎兵たちが、わらわらと荷車に押し寄せる。
その間に、メナ=ファムは騎手を失ったトトスに飛び乗った。シルファは自分の前側にかつぎあげ、胸もとにもたせかける。
「ぬうっ!? 貴様らは逃がさんぞ!」
ゲイムと何名かは、こちらに寄ってきてしまう。メナ=ファムは活路を切り開くべく、半月刀をかまえてみせた。
そこに、荷車から飛び出した黒い影が、疾風のごとく近づいてくる。その黒影は背後からゲイムに跳びかかり、その身体を地面に引きずりおろしてしまった。
ゲイムは「ぎゃあーっ!」と情けない悲鳴をあげ、そこに兵士たちの愕然としたうめき声が重なる。
ゲイムを地面に組み伏せているのは、メナ=ファムの見知らぬ獣であった。闇のように漆黒で艶やかな毛皮を有する、四本足の巨大な獣である。
そこで、「失礼いたします」というとぼけた声をあげながら、ラムルエルが荷車を発進させた。気づけば彼を取り囲んでいた兵士たちはのきなみ眠らされてしまっていた。
遅れを取ってはならじと、メナ=ファムも慌ててトトスの腹を蹴る。残った兵士たちは黒き獣に脅かされて、懸命に槍や刀を振り回していた。
が、ラムルエルとメナ=ファムがその騒乱の場を離脱すると、黒き獣もトトスに劣らぬ敏捷さで追走してきた。それは、噂に聞くガージェの豹のようにしなやかな身のこなしであった。
「何だい、そいつは? ずいぶん頼もしいお仲間を隠し持ってたんだね!」
「はい。ご紹介、時間、ありませんでした。私、旅の道連れです。シムの黒豹、名前、プルートゥ、いいます」
しばらく街道を駆けていた黒豹は、やがてするりと御者台のかたわらに飛び移った。どうやらこの獣はトトスよりも速く走ることが可能であるようだった。
そうして荷車に飛び乗ると、甘えた仕草で主人の肩口に頭をこすりつける。どこもかしこも真っ黒で、金色に燃える瞳がいかにも恐ろしげであったが、その目を細めてラムルエルに甘える姿は、思いのほか可愛らしかった。
「何はともあれ、助かったよ! あんたもその愉快なお仲間も大したもんだね!」
「はい。ですが、私、荷車、いずれ追いつかれます。私、かまわず、お逃げください」
振り返ると、何名かの敵兵たちはしつこく追撃のかまえを取っていた。どれだけ混戦になろうとも、やはり倍以上もの戦力差があっては如何ともし難かった。
「お言葉に甘えて、お先に行かせてもらうよ。おたがいに生きのびることができたら、絶対にこの礼はさせてもらうからね!」
そうしてメナ=ファムは前方に向きなおり、トトスの腹を蹴ろうとした。
その目に、ありうべからざる光景が映った。
行く手から、さらなる軍勢の影が見えたのだ。
それもまた、街道を埋めつくして余りある大軍であった。
「何てこったい! まだ手勢を伏せてたのか!」
これはもう、トトスを捨てて森に逃げ込む他なかった。
メナ=ファムは、トトスを停止させてラムルエルを振り返る。
「ラムルエル! あんたは無関係な商人なんだって言い張りな! 絶対にくたばるんじゃないよ!」
「お待ちください、メナ=ファム。何か、様子、おかしいです」
メナ=ファムは眉をひそめ、もう一度前方を振り返った。
ラムルエルの言葉の意味は、すぐに理解できた。しかし、確証のもてないことに命運を託すことはできなかったため、すぐさま地面に降り立って、シルファとともに森に逃げ込むことにした。
だが、そのまま森の奥には走らず、樹木の陰に身を潜め、その軍勢が接近するのを待ち受ける。
軍勢は、メナ=ファムたちを無視してそのまま街道を走り抜けた。
メナ=ファムばかりか、ラムルエルの荷車をも避けて走り抜けていく。それは白装束ではなく、黒光りする鱗のような鎧を纏った謎の軍勢であった。
「メナ=ファム、あれはもしかして……」
「ああ。少なくとも、さっきの連中のお仲間ではないようだね」
こちらに向かっていた王都の軍勢の先頭集団は、虚をつかれた様子で立ちすくんでいた。
そこに、謎の軍勢が黒い濁流のごとく襲いかかる。鋼の刀がふるわれて、白装束が朱に染まった。
その間も、メナ=ファムたちの鼻先を軍勢が駆け抜けている。少なくとも、王都の軍勢に劣る数ではなかった。「ドラーッ!」という聞き覚えのない掛け声をあげながら、黒き軍勢は瞬く間に街道を埋め尽くしていった。
北の果てからは、鬨の声と剣戟が響き渡ってくる。この勢いでは、王都の軍も傭兵団も区別なく皆殺しにされてしまいそうだった。
「案ずるな! 俺たちの獲物は銀獅子の軍だけだ!」
メナ=ファムは、シルファの身体を背後にかばいながら、刀の柄を握りなおした。
騎兵の一人がトトスの足を止め、森に身を潜めたメナ=ファムたちに語りかけてきたのだ。
その男も、黒光りする鱗のような鎧に身を包んでいた。ただし、他の騎兵は丸い兜をかぶっているのに、この男の兜にだけは野生のカロンのごとき巨大な角が生えている。腰まで届く革の外套にも襟や裾に立派な装飾があり、彼が雑兵でないことをこれ見よがしに示していた。
「身なりからして、お前がセルヴァの第四王子を名乗る者なのだろう? ならば、刀を収めるがいい。俺たちは、お前を救いに来た」
「いかにもわたしはセルヴァの第四王子カノンである。貴殿らは、いかなる軍に所属する者か?」
シルファが進み出て、そのように宣言した。
表情は毅然としているが、顔色は普段以上に青白くなってしまっている。右腕には、まだ矢が刺さったままであるのだ。
「この姿でわからんか? まあ、その年まで幽閉されていたというのが真実であるならば無理はない。俺たちは、ゼラド大公国の一軍だ」
やっぱりか、とメナ=ファムは内心でうなり声をあげる。
彼らは果たしてシルファにとっての救世主たりうるのか。メナ=ファムには、ここで判断をつけることはかなわなかった。
「お前たちの噂を聞きつけて、はるばるこのような土地にまで出向いてきてやったのだ。望むならば、お前たちをゼラドの客人として迎えてやろう」
「……もしも、望まなければ?」
シルファが静かに応じると、男は深くかぶった兜の下でにやりと笑ったようだった。
「客人として迎えられることを望まなければ、虜囚として捕らえてやろう。どちらの道でも、好きなほうを選ぶがいい。俺としては、べつだんどちらでもかまわんのだ」
「なるほど」とシルファはわずかに目を細めた。
その姿を見返しながら、「美しいな」と男はさらに笑う。
「女であれば、俺の伴侶に迎えたかったぐらいだ。ともあれ、こうして無事に巡りあえたことを大いなる西方神に感謝することにしよう。俺はゼラド大公国軍第一連隊長ラギスだ。今後ともよしなにな、カノン王子殿下よ」
メナ=ファムは、この段階でもまだ森の奥へと逃走するべきか思案していた。
ゼラド大公国を頼ろうというのは、エルヴィルの計略にもあったことだ。今の段階では時期尚早といえど、こうして危地まで救われたのだから、ここで逃げ出すわけにはいかないのだろうとも思う。
しかしメナ=ファムには、本当にそれが正しいことなのかを判別することが難しかった。
それぐらい、このラギスという男の双眸には、メナ=ファムの警戒心をかきたててやまない光が――エルヴィルの復讐心にも劣らぬ、強烈な野心の炎が燃えさかっていたのだった。